ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

思考の整理学

2024年05月12日 | 思想・学問

 昨夜は「思考の整理学」と言う本を読みました。
 なんでも東大、京大の学生に最も読まれた本だそうです。
 だからといって小難しい書物ではありません。
 むしろ軽い読み物と言った感じです。

 著者曰く、朝飯前というのは簡単な仕事というわけではなく、朝飯前が最も頭が働く時間帯で、だからこそ朝飯の前は難しい問題でも解決が容易だと言います。
 で、朝飯前の時間を長くするにはどうすれば良いかというと、早起きするのではなく、朝飯を抜いてしまえば良いのだとか。
 そうすれば朝飯前の時間が長くなって仕事がはかどる、なんてヘソの曲がったことが書いたりしてあって飽きさせません。

 しかし悲しいかな1983年に出版されたそうで、現代の整理とは異なっています。
 すなわち、ノート、カード、スクラップブックなどでの整理法が紹介されているのです。
 1983年と言えば、コンピューターは専門家の間で使われる物で、一般的に使用される物ではありませんでした。

 現代で整理と言えば、エクセルやワード等に入力して保存するか、あるいは紙であってもPDF化してデータにするのが一般的です。
 データにすれば検索もかけられるし、そもそも紛失するということがまずありません。
 記憶媒体その物を紛失してもバックアップを取ってあれば大丈夫です。
 したがってこの本に記されている整理学なるものは、どこか郷愁を誘う懐かしいものばかりです。
 若い世代にとっては懐かしいというより原始的に感じるかもしれませんね。

 私も中高生の頃は単語帳などに単語を書いてはおさらいして勉強した世代ですから、言わんとするところは分かりますが、今さら感が漂います。

 だからと言ってつまらないものではなく、人間は忘れることが出来るから素晴らしいとか、アイディアや着想が浮かぶのは布団の中だったりトイレだったりすることが多い、など、人間の思考の本質を突いたことも語られ、おそらく整理の方法よりもそちらがメインなのだろうと思います。

 小説ばかり読んでいる私には、逆に面白い読み物になっています。
 現代を生きる者にもためになる書物だと思います。
 ご一読をお勧めします。

 


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生活を始める?

2024年02月12日 | 思想・学問

 先週の金曜日、千葉大学医学部附属病院の眼科を受診するために休暇を取ったため、今日まで4連休でした。
 わりとゆっくりできたと思います。

 今日は6時半に起きて朝湯に浸かり、朝飯は納豆と生卵だけの質素なおかずで白飯をたっぷりと食い、珈琲を飲んで二度寝しました。
 幸せ。

 昼は近所のラーメン屋であっさりした塩ラーメンを食し、ミスタードーナツで食後の珈琲を頂きました。
 ラーメンや蕎麦は嫌いではありませんが、どうしても慌ただしく食って終わりになってしまうので、駅前のドトールやミスタードーナツで珈琲を飲むことを慣例としています。

 その後近所の魚屋で中おちと真鯛の刺身を購入。
 本当に良い魚屋が近所にあって良かったと思います。
 実家からとても甘みの強い小松菜を送ってもらい、昨日、一昨日とお浸しにして食しました。
 今まで食ってきた小松菜は何だったのかと思うほど旨い小松菜です。
 小松菜は江戸川区の名産なので。
 今日は油揚げを買ったので煮浸しにする予定。
 野菜はその他はフルーツトマトです。
 私は幼い頃からトマトが好物で、トマト坊やとまで呼ばれていたそうです。
 自分では覚えていませんが。

 こんな風に日々を生きてきて、年を食い、最後は石の下。
 人間の一生なんて儚いものです。
 それでも、死なない以上生きなければなりません。
 生きるためににつまらぬ仕事をするという芝居を続けて。

 私の学生時代の友人で独身を貫いて一人を楽しんでいる者がいます。
 一人であちこち海外旅行に出かけ、様々な高級店で旨い物を食い、哲学書と森鴎外の小説を愛する優雅な生活を送っています。

 彼が最近、生活を始めることにした、と年賀状に書いて寄越しました。
 自分が浮世離れした暮らしをしてきたという自覚はあったようで、しかし50代半ばを迎え、浮世離れを止めて、生活を始めるとは全く意外です。
 何か思うところがあったのでしょうね。
 彼は何ももてないために独身であるわけではありません。
 180センチを超える高身長と、穏やかな性格で学生時代から女を切らしたことがありません。
 しかし自分一人の小さな居心地の良い夢の城を守るため、結婚という選択肢も、一人の女と長く付き合い続けるという選択肢も選ばなかったというだけの話です。

 じつを言うと、就職して数年は私も彼のように一人だけの夢の城で誰とも深い付き合いをせず、まして結婚などせず、面白おかしく暮らしていこうと思っていました。
 しかし私の両親とお付き合いしていた今の同居人の両親からの結婚しろという強いプレッシャーに負けて、一人だけの夢の城を捨ててしまいました。
 
