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ヘーゲル 「わかる」がわかれば、すべてがわかる

『考える人』より

反ヘーゲル。様々なる意匠。

こんな具合です。

「ヘーゲル哲学は逆立ちしている」

唯物論者は、逆立ちしているのは自分の方と気づきましょう。

「ヘーゲル哲学は無意味だ」

分析哲学者は、意味が理解できないという事態の意味を考えましょう。

「ヘーゲル哲学は神秘主義だ」

科学主義者は、神秘なしに科学が可能か反省してみましょう。

「ヘーゲル哲学は全体主義だ」

個人主義者は、そんな個人はまやかしものと知るべきですね。

「ヘーゲル哲学は現実を肯定する」

現実主義者は、何と素朴な現実を信じていることやら。

「ヘーゲル哲学は難解だ」

講壇哲学者には、まあ無理でしょうな。

「ヘーゲルの哲学こそ、空理空論の最たるものだ」

それはたぶん、君のアタマの中身のことだと思う。

と、まあこんなふうに、余り大きな声では言えないのだ。しかし、大きな声では言えないのがおかしいのだ。だから私は声を大にして言う、「哲学の醍醐味は、ヘーゲルに極まる!」

とにもかくにもヘーゲルは理解されていないのだ。ほう、そこまで仰言るのなら、あなたのヘーゲル解釈を伺ってみたいものですな。馬鹿をお言いでない。私はヘーゲル解釈などしたことはない、私がヘーゲルだと言っているのだ。あの御仁とて、こうのたまっているではないか、「俺様が世界精神だ」。

わからないんだろうな。これが、わからないんだろうな。わかってるんだ、皆にはなぜヘーゲルがわからないのか、私にはぜんぶわかってるんだ。というのは、ヘーゲル哲学は、この「わかる」のわかり方がわからなければ、絶対にわからないからだ。裏から言えば、この「わかる」がわかりさえすれば、全てが隈なくわかるからだ。したがって、ヘーゲル哲学は、全然わからないか全部わかるかのどちらかで、少しだけわかる、半分はわかる、というのはない。

詳細は後にまわすとして、そもそも私のこの「口伝」という風変わりな哲学語り、こんなものが可能なゆえんも、種を明かせば、それと同じなのだ。いったい、自分の精神とは世界精神であることを知らずに、どうやって哲学史など理解できるつもりでいるのか、驚くべき愚直さである。プラトンを読む私は、プラトンになる。デカルトを読む私は、デカルトになる。それなら、自分のところまで来て哲学史は完成をみたと確信したヘーゲルを読む私にも、同じ確信が与えられるのは当然である。ヘーゲルが最も軽蔑したのも、事象や思想や書かれた言葉に、外側から近付こうとするその態度で、そんな態度でいる限り、何ひとつ確信することはできんぞという、これまた深い確信に確信するめである。ヘーゲルがわかれば大体のことがわかるということに、どういうわけだか私たちの精神はなっているのだ、つべこべ言わない。

私事で恐縮だが、大きく小さく事象を確信する哲学的思考の快感に、私がはっきりと目覚めたのは、彼の『大論理学』によってである。あなたはへーゲリアンですかなどというマヌケなことは、間違っても言わないこと。私は別に、『大論理学』を書いたのが、へーゲルでなくてもちっとも構わないし、手ぶらで一度きり読んで「わかっちゃった」あとは、ああ面白かった得したな、と思っただけで、あらためて「研究」しようとしたことなど全然ない。人の書物を理解するために、そのつどその人の信奉者にならなくちゃならないの乙ゃ身がもたない。そのへんの経緯は以前書いたことがあるので、余りくどくど言いたくないが、くどいくらいに言わないとダメなのが、このヘーゲルなのだ。わからないことの腹いせに悪く言うか、わからなさ昂じて有難さに転じるか、そのどちらか以外のヘーゲル評を、私は聞いたことがない。しょせん「解釈」とはそんなものだ。馬脚が出るのが恐い、そんな程度の屁理屈に、皆さん、だまされないように。ちょっとしたコツさえつかめば、ヘーゲルは誰にでも読めますから。

晦渋な言語表現の煙幕の向こうに、その「考え」を透視する術、これがヘーゲル読みの極意である。むろん、多かれ少なかれどの哲学書にも、この技術は要求されている。だからこそ、自分の精神は世界精神であるという端的な確信を、まず所有していなければダメだと私は言うのだ。さて、ヘーゲルの場合、この煙幕が他の誰よりも厚く、濃く、高い。どうするか。同じ人間が考えたことがわからないはずがないという確信を手放さない。で、どうするか。術語を、全部、無視する。即自有、向自有、即且向自有、絶対無媒介的純粋有、そんなものには目もくれず、脚下に踏みしだき、空拳で前進するのだ。間違っても「ヘーゲル用語辞典」などの援軍を頼みにしない。ああいうものは迷いのもと、心に隙ができて退却を余儀なくされる。進め、恐れずに進め、端的な確信ひとつ手に煙幕の中を進め!--やがて心地よいリズム、明快な足取りで、彼の思考に伴走している自分の思考に気づくだろう。共にまなざしを、あの確信へと高く保ちつつ。
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