北朝鮮、またミサイルを発射しましたね。
どういうつもりなんでしょうねぇ。
これでは米国は本当に武力行使という選択肢を選ばざるを得ません。
まさかガチンコで米国と戦う気などあるとも思えませんが。
核大国幻想を抱いてしまっているんですねぇ。
もう手が付けられません。
時あたかもわが国では改憲論議が本格化しようとしています。
自衛隊を明記するんだとか。
当たり前すぎて、今まで書かれていなかったのが笑えますが、米国が憲法を作ったときは、大日本帝国の悪夢が鮮明だったため、全議員の3分の2で発議、というほとんど不可能な条文を加えてしまったのだから仕方ありません。
しかしまぁ、よくも外国人が作った憲法を後生大事にいじらずに来たものです。
西暦701年に制定され、形式上だけ、明治維新まで生きていたという、養老律令を思い出します。
わが国は古くなって時代に合わなくなった法律を、とくだん手直しもせずに放っておくのがお好きと見えます。
しかし改憲が成れば、その最大の功労者は北朝鮮のデブ、でしょうかねぇ。
日馬富士関がとうとう引退を表明しました。
暴行の問題がこれだけ騒がれれば致し方ないでしょう。
起訴されたり、引退勧告が出される前に決着を着けたということでしょうね。
貴乃花親方の頑なな態度には批判もあるようですが、私は全面的に支持します。
相撲協会の、なれ合いというか、穏便に済ませようとする態度が許せなかったのでしょう。
私事ですが、10年ほど前、職場のトップのパワーハラスメントを許せず、弁護士を立てて抗議したことを思い出します。
あの時も、職場幹部はあの手この手で、弁護士を立てることを止めさせようとし、内容証明を送りつけた後にいたっても、取り下げさせようとしました。
それはほとんど滑稽なほど。
あの慌てぶりは愉快でした。
相談した義父も、定年した先輩も口をそろえて止めたほうが良い、と言うなか、私の実父だけは、徹底的にやれ、と勇気づけてくれました。
それだけで、百人力を得た気分でしたね。
私は職場幹部の説得や、義父、先輩の言葉に耳を傾けることはしませんでした。
それは不正を正さずにおられるか、という私の信念です。
弁護士は頑張ってくれて、①公文書による謝罪、②再発防止策の制定、③和解金100万円の支払い、を勝ち取りました。
貴乃花親方、理事や巡業部長を解任されても、おのれが正しいと信じたことをやり遂げたい、という気持ちなのだと思います。
日本の社会を変えてきたのは、じつは事なかれ主義を排した、いわば変人たちです。
多くの人は、まぁまぁなぁなぁで、雰囲気に流されてことを荒立てようとしません。
それが日本社会の欠点だと思っています。
勇気ある変人こそが、社会を変えていくのだと思いますし、私も勇気ある変人でいたいと願っています。
白鳳関が40回目の優勝を飾りました。
過去に例がない、40回。
まさに無敵です。
しかし昨日の優勝インタビューはひどかったですねぇ。
相撲協会理事長でもないのに、日馬富士の暴行問題を謝罪しながら、嘉風戦の自身の相撲態度には言及せず。
挙句の果てには客に万歳三唱の強要。
万歳三唱はあり得ません。
見たことありません。
驕っているとしか思えません。
相撲の神様がどうとか、この国の魂がどうとか言っていましたが、単なる自己陶酔としか思えませんでした。
今日はナイト・シャラマン監督の「スプリット」をDVDで鑑賞しました。
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3人の女子高生が何者かに誘拐され、監禁されます。
犯人は23もの人格を持つ多重人格者。
といっても、映画では5人くらいの人格しか登場しないので、混乱に陥ることはありません。
23人は、それぞれ互いを認識しあい、全員が椅子に座って、照明があたるのを待っている、という状態。
照明があたると、人格として登場するわけです。
で、照明を支配していた人格に反抗する3人ほどの人格が、24番目の人格の登場を確信し、待ちわびています。
24番目の人格、ビーストこそ、知力・体力が人智を超える能力を持ったいわば超人。
そしてビーストが現われ、女子高生3人の運命やいかに、というお話。
元々の人格であり、長いこと眠り続けているケビンの虐待の記憶、そして3人の女子高生のなかで特別な感じがし、唯一生き残る少女の虐待の記憶が、サイド・ストーリーとして効いています。
緊張感のある映画で、魅せます。
ただ、この監督の映画は大抵そうですが、どこかあざとい感じがします。
どうだ、面白いだろう、びっくりしただろう、というような。
そのあざとさを克服したとき、とんでもない大監督に化けるかもしれませんね。
