今日は成人の日なのですね。
コロナのために式典を中止する自治体もあったとか。
新成人の皆様にはお気の毒です。
由来は、かつて元服の儀を行う日だったからだそうです。
もっとも、昔の元服は数えで15歳と言いますから、今でいえば中学生。
ほんの子供だったのですね。
数年前まで、大人になったことを祝うはずの式典で、自ら子供であると主張するような、蛮行が流行っていました。
首長の挨拶を妨害したり、大酒をくらって安い着物姿で町を練り歩いたり。
それは新成人のほんの一部でしょうが、目立つので、みんながみんなそうであるような錯覚を覚えました。
特に沖縄は酷くて、中学時代の仲間が同じ着物を着て、別の着物を着た=べつの中学の同級生といざこざを起こしたり。
しかしもう子供だとは認められないお馬鹿さんたちは逮捕されて実名で報道されたりして、やっと成人たるの自覚を持ったことでしょう。
あれは高知県だったでしょうか。
逮捕された倅たちを、未熟な者が行ったことゆえ、許してほしい、と親が何組も市庁舎に嘆願に行き、当然ながら拒否される、というニュースを見て、溜飲が下がったことを思い出します。
それが大人になるということです。
少年院ではなく、刑務所に入れられるということ。
少年院は更生を主たる目的としますが、刑務所は更生以上に、罰を与える 場。
振り返ってみると、新成人を迎えた時、私は大学生でした。
男子大学生で成人式に出席する者は、ごくわずかでした。
女子大生は振袖が着たいのか、わりと出席したようです。
もちろん私は出席しませんでした。
本来の成人の日は20歳の誕生日であるはずで、学年暦で成人の日を祝うのは奇妙だと思ったからです。
そしてまた、20歳という年頃は、人生で最も美しい時。
その眩さに、中年のおじさんは自身の若い頃を省みて、自分は成人してから30年以上、何事も為さなかったのではないかと、後悔の念に駆られます。
その子二十(はたち) 櫛に流るる黒髪の おごりの春の 美しきかな
「みだれ髪」に見られる与謝野晶子の短歌です。
二十歳を迎えた女性が黒髪を梳く青春の美しさを賛美したものと思われます。
男も女も、誰もが二十歳の頃は美しい。
見た目だけではなく、無限に広がる将来への希望に燃える姿が美しい。
そして多くの新成人は、年を経るごとに、少しづつ諦めることを覚え、疲れた中年になり、さらには老人へと衰えていくのでしょう。
「泥棒日記」で有名なフランスの作家、ジャン・ジュネは同性愛者でしたが、若いころは大層な美少年で、多くの大人の男性に可愛がられたそうですが、老いて後は、美少年を可愛がることしか出来なくなった、可愛がられていた昔が懐かしい、というような意味のことを書き記しています。
若さは永遠ではないことを痛感したのでしょうね。
思い返してみると、私も20代の頃は、年上の男性からも女性からも、可愛がられたというか、おちょくられていたというか、とにかくちょっかいをだされました。
その時は面倒くさいと思っただけだけでしたが、今思うと、それも輝かしい思い出です。
新成人の皆様には、夢をあきらめるな的は、陳腐な言葉を贈る気はさらさらありません。
夢が叶わないと知った時、平凡でもまっとうな社会人として生きることを目指してほしいと思います。
夢や野望というもの、ほとんどの人は叶わないのですから。