ブログ うつと酒と小説な日々 その上しょっちゅうホラー映画  

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさん(とびお)の日記

過激なものへの憧憬

2018年10月17日 | 思想・学問

   10月も半ばを過ぎ、すっかり秋めいてきました。
 今年は晴れる日が少なくて、なんだか嫌になります。

 10月というと、10月事件という、はるか昔のクーデター未遂事件を思い起こします。
 錦旗革命事件とも言われ、昭和6年、満州事変の直後に起きた、陸軍の青年将校らによる秘密結社、桜会が画策したものです。

 海軍の一部とも結託し、北一輝や大川周明ら民間右翼の大物、大本教などの宗教団体をも巻き込んだ大規模な計画で、時の総理大臣をはじめとして、閣僚らをことごとく暗殺もしくは捕縛し、超国家主義的な軍事独裁政権を目指したものです。

 計画は事前に露見し、首謀者たちは捉えられますが、満州に左遷されるなどの処遇を受けただけで、特段処罰されませんでした。

 このことは、後の二.二六事件などの重大なクーデターに影響を及ぼしたものと思います。

 どうせ大した罰は受けないだろう、みたいな。

 ところが、 二.二六事件の首謀者たちは、先帝陛下の逆鱗に触れ、弁護士なし、一審のみ、という形ばかりの裁判を受けて処刑されるに至りました。


 私は国家主義者でも共産主義者でもありませんが、なぜか過激な思想や宗教に魅せられ、悪事に突き進んでいく者達の姿に魅かれます。

 近くはオウム真理教事件、さらには連合赤軍事件。

 外国ではナチなんかも、やったことはともかく、そのファッション性は単純に格好良いと思います。

 過激な思想に囚われ、悪行に突き進んでいく姿は、人間の最も純粋な精神性が現れているように感じるのです。

 それは哀れを誘うような愚かさを身にまとっているからこそ、いっそ至純に見えるということのように思います。


 オウムの連中なんか人間じゃない、と思うと同時に、あれこそ人間の本性である、とも思います。

 人間の本性をむき出しにして、他を省みず、おのれ一人が正しいとばかりに蛮行に走ることは、決してあってはなりません。

 しかし世の中、あってはならぬことが起きるのが一面の真実で、その真実を見せつけられた時、人は嫌悪感と同時に、幾ばくかの魅力を感じるのでしょう。

 酒鬼薔薇聖斗を神のように崇める青少年がいると聞いたことがあります。
 私は性犯罪者には魅力を感じませんが、極端な事件を起こした犯人に魅力を感じるという精神性は、分からなくもありません。

 かつて三島由紀夫は、

 わき目もふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう人間だけが美しくて、わき見をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

 と述べたことがあります。

 誤解されがちな発言ですが、私には腹に落ちます。

 うろ覚えですが、何かの小説で、自滅を美とせず、と書いたのは司馬遼太郎でしたか。
 しかしそう書かなければならないほど、人は破滅に向かう姿に美を感じる生き物だとも言えます。


 今もどこかで、極右であったり極左であったり、あるいは過激な宗教団体などが、悪の計画を立てているかもしれません。
 私はそれに心酔しているような顔を装って、会合に参加してみたい、という誘惑に駆られます。

 もちろん、いざ事を起こそうとしたならば、私は迷わず通報するでしょう。
 その姿がいくら美しくても、やってしまったら犠牲者が出て、巨大な悲劇が生まれること必定だからです。

 過激さへの憧憬を持ちながら、どこまでも小市民的な態度しか取れないとは、いかにも木端役人らしいとしか言い様がありません。

 尊敬する石川淳先生が、「至福千年」等の小説群で描き出したように、せめて私もまた、虚構の世界で、おのれが正しいと信じ、蛮行に突き進む哀れな人間の姿を創り出してみたい、と思います。

至福千年 (岩波文庫 緑 94-2)
石川 淳
岩波書店

 今の私にはそんな余力はありませんが、例えば定年退職して時間が出来たなら。

 そしてそれは、誰にも読まれることがなくても構いません。
 私一人を慰める、あるいは鼓舞する物語であれば十分だと思っています。



   

