昨日、引っ越し先のワード・プレスのブログに自動広告を貼りました。
賑やかになったというかごちゃごちゃしたというか。
これで引っ越しは完全終了です。
gooブログをご愛読いただいた皆様、本当にありがとうございました。
これでgooブログでの更新は最後になります。
良かったら以下のワード・プレスのブログにお越しください。
とびお節全開でお待ちしております。
https://tobiomasahiro.com
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今日はのんびりと読書をして過ごしました。
桜木紫乃の「凍原」という小説を読みました。
この作者にしては珍しいミステリーです。
終戦直後の樺太から命からがら北海道へ逃げ帰った女の半生とそれにまつわる殺人が雄大な時の流れのなかで語られます。
ただし、もともとがミステリー作家ではないし、ミステリー志向とは思えません。
小説家というものはイメージが定着することを嫌い、自分はこんな物も書けるんだ、あんな物も書けるんだと、色々な分野に手を出したりしがちです。
舟木一夫が一時「高校三年生」を歌うことを拒否したとか、太田裕美が「木綿のハンカチーフ」を封印したとかいう話を聞きます。
そればっかり求められると嫌になっちゃうのでしょうね。
この小説もそんな感じが漂っています。
自分は警察小説だって書けるんだ、と言う風な。
この作者はおそらく連作短編による雄大な物語や、中編程度のスパイスの効いた物語を書くことに長けているような気がします。
4月の配置換えによる忙しさにかまけて、ブログの更新を怠ってしまいました。
ブログを開かずにいたら、いきなりgooブログがサービスを停止するという衝撃の文言がトップページに出てきました。
完全閉鎖してしまっても良いのでしょうが、折角書き溜めたものが雲散霧消してしまうのは惜しい気がします。
ブログのお引越しを検討しなければなりませんが、お引越しの理屈は分かるのですが、作業が大変そうです。
チマチマと20Mづつダウンロードしてそれを新しいブログサービスにアップロードするということのようですが、20Mというのはしびれます。
小さすぎるではないですか。
文字だけのブログならともかく、写真やら動画やらをアップしているわけですから。
ただでさえ新しい仕事に慣れず、日々鬱々として過ごしているというのに、ブログサービスの停止はきついですねぇ。
人には誰でも思い癖というものがあると思います。
何事も前向きに、明るく取り組んでいく人と、逆にネガティブにこの世の不幸を全部背負っているような気分になる人と。
私は若い頃はそうでもなかったのですが、30代後半で精神障害に罹患してから、明らかにネガティブな思考をするようになってしまいました。
ほんの小さな仕事でも、それが大変な難事件のように思われ、体が強張り、緊張し、手が震えたり顔が紅潮したりするのです。
そうかと思うと傍目にも大変な仕事をしながら、「仕事が楽しい」と公言し、事実表情がいつも楽しそうな人がいます。
羨ましいかぎりです。
私は何種類もの精神病薬を飲み続けていますが、なかなかそういう心境にはなりません。
生まれついての性分が発病を促したのでしょうから、病気も含めて私の元々の性格がネガティブなのだと思います。
持って生まれたものは仕方ありませんが、もう少し、世の中を軽い気分で渡れるようになりたいと思います。
今日は休暇を取りました。
なんだかひどく疲れてしまったようです。
朝は10時まで眠り、起きてから朝昼兼用の飯を食い、かねて読み進めていた、桜木紫乃の「裸の華」という小説を読み終わりました。
年増のストリッパーが足を怪我して引退。
ダンスショーを売りにする小さなバーを開きます。
若いダンサー二人を雇って店は軌道に乗りますが、わずか10カ月でダンサーの一人は妊娠、時を同じくしてもう一人は映画のオーディションに合格して店を離れます。