 だらしないことです。
 親からのプレッシャーごときでおのれの夢の城を永遠に捨て去るなんて。

 しかし同居人と暮らし始めて、私の考えは変わっていきました。
 同居人は正職員として私と同じくらいの給料をもらっていたため、互いの収入の半分を家計費に入れ、残り半分はそれぞれが管理してお互い口を挟まないことにしました。
 極めてイーブンな関係で、私は気に入っています。

 同居人は穏やかな性格で、しかし音楽や映画、小説などは私と似てエキセントリックな物を好むため、私たちは良好な関係を保ち、これまで喧嘩一つしたことがありません。

 私には想像もできなかった、二人だけの夢の城を築き、二人だけでそこに潜んで暮らすことに成功したのです。
 我儘で傲慢な私の性格を思えば、全く意外なことです。
 で、私たちは彼と異なり、生活を始めようとは思いません。
 人並みに働きながら、それは完全に芝居でしかなく、心中深く、夢の城に籠り、生活はしていないのです。
 いつか生活を始めようと思う時が来たなら、二人だけの夢の城は瓦解してしまうでしょう。
 だから私たちは永遠に二人だけの夢の城に籠っていたいと思うのです。
 生活なんて始めません
 永遠に。
 



 


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どのように、と、何ゆえに

2024年02月11日 | 思想・学問

 昨日は4週間に1度の精神科通院日でした。
 寛解状態が15年以上も続いている身であれば、毎度愚痴をこぼし、毎度同じ薬が処方されるという仕儀に相なることは仕方が無いと思います。
 精神科クリニックが千葉駅近くにあることから、予約した診察時刻の2時間前にそごう千葉店に寄りました。
 通勤用のビジネス・バッグを購入するためです。
 今使っている物は10年以上使ってすっかりくたびれてしまったからです。
 私は鞄には興味がありません。
 鞄には何十万円も何百万円もする高価な物が存在するくらいの知識はありますが、鞄は中に必要な物を入れて持ち運ぶのがその役割であって、それを果たせてまぁまぁ見映えが良ければ何だって良いだろうというのが私の考えです。
 で、2万円以下の安物を購入。
 それでも鞄に金をかけたく無い私としては痛い出費です。
 懐中時計は何十万円もするものをいくつも買っているのに。

 通院前、東大教授で生物学者の小林武彦なる人物が書いた「生物はなぜ死ぬのか」という新書を読みました。
 そのタイトルから哲学的な内容を想像したのが馬鹿でした。
 著者は生物学者です。
 自然科学の限界は、物事がどのように出来ているのかを解明できても、なぜそのように出来ているのかは分からないとして最初から問題にしないということだと思います。

 どのようにだけであって、何ゆえにはありえません。

 そう考えるとこの新書のタイトルは根本的に間違っているとしか言えません。
 
 ぐだぐたとあらゆる生物の在り様が語られ、死ぬことによって生物多様性が保たれるだとか、捕食された生物は捕食した生物を生かすことが出来るだとか、生物の総量は変わらないだとか、当たり前のことしか書いていません。

 考えてみれば当然のことです。

 なぜ死ぬのかなんて、我々はどこから来てどこに行くのかという問いと同義であり、それは全人類永遠の謎です。

 過去、多くの宗教家や哲学者が様々な解釈や回答を残しましたが、私を納得させるものなど一つもありませんでした。

 多分特定の宗教を盲信的に信じる以外、この問いに答えは無いのではないでしょうか。
 しかしそんなこと私には出来ないし、圧倒的多数の日本人は出来ないものと思います。

 この新書は生物はなぜ死ぬのか分からないということを実感させるだけの内容になっています。
 タイトルにだまされてしまいました。

 


 


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生存に有利?

2024年02月07日 | 思想・学問

 生物学者で東京大学定量生命科学研究所の小林武彦教授によると、人間本来の寿命は55歳程度だそうです。
 ところが進化の過程で老いた個体がいる集団のほうが生存に有利に働くため、本来より長生きできるようになったと言います。

 寿命の限界は120歳程度とみられ、過去最も長生きしたのは122歳で1997年に亡くなったフランス人女性だそうです。

 意外だったのは栄養状態が良くなり、医学が進歩したことが寿命が延びた理由だと思っていたのですが、小林武彦教授によるとそうではないようです。

 老いた個体がいる集団のほうが生存に有利に働くため。

 そんなことは想像の外でした。

 そうだとすると、栄養状態よりも医学の進歩よりも進化の過程で得た生存に有利な条件こそが原因だということになります。
 遺伝子のなせる技というか、深謀遠慮というか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のヤハウェの三宗教では神様が全てを創造したということになっているので、寿命が延びたのも予め神様によってプログラミングされていたと解釈するのかもしれません。
 しかし何から何まで神様が創ったとするのは無理があるように思います。
 キリスト教原理主義者は進化論を否定し、滅んでしまった動物の化石など、進化論の裏付けになっている物については、神様が世界を創造する時に化石も創って埋めておいたそうです。
 かなり苦しいですが、原理主義を守るためには屁理屈みたいな物に縋る他無いのかもしれません。

