ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

殺戮にいたる病

2015年05月31日 | 文学

 掃除や洗濯、買出しなどの家事に精を出した他は、読書をして過ごしました。

 「殺戮にいたる病」という小説を詠みました。

殺戮にいたる病 (講談社文庫)
我孫子 武丸
講談社

 ネクロフィリア(死体愛)の性倒錯者の連続殺人鬼を描いた作品です。
 主人公は、夜の町で美しい女性をナンパしては殺害し、死体を犯すわけですが、彼はただ一度しかできないその性交を、真実の愛と感じています。
 犯行を犯してしばらくは、その思い出にひたって至高の時を過ごしますが、一ヶ月もすると記憶は薄れ、あれは真実の愛などではなかったと感じ、新たな愛を求めて彷徨うのです。

 しかしこの小説の優れた点は、人物や時制を混乱させ、読者にトリックを仕掛け、ラストの数行に到って完全に読者を呆然とさせるほどの、騙りを成功させているところです。

 ネタバレになってしまうので詳述はしませんが、叙述トリックと呼ばれる手法を見事に駆使しており、騙される快感に引きずり込まれることになります。

 やや大仰で思わせぶりなところは鼻につきますが、それも叙述トリックの一貫と思えば、目をつぶっても良いでしょう。

 なかなか楽しい読書体験でした。

 にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村


本・書籍 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のふたつの貌

2015年05月30日 | 文学

  私は日蓮宗の寺院で生まれ育ちました。
  それを知ると珍しがって生活の様子を聞かれることも珍しくありませんでした。

 普段全く考えることがありませんが、日本にも少数ながら牧師の家で生まれ育った人もいるわけです。
 お寺のように世襲が当たり前なのかどうか知りませんが、父親の跡を継ぐ者もいるのでしょう。
 その場合、少なくとも表面的には、キリスト教の教えを信じているように振る舞わなければ、食いっぱぐれてしまいます

 しかし現代の日本に生まれ育った場合、神による天地創造だとか、最後の審判だとかいうSFちっくな概念を頭から信じることは難しいように思います。
 わが国の空気を吸って普通に育てば、進化論が正しいと思うでしょうし、天国も地獄も存在しない、まして神様なんて存在しないと思うのが一般的でしょう。

 そもそも私にはキリスト教徒の知り合いが一人もいません。
 彼らがどんなふうに世界を見て、解釈しているのかなんて知る由もありません。

 もしキリスト教が説くような絶対的な神様が存在するのだとしたら、ずいぶん意地悪なことをするものだと思います。
 世に争いの種は尽きないし、凶悪犯罪も後を絶ちません。
 飢えや貧困に苦しむ人々もあまたいます。

 しかし神様は、大いなる沈黙を守り続けるのみです。 

 今日、「神のふたつの貌」というミステリーを読み終わりました。
  牧師の家に生まれ、当然のように牧師になり、教会を継いだ男の生涯を描いた物語です。

神のふたつの貌 (文春文庫)
貫井 徳郎
文藝春秋

 少年時代、学生時代、それに牧師となって妻子をもった後の3部構成ですが、男は幼少の頃から神の存在を信じつつも神の沈黙を不満に思い、どうにかして神の声を聴きたい、と願います。 

 それが動機となって、男は不可解な行動に出ます。

 殺人です。

 連続殺人ではなく、少年時代に1回、学生時代に1回、牧師となって妻を亡くし、大学生の息子と二人で暮らす時代に1回。 

 それはつまり、障害のある者や重大な罪を犯した者にこそ神は福音をもたらすはずだという魔術的思考に陥った結果であり、それに加えて神の許に旅立ったほうが幸せだと思われる人物を狙うという、まさに悪魔的な思考が彼の背を押します。

   主人公による神と人類、さらには神と生物に関する長いモノローグや、他の信者との神学論争めいた会話が綴られ、いわゆるミステリーというよりは、ドフトエフスキーのような哲学的な趣を醸し出します。
 ドフトエフスキーと異なるのは、キリスト教になじみが薄いわが国の人々がキリスト教に抱くであろう疑問を丁寧に描いていることです。

