年末年始の長い休暇、夢をみているように楽しく過ごしています。
1月4日への恐怖は、まだわいてきません。
夢と言えば、沢庵禅師の禅語を思い出します。
是(ぜ)も亦夢(またゆめ) 非(ひ)も亦夢(またゆめ)
色々と解釈できると思いますが、是とか非とかの相対的な知識や判断の境地、といったところでしょうか。
是も非も夢ならば、人生そのものが夢ととらえられるかもしれません。
沢庵禅師は夢に託して人生を歩むことを好んだようで、夢百首という歌集を残しています。
また、道元禅師は、
本末(もとすえ)も みな偽りの つくも髪 思い乱るる 夢をこそ説け
という短歌を残しています。
沢庵禅師にしても道元禅師にしても、夢と言う言葉に、二つの意味を見出しているように思えます。
一つは睡眠中にみる夢。
一つは夢から醒めたのちに見る夢。
例えば修行僧でいえば、さとりを開くことに執着し、夢の中でさとりを開こうとするのが第一の夢。
修行僧が夢から醒め、夢には実態がないように、この世界に存在するらしいものは、すべて実相がないと実感できる境地が第二の夢。
第一の夢では執着を、第二の夢では執着を離れた境地と言えば分かりやすいでしょうか。
坊主の世界でも、禅坊主は特に分かりにくい、難解な物言いをする印象がありますが、夢に関しては、わりと常識的というか、易しい禅語や短歌でその意味を説こうとしているように思えます。
しかしこの世を生きる私たちにとって、夢はあくまで睡眠中に見る実態の無いものに過ぎず、日々の忙しさの中では、第二の夢の境地に至ることはありません。
この言葉は、例えば将来の夢、などと、希望する職業に使ったり、夢は大金持ちなどと、欲望を表すこともありますが、私はそういう使い方を好みません。
第一と第二の夢。
人間はこの狭間で、ただ死んでいくのでしょうね。
それでも希望は残っています。
平林たい子女史は、次のような言葉を残していますから。
平々凡々な私は生きるから、私には生きることが力作なのだ、と。