 どんな宗教であれ原理主愚者というのはおのれの信条を守るために無理目な解釈をするのが普通ですから、それは放っておきましょう。

 現代の日本社会は、老いた個体がいるほうが集団の生存に有利に働くというような、生易しい年齢構成ではありません。
 老人ばかり増えて若い世代が減っていっているのが現状で、今後少子高齢化はますます進むでしょう。
 そうなると、老いた個体だらけになってしまい、かえって集団の生存に有利に働かなくなってしまうのではないでしょうか。

 要はバランスです。

 老人が少ない時代には老人を増やそうと働いた遺伝子ですが、老人が増えすぎたら減らそうとするような気がします。
 しかしわが国の現代医学はなんでもいいから生かそうとします。
 と言うか、死ななければ良い、みたいな思考のように思います。
 それが生命として相応しいのか無視して。
 ヨーロッパ諸国が認めているような尊厳ある安楽死を認めても良いかもしれません。

 小林武彦教授はこのあたりについてどう解釈しているのか知りません。
 当然、生物学については全くの素人である私には何のことやら分かりません。
 じっくり教授の著作を読んでみましょうか。
 この記事はネットの情報によるものですので。

 


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刹那

2023年12月10日 | 思想・学問

 今朝は午前10時からかねて予約してあった歯医者に行きました。
 歯のクリーニングのためです。
 コロナ流行の間、全く歯医者に行っていなかったのですが、三か月前に歯のクリーニングを再開しました。
 これからは三か月に一度歯医者に通う予定です。

 昨日と同様によく晴れて師走とは思えない暖かさでしたが、今日は歯医者に行った以外は家でのんびり日向ぼっこなどしながらダラダラ過ごしました。

 人生暇つぶしという言説は時折耳にしますが、生まれてしまった以上死ぬまで生きなければならず、生きるということになんらの意味が無いのだとすればまさしく人は暇つぶしのみで人生を終えることになります。

 生きるということに価値を見出そうとしても、それは切ないことだと思います。
 出世欲が強くて出世したとしても、スポーツや芸術、学問の世界で成功したとしても、大金を稼いだとしてもそれはわずか70~80年、せいぜい100年のことです。
 訳も分からず生まれて、訳もわからず生きて、ただ死んでしまうのが人というものです。

 うつ状態の時、精神科医は私が自殺でもすると思ったのか、人間は生きているだけで価値がある、と言いました。
 その時、この医者は嘘をついていると思いました。
 そしてその思いは今も変わりません。

 また別の精神科医は人間はハッピー感を得るために生きている、と言いました。
 こちらは概ね正しいと感じました。
 ただしそれは刹那のことでしかありません。
 刹那が生じ、その刹那は一瞬にして終わり、また刹那が生まれる。
 その繰り返しこそ生命が辿る運命だと、お釈迦様は述べています。
 刹那滅などと呼ばれます。

 刹那の喜びを追求するしか生きる術が無いとは、考えるだけでも怖ろしいことです。
 50代も半ばを迎えようというのに、いつまで経っても青臭い小僧のように生きているのが悔しく感じます。


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幸福感

2023年10月18日 | 思想・学問

  この世でおめでたいことと言えば、男女がカップルになって子供を授かる以上のことはありますまい。
 最近差別してはいけないと言われるLGBT、もちろん彼ら彼女らを性的嗜好に依って差別する気はありません。

 しかし子供を授かるという僥倖に恵まれないことについては、覚悟をもって生きなければならないと思います。
 LGBT(特にLとG)に関しては自分の子孫は絶対に残せないということ。

 男女であっても子供を授かることが出来ないカップルはいつの時代にも一定の割合で存在するものと思います。
   そういう私たち自身、子宝に恵まれませんでした。
   世界で一番おめでたいことを経験出来なかったことは残念に思います。
 結果論に過ぎないのかもしれませんが、私たちもまた、LGBTの人々と同様、子孫を残せませんでした。

   28歳で結婚し、40歳くらいまで子供なんて面倒な者はいらないと思っていましたが、子供が出来たら嬉しいんだろうなと思い始めました。
   しかし、時すでに遅し。
   年齢的に不可能になりました。

 私が最近好んで観る中年ゲイカップルの日常を淡々と描いた「きのう何食べた?」において、ゲイである主人公は両親に孫の顔が見せられないからといって自分たちは不幸ではない、愛するパートナーに恵まれて幸福だということを伝えようとします。
 同性愛者を表面的にしか理解できない親は葛藤し、観る者に幸福とはどういうことを指すのかを考えさせます。

 子孫を残すことが最大で絶対的な生きる価値だと考えれば、子が出来ないということ、理由はどうあれ生きる価値が無いとさえ言えるのかもしれません。
 
 しかしおそらくは、最大で絶対的な価値など存在し得ないでしょう。
 それどころか、そもそも生きることに価値は無いと言えます。
 価値が無いのに必死であるように振る舞うことは滑稽でさえあります。
 出世しようと大金を稼ごうと、あるいは貧窮問答歌のごとき暮らしでも、どうでも良いことです。

 ただし人間(あるいは他の生き物にも)には感情というものがあり、これはおそらく脳が支配しているのだと思いますが、幸福を感じる瞬間が存在します。
 その幸福感を求めて、生きる意味のない人生を生きているのではないかと思います。

