土曜日、両親と津田沼の飲み屋で飲みました。
伊勢えびのお造りや、鱧の湯引き、稚鮎の唐揚げなど、豪華なつまみでいも焼酎を飲みました。
父とは、世間の親父と倅のイメージと違い、よく話します。興味関心の範囲が似ているせいだと思います。
母も楽しそうでした。
気になったのは、父が杖をついていたことでした。一時的な足の痛みならいいのですが。衰えは気になります。
私はこれまで、強い、あまりにも強い自尊心を持って、生きてきました。だからこそ、組織のトップを相手どって、弁護士をたてて私を侮辱したことを責め、100万円の解決金と、謝罪文を勝ち取ったのです。
しかし、揺ぎ無いはずの私の自尊心は、今や揺らいでいます。
私は何をもって生きるのか、わかりません。
ただ生きることに、十分価値があると、精神科医は言います。
私は、ただ死なないことに、価値を見出せません。
つまらないことこの上ない仕事をし、生きていくのに精一杯の糧を得る。
家に帰れば、わずかの酒を飲んで気持ちを静める。
こんなことを、もう十八年も続けました。
もういいんじゃないか、と思います。
私は十分に生きた。これ以上生きたところで、どうなるものでもありません。
100まで生きても、40で死んでも、大きな宇宙の動きから考えれば、どうということもありません。
全てを終わりにして、最終解決を図りたい、という欲求を、抑えられません。
今日は14時から一時間半ほど、古い雑誌の廃棄作業をしました。
書庫内はエアコンが効いて涼しいのですが、集積場は蒸し風呂状態でした。
書庫から廃棄が決定した雑誌をピックアップして集積場に運んでいく、という作業ですが、書庫は極楽、集積場は地獄、という感じでした。
びっしょり汗をかいて、職場で冷水シャワーを浴びました。
この瞬間が快感です。
その後は何もやる気が起きず、なんとなく過ごしてしまいましたが、汗をかくと気分爽快になりますね。
肉体労働者が、事務なんてやりたくない、という気持ちが、少しわかりました。
業者は予定価格の48%で落札したとのことで、仕事が欲しいあまりのダンピングに近い価格で応札したのでしょう。その結果、最末端にしわ寄せがいったのですね。
税金を有効に使うための入札の結果、税金から生活保護を支給することになった、などというのは、泣くに泣けない、笑うに笑えない話です。
清掃員も働く気が失せるでしょう。
昔1円入札というのが問題になったことがあります。
損して得とれ、ということでしょうが、役所の入札制度はそういう事態を想定していません。安ければ安いほどいい、という制度です。
これは予定価格の他に、最低落札価格というのも定めなければいけないのかもしれません。
いやなニュースです。
まだ冷房運転が開始されません。
クールビズとやらで、事務室内の気温が28度を超えないと、冷房してはいけないのです。湿度はまったく勘案されていません。
こう蒸し暑くては、労働安全衛生上、問題です。
仕方なく、窓を全開にして、わずかな涼をとっていたのですが、蜂が一匹入り込みました。蜂一匹で、女性職員は大騒ぎです。
蜂は外に出て行きましたが、窓は締め切りとなりました。
まさに蒸し風呂です。
せめて網戸をつけてほしい。
昨日は父の日だったので、実家に行ってきました。
安物ですが、携帯用の小さなブックライトをプレゼントしました。
父はなんでも持っているので、変わったものを選ぶようにしています。
二時間ほど話をして、ビールやら野菜やら色々もらって帰りました。
来週の土曜日、飲みに行こうか、という話になりました。
私はお父ちゃん子なので、楽しみです。
非常に判断の難しい問題だと思います。
ドナーを待ちながら闘病している人、身内をドナーとして提供する人、立場によって様々です。
参議院で可決されれば、脳死は法律的に人の死、ということになるのですね。
世界の大勢に合わせた、ということで現実的判断なのでしょうが、私には強い抵抗があります。
脳死でも、生命維持装置をつけていれば、髪も伸びるし爪ものびる、内臓は脈打っています。そういう状況の人を、死んだ、と私には言えません。
そういう人の生命維持装置を外してまで、臓器を移植しなければならないのでしょうか。医学が進歩して、脳死状態になっても、意識を回復させることができるようになるかもしれません。
命というものは、もっと総合的なものであるはずです。機械の部品のように扱われて良いものでしょうか。
この問題はあまりに難しいので、私はどのような法律がふさわしいか、判断できません。
ただ、A案が可決したことで、一つだけ決めました。ドナーカードを所持し、臓器提供を拒否する旨を明示しよう、と。
あの世に行って、心臓やら腎臓がなくて困った、なんてことになりたくないですからね。
パワーハラスメント防止規程の話です。
相変わらず何の説明ももらえません。
仕方なく、管理職に問い合わせました。
すると、6月1日に規程を制定する権限がある会議を行ったが、議論百出して何も決まらなかった、とのことでした。
合意書を交わしてから1年半、規程制定の期限から9ヶ月がすぎてしまいました。
加害者からの直接の謝罪もありません。
解決金100万円と、謝罪します、という紙切れが自宅に送られてきただけです。
