早いもので2月も今日で終わり。
今年も2か月が過ぎたんですねぇ。
3月に入ると、年度末の怒涛の日々が始まります。
気が重いですねぇ。
あと一か月働くと、ちょうど25年働いたことになります。
間に病気休職していた時期はありますが。
最近、気力・体力の衰えを感じます。
こんなんで定年まで持つんでしょうか?
不安です。
午後はDVD鑑賞を楽しみました。
「罪の余白」というサスペンスを観ました。
娘が女子高のベランダから転落死したのをきっかけに、心理学者の父親が娘の日記を発見し、娘はイジメで追い詰められて死んだのだと思い、女子高生と対決する、というお話。
悪魔のような女子高生が登場する、という触れ込みですが、それほど悪魔的ではありません。
悪魔のような美少女というモチーフは魅力的らしく、多用されますが、この映画の美少女、それほど美しくありません。
そこがまずはマイナスポイント。
暴走する父親が、ちっとも心理学者に見えません。
粗暴なアル中、といった感じ。
ただ、不思議と、2時間が短く感じられました。
構成がスリリングなんでしょうねぇ。
レンタルで観るのにちょうどよいかもしれません。
罪の余白 [DVD] | |
内野聖陽,吉本実憂 | |
Happinet(SB)(D) |
今日は休暇を取りました。
一番の目的は、障害者自立支援の更新。
これのおかげで、精神科はクリニックも薬局も1割負担で済んでいます。
朝9時ちょうどに千葉市若葉区の保健福祉センターに行ってきました。
我が家から徒歩10分ほどです。
用事はすぐに済んで、洗車をしました。
だいぶ汚れていたので。
その後、昨日の夜から読み始めた「蘇生」という小説を読了しました。
蘇生 | |
五十嵐 貴久 | |
PHP研究所 |
小学校5年生の時に福島で被災した少年少女たちが15歳になって、両親を震災で亡くして北海道の親戚に預けられた元同級生が、稚内の岬から海に飛び込んで自殺したことを知り、当時の仲間、男女5人が当時の担任に連れられて岬に慰霊に行き、しかし帰りに、岬に繋がるぼろい橋が落ちて、過酷なサバイバルを余儀なくされる、というお話。
岬から町までは150キロもあり、しかもほとんど車が通らないとあって、少年少女たちは、直線距離で40キロの森を抜けていこうとします。
道に迷ったり、野犬に襲われたり。
水も食料も無いなか、さんざん苦労します。
しかしこれは、単なる過酷なサバイバルの物語ではありません。
その過酷さのなかで、それぞれが、3年半前の震災を追体験し、それぞれに複雑な境遇、辛い胸のうちを語り合うのです。
小説としての完成度という意味では、優れた作品とは言えないでしょう。
しかし東日本大震災の、ある面の真実を突いていて、深く胸に残ります。
印象深い物語ではありました。
今日は我が家でホラー大会。
本日2本目のDVDは、和製ホラー、「テラー・オブ・ハウス」です。
男女6人の共同生活を記録したとあるテレビ番組「テラーオブハウス」。
彼らはみんな、自ら"志望"している夢を叶えるために、このルームシェアをしています。
卓哉は曲を作り、智子はオーディションの日々。
そして、由佳里は漫画を描き続けています。
そんなある日、新メンバーの野々村美咲がやってきます。
美咲もまた、女優"志望"であり、恋や夢を語り合うその生活に憧れてやって来たのです。
しかし、実際に出演してみると、何かがおかしい事に気がつきます。
夜な夜な響きわたる、不気味なノック。
窓に浮かび上がる、謎の女性と、血の手形。
感電しても死なない卓哉に、怪我をしてもすぐに治る由佳里。
不細工なのか、腐っているのかよくわからない篤郎の顔面。
それはあまりに、テレビで見ていた世界とはかけ離れていたのです。
そして、美咲は、とある仮説を立てるのだった。
「もしかして、みんな、"死亡"してない?」
最初は明るい青春群像劇のようにして始まり、徐々に不気味さが加速していきます。
なかなか魅せる演出です。