今日は週末としてはじつに久しぶりに、快晴に恵まれました。
しかも風もありません。
そこで、千葉市の泉自然公園に紅葉見物に出かけました。
今がまさに見ごろ。
じつに見事です。
池に紅葉が映える、逆さ富士ならぬ逆さ紅葉にもうっとり。
目の保養と運動不足解消に、良い一日となりました。
今日は午後6時から、日本橋三井タワー2階の櫻川という懐石の店で会食があります。
このブログで何度か紹介した、古い女友達2人との、秋の会食です。
初めて、ミシュランの星がついているお店です。
同じ建物にマンダリン・オリエンタル東京という高級ホテルが入っているので、2次会はそこのバーになるんでしょうね。
飲みすぎない程度に、旧交を暖めたいと思っています。
昨夜、青空文庫で遊んでいたら、村山槐多という作者の「悪魔の舌」という短編をみつけ、読んでみました。
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村山槐多、大正時代の画家で、詩や小説も書き、わずか22歳で夭折した、という人でした。
「悪魔の舌」、なかなかに興味深い作品でした。
なにやら楳図かずおの恐怖漫画を読むような楽しみがありました。
金子という25歳の詩人の物語です。
物語は、金子が自殺して後、友人が遺書をみつけ、その遺書に奇っ怪なことがつづられている、という構成になっています。
金子はある時を境に、何を食っても不味く、どうしたのかと思っているうちに、悪食に走ります。
悪食とは、土、ミミズ、毛虫などを食すのです。
そしてそれらは、とてつもない美味、いや、美味というより麻薬のような恍惚をもたらす食い物と感じます。
そんな食生活を続けているうちに、なぜか金子の舌にはびっしりと針が生えてしまうのです。
悪食はさらに進んで、人肉を食いたいという欲望につながります。
そしてある晩、谷中墓地で若く美しい女の死肉を喰らい、もはや止まらなくなり、ついには美少年を殺害して食すにいたりますが、その美少年の足の裏に特徴ある痣をみつけ、それは赤ん坊の頃別れた弟のものであったことに気付き、もはや人外境に堕ちたことを思い知り、自殺する、というお話。
この小説、かなり描写がグロイです。
英国のホラー作家、クライヴ・バーカーを思い起こさせます。
クライヴ・バーカーと言えば、「ヘル・バウンド・ハート」の映画化作品、「ヘル・レイザー」シリーズが有名ですね。
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クライヴ・バーカー,クライヴ・バーカー | |
キングレコード |
「ヘル・レイザー」シリーズは、グロさという意味で天下一品だと思います。
グロさ満点の外見の魔道士が登場し、究極の快楽でもある残酷行為を繰り広げるホラーの名作です。
「悪魔の舌」は、掌編といってもよい短さですが、そのグロさは「ヘル・レイザー」にも劣らないと感じました。
短くて気色悪い小説を読みたい方は是非どうぞ。
朝一番でディーラーに行き、月曜日の接触事故によるフロントバンパーの交換をお願いしました。
フロントバンパーが入荷してからの修理だということで、しばらくは連絡待ちです。
午後はホラー鑑賞。
「呪怨館」です。
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森の中の豪邸に引っ越してきた家族。
両親と子供3人です。
子供は、長女は大学生、長男は高校生、次女は小学生。
その豪邸に以前住んでいた一家は、母親一人を残して全員謎の死を遂げています。
長男は近所に住む女子高生と仲良くなります。
女子高生は家庭に問題があります。
アル中の父親と二人暮らしで、母親は赤ん坊の娘を置いて消えてしまった、との設定。
女子高生はなぜか長男の住む家に死者と交信できる古い装置があることを知っており、二人はそれで、前住んでいた者たちとの交信を行います。
それから様々な怪現象が起こり、というお話。
冬の森、豪邸、過去の謎の死、美少年と美少女の淡い恋。
道具立ては揃っているのですが、脚本が悪いのか、消化不良を起こしている感じで、退屈でした。
幽霊屋敷のお話というのはよくあるパターンですが、一ひねり欲しかったところです。
ずいぶん前に、「戦艦大和ノ最期」という戦記文学を読みました。
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鶴見 俊輔 | |
講談社 |
その作者で戦艦大和の生き残りであった吉田満と言う人が、敬虔なクリスチャンであったことを、最近知りました。