 私は精神障害者ですから、幸福感というもの、実は薬物で強引に作り出せることを経験しています。
 いわゆる麻薬ではない、合法の精神病薬にも、そのような作用があります。
 脳の働きを強引に変換してしまうのです。
 そうすると、今にも自殺しそうな病人が、突如として楽し気に踊ったりします。

 そういう同病者を見たり、あるいは自分が経験したりすると、幸福感というものの在り方が歪んできます。
 それらの経験が、私をして人生に価値は無いと言わしめているのだと思います。
 少なくとも幸福感は強引に作り出すことが出来ると知ってしまった以上、その感覚に恃む気持ちにはなれません。
 いっそ合法だろうが非合法だろうが関係なく、薬物のみを信じて乱用し、幸福感を感じ続けながら死んでしまえればこんなに安楽なことはありません。

 老いて衰えたなら、なんとしてでもよく効く薬物を手に入れて、最後の安寧を得たいという思いを消すことができません。


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無常

2023年02月05日 | 思想・学問

 最近、近所のお店が次々と畳んでいます。

 しばらく前に撤退したモスバーガー、なかなか次のテナントが入りません。
 住まいの向かい側にあったお気に入りのイタリア料理店。
 23年前、マンションに入居した時は洋食屋でした。
 その後本格的なバーになりましたが数年で撤退。
 イタリア料理店は18年頑張って、それなりに繁盛していましたが、コロナの流行や物価高に勝てなかったようで、誠に残念です。
 その店が撤退し、建物も壊されて更地になりました。
 次は何になるのやら。
 マンションの隣にはコナミスポーツクラブがあり、スポーツクラブは2階から6階で、1階には書店とDVDのレンタル店が入っていたのですが、1階の両店舗が出ていくことになりました。
 本はインターネットで購入する人が多いし、DVDもインターネットで借りられます。
 実店舗は相当体力が無いと厳しいでしょう。
 反対側のお隣はパチンコ屋でしたが、数年前に葬儀屋になりました。
 徒歩5分ほどの所にあった回転ずし屋はドラッグストアになりました。
 お花屋さんはコインランドリーになり、クリーニング屋はリサイクルショップになりました。

 町の様子が変わってきています。
 私はそれを喜ぶことが出来ません。
 町が衰退しているように感じるのです。

 盛者必衰、栄枯盛衰。

 時の流れとともに、全てが変わっていきます。
 何もお店だけではありません。

 私たち人間も赤ん坊が成長し、やがては年老いて最後は石の下。

 何もかもが変化することに、世の無常を感じずにはいられません。

 無常というのは仏教で強調される概念で、私たち日本人は、この国で生まれ育つうちに、知らず知らずのうちに身に付ける物事の本質かと思います。

 その本質が、いずれ死に行く全ての生物の業だと思うと、なんだか憂鬱になります。
 
 古来、人間は不老不死の妙薬を探し続けていますが、誰も成功していません。
 当たり前です。
 それはこの世の真実の逆を求める行為だからです。

 また、一定数の人々は精神の不滅や、極楽往生を信じて真実から逃れようとします。
 それは精神衛生上は結構なことかと思いますが、これもこの世の真実からは外れる考え方です。

 真実から目を背けずに対峙することは苛烈な行いです。
 しかしその苛烈から逃れることが出来る者などいるはずもありません。
 それならば仕方ありません。
 生命が尽きるまで、その日その日を淡々と暮らしていく以外に生きる道は無いものと思います。
 
 辛い。


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墓参

2022年08月12日 | 思想・学問

 今日は暑いなか、同居人の父親と妹が眠る墓にお参りしました。

 墓は千葉市郊外の巨大な霊園にあります。
 千葉市で最も田舎臭いところです。
 迎えは明日ですが、多くの人々がお参りに来ていました。
 なんだか同居人の家族の墓参りばかりして、実家の墓には全然出かけていません。
 実家は多くの家族親族がおり、私がお参りしなくてもどうということはありません。
 しかし同居人には、血のつながった家族と言えば、衰えて施設で暮らす母親しかいません。
 当然、車椅子の母親が墓参りに行くことはできません。
 同居人と私だけが、墓参りに行くのです。

 今年は18歳で亡くなった同居人の妹の33回忌。
 この法要も、同居人と私の二人だけで執り行う予定です。

 この世に生をうけた者は必ず亡くなります。
 そのことを実感させられるのが、身近な者の死です。

 私が家族の死に直面したのは、祖母と実父、それに義父の3人だけです。
 3人の遺体を見て思ったのは、死というもの、本当にその存在が消されてしまうということ。
 さっきまで息をしていたのが、抜け殻になってしまうということ。
 いずれもショックでしたが、実父の死は喪失感があまりにも大きく、物が食べられなくなって、1年で24キロも瘦せてしまいました。

 私も同居人も、必ず死を迎えます。
 私たちは子宝に恵まれなかったため、私たちを弔う子孫はいません。
 それは寂しいことではありますが、死んでしまえば何もわからないでしょうから、それはそれで構いません。