 ここがこの小説の肝と言っても過言ではありません。 

 それでいてエンターテイメントとしての役割である読みやすさや面白さを保っているのは、大した筆力だと思います。 

 ご一読をお勧めします。

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村


本・書籍 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みじか夜

2015年05月29日 | 文学

 今日は少し涼しいようです。
 これなら職場に冷房は入らないでしょう。

 じつはこの2~3日、冷房が効いて難儀しています。
 冷房が入っていると、くしゃみが止まらなくなり、たまらず常備している鼻炎カプセルを飲むのですが、今度は眠くてたまらなくなるのです。
 冷房していないときは、長袖のシャツだけで勤務していますが、冷房が入るとジャケットを羽織らずにはいられません。

 しかし世の中には暑がりの人も多く、冷房を入れても半袖で平気な人も少なくありません。 

 うまくいかないものですねぇ。

 東日本大震災直後の夏は節電とかでほとんど冷房が入らず、しかもその時、私は今より体重が20キロ以上重かったので、ひどい暑がりでした。

 あの夏は難儀しました。 

 すぐに冷房を入れてくれるようになると、今度は激ヤセして寒がりになっているとは皮肉なものです。 

 わが国の建築は、概ね夏を快適に過ごせるように作られていますね。
 それだけ高温多湿のわが国の夏が過酷だということでしょうが、今はエアコンが普及して、建物に入れば寒いくらいです。

 私も真夏、家ではずうっと冷房をかけています。
 夜も一晩中。

 思えば子供の頃は自室にエアコンがなくて、寝苦しい夜を過ごしました。

   短夜(みじかよ)や おもひがけなき 夢の告 

 与謝蕪村の夏の句です。

 どんな夢を見たのでしょうね。
 良い驚きだったら良いのですが。

 私はうつ状態に苦しんでいたころ、よく悪夢を見ました。
 毛虫やミミズで一杯のプールで溺れたり、蛇に絡みつかれたりする極めてグロテスクな夢です。
 金縛りのような状態で大きな声でうなされ、よく同居人に起こされたものです。

 ために眠るのが怖くなってしまいました。

 うつ状態では不眠に陥る人が多いですが、過眠になる人もおり、私は過眠でした。
 酷い時には1日に20時間以上眠っていましたっけ。
 脳が休息を求めていたのでしょうが、悪夢ばかりであまり休まりませんでした。

 それも今は昔で、すっかり治まりました。

 真夏の夢を楽しみたいものです。

にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村


人文 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学徒出陣かー人文系の死ー

2015年05月28日 | 思想・学問

 今朝の新聞で、文部科学省が国立大学に対し、人文社会学及び教育学系の学部・大学院を統廃合により縮小し、代わりに理系に重点を置くよう通知を出す予定だ、との報に接しました。

 文部科学省所管の国立研究機関で働く者としては、来るべきものが来た、という感じです。

 平成16年の国立大学等の法人化により、我が業界では手っ取り早く成果が上げられ、産学連携などで外部資金を引っ張ってこられる工学や医学・薬学などが重視されるようになり、人文系の部署は目に見えて金が減らされ、冷遇されるようになりました。

 それがついに、あまりにも露骨な形で表れてしまったわけです。

 私たち行政職にある者はそうでもありませんが、人文系の研究者にとっては恐怖の通知ですねぇ。
 18歳人口の激減に対応するものだとかなんだとか屁理屈をつけていますが、要するに金にならない研究はいらないということでしょう。

 しかし、文学や哲学などはもともと学問の祖ともいうべきもので、これを疎かにしては国民が教養を失い、人心は荒廃し、拝金主義の世の中が現出するのではないでしょうか。

 本来、文部科学省は財務省などに対し、金にならない文学や哲学、理系でも基礎研究などを重視することが、ひいては金になる研究の礎になるのだと、説得すべき立場にあるはず。

 それが率先して拝金主義の片棒を担ぐとは、泣ける話です。 

 文学者がよく口にする無用の用なんて野暮なことを言うつもりはありませんが、虚構のなかに真実を追求する文学や、人間の思索の歴史を踏まえて思想のなかに真実をさぐる哲学、人類の営みや歴史から現代社会の在り様に思いをめぐらす歴史学などは、最も古い学問であり、なぜ古いかと言えば、古来人間はそういった営みが死活的に重要だということを直感的に知っていたからに違いありません。