もういい加減この事件のことは忘れたいのですが、なかなか完全解決をみません。最近そのことが気になって仕方ありません。これがストレスになって、また病状が悪化するのではないかと心配です。
あるいは、私の病状を悪化させようとして、わざと制定しないんじゃないかと、勘繰りたくもなります。
早くもやもやから解放されたいものです。
わが国は、十七条憲法の時代から、和をもって貴しとなしてきました。
誠にそれはそのとおり。日本国憲法にも、みんな仲良く、という趣旨のことが書かれています。
しかし、私は「みんな」という日本語が嫌いです。
「みんな」とは誰と誰のことなのか。
少なくとも、私は「みんな」という集団に所属したことはありません。
それと、「連帯責任」。古くは「一億総懺悔」。
結局「みんな」が悪いということで、裏を返せば誰も責任を感じない。
稟議制というのもそうです。ヒラからトップまでずらりと判子を並べ、「みんな」で決めたような感じにする。しかもその実、代理決裁とか言って、課長補佐クラスが課長・部長・局長と、一人でバンバン判子を押していたり。
しかし、某アメリカ人が、テレビで、「みんな」という感覚を持っていることが、日本の良さだ、と言っていました。アメリカ人は、おのれ大事の行き過ぎた個人主義で、日本がうらやましい、と。
「みんな」仲良いのは結構なことですが、「みんな」から外れると、いじめが発生しますね。「村八分」など、まさにそれです。
「みんな」と言う言葉のなかに、集団のためにおのれを捨てろ、という感じがこもっていて、気持ち悪いのでしょう。
昨日、ラジオを聴いていたら、パーソナリティーが、「心の病には、音楽が何よりの薬。間違っても同じ悩みを抱えている人同士で集まって傷をなめ合うようなことはしない方がいい」と言っていました。
大きな誤解、もしくは無理解、あるいは無知です。
健常者が少し落ち込んだ、程度のことならそれでもいいでしょうが、精神病を発症したなら、これは心の病ではなく、脳の障害なのですから、薬物療法を受けなければ良くなることは極めて困難です。また、自助グループで経験を話し合うことも、効果があります。
私も、「薬なんてやめてしまえ」とか、「気合だ」とか、「体を動かせば自然と良くなる」とか、「酒飲んで騒げば忘れちゃう」とか言われました。
そのようなことを言われると、無知ゆえとはいえ、ひどく傷つきます。
そういうことのすべてを試して、前にも進めず後ろにも退けない、八方塞りな状態に追い込まれて病院に行くのが普通ですから、なんとも白けた気分になります。
精神病に対する偏見はなかなかなくなりませんね。
私はそういうことを言われた場合、微笑んで答えないことにしています。
最近、弁当男子とか言って、健康と節約のため、自分で弁当を作ってくる男性サラリーマンが話題になっていますね。
流行りに乗るわけではありませんが、今日、十年ぶりくらいに、自分で弁当を作りました。じつは、明日が給料日で、手元不如意なのが、その動機です。
冷凍の唐揚げを温めたのと、ソーセージを焼いたのと、卵焼き、それにきゅうりのサラダです。我ながらよく出来たと思います。
少しご飯をつめすぎたかな、と思います。
給料は上がらないし、夏のボーナスは減額ということなので、なるべく節約しようと思います。
私の住む町には、二軒の資産家がいるようです。M家とT家です。駐車場やらマンションやら、やたらとこの二軒の名前を目にします。
昨日、あまり行った事のない方角に散歩に出たら、お城かと見まがうお屋敷がありました。表札を見たら、T家でした。しかも、まわりにいくつも同じ表札の家があります。一族郎党がこの辺りに住まいしているのか、と驚きました。
私は小さなマンションのローンを毎月払い続けてもう十年たちます。
一回繰り上げ返済をすれば、あと十年はかからないと思いますが、それでも、二十年ちかくです。
貧富の差というのは、切ないですね。
資産家がうらやましい。
私もミーハー気分で見に行きましたが、大群衆を集めてみだりに駅前の交通を混乱せしめ、大音量でがなりたてて夕暮れの静寂を乱すなど、愚かな行為です。
人ごみと騒音が苦手な私はいたたまれず、30秒ほどで立ち去りました。
しかも民主党候補というのが、市議を数年務めただけの、31歳の独身青年なのです。まともに考えれば、雑巾がけが足りません。
イメージだけで当選して、頓珍漢な政策をふりかざして市政を混乱させるか、千葉市幹部の言いなりになって人形のように操られるか、どちらかでしょう。
あとは当選するはずのない共産党候補と、副市長の自民党候補がいるだけです。
なんだか投票に行く気がおきません。
前市長は、わずか100万円の収賄で捕まりました。
本人は否定しています。
元自治省のキャリア官僚です。
もう70歳にちかく、今期限りでの引退をすでに発表していました。
まさに晩節を汚した感じです。
こんな者を市長に戴いていたとは、市民としてお恥ずかしいかぎりです。
今、毎日選挙運動が行われています。
ビラを配ったり、名前を連呼したり。相も変らぬ、イメージ選挙です。
何がやりたいのかわかりません。
市長になるのが目的だったら、おやめなさい、と言いたいですね。
でも、とりあえず選挙には行きます。いつも投票率が低いですから。