 生まれて、生きて、死ぬ。
 その命の営みは、あまりにも儚く、墓参りに行くと、生物は必ず死ぬのだということを実感させられて、軽いパニック状態に陥ります。

 私は死ぬことが怖ろしくて仕方ありません。
 いや、怖ろしいというより、自分の死を想像することができず、永遠に生きるような気がして、しかしそれは偽りでしかなく、しばし、同時代を生きるすべての生物の営みが、限りなく貴重なものであることを痛感させられるのです。

 墓参りや葬式というのは、生物の営みの貴さを実感させるためにあるのかもしれません。
 供養と言ったところで、亡くなった者はもはや存在しないのですから、それは生きている者の自己満足に過ぎません。 

 今年53歳になりますから、私の寿命はあと30年ほどでしょうか。
 はるか未来のことのようにも、すぐに訪れるようにも思えます。

 霊魂の不滅を信じる人も多く存在します。
 それらの人々の思想信条を貶める気はありませんが、仮に霊的存在があるにしても、霊にすら寿命があるように感じます。

 幽霊と言っても、せいぜい落ち武者くらいしかその目撃記録は存在せず、例えば縄文人の幽霊を見たという証言は、寡聞にして知りません。
 さらには人間が人間である前の存在であった時代の魂はどうなっているのでしょう。
 もっと言えば宇宙が生まれる前、そして宇宙が消滅した後の霊的存在はどうなっているのでしょう。

 魂の不滅を信じることは、精神衛生上有意義なことなのかもしれませんが、死に対する思考を停止させる副作用があると思います。

 私は霊的存在が現実であることを心深くに願いながらも、多分それは嘘なのだと思わざるを得ません。

 墓参りに行くといつも死をめぐる思考がぐるぐる回って、とても辛く感じます。
 どうかすべての生物の死が、安らかであらんことを。


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ガチンコ格闘技とBAYBY METAL

2022年08月11日 | 思想・学問

 お盆休みの初日。
 昼食を食いに近所のレストランに行った以外、冷房の効いた自室でYou Tubeを観て、無為に時を過ごしました。

 最近よく観るのが、1990年代のガチンコ格闘技。
 前田日明や高田延彦らが大活躍をみせた、魅惑的な試合たちです。
 憎いわけでもなく、単にファイトマネーが欲しいからといだけでもなく、本気の試合を続けること、考え方によっては馬鹿々々しいとも言えます。
 あるいは馬鹿々々しいことに血道を上げるからこそ魅力的なのかもしれません。

 また、BABY METALというヘヴィメタとアイドルが融合したような、馬鹿々々しくも必死なパフォーマンスを繰り広げる少女3人。
 BABY METALという名前だけは知っていて、なんでも海外で大層な人気らしい、ということも知識としてはもっていました。
 いつだったか、なんとなくその動画を観て、癖になりました。
 下のような感じです。 





 人間が行うことなど、どれも馬鹿々々しいことばかり。
 偉大な発明だって、素晴らしい芸術だって、所詮は暇つぶしのようなもの。
 しかしなぜか、これは素晴らしく、真面目で、人様の役に立つとされていることと、馬鹿々々しい、取るに足りないものとされる分野があります。
 あるいは分野がそもそも存在しないもの。

 しかし私は、くだらない、馬鹿々々しいと、大真面目な識者に無視されるようなことに熱中し、ついには狂気を帯びて突き進む姿に、人間精神の真の運動が生まれ、それは何よりも美しいと感じてきました。

 20代の頃、文芸同人誌に参加し、せっせとつまらぬ小説を書いていましたが、同人から、よくもこんなくだらない、しかし面白い話が書けるな、なんて言われて、一人悦に入っていたことがあります。
 当然、主人公は凧揚げだったり、一日中海に浸かってただ瞑想を続けたり、それらにのめり込んで人生を狂わせていく愚か者たちです。

 私は生来のひねくれ者ゆえ、何か貴いとされるものや価値が高いとされるものを嫌う傾向があります。

 格闘技やBABY METALも、識者から見たら胡散臭くて怪しいものに映るかもしれません。
 しかし必ず、大勢のファンがつきます。
 それは無自覚にせよ、狂気を帯びて突き進む(あるいはそのように見える)姿に、心中深く感応しているからではないでしょうか。

 私はこれからもアンテナを高くして、人間精神の真の発露である美をそうと知らずに生きている人々を応援し続けたいと思います。
 私自身がお堅い小役人に収まってしまったゆえ、応援することしかできないのです。


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憲法はお経?

2022年05月03日 | 思想・学問

 今日は憲法記念日。
 永井荷風はその日の日記に、米国の作りたる憲法発布の由、嗤うべし、と短く記しています。

 私は憲法など変えようと変えまいと、大した違いは無いと思っています。
 よく、平和憲法などと言って、これさえ守れば国は守れる、みたいな妄言を吐く人がいます。
 それなら憲法に、地震も台風も起きない、と書けばよいのです。
 そうすれば天災地変も起きなくなるでしょうから。

 しかしわが国は、平和憲法を持ちながらも、強力な軍隊を保持し、英国の軍事雑誌で、世界第5位の軍事大国と評されています。
 したがって、平和憲法は有名無実化し、実際には全く守られていないと言ってよいでしょう。
 解釈改憲と言われる所以です。
 さらには米国と軍事同盟を結び、その軍事力ゆえに、わが国は平和を享受してきました。
 そう考えると、わが国は法律は変えずに、運用で重大な憲法違反を行っていることになります。
 