そして、じつに分かりやすい結末。
すべての伏線が、ラストにいたって結びつきます。
一種のカタルシスさえ感じます。
役者の芝居がちょっと下手なのもご愛嬌に見えます。
テラーオブハウス [DVD] | |
池田光咲,山崎真美,小西キス,岡安旅人,小川紘司 | |
SDP |
朝っぱらからエロティック・ホラーを観てしまいました。
「レッド・インフェルノ」です。
森の中の一軒家に住む女同士のカップル。
彼女たちは男を引っ張り込んではセックスを楽しみ、挙句、生血をすすり、生肉を食らう殺人鬼です。
女を引っ張り込んだときはセックス抜きで生血、生肉を楽しみます。
彼女たちはかつてハンガリーで実在し、多くの快楽殺人を犯し、処女の生血の風呂に入ることを好んだという、血の伯爵夫人、エリザベート・バートリの子孫を自称しています。
題材は良いのでしょうが、少々退屈です。
雰囲気重視というか、恐怖シーンが幻想的で美的に過ぎ、恐怖を感じません。
かといって、幻想的で美的と呼ぶべきシーンも、どうだ、美しいだろ、幻想的だろ、と押し付けられているようで、楽しめません。
残念な作品に仕上がってしまったと言わざるをえません。
レッド・インフェルノ [DVD] | |
ビクター・マテラーノ | |
アルバトロス |
春の陽気に誘われて、外出したくなりました。
どこに行こうかなと考えて、そういえば東京スカイツリーの展望階に上ったことがないことを思い出し、車を一路、押上のコインパ-キングに向けて走らせました。
開業間もない頃、東京スカイツリーに出かけ、展望階に上るのに4時間待ちと言われて断念したのは何年前でしたか。
今日は30分待ちということでしたので、上ることにしました。
晴れているとはいっても、快晴ではなく、雲が多かったので、景色はもう一つでしたが、それでも450メートルの高さから眺める東京の町は圧巻でした。
関東平野、と言いますが、本当に平たい町です。
すぐ近くのアサヒビール本社ビルが、はるか下に見えました。
東京ドームから、はるか新宿のビル群も見えます。
一部ですが、ガラスの床になっている場所があって、上に乗ってみると縮み上がるほど怖ろしかったですねぇ。
少し人ごみに疲れて東京スカイツリーを離れすぐ近くの親水公園を散策。
河津桜が一本、孤高の面持ちで咲いていました。
見事です。
もう春なんですねぇ。
北国の人のような気持ちで春を待ちわびているわけではないですが、しつこい寒さには辟易です。
これからもしばらくは三寒四温の日々が続くでしょう。
早く安定して暖かくなってほしいものです。
昨夜、貫井徳郎の「愚行録」を一気に読みました。
愚行録 (創元推理文庫) | |
貫井 徳郎 | |
東京創元社 |
読んでから知ったのですが、映画化されて、今、上映されているんだそうですね。
でも映像化が難しそうな小説でした。
都内で夫婦と幼い子供二人の一家4人が惨殺されるという事件が起きます。
捜査は行き詰っています。
あるライターが、殺された夫婦の知り合いを次々に訪ね、インタビューをするという形式で物語は進みます。
同僚、大学時代の友人などなど。
で、ハンサムでエリートサラリーマンの夫と、美人で賢い妻という、絵に描いたような理想の二人の人物像が、少しづつ、壊れていきます。
そしてなぜかところどころにはさまれる、妹が兄に語りかける場面。
暴力を振るう両親に育てられ、ゆがんでしまった妹の独白が不気味ですが、物語の結末にいたるまで、この独白と数々のインタビューがどう絡むのか明らかにされません。
愚行というのは、当初、殺された夫婦の若かりし頃のちょっとした意地悪や悪を指すのかと思わせますが、そんなはずもありません。
どんな境遇に育っても、人は誰でも愚行をおかさずにいられないのだと、物語の終盤に気付かされます。
いや、愚行の連続こそ、人生そのものなのかもしれません。
この小説をミステリーとして読むと、物足りないかもしれません。
ミステリーらしい拵えになっていませんから。