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8月15日の物思い

2018年08月15日 | 思想・学問

   今日は終戦記念日ですね。
 今上陛下は近く退位あそばすので、戦没者慰霊の式典に臨席あそばされるのも今年が最後。

 私の職場でも、正午に1分間の黙祷が捧げられました。

 実際に戦闘を経験した軍人、兵士は、現在では90歳を超えていると思われます。
 あと二十年もしたら、第二次大戦を戦った最後の兵士が亡くなった、なんていうニュースが流れることでしょう。

 第一次対戦最後の兵士が亡くなったのは、2011年だったと記憶しています。
 110歳くらい。
 くらい、というのは、私の記憶が定かではないからです。

 こうやって、どんなに凄惨な戦いも、自然災害も、人々の記憶からは消え去り、歴史上の出来事になっていくのですね。

 戦争や災害に際して、記憶を風化させない、なんて、センチメンタルに大見得を切る人を時折見かけますが、それは無理筋というものです。

 その人本人がいくら生涯かけてその悲惨さの語り部として活躍したとしても、後の世の人々は、毎日の生活に追われ、そんなこともあったのだなぁと、どうでも良いことになるであろうこと必定です。

 なぜなら、過去の戦争や災害なんて、専門家の研究者くらいしか興味がないし、事実、「源平合戦(前九年の役でも関ヶ原でもなんでもよい)は悲惨だったから戦争は止めましょう」なんていう言説は聞いたことがありません。

 これからは、第二次大戦に直接関わった人々がほぼいなくなるとともに、歴史研究の対象として、重要性を増すでしょうね。
 それを経験した人々が大勢生きている時代には、聞き取り調査という貴重な手段がありながら、なかなか歴史研究の対象にはなりにくいものです。
 
 100万人いれば100万とおりの経験があるわけで、それを全て聞いて記録に残すということは事実上不可能ですし、記憶が生々しいだけに、経験の個人差も大きいでしょう。

 よくニュースなんかで、悲惨な経験を語り継いでいかなければならない、とか言いますが、それは無理なので、歴史研究によって、何が行われたのかを明らかにしていく作業をコツコツと進めていくことが肝要かと思います。

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真ん中

2018年08月14日 | 思想・学問

 仲良く談笑していたトランプ大統領と北朝鮮の3代目、3代目がなかなか核放棄への具体的な行動に出ないことに苛立って、米国は3代目への制裁を緩めようとしません。

 人というもの、誠に争いを好むものと見えます。

 特に西洋においては、古典論理学において、排中律という考えがあって、物事がどうも対立的であるように思います。

 排中律とは、あるものについて、その肯定と否定とがある場合、一方が真ならば他方は偽、他方が真ならば一方は偽であり、その両方のどちらでもない中間的第三者は認められない、という論理法則です。

はじめての論理学用語。正しく理解して、とりあえず格好がつくレベルになれる。10分で読めるシリーズ
MBビジネス研究班
まんがびと


 今ではさすがに西洋においてもこのような考え方は廃れてきていると思いますが、やたらと訴訟を起こしたり自分の非を認めなかったりするというのは、上のような考えが未だに染みついているのかもしれませんね。


 一方、東洋においては、真ん中が良いとされてきました。

 孔子が説いた中庸、お釈迦様が示された中道

 どちらも極端はいけません、真ん中を歩きなさい、ということでしょう。

論語 (岩波文庫 青202-1)
金谷 治訳注
岩波書店

 

原始仏典 (ちくま学芸文庫)
中村 元
筑摩書房


 中庸中道は、現実世界に当てはめると、よく似ていますが、根本的には異なるものです。

 孔子は政治の道を示し、王たる者は中庸を歩まねばならない、と説いています。
 さらにはそれを敷衍して、一般庶民にも中庸を勧めています。
 これは現実世界をより良く生きるための知恵です。

 一方仏教で言う中道は、最終的には解脱を目指すもので、現実世界をよく生きるためだけのものではありません。
 ただ、解脱を目指す中道も、生活に取り入れれば、中庸とさして変わりません。

 そのような考え方を持つ東洋人もしかし、西洋人と変わることなく、争いを繰り返してきました。

 思想では、戦いを止められないかの如くです。 
 それは歴史を見れば明らかでしょう。

 お釈迦様は、シャカ国に攻め入ろうとするコーサラ国の王子(お釈迦様を信奉していたそうです)を二度まで思いとどまらせましたが、三度目は止めようとしませんでした。
 複雑な利害関係がある政治状況に鑑み、仕方ないと思ったのでしょうか。

 お釈迦様の教えを信奉していながら、尊い人の故郷を攻めなければならなかった王子の心中も察して余りあります。

 あれやこれやが複雑に絡み合い、必然とさえ思えるような偶発的な出来事が起これば、人もしくは為政者は戦うことを選ぶのでしょう。

 嘆かわしいことです。

 それでも私たちは、日本という国に生まれ育ち、東洋文化にどっぷりと浸かって生きてきたのですから、ど真ん中を歩いていく覚悟を持つべきでしょう。

 そしてそれが、やがては、争いの無い世界に近づく道なのだと信じるより他ありません。

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1年は短いか?