 国の最高法規に違反した状態を続けるのは、わが国民の倫理感を害していることは言うまでもありません。
 しかしわが国は、じつはこういうことを気にしないお国柄。
 養老律令という最高法規がありながら、そんなものの存在など忘れて、明治を迎えるまでいじらなかったのですから。

 日本国憲法も、いじらないならいじらないで、永遠に違憲状態を続けながら、軍隊の増強を続ければ、それで現実に対処することができます。

 改憲論議になると、神学論争みたいな状態になって、うんざりします。
 どうせ守らないなら、神棚か仏壇にでもおさめて、中身を見ずに、拝んでいれば良いのです。
 何か素晴らしいことが書いてあるらしい、しかし中身は分からないお経で十分なのではないでしょうか。 


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我と我々

2022年05月01日 | 思想・学問

 今日は昨日とうって変わって冷たい雨の一日になりました。
 ゴールデンウィークというと、初夏を思わせる日が続くイメージがありますが、今年は違っているようです。

 朝は小雨でしたので、今のうちに買い物を済ませようと近所のスーパーへ。
 同じようなことを考える人が多かったのか、日曜日の午前中にしてはお客さんが多かったように思います。

 お昼は近所のお蕎麦屋さんでとろろ蕎麦を食しました。

 それ以外は家でゴロゴロ。
 
 同居人、仕事と介護で疲れ切っている様子で、お昼寝中。
 同居人の仕事と介護をこなす様子には、頭が下がります。

 同居人と私は職場の同期。
 ただし同居人は一浪して大学に入っているので、年は私より一つ上です。

 正直、出会ったばかりの頃は、田舎くさい、冴えない女だと思って、近づきもしませんでした。
  しかし同期ということで、酒を飲んだりしているうちに、考えが変わってきました。

 まず第一に、嫌いなものが一致したこと。
 私が大嫌いな尾崎豊を、彼女も毛嫌いしていました。
 犯罪奨励ソングを歌って小銭を稼ごうなどと、愚かな考えを持っているとしか思えない不真面目な態度が嫌いでした。

 そしてまた、好きなものが一致したこと。
 幻想文学などの、この世ならぬ存在への予感を持ち続けていることが一致して、当時一部から熱狂的な支持を得ていた「牧歌メロン」という雑誌への興味も一致しました。。
 この雑誌は知る人ぞ知る無名なもので、それを知っていること、そればかりか所有していることに、お互い驚きました。
 なにしろ妖しい雑誌なのです。

 私はそれまで、女性の精神性ということにあまり興味が無かったのですが、同居人の精神に深く接したいと思うようになりました。
 そうなってみると、容姿についても好ましく思うようになりました。
 
 その頃、小説家を目指してせっせと書いていたのですが、これを同居人に読んでもらって、意見を聞くようになりました。
 これが同居人との馴れ初めです。

 嫌いなものと好きなものが一致するということは、そこに同志のような連帯感が生まれます。

 そして、私はヘーゲルが問題にした、我々なる我、我なる我々ということに、少し、糸口を見つけたような気分になりました。
 もちろん、ヘーゲルの著作は難しいし、浅学菲才の私には、正確に理解することなど不可能です。

 

 哲学上の難問はとりあえず置くとして、私は同居人との間に、我々なる我、我なる我々というものが存在していると、予感するようになりました。

 そして同志愛でしかなかったものが、いわゆる恋に昇華していったものと思われます。
 その恋は、同志愛的な要素を濃密に漂わせながら、少しづつ、深められていきました。

 ただし、私には浮気性なところがあって、同居人との恋も、やがて雲散霧消していくのだろうなと思っていました。
 ところが、入籍して24年間、喧嘩一つすることなく、我々なる我、我なる我々という言葉が、染み入るようになりました。

 結局、私は同居人に救われたということでしょうか。

 この静かな恋は、激しさを伴わないがゆえ、今も続いていると感じます。

 日々の仕事は憂鬱で、ため息ばかりついてますが、私たちはどこまでも我々なる我、我なる我々という言葉を、曲解でも構いませんから、胸に刻んで生き続けたいと願っています。
 


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小さな幸せ

2021年09月26日 | 思想・学問

 昨日は精神科の診察がありました。
 最近はわりと調子が良いので、世間話に終始しました。

 精神科医は、仕事は適当にこなして、日常のちょっとしたことに幸福感を覚えられるようになったなら、それが一番良いと言います。
 偉くなったところで、大したことはない、と。

 それはそうでしょうねえ。

 偉くなったところで大したことではありません。
 ていうか、精神病で長く休んでしまった私が出世するはずもなく、出世を望んだところで、虚しいかぎりです。

 偉くなると言えば、今、自民党の総裁選のニュースが盛んに流れています。
 政治家は、偉くなりたいのでしょうねぇ。
 それに幸福感を覚えるのなら、大いにやったら良いでしょう。
 今回は本命不在と言うか、誰が勝つのか、予想がつきません。