しかし人間の愚、人間の弱さを描いた文学作品として読めば、なかなかに趣き深いといえそうです。
時間があったら映画も見てみようかなと、思いました。
今週はなんだか早かったですねぇ。
それというのも、月曜日は都内某大学で勉強会、木曜日は上級官庁との打ち合わせのため、都内に出かけ、職場には火水金の3日しか通わなかったせいでしょう。
月曜日も木曜日も直行直帰しましたので。
こんなことをしているうちに、もう2月も終わろうとしています。
3月は年度末。
なんとなく、憂鬱で、気が急く月です。
もうじき就職25年になるベテランの私でも、3月は苦手です。
ここを乗り切らなければいけませんねぇ。
昨夜、NHKの番組で、オルト・ライトなる言葉を知りました。
平たく言えば、米国による白人至上主義運動のようです。
その昔はKKK(クー・クラックス・クラン)とかいう不気味な団体がいましたね。
なんだか時代錯誤のような感じがしますが、ご当人たちはいたって真面目。
リーダーのスペンサーなる人物、おのれが人種差別主義者であることを公言して憚りません。
黒人大統領だったオバマから、白人で、なんとなく人種差別的な匂いがするトランプに代わってから、にわかに勢いづいたようです。
おバカさんですねぇ。
そんなこと今どき主張したって、虚しいかぎりでしょうに。
本音はともかく、建て前というものがあり、現代の建て前は人種差別は許されない、というものです。
陸上短距離やバスケットボールは黒人が強いとか、体操なんかは日本人や中国人が強いなどの、人種的特徴はあるんでしょう。
しかしそのことと、差別ということは、決して一致することはありません。
ヒスパニックでしょうか、「マイノリティの権利をどう考えているのか」と問われ、くだんのスペンサー、「マイノリティに生まれるのは大変だ。だから自分はマイノリティにはなりたくない」と、皮肉たっぷりに答えていました。
戦時中、日系米国人は収容所送りになりました。
しかし米国の優れたところは、その後40数年も経ってから、日系米国人収容は誤りであったと認め、謝罪したことです。
そういう懐が深いところが米国の魅力であったはずなのに。
スペンサーとかいう人、有色人種は国へ帰れ、みたいなことを言っていましたが、当の白人だって、何世代か前にヨーロッパ等からアメリカ大陸に移民してきた侵略者の末裔ではないですか。
米大陸の本来の居住者は、かつてインディアンと呼ばれ、最近ではネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々です。
もともと有色人種の土地です。
白人こそ、先祖の国にお帰りになったら如何でしょうか。
昨夜は芥川賞受賞作「コンビニ人間」を読みました。
単行本で150ページほどの中篇ですので、1時間ほどで読めました。
コンビニ人間 | |
村田 沙耶香 | |
文藝春秋 |
36歳、独身、コンビニ店員歴18年、恋愛経験なし、したがって処女の女の物語です。
この女、子供の頃から少しずれています。
公園で小鳥が死んでいるのを見つけて、他の子供たちは泣きながらお墓を作ろう、と言うのに対し、真面目に、お父さん、焼き鳥が好きだから焼いて食べようなんて主張して、母親にたしめられて「せっかく死んでいるのに」なんてつぶやいてみたり。
小学校で男の子同士が喧嘩を始めて、止めなければ、と思って、スコップで思いっきり男の子をぶん殴ったり。
普通と違う、一風変わった子、と評価されてしまいます。
しかし、コンビニ店員である間は、マニュアルどおりに、しかも明るく元気にしていれば、「コンビニ店員の普通」、でいられて、社会から受け入れられている、と感じることができるのです。
夢の中でもレジを打つほど、コンビニ店員であることにどっぷりとはまっています。
しかし親や友人は、なぜいい年をして結婚も就職もしないのか、と彼女を責めるのです。