 学徒出陣を思い出さずにはいられません。
 太平洋戦争で劣勢に立たされた大日本帝國は、将来のわが国をしょって立つべきインテリ層をも、戦争に駆り出しました。
 ただしそれは、文系の学生が中心。
 理系の学生は、技術開発などで兵器の開発などにあたることが期待されたのか、学徒出陣を免除されたと聞きます。 

 わが国は70数年前に理系偏重の政策を打ち出し、太平を謳歌する現代においてなお、その愚を再び犯そうというのでしょうか。

 確かに文学も哲学も社会学も歴史学も、新薬や家電製品、さらには武器の開発など、目に見える成果は上げられないことは事実です。
 しかし営々と続けられてきた無用とも思える知の蓄積にこそ、人間が人間である所以があるものと思っています。

 このたびの文部科学省の通知、私はその所管機関で働く者として、激しい失望を覚えざるを得ません。

 もうこんな状況では働く気が起きません。
 辞めちゃおうかとさえ思います。
 そして学術や研究とは無縁の職場に移るのです。
 どうせ事務職なので、研究機関にこだわる必要は無いのですから。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人文 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年休

2015年05月27日 | その他

 年休の効率的取得のため、忙しい仕事が隙間のように暇になった今日、休暇を取得しました。
 平日に休めるとはありがたいことです。

 早朝6時に起きて朝湯をつかい、ゆったりとした気分で卵と納豆とソーセージをおかずにたっぷりと朝飯を食らいました。

 一時50キロを切っていた体重もやっと53キロまで回復しました。
 53キロは学生時代の体重と同じ。
 身長165センチの私にとってはベストのようです。

 うつ病の治療薬を飲んでいた頃、74キロまでいってしまったことを思うと、隔世の感があります。

 3年前、父を亡くしてから、1年で25キロも落ちて、49キロになってしまいました。
 その頃の写真を見ると、ミイラのようで不気味です。

 最近やっと、自分の顔に戻った感じがします。
 3年かけて、やっと父の死というショッキングな事件から、体が回復したようです。

 朝食後、掃除機をかけ、洗濯をし、便所掃除をして、疲れてしばし朝寝。

 一緒に休暇を取った同居人と、千葉市中心部に散歩に出かけました。
 お仕事中と思われるサラリーマンを見て、嫌な気分になりつつ、勝ったような気持ちがしたり。

 お昼は塩ラーメンをいただき、その後ドトールでコーヒーブレイク。
 帰ってから車に給油し、洗車機で洗車しました。

 15時からは読書。
 お気に入りの作家のミステリーを3分の1ほど読み進めました。

 17時には風呂に入り、湯上りには浴衣姿でベランダで缶ビールをいただきました。

 これぞ人間の幸せと言えましょう。

 晩飯はマグロとホタルイカとフルーツトマトに茄子の煮浸しをいただきました。
 
 週の半ばに良い休日を過ごせたことは、私の大きな喜びとするところです。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自動記述

2015年05月26日 | 文学

 かつて一世を風靡した芸術運動に、シュールレアリスムがあります。
 「シュールレアリスム宣言」を著し、この運動の法王とまで呼ばれたアンドレ・ブルトンは、自動記述による小説執筆に挑み、一部好事家からたいへんな評価を受けました。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)
Andre Breton,巖谷 國士
岩波書店

 自動記述とは、構想を練ったりすることなく、ただ、原稿用紙に向かい、思いのままに文章を書きつけるという手法で、私はこの技法に大いに疑問を持っています。

 正直、自己満足のように思えます。
 読者を楽しませるという意識が希薄なような。

 自動記述とは意味が異なりますが、私はしばらく夢日記をつけていたことがあります。
 枕元にノートとペンを置いておき、目覚めるや見た夢の内容をできるだけ詳細に書き付けるのです。

 これはその後、私を恐怖に陥れることになります。
 日に日に夢の記憶が鮮明になり、目覚めているのか夢の中にいるのか、判然としなくなる、という危険な状態に落ち込んだのです。