 河野、岸田、高市が激しい権力闘争を繰り広げています。
 その裏では安倍、麻生、二階、森などが暗躍しているようです。
 猿山の猿のボス争いとたいして変わらないような気がします。

 私は、地味でつまらないけれど、安定政権を築くことが出来るのは、岸田候補だと思っています。
 河野は舌禍事件を起こしそうだし、高市は右に振れているように思うからです。

 それにしても、権力闘争に血道をあげるのはなぜなのでしょうね。
 争いごとというのは絶えた試しがなく、殺し合いではなく、言論による戦いですから、平和でよいと言えばそのとおりで、私たち庶民は、平和な争いごとを、一種のエンターテイメントだと思って傍観していればよいのです。

 殺しあいをするのではなく、頭数を数えるほうがマシだと言ったのは誰でしたか。

 私は権力闘争とは無縁の世界で生きています。
 働いて、休日は少し楽しんで、死んでいくばかりです。

 死ぬばかりだといっても、私は生まれてくる前にも、死んだ後にも、私という存在の核のようなものが、過去も未来もあり続けているはずだという予感を、ぼんやりと持ち続けています。

 それは輪廻転生とも、幽霊とも異なる、もっと神聖で複雑なものだとも思っています。
 そうであるなら、現世での出世など、馬鹿々々しいことだし、時間の無駄だと感じます。

 では何をよすがに生きるのでしょう?

 コリン・ウィルソンの言う至高体験を求めるということになろうかと思います。
 至高体験と言っても、大それたことではありません。

 例えば休日の朝ののんびりした幸福感。 
 散歩や旅行、芸術鑑賞など、ほんの些細な幸せで十分なのだろうと思っています。
 奇麗な花が咲いていた、飯が旨かった、その程度で。

 可能ならば早く引退して、山中に庵をむすぶ代わりに、都会の片隅で、世捨て人のような生き方が出来ればこんな幸せなことはないと思いますが、それでは生活出来なくなってしまいます。

 サラリーマンを続けながら、小さな幸せを求めるしかありません。

 ちょっと寂しい気はしますが。


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意識を機械に移植する? 

2021年09月12日 | 思想・学問

 私はかつて、「人工とびお」という記事で、私の思考パターンや興味関心、性格等を人工知能に覚えさせ、それに折々の社会情勢や事件を自動的に入力することで、人工とびおが出来上がり、私の死後もこのブログを更新させ続けたい、と書きました。  

    下の記事です。
      ↓
     

人工とびお - ブログ うつと酒と小説な日々 (goo.ne.jp)

 私としては思考の遊びのつもりだったのですが、同じようなことを考える人はいるもので、すでに研究は進み、東大の脳神経科学者によると、20年以内に実用化できるんだそうです。
 昨日の新聞を読んで、本当かいなと思いました。

 びっくり仰天。

 新聞によると、
 脳は一千億個を超える神経細胞が電気信号をやり取りして情報処理を行う一種の電気回路だ。ということは、脳を十分に模した回路を作れば、そこに意識がやどらないはずはない
 と言うのです。

 これにより、人の意識を機械に移植することが可能だ、とも。

 これが本当なら、意識のうえだけでは、一種の不老不死ということになります。
 機械に移植された意識が、本当に自分の意識と言えるかは疑問ですが。
 この技術は、人の死生観や倫理観に大きな衝撃を与えることでしょう。

 しかし私は、この技術に魅かれずにはいられません。
 人工とびおとして半永久的に生き残り、この世の行く末を見届けたいと思います。
 そしてこのブログも、半永久的に更新を続けたいという欲求にかられます。 


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金縛り

2021年07月09日 | 思想・学問

 昨夜、ソファでいつの間にやらウトウトして、そのまま眠ってしまいました。
 ただ、眠りが浅かったらしく、悪夢というか、金縛りにあいました。

 金縛りというと、かつては心霊現象の一つと考えられることが多かったようですが、最近は睡眠障害と呼ばれ、肉体は眠っているのに脳が起きているという状態の時に起きると聞いたことがあります。

 時折私も経験しますが、怖ろしいものです。

 昨夜は、自分がソファで眠ってしまったことを自覚しており、何者かが私に害を為そうとうかがっていると思い込んでいます。
 一刻も早く逃げ出さなければならない、と思いながら、体が動きません。

 当然です。

 眠っているわけですから。

 しかし金縛りの最中はすでに目覚めているという意識があり、目覚めているのに体が動かない、逃げ出したいのに逃げられない、という状況でした。

 びっしょり汗をかいてはっきり目覚めてから同居人に聞くと、ひどくうなされていたから何度か体をゆすって起こそうとしたが起きなかった、とのことでした。 

 こういうこと、十年以上前、頻繁に経験しました

 上司からパワー・ハラスメントを受けてうつ病が再発した頃です。
 その時は金縛りというより悪夢が問題でした。

 医師からは、PTSDの一種と言われました。
 暴言を受けている時のことが何度もフラッシュバックし、睡眠中にもそれが悪夢という形で現れるのだ、と。

 その後私からの訴えでパワー・ハラスメントは無くなり、上司から謝罪文と解決金をもらって解決しました。

 自然、悪夢とか金縛りはなくなっていきました。

 ですので、昨夜は久しぶりの恐怖体験でした。

 金縛りというか睡眠障害という現象、どこの文化でも心霊現象として捉えられてきたものと思います。

 それはいかにも怖ろしく、何が何だか分からない状況であり、心霊現象としか言いようがなかったのでしょうね。
 しかし今は、睡眠中の脳の働きによる、というのが常識になっています。