コンビニに30代半ばの、やはり独身で普通に収まらない男が新人として働き始めたことで、彼女の生活に変化が訪れ、コンビニを辞めて就職しようとしますが、自分はコンビニ人間以外の何者でもないのだと気づき、またコンビニ店員に戻る、というお話。
あっさり描かれていますが、これはわが国近代文学の伝統に沿った内容であろうと思います。
太宰治の「人間失格」など、普通じゃない自分と、世間との葛藤に悩む、という。
人間失格 (角川文庫) | |
梅 佳代 | |
KADOKAWA/角川書店 |
耽美主義の大家、谷崎潤一郎でさえ、「異端者の悲しみ」という小説を残しています。
現代日本の文学 (7)少年 神童 異端者の悲しみ 母を恋うる記 吉野葛 蘆刈 春琴抄 少将滋幹の母 夢の浮橋 | |
足立 巻一 | |
学研 |
古典文学ではあまり掘り下げられることの無い、社会と個人との葛藤を描いた物語です。
普通の生き方とか、当たり前の幸せとか、小市民的幸福とか、そういうものと、そうでない生き方の線引きはどこでなされるのでしょうね。
歌手とか芸能人とか、あまりにぶっ飛んでいる場合、普通ではないことが当たり前とされますが、そういう世界で成功する人はほんの一握りで、圧倒的多数の凡人は、学校を出たら就職し、適当な年齢になったら結婚して子供をもうけるのが当たり前とされています。
そこからはみ出すものは、不気味な存在であるかのような扱いを受ける始末。
だからこそ、この小説はどこか不気味なのかもしれません。
この小説は、世間的な普通と、そういう生き方ができない存在とが、共存することの難しさを感じさせてくれます。
しかし、晩婚化・未婚化の現代、もしかしたら普通の概念も変わってくるかもしれませんね。
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今日はひどい風でしたねぇ。
今日は午後から都内某大学の講堂で、科学研究費助成事業に関する説明会がありました。
午前中だけ出勤するのも億劫なので、午前中は半日の休暇を取りました。
説明会、退屈でうとうとしてしまいました。
私の担当業務なんですがねぇ。
17時近くに終わって、18時には帰宅できました。
朝は10時近くまで寝ていたので、今日は体が楽です。
節酒生活を始めて4週間目。
月曜日は4週連続で休肝日。
食事をしてしまえば飲む気が失せるので、帰宅するなり近所の蕎麦屋で鴨南そばの夕食を摂ってしまいました。
あれほど毎日毎日飲んでいたのが、ここのところ、週の半分は休肝日です。
何事も慣れですねぇ。
心配なのは、酒を飲む気がなくなるようにするため、しっかり夕食を摂るようになって、太ってしまうのではないかということ。
飲むとつまむだけで炭水化物は摂らないので、太ること必定のような気がします。
でも、少々太っても、今は酒を空けることを優先事項にしなければなりますまい。
今日は晴れていましたが、北風が強かったため、終日自宅にこもり、小説を読んで過ごしました。
読んだのは、平野啓一郎の「顔のない裸体たち」です。
顔のない裸体たち (新潮文庫) | |
平野 啓一郎 | |
新潮社 |
小説には、一人称、三人称の文体が多く、二人称もごくまれにあります。
三人称の場合、作者が全体を俯瞰する、神の目線で描かれることが多いですが、この作品は、一種のフェイク・ドキュメンタリーの形を取っており、ジャーナリストが語る、ということになっていたため、神の目線は取られていません。
それが小説に真実味を与えているかは、ちょっと判断しかねるところです。
小学校から高校までイジメにあっていた市役所職員の片原と、中学教師で平凡な思春期を送った希美子が出会い系サイトで出会い、激しい性交を重ね、ついには野外露出、さらに動画をインターネットの動画サイトに投稿するなど、性的逸脱とも言うべき行為に走り、ある小学校でこっそり野外露出の動画を撮影中に教師らにみつかり、片原は持っていたジャックナイフで教師らを刺し、怪我を負わせるまでの経過が、淡々とつづられます。