しかも、もともとはカソリック信徒であったものが、後にプロテスタントに改宗しているという変わり種。
キリスト教に入信したのは、1948年。
戦後4年くらいでしょうか。
きっかけは、信頼できる神父との出会いであったようです。
その後プロテスタントに改宗することになりますが、これは謎とされているようです。
結婚が機会になっていることは確かなようです。
というのも、妻の実家が熱心なプロテスタントだったからです。
しかし妻もその実家も、吉田満にはカソリックにとどまることを望んだと伝えられます。
節操無しみたいで嫌だったんでしょうか。
いずれにしろなぜか、プロテスタントに改宗。
推測ですが、神に祈るという行為そのものだけが重要で、儀式のやり方などが異なっていてもどっちでもよい、ならば妻と同じ宗派に、と考えたのではないでしょうか。
宗教に寛容な日本人ですから、そう考えても不思議はありません。
で、この人、戦艦大和の生き残り、という矜持と、クリスチャンであるということをバックボーンに、平和論などを執筆しています。
面白いのは、戦争は絶対悪であり、自衛だとか正義だとか、何か理屈を付けて、この戦争は正しい、ということはあり得ない、と強く主張しながら、いわゆる絶対平和主義のような運動には与しなかったことです。
戦争反対を唱え、地球市民みたいなことを言う空疎な言動からは、地道な平和への努力は生まれない、と批判しています。
戦後、平和が保たれているのは、「平和憲法に支えられたからというよりも、むしろ幸運であったと見るのが事実に近い」と、9条による平和という見方も、批判しています。
ここらへん、自らが戦争体験者だけあって、現実的ですね。
「世界は一つ」のような無国籍者のような立場で平和を論じることは無責任であり、あくまで日本人たるのアイデンティティを持たなければ、平和運動は夢想にしかならない、とも。
「自分は何をするか」の前に、「自分は何であるか」に固執すべきだ、とも言っています。
それは大和で凄惨な戦いを経験し、生き残ったからこそ言わなければならない言葉だったのでしょう。
晩年、大和の戦没者、あるいはずべての戦没者の霊に向けて、次のような言葉を吐露しています。
かれらは、もはやいない。だがかれらを生かすも殺すも、ただ俺たちの生き方にあるのだ。凄惨な苦闘の外貌に欺かれず、そこにちりばめられた、愛、価値、宿命を掘り起し、みがいてゆかねばならぬ。
生き残った元将校の言葉として、胸を打ちます。
昨夜、仕事帰り、車で接触事故を起こしてしまいました。
幸い、私の車も相手の車も少し擦り傷を負った程度で、お互い怪我もありませんが、相手がいる事故はへこみますねぇ。
これからは互いの保険会社がよろしくやってくれるそうですが、こういうことはほとんど経験がないので、落ち込みます。
バンパーだけの軽い擦り傷なので、自損だったらタッチペンで自分で塗るだけかもしれませんが、事故の状況の証拠になる、と保険会社が言うので、ディーラーに近々持ち込まなければなりません。
あぁ、落ち込みます。
先週、義父が80歳になりました。
大手電機メーカーで技術屋として65歳まで働き、その後は年金生活をおくっています。
毎日2時間の散歩を欠かさない、元気なおじいちゃんです。
まぁ、今どき、元気な80歳なんて珍しくもないのでしょうけれど。
それにしても、少子高齢化はどこまで進むのでしょうね。
このままではわが国は衰退してしまいます。
しかし、かつて老人を山に捨てる、姥捨という風習があったと言います。
誠に怖ろしいことですが、ある意味合理的な選択であったのかもしれません。
姥捨て伝説を描いた深沢七郎の名作「楢山節考」は木下惠介監督によって映画化されました。
雪山に一人座り、合掌する老婆と、それを見ながら悲哀に沈む中年の息子の姿が印象的でした。
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能の「姨捨」では、中秋の名月の晩、姨捨山にやってきた旅人が、かつて捨てられた老女の幽霊から事の次第を聞き、老女は美しい舞を舞います。
一般に能では、恨みを残して死んだ霊が現れ、美しい舞を見せ、旅の僧が念仏を唱え、成仏する、というのが、一種の型のようになっています。
しかし「姨捨」では、老女の霊の相手をするのは旅の僧ではなく、ただの旅人。
ゆえに老女の霊は成仏できず、一人取り残され、中秋の名月の晩だけこの世に現れる、というループのような結末になっています。
最後の地謡では、ひとり捨てられて老女が、昔こそあらめ今もまた、姨捨山とぞなりにける、姨捨山となりにけり、と謡われ、悲哀に満ちた、しかしだからこそ美しい舞台芸術に仕上がっています。