 ために、夢日記は半年を経ずして中断することになります。

 しかしその経験は、怖ろしいものであると同時に、どこか甘美な、麻薬のような快楽をも、もたらしました。
 おそらく脳内麻薬の一部が放出されていたのではないかと思います。
 ナチュラル・ハイともナチュラル・トリップとも言える状態とでも表現すればよいでしょうか。

 アンドレ・ブルトンがあみ出した自動記述というものが、どのような精神状態で行われたのかは寡聞にして知りません。
 しかしもしかしたら、私が経験した、夢日記と、それに伴う意識の覚醒とも混濁ともつかぬ状態で行われたのかもしれませんね。
 もしそうなら、自動記述なるものを試してみたいような気もします。

 ただ、酔って書いた文章や、ハイな状態で書いた文章が、醒めた目で読むと読むに堪えない代物であるのと同様、私がそんな技法を使ったところで、大したものは出来ないだろうという予感はあります。

 正直、アンドレ・ブルトンの小説は私には退屈でしたし。

 昨夜書棚を整理していて、もう20年以上前に読んだアンドレ・ブルトン「ナジャ」が出てきて、中年になった今なら面白く読めるかと思い、ぱらぱらとめくりましたが、やっぱり退屈でしたので、久しぶりにシュールレアリスムについて思い出してみたところです。 

ナジャ (岩波文庫)
巖谷 國士
岩波書店

 にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村


本・書籍 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう巻き込まれています

2015年05月25日 | 社会・政治

  安倍総理が推し進める安全保障関連の法整備。
  巷では、「米国の戦争に巻き込まれる」という昔懐かしいスローガンが復活しているようです。 

 これに対し、安倍総理は「日本の意思に反し、米国の戦争に巻きこまれることは無い」、と断言しました。
 日本の意思であれば巻き込まれる、と言うべきかもしれませんが、日本の主体的意思の場合、それは参戦と言うべきで、巻き込まれる、という受け身の表現は卑怯の誹りを免れません。 

 しかし私は、大日本帝國が米国に敗れ、7年におよぶ占領を経て、米軍の日本駐留と日米安保を条件に独立を果たした段階で、わが国は必然的に米国の戦争に参加もしくは巻き込まれる運命を負っているものと考えています。

  朝鮮戦争でもベトナム戦争でも湾岸戦争でもイラク戦争でも、わが国は直接戦闘に参加していないにしても、米国の利益のために様々な方法で巻き込まれています。
 お金を負担するとか、在日米軍基地から戦場に飛び立つことを認めるとか、武器の部品を製造するとか。 

 したがって、安保法制を整えようと整えまいと、これから巻き込まれるのではなく、広い意味では、とっくに巻き込まれているというのが正確であろうと思います。

 現段階ではまだ巻き込まれていないという架空の前提のもと、これから巻き込まれるから安保法制は止めようというのは、無邪気もしくはお人よしと言うべきでしょうねぇ。 

 考えてみれば、安保改定の時も、PKO活動に参加することを決めた時も、同じようなスローガンのもと、反対運動が起こり、法律が通ると何事もなかったかのような顔をして、また同じような反対運動を繰り広げるという愚を、一部のマスコミや団体は繰り広げてきたというのが実際のところです。 

 真面目に現今の国際情勢を分析するでもなく、時の権力者を軍国主義者であるかのようにレッテル張りして思考停止に陥り、幼稚な反対運動を繰り広げるのは、不真面目というべきで、うんざりします。

 わが国はとっくの昔に軍事的に米国の支配下にあり、当然のことながら米国の戦争に協力し続けてきたという歴史を冷静に見据え、そのうえで完全な中立政策に転換して米国の庇護を離れようというのなら、わが国は核武装も含めた軍事大国を目指さなければならなくなるでしょう。

 なにしろ米軍は助けてくれないのですから。
 自力で防衛するしかなくなります。

 その場合、わが国は戦前のように米国と緊張状態に陥るであろうことは容易に想像ができます。
 日本一国の軍隊だけで国を守るのは、今の時代極めて困難です。

 であるならば、次善の策として、米国や韓国、東南アジアや太平洋の自由民主主義国と共同してわが国及びアジア太平洋地域の平和維持に努めるのが現実的であろうと思います。

 そしてまた、わが国の軍隊は高い練度と士気を誇り、諸外国からも尊敬される、大規模では無いながらも精強な戦闘集団であると聞きます。
 これをわが国一国のためだけでなく、広く世界の安定維持に貢献せしめることは、先進国たるわが国の義務であると言えましょう。