もう一度ダンサーを募集しても良かったのですが、年増はもう一度裸で踊りたいという欲求断ち切れず、再びストリッパーに復帰するというお話です。
題材は良いのでしょうが、この作者にしてはやや冗漫な感じがしました。
ストリップというもの、観たことがなく、裸になりさえすれば良いのかと思っていましたが、ダンサーとしての矜持のようなものがあるようで、どこの世界にも誇りを持って堂々と生きている人がいるものだと変に感心してしまいました。
春の瘴気濃い年度末の日曜日。
この時季はいつもそうですが、狂おしいまでの焦燥感と不安感に駆られます。
わが国の学年暦は4月を初月とします。
そのため多くの新入社員は4月入社。
国の会計年度も3月まで。
私の職場も当然3月で年度末ということになります。
このブログで何度も報告したとおり、6月以来私は2つの部署を一人でみる羽目になり、それがゆえ精神の落ち込み激しく、ついには上司に人を付けるか私を異動させるかどちらかにしてくれと訴え出ました。
とにかく4月の年度替わりまでは待ってくれという返事だったので、今は内示が楽しみなような怖ろしいような、複雑な心境です。
来年度もこの体制だったなら、長期の病気休暇に突入してしまうでしょう。
鬱々とした気持ちながら、じつに久しぶりに小説を読みました。
小さな現実逃避でしょうか。
読んだのは桜木紫乃の直木賞受賞作「ホテルローヤル」です。
北海道の湿原を背に建つ小さなラブホテル、ローヤルでの人間模様を7編の短編小説で紡いだ作品です。
面白いのは、すでに廃業して廃墟となったホテルを舞台にした作品から始まり、現在から過去へと現実とは逆の時系列で物語が語られることです。
ホテルは一般庶民の悲哀を負う象徴として厳然と存在し、庶民の夢や苛烈な現実が描かれ、人生のほんの一瞬間が語られます。
ラブホテルというのは世界でも稀有な存在であるらしいことを知ったのは、高校生の頃、知り合いがオーストラリアからの留学生をホストファミリーとして受け入れ、オーストラリアの少女から聞かされたのがきっかけでした。
古くは連れ込み旅館とか言ったそうです。
要するに性交するための空間としての役割を専らとする休憩所のことで、我が国の住宅事情が関係しているものと思われます。
自室も無いような狭い家に大家族で暮らしていたら、性交は難しいでしょう。
オーストラリアの少女は堂々とそういう物が巨大な看板をぶら下げて多数存在していることに衝撃をうけたようです。
風俗なんかもそうかもしれませんが、性欲を満たすだけのみならず、わずかな時間、異空間へと人を誘うような場所で、そこでは正常な時間は歪みます。
そんなラブホテルを舞台にして、廃墟となったホテルでヌード写真を撮る恋人同士や、ホテルで働く人々、経営者、ホテルで性交を楽しむ人々など、ホテルを囲む登場人物が次々と描かれ、秀逸です。
この小説に登場する人物みなと同様、私は名も無く、くだらぬ人生を生きる庶民です。
だからこそ登場人物たちのほんの小さな、しかしかけがえの無いピースを拾い集めて見せたこの物語に、ひと時、心を揺さぶられることになりました。
これは物語作者を夢見て叶わなかった私の大きな喜びとするところです。
昨日、今日と同居人が風邪に臥せってしまいました。
昨日の朝高熱を発し、すぐに内科に行って検査したところ、コロナでもインフルエンザでもなく、風邪との診断。
咳がひどく、咳止めやら解熱剤やら抗生物質やらが処方されましたが、薬効確かではありません。
2日間、私はリビングダイニングで過ごし、飯も一人。
同居人は粥を食うために出てくる以外はずうっと寝室で過ごしていました。
感染を怖れて私はリビングに布団を敷いて寝ました。
ドア一枚隔てただけですぐそこにいるのに、なんだか寂しい気持ちが続きました。
べつに難病に冒されたわけでもないのに。
同居人に頼ること著しいものがあります。
若い頃はそうではありませんでした。
いつでも離婚して良いとさえ思っていました。