「古今和歌集」にみられる、わが心 なぐさめかねつ 更科や 姨捨山に 照る月を見て、という読み人知らずの短歌がモチーフになっていると言われます。
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そうかと思うと、山に捨てられた老女たちが山中深く共同体を作って生き残り、自分たちを捨てた村人へ復讐を画策する、という痛快なのか悲しいのかよく分からない映画が製作されています。
「デンデラ」という映画です。
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実際、姥捨ての実態は、能に見られるような、悲しくも美しい、というものではなかったでしょう。
生きている人間を、死ねとばかりに捨てるわけですから。
婉曲的な殺人と言ってよいでしょうね。
残酷な行為です。
現代、山に捨てるという行為はさすがにありませんが、孤独死、養護施設での虐待死などのニュースは珍しくもない事態になりました。
また、山に捨てるのと真逆でありながら、じつは似ていると思うのは、どんな状況になっても安楽死を認めず、何が何でも生かし続ける、というわが国の医療にも、疑問を感じます。
私が高齢者になる頃、わが国は年寄であふれかえっていることでしょう。
安楽な老後など、望むべくもないのかもしれません。
山に捨てられないだけマシだと思う他ない、というのは、不幸なことだと思います。
わが国が知恵ある政策によって、この必ず訪れる危機を、乗り越えてほしいものだと切に願ってやみません。
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土日としては久しぶりに好天に恵まれました。
遠出するには寒かったので、近所の公園に、わずかにある銀杏や紅葉を観に出かけました。
もうすっかり晩秋。
わけもなく、気が焦ります。
午前中は眼科。
半年に一度の視野検査でした。
毎日2種類の点眼薬のおかげか、眼圧も下がり、緑内障はあまり進行していない、とのことでした。
緑内障は白内障と異なり、欠けた視野が戻ることはなく、視野の欠損の進行を止めることが唯一の治療です、
でも今のところ日常生活に支障は無いのでよかったとしなければなりません。
私の体も48年物。
メンテナンスしなければ、色々とガタがくるのは当然でしょう。
その後内科に。
家族性の高コレステロール症の治療薬をもらうためです。
寒くなってきたせいか、内科はひどく混んでいました。
夕方は月に一度の精神科の診察。
自覚的には精神障害は完治していると思っていますが、それも薬を飲み続けてのこと。
再発防止のためにも、薬は欠かせません。
緑内障、高コレステロール、双極性障害。
この三つは一生のお付き合い。
服薬治療を怠らなければ、大事にはいたりますまい。
共済短期という項目を毎月天引きされ、これが医療費になっています。
これがなければ、医療費は10割負担になり、私は破産してしまうところですが、これのおかげで助かっています。
若い頃は払い損だと思っていましたが、今や元を取れそうな勢いです。
病気で良いわけはありませんが、国民皆保険の日本に生まれたのは良かったと、つくづく思います。
昨夜は当代随一のストーリーテラー、湊かなえの「夜行観覧車」を一気に読みました。
夜行観覧車 (双葉文庫) | |
湊 かなえ | |
双葉社 |
ある地方都市の高級住宅地。
そこでエリート医師が妻に殺害されることから起こる、騒動を描いています。
母が殺人犯に、父が被害者となり、大学生の長男、高校生の長女、末っ子の男子中学生は途方にくれます。
そしてお向かいに住む両親と女子中学生の3人家族と、近所に住む老婆がからんで、物語はドロドロになって展開します。
広大なお屋敷が連なる高級住宅地にあって、お向かいは普通のサイズ。
高級住宅地に住むことに憧れた母親が無理に夫と娘を説得して建てた家で、母親にとっては家がすべて。
中学生の娘は私立中学の受験に失敗したことから、住宅地の住人にバカにされているように感じ、ひどい癇癪持ちになり、週に何度も家庭内で大暴れ。
老婆は老婆で、古くから高級住宅地に住む矜持からか、まわりに干渉します。
隣の芝は青く見える、と申します。
この小説には、嫉妬や怒りなどの感情がごちゃごちゃに詰め込まれ、いやぁな感じが漂います。
謎解きとか本格ミステリーとかいったものではなく、家族や近所のいやぁな感じを描いた作品です。
湊かなえという作家、後味の悪い、いやぁな感じを書かせたら右に出るものはいません。