2018年07月24日 | 思想・学問

 最近お気に入りの、「チコちゃんに叱られる」という番組で、大人になるとなぜ1年が短く感じられるのか、ということが話題になっていました。

NHK  『チコちゃんに叱られる』  チコちゃん パスケース
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 子供の頃は、毎日新たな発見や疑問があり、楽しいことも多く、ときめきながら生きているため、1年が長く感じられるそうです。
 年とともにときめきは薄れ、早くも19歳くらいから、時間の流れが速いと感じるようになるそうです。

 大人は惰性で毎日の繰り返しを生きている、ということでしょうか?

 しかし、私は1年があっという間に過ぎる、という、よく聞く言説が理解できません。
 1年どころか、一か月だって、地獄のように長く感じる、というのが私の偽らざる実感です。

 ときめきなんて言うものがあるわけではありません。
 惰性の繰り返しだからこそ、長く感じるのだと思います。

 1年前なんてはるか大昔だし、1年後は遠い未来です。

 もちろん、過ぎてしまえばあっという間、というのは理解できなくもありませんが、今を生きる私たちは、常に過ぎ行く月日を生きているのであって、過ぎてしまった過去を生きているわけではなく、過去は後悔の対象だったり、甘美な思い出だったりはするものの、もはや過去を生きることはできません。

 だからこそ、タイム・トラベルを扱ったSF作品が数多く作られるのでしょう。
 絶対に不可能なことだからこそ。

 未来に向かって生きることは、とりもなおさず死が近づいているということでもあります。
 最後は必ず死ぬのであり、未来は絶望的です。

 それでも、生物は生きなければなりません。
 生まれてしまったものは、生きるほかありません。

 そんな貴重な時間を、やれあっという間だの、1年が短いだのと、嘆いている場合ではありません。

 地獄のような生を全うすることを、私たちは義務付けられているのですから。

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あり得ない幸福状態

2018年04月16日 | 思想・学問

 どこの職場もそうでしょうが、4月は業務量が多いうえ、人の異動などもあり、ひどく忙しいものです。
 そのせいか、軽いうつ状態が続いています。

 今、服薬している薬は気分安定剤と抗不安薬で、抗うつ薬は飲んでいません。
 抗うつ薬も出してもらったほうが良いのか、一過性のものだと思うので我慢したほうが良いか、迷うところです。

 精神障害(双極性障害)がひどい時は、これさえ治ればバラ色の人生が待っている、と思っていましたが、ほぼ治癒した今、思うのは、バラ色の人生などあり得るはずもなく、ただ普通に戻るだけなのだな、ということです。

 ユングは、心理療法について、心理療法の最高の目的は、患者をあり得ない幸福状態に移そうとすることではなく、彼に苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐を可能にさせることである、と述べています。 

 むべなるかな。

 しかし、苦しみに耐えられる強さ、というのは分かりやすいですが、哲学的忍耐とはいかなるものでしょうね。

 ユングの心理学から考えると、おそらくそれは全体性を身に着ける、ということではないかと思います。
 全体性とは、人間心理のこの部分が理性で、この部分が欲望で、この部分が宗教性で、といった分け方をすることは不可能であり、人間は全体として存在している、という意味です。

 人間の存在はそもそも哲学的であると言え、全体性を身に着けることは、とりもなおさず哲学的であるということで、それを哲学的忍耐と呼んだのではないかと推測します。

 ユングは東洋哲学、わけても仏教に深い関心を持ち、それらの考え方を心理療法に取り入れようとした人です。
 上の言葉も、東洋的と言うか、仏教的な感じがします。

 それならば、東洋の島国で、東洋の精神性にどっぷりと浸かって生きてきた私は、ユング派の心理療法が向いているのかもしれません。

 いずれにせよ、あり得ない幸福状態など、望むべくもありません。


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