これはおそらく、性を描いた文学ではなく、世間が認知する自分と、本当の自分(そんなものがあるとすれば)、さらには性欲に没頭する自分など、人格の乖離を切り取ってみせたものかと思います。
しかしそれが成功しているとは言いがたいのもまた事実です。
平野啓一郎というビッグネームでなければ、この作品は評価されなかったのではないか、と思わせるような、破綻を感じさせます。
それでも、文庫本で180ページあまりと短いこと、この作者にしては表現が難解ではないことなどのせいか、一気に読んでしまいました。
読ませる力はさすがに平野啓一郎です。
私は15年ほど前疲れ目がひどくて眼科を受診し、その際、思いがけず緑内障の初期症状であると診断され、以来、眼圧を下げる目薬を打ち続けています。
半年に一度視野検査を受け、幸いにも症状はあまり進行していませんでした。
今日、視野検査を受け、結果、左目の視野の一部が欠損していることが分かり、目薬が1種類から2種類に増えました。
右目は全く問題ないため、日常生活では気づきませんでしたが確かに、右目をつぶって左目だけで見ようとすると、目の真ん中あたりに黒い筋があって、よく見えないことに気づきました。
緑内障は視野が戻ることはなく、症状を遅らせることしか、治療方法はないはずです。
症状は少しづつ進行するため、多くの人はかなり視野が欠けるまで気づかないそうです。
そういう意味では、疲れ目程度で眼科を受診した私は幸いだったと言えましょう。
昨年は頚椎椎間板ヘルニアで右腕のしびれと首から肩にかけての痛みに悩まされ、半年ほどリハビリに通って、ほぼ治癒しました。
肝臓の数値が悪化し、医師から節酒を命じられ、基本的に週末しか飲まないようにしました。
あれほど毎日飲んでいたのだから当然と言えるでしょう。
程度の差はあれ、40代後半ともなればどこかにガタが来るのがむしろ普通なんでしょうね。
これからはだましだまし、衰え行く肉体と付き合うほかありません。
若い男は落とした女の数を自慢し、中年は家族の自慢をし、老境に至って病気自慢をする、とか言いますね。
私も病気自慢をする年になったのでしょうか。
それならむしろ、そこまで生きられたことを寿ぎたいと感謝しています。
広島の被爆者を父母に持つ「被爆2世」の男女22人が17日、「放射線被害の遺伝の危険性があるのに被爆者援護法の対象外にされているのは不当」として、国に1人10万円の慰謝料を求め、広島地裁に提訴したそうです。
被爆2世による訴訟は初めてだとか。
長崎で被爆した親を持つ被爆2世25人も20日、同様の訴訟を長崎地裁に起こす予定だそうです。
うーん、複雑な心境ですねぇ。
私自身、母親が長崎で被爆した被爆2世なので。
今のところ、被爆2世への遺伝的な影響は証明されていないそうですし、がんになりやすいという話は聞いたことがありますが、がん患者はわが国にあまたおり、被爆2世であることとの因果関係を証明するのは事実上不可能なのではないかという気がします。
ベトナム戦争で米軍が使用した枯葉剤というのは、明らかに遺伝的影響があるそうですが、原爆の場合、差別を受けた精神的打撃とかいうのなら分かりますが、健康上のリスクが高いという話は寡聞にして知りません。
誤解を恐れずに言えば、原爆被害者は戦争犠牲者のなかで特別扱いを受けているような気がします。
被爆から何十年経っても、被爆者健康手帳というのが交付されて、様々な恩恵を受けていますし、亡くなれば、広島・長崎それぞれの平和公園にその名が奉納されます。
通常爆弾で死ぬのも、原爆で死ぬのも、もっと言えば戦中・戦後の混乱で体調を崩して死ぬのも、同じ戦争の被害者だと思うのですが。
そういう意味で、被爆すらしていない被爆2世が被害者面して騒ぎ立てるのは、同じ被爆2世としては納得がいきません。
長い一日。
長い一週間。
切ないばかりに短い週末。
これらを積み重ねて、人々は生きています。
生きるということの意味を問う暇もなく。
それは絶望に至る道なのでしょうか。