 私は、超常現象というものは、いずれ科学的にその存在の謎が解き明かされるであろうと考えています。

 もしかしたら霊的存在が実在すると証明されて、なんらかの装置を使って意思疎通できるようになるかもしれません。
 あるいは全宇宙の歴史が謎の言語で詳細に述べられているとされるアカシャ年代記にアクセスできるようになるかもしれません。

 心霊現象が心霊現象として存在するにしても、金縛りのように医学的にその実態が証明されるにしても、ほとんど人類史と同時に生まれたと考えられる神秘的なことや呪術的な事柄が何物なのかが判明するということは、とても興味深いと思います。

 ただし、多くの神話やお伽噺、怪異譚やホラー映画が力を失うかもしれません。
 しかし、それでも大丈夫。
 何かが発見され、あるいは証明されたところで、また新たな超常現象が私たちの前に立ちふさがるでしょうから。


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神様 仏様

2021年07月05日 | 思想・学問

 私が日蓮宗の寺で生まれ育ったことは、このブログで何度も申し上げたとおりです。

 およそ仏教ほど、経典の多い宗教もありますまい。

 キリスト教であれば、新約・旧約の聖書があれば事足りますし、イスラム教においてはコーランがあれば良しとします。
 
 しかるに、仏教にはどれだけ仏典があるのか、偉いお坊さんも、仏教学者も分からないのではないでしょうか。

 多分1,000や2,000はあるのではないかと思います。
 
 一方、わが国において仏教と深く結びついた神道には、そもそも経典にあたるものが存在しません。

 したがって、体系立った教学のようなものがありません。

 自然崇拝と、ただ清浄と言い、清き明き心と言い、おそらくは生活規範のような物を旨としてきたように思います。
 そして、八百万の神々なんていうとおり、何柱の神々がおわしますのか、誰にも分かりません。

 およそありとあらゆる自然物や偉人が神であると考えられ、八百万というのは、無限というのと同義かと思います。
 これらは、多くの多神教に見られることです。

 それだけの神々がいながら、じつは神道には一神教的な側面が存在します。

 天照大神を最高神とし、何よりも天照大神を尊ぶこと。
 
 ただし、古事記に最初に記載が見られる神様は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であり、平田篤胤の復古神道などでは、この神様を最高神としています。
 天照大神を最高神とするか、天之御中主神を最高神とするかで、論争が起きたこともあったやに聞き及びます。

 どちらが最高神でも良いですが、多神教にも最高神という存在があって、そこに一神教的な考えが生まれる余地があるのだろうと思います。

 神道と仏教については、用明天皇の態度が、仏法を信じ、神道を尊び給うということだったそうで、この辺りから神仏習という考えが起こったのでしょうね。

 一方、仏教においては、大日如来であったり、阿弥陀仏であったり、久遠実成であったり遍照金剛であったりと、宗派によって本尊が異なりますが、これは大体同じようなものと考えてよいと思います。

 わが国においては、信仰というほどのものではなくても、なんとなく、仏教も神道も尊ぶべきものだということが、常識のようになっています。

 しかしだからこそ、わが国では宗教が根付かず、宗教的倫理が育たないものと思います。
 
 神仏習合という考え方は、わが国で1,000年以上も続いてきたもので、両者が平和的に共存してきたということは、この考えに依るところが大であり、日本人の知恵かと思います。

 今でこそ皇室は神道の親分みたいになっていますが、奈良時代から江戸時代まで、葬式はずうっと仏式。

 天皇家は天照大神の子孫ということになっていますが、仏教を信じてきた歴史のほうが長いことになります。

 明治にいたって、突如として皇室は神道の庇護者になったわけです。

 そして神道も仏教も魂を抜かれた置物のような存在になってしまいました。

 多くの人が食える時代になったからこそ、宗教は敗戦直後の食えない時代よりも重要になってきたと言えるでしょう。
 食えてこそ、精神の安寧を求めることができます。

 今、仏教にしろ神道にしろ、わが国の伝統ある既成宗教は、食えるようになった、しかし複雑化した日本社会に住む人々の救いになることができるでしょうか。

 あるいは全く新しい宗教、もしくは思想が必要でしょうか。

 お寺で生まれ育った者としては残念ですが、仏教が明治維新以前のような、信仰の対象になることはないだろうと感じています。

 神道も。

 日本人の倫理規範を形作ってきた仏教と神道、それに武士道やら儒教やら。
 それらが混然一体となってわが国を覆ってきました。
 それは当分変わらないでしょう。

 しかし時代の変化とともに、倫理規範は変わっていきます。
 その時、わが国は何をもって倫理規範の存在を担保するのでしょうね。


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