未唯への手紙
未唯への手紙
不安とは? 生きていくための力
『眠れぬ夜のための哲学』より
超訳 生きていくための力
不安で夜眠れなくなることはないですか? 私はしょっちゅうです。そのうち仕事がなくなるんじゃないだろうかとか、近しい人を失うのではないだろうかとか、この世が終わってしまうんじゃないだろうかなどと考え出すと、もう不安で眠れません。
これは決して、私の精神状態が不安定だからというわけではないと思います。というのも、程度の差はあれ、同じようなことをいっている人が周りにたくさんいるからです。逆にいうと、普通の人が皆抱くものであるのなら、特別な治療など施さずとも、この問題を解決することは可能だといえます。
そもそも不安の正体とは何なのでしょうか? 不安は古来、哲学のテーマでした。古代ギリシャの哲学者たちも、不安について論じています。着目すべきなのは、それが人間の身体と密接不可分のものとしてとらえられていることです。つまり、不安はのどを締めつけられる苦しさを意味する語だったのです。たしかに不安だと息もできないくらい苦しくなりますよね。
不安とはそうした身体を苦しめる現象なのです。そして現代では、それがうつや自殺の原因にさえなっています。不安とは単なる気持ちの問題ではなく、私たちの身体を蝕む病なのです。
※不安は「病気」?
「死にやる病」という本を古いたデンマークの哲学者キルケゴール(一八一三~一八五五年)が、不安について詳細な分析を行っているのもうなずけます。彼のいう「死に至る病」とは絶望のことなのですが、不安は絶望につながる現象といえるからです。
そんな病ともいえる不安をいかに克服していけばいいのか。当然のことながら、その原因となっている問題を解決すれば、不安も解消されます。でも、私のように近しい人を失ったり、この世が終わったりすることに不安を覚えている場合、原因を取り除くのは不可能でしょう。そこで、逆説的かもしれませんが、不安を肯定的にとらえるという方法を提案してみたいと思います。病気であるとしても、病気とうまく付き合う秘訣というのはあるものです。
ドイツの哲学者ハイデガー(一八八九~一九七六年)は、まさに不安を肯定的にとらえています。彼は人間のことを「現存在」と呼びます。現存在は通常、理由もなくこの世に投げ出され、時代の空気の中で日常性に埋没している存在です。いわば「ただの人」として非本来的な生き方をしているといいます。
ところが、あることをきっかけに、本来あるべき存在としてのあり方、すなわち「本来的自己」を呼び覚まし、自分に向き合うようになります。そのきっかけを与えてくれるものこそが不安だというのです。中でも究極の不安は死です。死は誰にでも訪れるうえに、決して避けることのできないものです。それゆえ人間は、死を意識してはじめて自らの生に向き合うことができるのです。
※不安があるから、生きていることを実感できる
つまり、ハイデガーの思想から学ぶことができるのは、不安というものを、前向きに生きるためのきっかけとして利用するという発想です。不安があるから、不安を感じるからこそ、私たちは生きていることを実感することができるのです。そうでなかったら、のらりくらりと日常をただ漫然と過ごすだけです。平和ボケですね。
生きている以上、不安と付き合っていかなければならないのだから、それを生きる力に変えてしまおうというのはなんと力強い発想でしょうか。お化けを怖がらない人に対して、お化けのほうが恐れをなして逃げていくという逸話がよくありますが、不安を生きる力にする人に対しては、不安も恐れをなして逃げていくかもしれません。だから不安な夜はぜひこう叫んでみてはいかがでしょう。「不安大好き、かかってこい! と。
超訳 生きていくための力
不安で夜眠れなくなることはないですか? 私はしょっちゅうです。そのうち仕事がなくなるんじゃないだろうかとか、近しい人を失うのではないだろうかとか、この世が終わってしまうんじゃないだろうかなどと考え出すと、もう不安で眠れません。
これは決して、私の精神状態が不安定だからというわけではないと思います。というのも、程度の差はあれ、同じようなことをいっている人が周りにたくさんいるからです。逆にいうと、普通の人が皆抱くものであるのなら、特別な治療など施さずとも、この問題を解決することは可能だといえます。
そもそも不安の正体とは何なのでしょうか? 不安は古来、哲学のテーマでした。古代ギリシャの哲学者たちも、不安について論じています。着目すべきなのは、それが人間の身体と密接不可分のものとしてとらえられていることです。つまり、不安はのどを締めつけられる苦しさを意味する語だったのです。たしかに不安だと息もできないくらい苦しくなりますよね。
不安とはそうした身体を苦しめる現象なのです。そして現代では、それがうつや自殺の原因にさえなっています。不安とは単なる気持ちの問題ではなく、私たちの身体を蝕む病なのです。
※不安は「病気」?
「死にやる病」という本を古いたデンマークの哲学者キルケゴール(一八一三~一八五五年)が、不安について詳細な分析を行っているのもうなずけます。彼のいう「死に至る病」とは絶望のことなのですが、不安は絶望につながる現象といえるからです。
そんな病ともいえる不安をいかに克服していけばいいのか。当然のことながら、その原因となっている問題を解決すれば、不安も解消されます。でも、私のように近しい人を失ったり、この世が終わったりすることに不安を覚えている場合、原因を取り除くのは不可能でしょう。そこで、逆説的かもしれませんが、不安を肯定的にとらえるという方法を提案してみたいと思います。病気であるとしても、病気とうまく付き合う秘訣というのはあるものです。
ドイツの哲学者ハイデガー(一八八九~一九七六年)は、まさに不安を肯定的にとらえています。彼は人間のことを「現存在」と呼びます。現存在は通常、理由もなくこの世に投げ出され、時代の空気の中で日常性に埋没している存在です。いわば「ただの人」として非本来的な生き方をしているといいます。
ところが、あることをきっかけに、本来あるべき存在としてのあり方、すなわち「本来的自己」を呼び覚まし、自分に向き合うようになります。そのきっかけを与えてくれるものこそが不安だというのです。中でも究極の不安は死です。死は誰にでも訪れるうえに、決して避けることのできないものです。それゆえ人間は、死を意識してはじめて自らの生に向き合うことができるのです。
※不安があるから、生きていることを実感できる
つまり、ハイデガーの思想から学ぶことができるのは、不安というものを、前向きに生きるためのきっかけとして利用するという発想です。不安があるから、不安を感じるからこそ、私たちは生きていることを実感することができるのです。そうでなかったら、のらりくらりと日常をただ漫然と過ごすだけです。平和ボケですね。
生きている以上、不安と付き合っていかなければならないのだから、それを生きる力に変えてしまおうというのはなんと力強い発想でしょうか。お化けを怖がらない人に対して、お化けのほうが恐れをなして逃げていくという逸話がよくありますが、不安を生きる力にする人に対しては、不安も恐れをなして逃げていくかもしれません。だから不安な夜はぜひこう叫んでみてはいかがでしょう。「不安大好き、かかってこい! と。
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