美的な存在・倫理的な存在・宗教的な存在。
キリスト教を深く信仰した哲学者キルケゴールは、人間の在り様をざっくり上の三つに分類しました。
私は西洋哲学には疎く、正確な理解ではないと思いますが、一時期、西洋哲学の書物を読み漁ったことがあり、その時のおぼろな記憶では、そんなようなことだったと思います。
多くの凡人は、美的な生き方に甘んじているものと思われます。
美的というと何やら高尚な感じがしますが、要は酒を飲んだりパチンコに興じたりする、平凡な生き方と考えれば分かりやすいでしょう。
かくいう私もそうです。
そこから一歩進んで、倫理的な存在があります。おのれの良心に従って、あれかこれかを選択する、意識の高い生き方です。
しかしキルケゴールは、美的な存在も、倫理的な存在も、やがて絶望=死に至る病の淵に立たされるだろうと予言しています。
死に至る病 (岩波文庫) | |
斎藤 信治 | |
岩波書店 |
美的存在は虚無や不安などに襲われ、倫理的存在は自己の有限性に見舞われる、というのです。
で、宗教的存在として、単独の人間として、神の前に立つことこそ、絶望から逃れる道だ、というわけです。
そして、普遍的真理というものを疑い、自分だけの真理を求めるべきだと説き、絶対者としての神と結びついた時、人間の主体性が発揮され、自分一人の真理にたどり着くことができる、と考えたようです。
しかしわが国は多神教の国で、神社に詣でたり寺に参拝に行ったりするのが普通ですから、単独者として神の前に立つ、と言われても、戸惑うばかりです。
一方ニーチェは、キリスト教道徳を奴隷の道徳として、神は死んだ、という有名な言葉を残します。
キリスト教から解放され、力への意志に燃える人間となって、新しい価値観を創造する人=超人となることをこそ求めます。
ニーチェは現実世界を、何の目的もなく、意味もない、永遠の繰り返し=永劫回帰に過ぎないと考え、そのようなニヒリズムから脱するには、神なき世界を超人となって生きるほかない、と考えました。
ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫) | |
Friedrich Wilhelm Nietzsche,佐々木 中 | |
河出書房新社 |
超訳 ニーチェの言葉 | |
白取 春彦 | |
ディスカヴァー・トゥエンティワン |
まんがでわかるニーチェ (まんがでわかるシリーズ) | |
白取 春彦,nev | |
宝島社 |
キルケゴールもニーチェも普遍的真理を求めたヘーゲル批判から出発し、正反対のようでいてじつはよく似た境地に達しました。
神と結びつき、自分だけの真理を求めるキルケゴール。
神を捨て、己を限りなく高め、超人となって主体的に生きることを求めたニーチェ。
神に対する態度は正反対ですが、求めている境地はよく似ています。
現代哲学はもっと複雑になっているようですが、多くの旧制高校のエリートたちは、これら超人なり、自分だけの真理なりといった考え方に心酔したやに聞き及びます。
これら実存主義と呼ばれる哲学の影響とは思っていませんが、私はかつてこのブログで、仏教や神道や各種思想のおいしいとこ取りをした、私が教祖で信者はいない、とびお教としか言いようがないものを信じている、と書きました。
それはもしかしたら、自分だけの真理、あるいは超人を志向する態度と似ているのかもしれません。
そんなことを夢想しながら、私は酒や物語に逃避する、美的存在でしかありません。
いつか私も発心を起こし、悟りを求めて激しい精神的運動に入る時がくるのでしょうか。
しかしその時も、仏教という主を持っていては、私だけの真理に到達することも出来ず、超人になることもできないような気がします。
やはり私は、先人の思想や宗教に頼ることなく、私の魂の深淵を覗き込み、そこから私にだけ重要なものを発見するしかなさそうです。
そんな面倒な作業を行う力がまだ残っていたら、の話ですが。