にほんブログ村 政治ブログ 国政・政局へ
にほんブログ村


政治 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天命

2015年05月24日 | 文学

我、週末の終わりを惜しみて酒に逃れたり。
酒、我をして一瞬の快楽に誘い入れ、心地よし。

我、明日の激務を忘れたることしばし。
能ふなら永遠に忘れたし。

しかれども我、そが瞬時のまやかしなるを知りたり。
知ってなほ、忘却を願ふは、我が魂の怠惰なりや。

そも、魂の怠惰とは何ぞ。
精神の運動とは何ぞ。

我、幼き日より、一つ、求めたり。
すなわち、美を求めむがための運動なり。

我、この世に堕ちたる所以のものは、美を求めむがための運動おこしめむと欲するために他ならず。

されど我、美を忘れて久しく、これぞ魂の怠惰なりや。

今生の我、何をもってか生きむ。
飯、食いたきがゆえか、酒飲みたきがゆえか、女抱きたきがゆえか、賭場荒らしたきがゆえか。

さあらず。

断じてさあらず。

我、今生にて求めたるは、美なり。
わけても言の葉の美なり。

我、何をか忘れむ。

我、初老の域に達し、我が天命を思い至るべし。

我、何をもって今生をわたるべきか。

思い至るべし、天命。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メタからパラ、そして古典回帰か

2015年05月24日 | 文学

 筒井康隆の新作短編集「世界はゴ冗談」を読みました。

 御年80歳の大先生、ほとんど言葉遊びのような作品から、かねてご執心のメタフィクションを取り上げたものまで、多彩なラインナップで楽しませてくれます。
 これほどの大家になると、何を書いても許されるし、売れるのですねぇ。
 うらやましいかぎりです。

 メタフィクションは、フィクションのフィクションなどと呼ばれ、登場人物が自分が虚構の存在だと自覚しつつ読者をフィクションに取り込むような、実験的な小説群のことで、私はあまり得意ではありません。
 どうしても物語の破綻が避けられないからです。

メタフィクション―自意識のフィクションの理論と実際
結城 英雄
泰流社

 21世紀に入ると、インターネットのゲームなど、物語の享受者に、物語への参加を促す、メタフィクションが極限にまで高められたパラフィクションという概念が登場します。

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生
佐々木 敦
慶應義塾大学出版会

 しかしパラフィクションの登場により、読者を物語に参加させると、より一層作者の絶対性が高まるという矛盾が提起されるようになってしまいました。

 科学の進化は不可逆的であろうと思いますが、文学や芸術の世界は必ずしもそうとは言えないでしょう。
 メタフィクションやパラフィクションの壮大な実験は、結局擬古典的なかっちりした物語の復興を促すものと、私は願望を込めて思います。

 それにしても御大は実験的な作品からブラックユーモアの作品、はては少年少女向けのノスタルジックな作品など、じつに才能豊かな人だと実感させられました。

 もう十分楽しませてもらいました。
 筆の衰えは隠しようもなく、思考の停滞も見られます。
 このうえは、筆を折って引退されたらいかがかとさえ、思わされました。

世界はゴ冗談
筒井 康隆
新潮社

にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村


本・書籍 ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テスト

2015年05月23日 | その他

    この記事はテストです。
   初めてipad miniでgooブログのアプリを使い、書いています。
   ここに至るまで苦労しました。
   これがうまくいけば、旅先でのブログアップも楽々です。

   果たしてこのテストが、うまく皆様のお目に触れるでしょうか。

   とびおの進化にお付き合いいただけると幸いです。

   