私は独り暮らしの経験が3年ほどあり、ために一通りの家事をこなすことができます。
独り暮らしは快適でしたし、そこに戻ることに躊躇はありませんでした。
しかし双極性障害を発症してから、少しづつ同居人への依存が始まり、今ではこの体たらくです。
全くもってお恥ずかしい。
よく老いて連れ合いを亡くすと、男のほうががっくりきてしまい、女は逆に生きいきするとか言います。
それが私にも起こっているようです。
どうしてでしょうね。
最近は緑内障のせいか車の運転が怖くなりました。
コロナで長いことマスクを着けていたせいか、マスクを外して顔を見られることに抵抗を覚えるようになりました。
そして、同居人への依存。
すべてが老化のせいなのか、私の本性が表れだしたのか、あるいは冷酷でさえあったこの私が同居人に改めてベタ惚れし始めたのか、よく分かりません。
理由は分からないながら、そういう現象が起きていることは事実です。
これからさらに年を取ったら、私は独りで生きる自信がありません。
私か同居人か、どちらかが先に亡くなるわけです。
江藤淳のように、後追いしてしまうかもしれません。
今日は休暇を取りました。
自立支援医療受給者証の更新のためです。
これは重度な精神病患者が社会で生きていけるようにするための支援制度で、認定を受けると医療費及び薬代が1割負担で済みます。
私は「重度かつ継続」に認定されており、もう10年以上1割負担で済んでいます。
双極症(最近双極性障害から双極症に名称が変わりました)は完治するということがなく、寛解に至ったら寛解状態を長引かせるのが主たる治療方針になります。
そのため、予防的に、しかし大量の精神病薬の服薬が必要になります。
当然、薬代も高くなるわけで、1割負担でかなり助かっています。
手続きが終わって、本屋に立ち寄り、超シルバー川柳という本を買いました。
90歳以上の作者が詠んだ川柳ばかりを集めたものです。
90歳ともなると達観して枯れた味わいになるのかと思っていましたが、そうでもないようです。
考えてみれば今私は55歳ですが、20代、30代の頃は50歳を過ぎれば浮世の悩みはあらかた無くなるのではないかと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
それを敷衍すれば90歳だって100歳だって同じことでしょう。
ライバルは 自分負けぬぞ 命尽きるまで
青春の 心の傷が まだうずく
恋のかけら 抱いて死ぬまで 女です
などと言った川柳。
いずれも若い者と変わらぬ精神性です。
人間いくつになっても煩悩は無くならないようです。
そうだとすると救われませんね。
長生きするということは、煩悩が長引くだけのような気がします。
私は最近、もう十分だという気がするようになりました。
一生分の酒を呑んだし、旨い物も食ったし、そこそこの女性とのお付き合いを経て結婚もしたし、様々な物語に接して何度も感銘を受ける作品に出合ったし、職場でもまぁまぁ重宝されています。
ひと昔前だったら55歳で定年だったわけですし。
かと言って完全引退するのも寂しいような気がしますし、生活の質が落ちてしまうでしょう。
死ぬのは怖いですが、生き続けるのも怖ろしい。
矛盾した気持ちを持ちながら日々を過ごしています。
それこそが人間なのだと言えばそうなのでしょうが、もう少し、達観の域にたっしても良いような気がします。
もう十分です。
やっと迎えた週末。
週末の喜びだけが私を生かしているようなものです。
勤務中の私は死んでいないだけです。
今日は午前中、読書をして過ごしました。
読んだのは「家族じまい」。
近頃お気に入りの桜木紫乃の小説です。
午後は本屋と和菓子屋に出かけ、小説を2冊と栗蒸し羊羹を購入。
家族じまいと聞くと、誰もが墓じまいという言葉を連想するかと思います。
墓を終わらせるがごとく家族を終わらせる物語ではありません。
