スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&具体例

2022-09-15 19:11:19 | 将棋
 13日に名古屋で指された第70期王座戦五番勝負第二局。
 豊島将之九段の先手で角換わり相腰掛銀。この将棋は終盤で千日手になりました。先手としては長考の末の千日手で持ち時間が減らされましたので,何らかの誤算があったものと思います。途中は先手が優勢とAIは判断していたものの,勝ちに結び付ける手順は難しかったですから,千日手になってしまったこと自体は止むを得なかったと僕には思えました。
 永瀬拓矢王座が先手となっての指し直し局も角換わり。先手が1筋の位を取り,後手の豊島九段の棒銀という戦型になりました。
                                        
 第1図で☗7一角と打ったのですが,この手は僕には驚きの一手でした。☖7二飛とされると,飛車か角のどちらかは必ず取られてしまうからです。ただ☖7二飛には☗8五飛と回り,角は取られても飛車を成り込んで,先手も互角には戦えるようです。ただ互角なのですから後手としてもそう指さなければいけませんでした。
 実戦は☖3五銀☗8二角成の飛車交換の順に。☖2九飛と先着することができることに期待したようですが☗5八王のときに一旦は☖2四銀と銀の処置をしておかなければなりません。対して☗7九飛と打つのが好手。
                                        
 第2図となって先手の駒得が確実になり,有利になりました。
 永瀬王座が勝って1勝1敗。第三局は27日に指される予定。先手は永瀬王座です。

 それではこれらのことを,ある具体的な例を用いて説明します。
 現実的にAとBという人間が存在しているとして,AがBを洗脳しているなら,BはAの権利jusの下にあるといわなければなりません。同様にXとYとが存在して,XがYをマインドコントロールしているなら,YはXの権利の下にあるのであって,Y自身の権利の下にあるのではありません。霊感商法とか,ある種の自己啓発セミナーというのは,このような仕方で他人を自分の権利の下に置くことで,利益を獲得することを追求するのだといえるでしょう。いい換えれば,ある特定の混乱した観念idea inadaequataを十全な観念idea adaequataであると他人に信じ込ませることで,利益を獲得することを目指しているということです。
 ただし,洗脳とかマインドコントロールといった事象は,そのようにしようと思えば必ずそうすることができるという類のものではありません。上述の例でいえば,AはBを洗脳することに成功していることになりますが,だからそれ以外の人,たとえばCを洗脳することができるのかといえば,必ずできるとはいえません。AがCを洗脳しようとして,Cに混乱した観念を十全な観念であると信じ込ませようとしても,Cはそれが混乱した観念であると知っている限りではそれを十全な観念であると信じ込むことはないからです。もちろん,あるものの混乱した観念とそれと同じものの十全な観念は,Cの知性intellectusのうちに同時に存在することができるのですから,AがCを洗脳しようとする過程で,Cの知性のうちに混乱した観念が発生するということはあり得るでしょう。ですがCはそれが混乱した観念であると知っている限りではAの権利の下にあるのではなくCの権利の下にあるのです。つまりCの知性のうちに虚偽falsitasがあっても,誤謬errorを犯していない限りでは,CはAの権利の下にあるのではなく,C自身の権利も下にあると僕は考えます。
 現実的に存在する人間が自己の権利の下にあるということを,スピノザはどのように規定しているのかということ,また僕自身がそれをどのように解しているのかということは説明できました。そこで次に,こうした権利をさらに拡充していくための手段を検証します。
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霧島酒造杯女流王将戦&誤謬がない場合

2022-09-14 19:45:05 | 将棋
 10日に放映された第44期女流王将戦挑戦者決定戦。対局日は8月16日。その時点での対戦成績は西山朋佳女流二冠が6勝,渡部愛女流三冠が0勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 振駒で西山二冠が先手となり,5筋位取り中飛車。後手の渡部三段は☖4三銀型の居飛車穴熊。一進一退の攻防が続きました。
                                        
 第1図は後手がチャンスを迎えています。☖5五銀と一歩を入手して銀を交換し,☖4六歩を狙えば攻め切ることができたようです。
 実戦は☖4七桂成☗同銀としてすぐに☖4六歩と打ちました。この局面は後手に歩がないので☗同銀と取ることもできたのですが先手は☗5八銀。さらに☖5五銀にも☗5七銀引と逃げました。
                                        
 この手順は先手が後手のいいなりになっていて,実際に最善の手順ではないのですが,先手は狙いがあってこう進めました。第2図で後手が☖4七金と打つと先手は指をしならせてという形容がぴったりの手つきで☗2三歩。金を質駒にして反撃に出るのが先手の狙いで,以下は先手があっさりと寄せ切りました。
 第2図は後手が優勢で,☖3二金右と寄っておけば,☗2三歩も後に実戦で現れた☗8二飛も緩和していて,先手から反撃するのは大変でした。ただこの手は第1図から第2図に至る手順で先手が屈服したので受けに回るという手で,実戦の流れからは40秒将棋で選択するのは難しかったかもしれません。なので敗着は☖4七金であるとしても,第1図で☖5五銀を選べなかったことの方が,後手としては悔やまれるところかもしれません。
 西山二冠が挑戦者に。前期に失ったタイトルを奪還しにいく戦いとなります。