  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅い

2015年05月23日 | その他

 先日購入したiPad miniのバージョンを最新の8.3に上げたところ、突如として通信が出来なくなってしまいました。

 simの設定をやり直したり、simカードを抜き差ししたり、ついにはワイヤレスゲートのサポートセンターに電話したりしましたが、どうにもうまくいきません。

 たまらず、近所のヨドバシカメラに駆け込みました。

 若い店員が余裕の表情で私の端末をいじっていましたが、設定は完璧で、つながらないはずがない、とのこと。
 店員、焦りの色を見せ始め、ついには私の端末とワイヤレスゲートの設定完了のメールを出力した紙を持ち、ワイヤレスゲートに電話すると言ってひっこんでしまいました。

 待つこと15分。
 店員は申し訳なさそうにもどってきて、ごくまれにバージョンアップによって現われる症状だそうで、LTEを3Gに落として使えば通信ができるとのこと。

 確認したら確かに通信できますが、どうにも遅い。

 大体私はWiFi+LTEの契約をしたのに、なぜ3Gを使わなければならないのでしょう?

 しかしまぁ、私がワイヤレスゲートに電話しても要領を得なかったところ、さすがにプロ同士で話をして、やっとインターネットにつながるようになったのですから、良しとしなければなりませんね。

 さらに、最新のバージョンのお知らせが着たらLTEの設定に戻してください、とのこと。

 情報機器は発展途上。
 まだまだストレスフリーとはいかないようです。

 結局LANケーブルでつないだ有線のパソコンが最強のようです。

 貴重な休日をつまらぬことに使ってしまいました。

 やれやれ。

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月光

2015年05月22日 | 文学

  月光夜を照らす。
 その光妖しかれども煌々たり。 

 我独り、マンションのベランダに出で、月光を浴びたり。
 手には二合徳利と杯。
 一口二口酒を含めば、月光いよいよ妖しく光りたり。
 酒にか月光にか、我酔いたる心地して、陶然たり。 

 知らず、人の道。
 なお知らず、生死の意味。
 知りたくも無し、労働の甲斐。

 ただ我、一瞬の愉楽に沈むばかりなり。

 皐月半ばを過ぎ、田、青々と稲穂を揺らす。
 さりながら宵には外気凛冽として、酒の温め有難し。 

 月あまりに巨大なれば、我、酒の酔いも手伝ひて、月光に飲み込まれたる心地す。

  さあれば、月に住まいするかぐや姫との逢瀬を楽しみたき欲わき出づる。

  我、気づけばはるか天空を駆け、月にいたる。
 かぐや姫が住まいする宮殿はいずこにや。

 あな怖ろし。

 月に流麗たる宮殿を見ず。
 かぐや姫の花の顔(かんばせ)も見ず。

  げに怖ろしき死の気配充満したるを感得し、我、恐怖に打ち震え、落涙滝の如し。

  はしるはしる、我が狭小たるマンションのベランダを目指し、ひたすら天空より落下す。

  気づけばベランダにて、二合徳利を抱えおる。
  さらに一杯二杯の酒を含み、再び月眺むれば、相も変らぬ妖しき光を放ち、我を誘惑す。 

 我が家の狭小たるを嘆かず、月に住まいせざることに安心覚ゆ。
 ベランダにて月光を眺めるの愉楽こそ良しと得心したり。

にほんブログ村 本ブログ 純文学へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦役

2015年05月22日 | 仕事

   飯(あるいは酒?)の種であることは重々承知していますが、なんだか仕事なんてどうでも良くなってしまいました。
 もともとそういう傾向はあったと思いますが、近頃それが激しいように思います。

 加齢により堪え性がなくなったのか、新しいことを覚えるとか、細かな数字のチェックとか、そういうのがどうにも面倒くさくて仕方ありません。

 それなのに世はあらゆることが電子化で、新しいシステムが導入されたり、システムの改変が頻繁にあったり、それがまたストレスですねぇ。
 しかも電子化によって人がどんどん減らされ、一人が担当する仕事の幅は増えています。

 そんなわけで、柄にもなく、農業でもやってみたいと思ってしまいます。
   しかし私は土いじりをしたことがありません。
 そのうえ虫が大嫌い。
 ミミズなんか出てきたら卒倒してしまいそうです。
   暑そうだし。