ただ、ラストがなんだか呆気なくて、そこが物足りない部分として残りました。
今日は好天に恵まれましたが、北風が吹いて寒い一日でした。
事務室の中は暖房が効いて快適でしたが、タバコを吸おうと外に出ると、風がひどく冷たく感じられました。
すっかり晩秋ですねぇ。
そして、もうじき、冬がやってきます。
冬というのは、どこか死を感じさせます。
死と言えば、光源氏の生涯を思い起こします。
前半の華やかな女性遍歴から一転して、ついには出家。
光源氏亡き後も、物語は続きます。
多くの女性と浮名を流し、不遇な時代もあったものの、後に大きな権勢を誇りながら、晩年は最愛の妻、紫の上の死を悲しみ、出家して隠遁してしまいます。
思えば光源氏という人、多くの近しい人を失っています。
母である桐壷更衣、桐壷の母(源氏の祖母)、恋人である夕顔、最初の妻、葵の上、父である桐壷院、父帝の妻でありながら密通を交わし、源氏の子を産む藤壺、やたら嫉妬深い六条御息所、恋敵と言うべき柏木、最愛にして最後の妻、紫の上。
光源氏にとって最初に経験したのが、母、桐壷更衣の死。
この時光源氏、わずか3歳。
人の死がどういうものか分からず、周囲の異様な雰囲気を察し、あやし、と感じます。
要するに、変だ、妙だ、と感じているわけです。
次が、6歳の時、祖母の死。
皇子六つになりたまふ年なれば、このたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ。
と表現されています。
死の意味がなんとなく分かって、恋しがっているわけです。
そして17歳の時、互いの素性を明かさぬまま、男女の関係になった恋人、夕顔の死。
あが君、生き出でたまへ、と嘆きながら、言はむ方なし、と諦めの境地に陥っています。
この諦めが、死を本当に理解した、ということでしょう。
あやし、とも思わず、恋ひもせず。
それでも、生き返ってくれ、と嘆いているあたりが、若さというか、哀れを誘います。
そして、最後に、プレイボーイであった光源氏が一途に愛した紫の上の死にあい、彼は出家します。
人の死に際して、その死を受容していく様が、年齢によって変わっていくことが、端的に表されているように思います。
私が初めて身近な人を失ったのは、14歳の時、母方の祖母でした。
ただ、母方の祖母は長崎に住んでいたため、数えるほどしか会ったことはありません。
そのため、深い感慨を覚えることもありませんでした。
次が、26歳の時、父方の祖母。
こちらは私が25歳で一人暮らしを始めるまで同居していたので、ショックを受けはしましたが、長く患っていたせいか、悲しみよりも、楽になってよかったね、と言った思いを覚えました。
その後職場の同僚を何人か亡くし、その都度ショックを受けましたが、なんといても最大のショックは、42歳の時に父が亡くなったことでしょうねぇ。
もともとお父ちゃん子だったのか、その後1年間で体重が24キロ落ちた時は、自らの命も危機にさらされているように感じました。
しかしいずれの死も、私にとって悲しかったりショックであったりしても、結局は受け入れる他ない、言はむ方なし、というものでした。
光源氏のように幼い頃に身近な人の死を経験していないので、当たり前ではありましょうが。
最近、死生学とか、終活とかいうことが流行りのようになっています。
あまり小難しいことは考えず、古典文学から、死の受容を学ぶということも有意義なのではないかと考えているこの頃です。
源氏物語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) | |
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横綱、日馬富士が貴乃花部屋の貴の岩に頭をビール瓶で殴り、怪我を負わせたとして、貴乃花親方は警察に被害届をだした、というニュースが飛び込んできました。
何年前でしたか、親方が若い弟子をビール瓶で殴るなどの暴行を加え、死亡させた事件がありましたね。
力士というくらいで、力は常人とは異なり、とてつもないものだと思います。
しかも相撲協会の顔というべき横綱が、そんなことをするなんてねぇ。
日馬富士と言えば、白鳳とは異なり、土俵上でも礼儀正しく、真面目な印象でした。
相撲という特殊な世界では暴力が容認されているんでしょうか?
被害届をだし、これを問題化した貴乃花親方の判断は正しかったと思います。
大相撲ファンの一人として、これを日馬富士個人の問題に矮小化することなく、角界全体の問題として猛省してほしいものだと思います。