5つの短編小説から成っており、それらが、例えば長女を主人公にした小説から二女を主人公にした小説になり、両親、伯母、何の関係もないが両親の旅で行きあう若いサックス奏者と、何らかのつながりを持った連作短編集になっています。
家族を終わらせることは、例えば離婚とか死別とか色々あるでしょうが、結局、何となく終わっていくのだろうと思います。
おぎゃぁと生まれた子供が成長する過程で父母や祖父母、きょうだいらと過ごして家族の中で生き、長じて自分もまた結婚して家族を持つ。
切れ目の無い繰り返しのようでいて、全ての家族は終焉を迎え、二度とその家族がもとに戻ることはありません。
年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。
この作者の深奥に流れるわが国びとの根本的思想がこの作品集にも色濃く流れています。
幼くして両親が離婚して母親に引き取られた娘が、それでも時折父に会い、わずかな時間だからこそ優しい愛情しか感じさせない父親を男のスタンダードと捉え、他の男と続かないことを嘆きながら、父と鮨屋で一杯やりながら、次のような感慨を持ちます。
ふと、終わることと終えることは違うのだという思いが胸の底めがけて落ちてきた。
なるほど、家族は終わることが多いが終えることもあるのでしょうか。
また、82歳で矍鑠としている姉が80歳で認知症になった妹にかける次のような言葉。
だいじょうぶだから。安心して忘れなさい。わたしが代わりに覚えていてあげるから。
認知症の発症は家族に甚大な危機をもたらすでしょう。
二人の娘を育て、二人になった夫婦のうち、妻が認知症になって施設に入る、しかも父親は娘たちと折り合いが悪い。
これもやむを得ない家族の終わりかもしれません。
私のことを考えてみれば、そもそも子供が出来なかったうえに親と同居したことも無いため、二人だけの暮らしを26年も続けてしまいました。
私にはしまうべき家族すら存在しないのかもしれません。
心に沁みる連作短編集でした。
昨夜、カルーセル麻紀をモデルにしたという小説、「緋の河」を読みました。
カルーセル麻紀をモデルにしたと言っても、家族構成から何から、ほとんど作者の空想による虚構だそうで、ドキュメンタリーみたいな物とはかけ離れています。
この世の者とは思えないほどの美少年がゲイボーイとなって成功し、テレビ番組への出演が決まるまでの半生を描いています。
この作者らしいストーリー展開の妙は感じましたが、私は失敗作だと感じました。
無駄に長いし、主人公の描き方がステレオタイプです。
桜木紫乃という小説家、最近よく読んでいて、どれも面白いのに、残念な作品でした。
それはさておき。
今日で令和6年(2024年)も終わりです。
大晦日だからと言って特別の感慨はありませんが、今年も一年生き延びることが出来たことには感謝しています。
私の駄文にお付き合いいただいた皆様には感謝の言葉もありません。
良いお年をお迎えください。
日曜日の夕方。
この時間帯、勤め人にしろ学生にしろ、月曜日から金曜日まで嫌々どこかに通って暮らしている者なら、誰だって憂鬱でしょう。
私も3つの年に幼稚園に上がってから52年間、平日はどこかに通う生活を送っていますが、日曜日の夕方の気鬱に慣れることはないし、つける薬もありません。
今日は昨日と打って変わって北風の冷たい日で、外を歩き回って憂鬱を紛らわすこともできません。
最近お気に入りの桜木紫乃の「起終点駅(ターミナル)」という短編集を読んで気晴らしを試みましたが、この人の小説は流されて生きていく人の無常をうまく描くのが特徴で、非常に興味深く読んだものの、気鬱を紛らわせるには少々重すぎたようです。
この作者、北海道出身で、どの小説も舞台は北海道です。
寒々しい感じがとても良いスパイスになっています。
列車の窓から眺めるように、どんな美しい景色も瞬きひとつで流れていってしまう。そのくらいのことが分かる程度に年は取った。
表題作の主人公、国選弁護しか引き受けないという老いた弁護士の独白です。
我が国に生まれ育った人なら理屈なしに分かりあえる仏教的無常観が端的に表れています。
私はそんな近しい感情を突き付けられて、ただ瞑目せざるをえません。
昨日の日曜日は入院している親族の見舞に行きました。
痩せて元気がなくなってはいましたが、生きるの死ぬのというほどのことではなく、良かったと思います。
50代半ばですので、闘病の体力もあるものと思います。
少々遠い所だったので、行きかえり、小説を読みました。
近頃お気に入りの桜木紫乃の「ワン・モア」という作品です。
安楽死の罪を犯し、大病院から離島の診療所へと左遷された女医と、元同僚でがんの告知を受けた女医の二人を中心に、関連する人物が次々に主人公として小さな物語が紡がれる連作短編集の体裁を取っています。
二人の女医、死に行く側とそれを現代医学の力で遠ざけようとする側、それぞれの葛藤が描かれて迫力があります。
それ以上に、医師を目指しながらそれが叶わず、放射線技師となって複雑な思いを抱える男の葛藤や恋、女医の元でDV被害による傷の治療を受ける若い女性、女医の元で働く中年看護師の恋など、生きること、死ぬことへの恐怖や諦め、生その物の発露ともいえる恋愛などが螺旋階段のように絡まりあって描かれ、とても魅力的な物語になっています。
さらにその底には我々日本人がこの国に生まれ育てば自然と身に着けてしまう無常観が見え隠れします。
例えば、みんな、通り過ぎていく、といったフレーズ。
地味で見落としがちな、しかし実は宝石のような輝きを持つ印象的な文章がそこここに散りばめられています。
私は50代半ばを迎えてやっと自分は物語作者にはなれないと言うことを思い知り、他人が紡ぐ物語を純粋に楽しめるようになった気がします。
それは寂しいようでいて、幸福なことでもあります。
若いうちは現状を打破し、飛躍しようと懸命になるのも美しいですが、加齢によってそれを諦め、現状を肯定して自分の人生を素直に謳歌できるようになるのもまた美しいような気がします。
諦めるということも、決して後ろ向きなことではないと感じさせられた、愛おしい、そしてある意味残酷な小説だと思います。
昨日はブラック・フライデーのセールを行っているということで、そごう千葉店に出かけました。
以前、千葉駅近くにはそごうの他に三越が在って、三越にばかり行っていたのですが、閉店して跡地はタワーマンションになってしまいました。
以来、不本意ながらそごうに通う羽目になりました。
ブラック・フライデーのお目当てはダウンのコートを買うこと。
昨年、カシミアのコートを大枚17万円をつぎ込んで購入し、これを愛用していたのですが、本当に寒くなる真冬はダウンのほうが良かろうと思い、買いに出かけた次第です。
愛用のスコッチハウス、ブルックスブラザーズ、ニューヨーカーなどいくつかの店舗を見て回り、結局最初に見たスコッチハウスで濃紺のダウンコートを購入しました。
15%OFFで8万円ほど。
カシミアに比べると安いです。
その後本屋に立ち寄り、最近お気に入りの桜木紫乃の小説を2冊と、珍しく城山三郎の晩年の手記を購入しました。
早速、今日の午後「そうか、もう君はいないのか」という城山三郎の手記を読みました。
学生時代に出会った当時女子高生の奥様との初恋が語られ、結婚生活、そして奥様が癌に倒れて亡くなるまでを描いたものです。
城山三郎と言う人、高名な作家ですから、名前は知っていましたが、経済小説を書く人、という印象が強く、これまで読まずに来ました。
以前、江藤淳の「妻と私」という手記を読み、妻に先立たれた夫の心境というものに深い感銘を受けたことから、今回手に取ったわけです。
妻を天使とも妖精とも呼ぶ作者。
妖精は天真爛漫でとても魅力的な女性だったようです。
喧嘩一つしたことがなく、幸せな結婚生活を送りながら、晩年妻に先立たれ、自らが亡くなるまでの7年間苦痛とともに過ごしたことが分かります。
私は同居人に深く依存し、喧嘩もしたことがないので、先立たれることが何よりの恐怖です。
私が恐怖心をいだいているからか、私は同居人が先立つのではないかという不安を絶えず感じています。
50代半ばでそこまで怖れることはないのですが、怖ろしいことこそ起こり得る、という気がします。
SEKAI NO OWARIに「眠り姫」という、恋人が深い眠りに落ちてしまうことを怖れる男の心情を歌った楽曲があります。
これを聞くと、またもや同居人の死を暗示させらているような気がして慄然とします。
依存しきったパートナーに先立たれることを想像するのは、恐怖でありながら、どこか甘美なものでもあります。
自分を悲劇の主人公に置き換えているかのごとくです。
私と同居人、同世代ですから、どちらが先に亡くなってもおかしくありません。
子供がいない私たち、どちらが先に亡くなっても、残された方は一人になってしまいます。
もちろん親類縁者や友人はいますが、そんなものは頼りにならないし、また頼ってはいけないと思います。
城山三郎亡き後、書き散らされたいくつもの章に別れた雑文を編集者が丹念につなぎ合わせた作品だそうです。
妻の思い出を描きながらそれを出版したくなかったかのごとくで、この手記を読むことに他人の密やかな生活を覗き見るような背徳感を覚えます。
私たち夫婦はどういう最後を遂げるのか、誰にも分からないことながら、想像せずにはいられません。
昨日は午前中、一週間分の食料の買い出しに行った他は静かに読書をして過ごしました。
芹沢央という作家の「僕の神さま」という小説です。
小学校5年生の僕が主人公で、冷静沈着、何事もすらりと解決してしまう神さまとあだ名される少年との交流を描いています。
春・夏・秋・冬・エピローグという構成の連作短編集の形式を取っています。
春の章は少年らしい心の揺らぎを描いたほのぼのしたもの。
しかし夏・秋・冬と、異常に絵がうまい転入生の少女が、大酒飲みでパチンコ中毒の父親に苦しめられていることが語られ、ついには父親を事故に見せかけて殺害することを夢想していることが判明します。
これに対し、神さまとあだ名される少年はそれを肯定し、僕を愕然とさせます。
少女は児童保護施設への保護を希望しますが、施設から出ると父親は施設の管轄外の地域に引っ越してしまいます。
こんなことを繰り返しているのです。
少女は転校していきますが、その後父親に殺されたという噂が広がり、さらには少女の怨霊が学校に存在するとまで拡大し、少年少女たちを恐怖に陥れます。
総じて少年少女たちの瑞々しい感性を感じさせますが、それは怖ろしいものでもあります。
内容はこの小説と全く異なりますが、かつてコクトーが「恐るべき子供たち」という名作を残し、これは映画化もされています。
少年少女というものは感受性が強いがゆえに残酷にもなり、無知ゆえに危険な行動に出るものです。
この小説は、平易で分かりやすい文章で、思春期に入ろうとする子供たちの怖ろしさや純粋さを見事に切り取ってみせた佳品であると感じます。
昨日はコレステロールの薬をもらいに内科に、今日は散髪に行った以外、静かに読書をして過ごしました。
桜木紫乃の「ラブレス」を読みました。
この作者の小説を三冊続けて読んでいます。
北海道を舞台に、二人の女性の一生が大河ドラマのような壮大さで描かれます。
奔放に生きた姉と堅実に生きようとした妹の物語に様々な登場人物が絡んで、人生というものを考えさせられます。
みな同じように脱皮を繰り返し、螺旋階段を上るように生きてゆく。
人はみな手前勝手なもんだから、自分の幸せのためなら手前勝手に生きていい。
どこへ向かうも風のなすまま。からりと明るく次の場所へ向かい、あっさりと昨日を捨てる。捨てた昨日を悔んだりしない。
奔放に生きた姉の言葉でありながら、堅実に生きようとして奔放に憧れた妹の悔いのようにも読み取れます。
親子孫、三代に渡る物語に魅了されました。