   やっぱりエアコンが効いた事務室でしこしこ事務仕事に精を出すしかないんでしょうねぇ。

   しかしそれはおそろしく退屈で、しかも面倒くさいことです。
   退屈と面倒という苦役に耐えるから金をもらえるということは分かってはいますが、人間には感情というものがあります。

  感情が仕事を拒絶しながら、生活を維持するためには退屈と面倒に耐えなければならない、と言い聞かせつつ生きていくというのは時間の無駄のような気がしてなりません。

    そんなことを考えながら、お仕事生活も24年目に突入してしまいました。
   よくもまぁ、堪えに堪えたものです。

   辞めてもどこも雇ってくれないでしょうし、雇ってくれたところで退屈と面倒に耐えなければならないのはどこに行っても同じでしょう。

   真、生きるとはしんどいものですなぁ。

   美的世界にどっぷり浸かって浮世離れした暮らしをおくりたいという野望は、なかなか叶えられそうもありません。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の乱れ、あるいは儚い恋

2015年05月21日 | 文学

  世の中には恋の歌が引きも切らず、少々食傷気味です。
 それもあまりにストレートで稚拙な歌詞が目立ち、辟易します。

 美しい日本語を紡ぎ出す能力の無い者が無理やり詞を書くからでしょうねぇ。 

 かつて、作詞家・作曲家・歌手はほぼ分業が確立されており、それがゆえ、高い作詞能力を持った人しか作詞しませんでした。
 歌手も歌唱力が優れていたり、味わい深い声をもっていたりする人だけがプロとなったのでしょう。

 それが1970年代あたりから、シンガーソングライターと呼ばれる、作詞作曲を一人でこなし、さらには自分で歌っちゃうという人が増え始め、それと比例して聞くに堪えない幼稚な詞が出回り始めたように思います。

 これにより、日本語による美的な歌の崩壊を生じ、ついには俵万智とかいう、自由詩を無理やり定型の短歌に押し込めたような人がちやほやされるに及んで、日本語は壊滅的打撃を受けました。

 嘆かわしいことですねぇ。

 さらにはら抜き言葉が横行し、もはやら音をきちんと発音しただけでお年寄り扱いです。 

 時代の流行を嘆くのはいつの時代もお年寄りのくだらぬ愚痴とはいえ、私はせっかちなのか、早くも感覚が老齢に近づいたらしく、嘆かわしくて仕方ありません。

 「徒然草」にも、 

 何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。 

とあります。

徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
角川書店
角川書店


 鎌倉時代を生きた兼好法師もまた、昔は良かった式の、年寄めいたことを書き残しているわけですから、私が現代の日本語の乱れを嘆いたところで、後の世の人々から見れば、馬鹿馬鹿しく感じるのでしょう。

 何事も繰り返しです。 

 言葉は変わっていくものと知ってはいますが、現代の変化は早すぎるような気がします。

 恋の歌に戻りますが、私が近頃気に入っているのは、SEKAI NO OWARIという子供に人気のバンドが歌う、人ならぬ女性との恋の曲の数々です。
 不死身のロボットとの恋を歌った「不死鳥」

 

 雪女との「スノー・マジック・ファンタジー」、かぐや姫がガード下で酔っぱらったりする「ムーン・ライト・ステーション」、不自由な水族館で飼われている人魚が客に恋する「マーメイド・ラプソディ」などなど。

 いずれもこの世に存在し得ない女性との恋という儚さを秘めつつ、時に激しく、時にコミカルに歌ってくれちゃいます。
 それを私はうっとりと聞くというわけ。

 近頃の日本語の乱れを嘆きつつ、子供らに人気のバンドにはまる私も少々分裂気味のようです。 

 人というもの、古きを求めつつ、現代から逃れては生きられないのだと愚かにも実感せざるを得ません。

ENTERTAINMENT (通常盤)
トイズファクトリー
トイズファクトリー

 

Tree(通常盤)
トイズファクトリー
トイズファクトリー

 ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あわただしい

2015年05月21日 | 仕事

 5月末に各種調書の締切やら会議やらが集中し、なんだかあわただしい毎日が続いています。
 7年前なら心をやられていたであろうしんどい状況ですが、なぜか私は平気です。
 なんだか人間らしい心を失ってしまったような気がします。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする