先程らい英国王室の結婚式をテレビで生中継していましたが、もう見る気が失せました。
まるっきり格好悪いんですよねぇ。
ゆるい褌みたいです。
わが国が行う儀式の荘厳さにくらべると、月とすっぽんですねぇ。
無駄に長く、無駄にリラックスしていて、新郎の弟など、最前列に立っていながら後ろ髪は寝癖のまま、さかんに後ろをふり返っては花嫁の衣装などに気をとられている風情。
わが国の庶民が行う神前式のほうがよほど緊張感があります。
儀式というのは極限まで緊張を強い、呆気ないほど短く終わるのがわが国の美意識ですから、畜肉ばかりを食らい、居もしない神様などを讃える歌など歌っても、わが国の長きばかりが強調され、外つ国の短きを思い知らされるばかりです。
ま、それはそれとして。
外つ国の短所をあげつらっても仕方ありますまい。
それにしても思うのは、人間という種の限界です。
民主主義と言いながら、差別はいかんと言いながら、多数の国で王様だか皇帝だか天皇だかを大事にいただいている愚かさ。
生まれながらに卑賤な者はいないとさかんに宣伝するくせに、生まれながらに高貴な者はいるという嘘は守り続ける欺瞞。
およそそういうものを排除して生まれたはずの共産主義が、ことごとく個人崇拝に走るわけ。
結局は誰にも論理的に説明できないそのわけは、猿より毛が三本多いだけの人間という種の本能の未熟。
喧嘩っ早い左翼くずれの嘘つきが、てめえの喧嘩っ早いのを脇において、法律に戦争はしないと書けばそれは起きないなどと思い込む子供っぽさ。
人間最初も最後もおのれの利益のためにリスクを冒してでも喧嘩をするのは子供を見ていればわかること。
それが国家になったから起きないなんてはずがありません。
省益あって国家なし?笑わせる。
省益なんて大きなことを考えている役人なんているはずもない。
課益あって省益なし、係益あって課益なし、己の係員益あって係益なし。
事務次官だっておのれが歩んできた畑ばかりを重んじますよ。
現代社会がまとっている様々の建前と、建前であるがゆえの嘘を見ていると、反吐が出ます。
英国王室の結婚式ごときでこんなに気分が悪くなっては、やれませんねぇ。
なかなか示唆に富んだソリッド・シチュエーション・スリラー「6」を観ました。
6とはサイコロ=ダイスのことです。
目が覚めると、監禁されています。
共通点は自殺を図った者6名。
幼いころ、目の前でサイコロをふり、目の数だけ弾丸を込めたリヴォルバーで自殺した父を持つ殺人鬼。
彼は物事は神の意思でもなく、人の意思でもなく、ダイスの意思で決まる、と思い込み、精神病院への入退院をくりかえします。
父親が富豪だったため、彼はその金を使って究極のギャンブルを始めます。
自殺未遂者を拉致監禁しては、その者が図った自殺方法に見合った方法で生きるか死ぬかを賭けるのです。
例えば拳銃自殺を図った者なら、拉致した別の者にダイスを振らせ、目の数だけ弾を込めて撃たせる、ロシアンルーレットを、入水自殺を図った者なら水槽でおぼれさせ、ダイスの目が1なら1分後、6なら6分後に助ける、手首を切った者なら1で1リットル、6で6リットルの血液を抜く、などです。
そしてこのゲームに生き残った者は、新たな人生を手に入れ、彼の信奉者として彼を崇める団体の一員になるのです。
サイコロほど単純ではないにせよ、神でも運命でもよいですが、何者かに操られているギャンブルのようなものが私の生活だと思えるからです。
努力ではどうしようもないこと、理不尽なことが世の中にはあまりに多くあります。
幼児のうちに親に虐待を受けて殺されてしまう者、裕福な家庭に生まれ愛情深く育てられる者、誰かが適当に決めているようなもの。
仏教では縁起や因果応報を説きますが、それは後になってわかる屁理屈とも考えられます。
よく、自然科学では、どのように、は解決できるが、なにゆえに、は解決できないといいます。
人間はどのような物質でできており、どのうようにすると妊娠出産にいたるかは調べられますが、なにゆえに妊娠出産するかはわかりません。
自然科学の魅力は、最初からなにゆえに、を追求しないため、論理的に説明できるところにあると感じます。
また逆に、人文科学はストレートになにゆえに、を追求し、解けないパズルを解こうと無駄な努力を続ける愚かさにこそ、人間的な魅力があるでしょう。
単なるエンターテイメント作品として観れば稚拙な作品ですが、複雑怪奇な人生を象徴しているようにも思え、感銘を受けました。
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今日は昭和の日ですね。
法律に拠れば、激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす、とされています。
元号を冠した祝日というのはこの日だけ。
いかに昭和という時代が今のわが国にとって大きな意味を持っていたかがわかります。
文化の日は明治天皇の誕生日ですが、建前上、明治天皇の誕生日とは関係ないことになっています。
昭和20年の大日本帝国の崩壊までは戦争に明け暮れ、その後わが国始まって以来始めての外国による占領という屈辱を味わい、続いて高度成長からバブルと、わずか63年の間にわが国の様相は大きく変貌を遂げました。
しかし当然のことですが、わが国の国民性は大日本帝国時代のそれとなんら変わるところはありません。
今回の震災によって示された一般庶民の高いモラルがそれを証しています。
昭和天皇崩御の時、私は大学1年生でした。
歴史の節目にその場に居合わせたい、という欲望に駆られた私は、崩御当日皇居に向かったのでした。
東京駅で電車を降りたとき、すでに皇居に向かう人であふれていましたっけ。
大喪の礼の日はすべてのテレビ局が中継し、人々は歌舞音曲どころか飲酒さえ自粛し、国中が異様なムードに包まれ、一個の老人が亡くなっただけでこんなことになってしまうとは、と恐怖感すら感じました。
そして新帝の即位に関わる儀式では、古式ゆかしい大嘗祭が深夜にろうそくの灯りだけで執り行われ、それは公開を禁じられ、皇室の神秘性をいやがうえにも見せつけられました。
即位の礼は寒空の中華々しく行われ、当時の海部総理が天皇陛下万歳を唱える姿に、またもや恐怖を感じました。
今上陛下は即位後、父帝の罪を払拭せんと考えたのか、贖罪と祈りに明け暮れています。
父子そろって不幸な時代を生きたことを感じさせます。
そういう意味では、皇太子殿下はもう少し気楽に公務ができるのかと思いきや、妃殿下が精神的な病に冒されるという不幸に見舞われ、あまつさえ内親王が小学校にまともに通えなくなるなど、身内のことで苦労されているご様子。
人が生きるということは生易しいものではないことを、皇室はよく教えてくれます。