某警察署の副署長が部下の女性警官にセクシャル・ハラスメントを繰り返したとかで、更迭され、今処分を待っているところだそうです。
しかも笑っちゃうことに、この副署長、性犯罪対策室長をやっていたこともあるとか。
処分を検討中のため、具体的にどういう言動があったのかは明らかにできないそうです。
セクハラというのは難しいですね。
「髪型変えた?」とか、「太った?」とか「元気ないね」とか、「綺麗だね」とかいうのも時と場合によってセクハラに認定される可能性があるそうです。
日常の挨拶程度にも思えますが、男が女に、あるいは女が男に言った場合問題あるんでしょうか。
そういえばリワークに来ていた好青年は、職場の男性上司からセクハラを受けて適応障害を発症したと言っていました。
男同士でも、精神に不具合を来すようなセクハラがあり得るのですねぇ。
私はセクハラよりももっと露骨な痴漢にあったことがありますが、あれはもう25年も前、高校生のころです。
満員電車や映画館で、何度か同性愛のおっさんに痴漢されました。
あれはいやなものです。
ぐっと時間がくだって、平成18年12月から平成19年7月にかけて上司からパワー・ハラスメントをくらい、後に謝罪文と損害賠償をもらいましたが、今だに悪夢を見たり、フラッシュバックに苦しんだり、なかなか心の傷は癒えないものですね。
実行に移す勇気はありませんが、殺意に近いものを事件以来持ち続けており、それは大きくなることはあっても収まる気配は一向にありません。
ハラスメント被害というのは、加害者や第三者が考えるよりもずっと甚大なもの。
子供のイジメもそうですが、加害者は何の気なしに、ちょっと冗談とか、親愛の情を示したとか、叱咤激励の意図とか、悪気がないことが多いんですよねぇ。
それが問題です。
罪の意識が希薄だから被害者が被害を訴えても何を大げさな、とか、大人げない、とか、変な奴だくらいにしか考えられないんですよねぇ。
パワハラはもちろん、セクハラも立場が上な人が加害者になることが多いため、周囲の社員も偉い人の味方をしちゃって、被害者が泣き寝入りしたまま退職したり。
私のように謝罪と損害賠償を勝ち取って、今なお同じ職場で働いているというのは珍しいケースなんじゃないでしょうか。
その代り、職場でいやな奴と顔を会わせなければならず、出勤そのものが気が重いんですよねぇ。
ハラスメントというのは被害者がどれだけ心に傷を負ったか、だけが判断基準であり、加害者の意図とか、一般的な意味での言葉の重い軽いはまったく関係ないんだ、ということを肝に銘じて、日々、自らを律していかなければなりません。
菅総理をチャーチル英元首相と比較する論を最近目にしました。
方やナチや日本軍との激しい戦いを勝利に導いた偉大な指導者。
また一方、未曽有の天災に原発事故まで重なって、危機的状況での指導者。
危機的状況での指導者という意味では同じですが、支持率が圧倒的に違います。
菅政権の支持率は少し上がって30%ていど。
戦時中、チャーチルの支持率は90%近くもありました。
国民からの支持がなければ、なかなか困難な復興事業を軌道に乗せることは難しいのではないでしょうか。
また、チャーチルは常に余裕の笑みを絶やさず、Vサインを頻発してVictoryへの意思を明確にし続けました。
しかるに菅総理は、困難に立ち向かう孤独な指導者を演じているかのごとく、自己憐憫と自己陶酔で感傷的になっているように感じられます。
危機にあたって指導者に最も求められるのは、理性と強い意志でしょう。
そういう意味で、菅総理はむしろナチに対して宥和政策をとり、ナチを増長させた平和主義者のチェンバレンに似ているのではないでしょうか。
震災早々被災地にでかけていったり、東京電力で幹部を怒鳴りつけたり、どうしていいかわからない、という菅総理の悲鳴が聞こえるようです。
英国はナチがポーランドに侵攻するや、チェンバレンを見限って、10年以上前からナチの危険性を訴えて干されていたチャーチルを新しい首相に選び、宥和政策から一転して武力による勝利を目指しました。
菅総理には自らに与えられた歴史的使命が、チェンバレンのように危機に対処できない、ということで身を引き、チャーチルの出現を促すべきではないでしょうか。
もっとも、誰がチャーチルなのか、私にはさっぱり分からず、それが悩ましいところなんですが。
職場近くの公園の桜が、満開になっていました。
春なんですねぇ。
しかし満開の桜はどこかさびしげです。
命のはかなさを知っているからでしょうか。
もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに 知る人もなし
百人一首にも取り上げられた有名な 大僧正行尊の和歌です。
私が山桜をなつかしく思うのと同じように私のことをなつかしくおもってくれ、こんな山奥では花よりほかに知る人もいないのだから、といった意味かと思います。
この歌はさびしさを歌っていますね。
それは桜の本性であるかのごとくです。
では「山家集」所収の西行法師のあまりにも有名な歌。
願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃
この歌ほど日本人に愛され、人口に膾炙されてきた歌も珍しいでしょう。
数寄の極地をあらわしているともいえます。
しかし桜を賛美しているようで、満開の桜の下で死にたいと、桜は滅びゆくものの象徴であることを暗示してもいます。
では、桜が散った後の歌を、「新古今和歌集」から。
式子内親王の歌です。
花は散り その色となくながむれば むなしき空に 春雨ぞ降る
桜の花は散ってしまい、その様子を眺めていると春雨が降ってきてますます空しい気分になる、といった意かと思います。
桜を詠んだ和歌というのはあまり華やかではないのが多いように思います。
桜の時期の短さを思えば、当然かもしれません。
お口直しに、少し華やかなのを。
清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 今宵逢ふ人 みなうつくしき
「みだれ髪」にみられる与謝野晶子の、心躍るような和歌です。
晶子20代前半の作ですから、若さゆえの桜にはしゃぐ気持ちを素直に詠んだものでしょう。
和歌によって様々な表情を見せる桜の変化を、和歌を口ずさみながらお花見に臨んだら楽しいかもしれません。
しかし明日は雨らしいですね。
明後日に期待しましょう。
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