 現実的に存在する人間の知性intellectusのうちに虚偽falsitasがあるというだけでは,僕はその人間が自己の力potentiaの下にないとはいいません。とりわけ,虚偽があるのだとしても,その人間が誤謬errorを犯していない場合は,僕はむしろその人間は自己の力の下にある,すなわち自己の権利jusの下にあるといいます。誤謬とは,虚偽が真理veritasであると思い込むことをいうのですから,虚偽があっても誤謬を犯していないというのは,虚偽を真理とは思い込んでいない,あるいはもっと積極的にいうなら,虚偽が虚偽であると知っているということを意味します。スピノザの哲学では虚偽は混乱した観念idea inadaequataあるいは同じことですが誤った観念idea falsaの総体を意味し,真理とは十全な観念idea adaequataあるいは真の観念idea veraの総体を意味します。つまり現実的に存在するある人間の知性のうちにある混乱した観念があるとき,その知性がそれと同時にその観念が混乱した観念であることを知っているなら,僕はその人間はその人間の権利の下にあると解するのです。第四部定理一により,現実的に存在する人間の知性のうちには,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同時に存在し得ますから,こうしたことは実際に生じ得ることになります。
 僕がこのように考える理由は,スピノザの哲学では虚偽には虚偽の積極性があることが認められているからです。たとえば僕たちの身体corpusがある物体corpusに刺激されたときに生じるその物体の表象像imagoは,その物体の本性essentiaの観念ではありませんが,その物体が僕たちの身体を刺激するafficere限りで,あるいは僕たちの身体がその物体に刺激されるaffici限りで,その物体の本性を含む観念ではあるのです。なのでもし僕たちが何かを表象するimaginariたびに,その表象像が混乱した観念であるということを同時に知るとすれば,人間の精神mens humanaによる事物の表象imaginatioは,第二部定理一七備考でいわれているように,人間の精神の長所であるといわれなければならないのです。したがって,その場合は人間の精神は他者ないしはほかのものの権利の下にあるのではなく,自己の権利の下にあるというべきでしょう。またこのように解さないと,先述した第四部定理一の意味からして,ほとんどのときに人間は自己の権利の下にあることができなくなります。
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ヒューリック杯白玲戦&自己の権利

2022-09-13 19:23:09 | 将棋
 10日に指宿温泉で指された第2期白玲戦七番勝負第三局。
 里見香奈女流五冠の先手で中飛車。後手の西山朋佳白玲がすぐに三間飛車に振っての相振飛車になりました。
                                        
 後手が2筋の歩を交換した局面。ここで☗3八金と上がって受けたのですが,これが敗着に近い一手となってしまいました。
 後手は☖5六飛と歩を取りました。これが先手が軽視していた一手。☗2三角と打てるのでこの手はないと思ってしまったようです。
 対して☖4五角と打つのが好手。☗3二角成では☖6六飛~☖8九角成が厳しいようです。ただ放置しておいては☖2六飛~☖6七角成がひどいので,☗5八金と受けました。
 これには☖2六飛と戻り,☗3二角成を強要させ,☖2七歩。二枚換えで破られるわけにはいかないので☗3九銀ですがそこで☖3三桂と跳ねておきます。
                                        
 これで将来的に飛車が2筋からいなくなってもすぐに駒を取られる心配がなくなりました。先手は馬を作ったものの働きがきわめて乏しい上に,玉型の差が大きく,第2図は後手がかなり優勢となっています。
 西山白玲が勝って1勝2敗。第四局は17日に指される予定です。

 もし現実的に存在する人間の精神mens humanaが,他者によって欺かれているとするなら,その人間は欺いている他者の権利jusの下にあるといわなければなりません。なぜなら,現実的に存在する人間は,他人の力potentiaの下にある限りでは他人の権利の下にあるといわれなければならないので,他人に欺かれている限りではその他人の力の下にあることになるからです。いい換えればこの限りにおいては,人間が物事を判断する力が,もちろんその力のすべてでがないにしてもその一部は,確かに欺いている人間の力の下にあるといわれなければならず,少なくともその力の分だけはその人間は欺いている人間の権利下に置かれていることになるからです。
 これは逆にいえば,人間の精神の思惟する力は,その人間が理性ratioを用いる限りで自己の権利の下にあるという意味になります。人間は理性に従う限りでは,他人に欺かれることはないからです。のみならず,人間は理性に従う限りではすべての事物を十全に認識するcognoscereのですから,他人に限らず,あらゆるものに欺かれるということがないということになるでしょう。現実的に存在する人間がある事柄について欺かれるということは,その人間がそのものの混乱した観念idea inadaequataを有するというのと同じことであるからです。
 これは『国家論Tractatus Politicus』では触れられていませんが,この点についても僕の方から注意を喚起しておきたいことがあります。
 スピノザの哲学では虚偽falsitasと誤謬errorは異なるのであって,人間の精神のうちにある事柄の虚偽があるということと,その人間がその事柄について誤謬を犯すということとは分けて考えなければなりません。僕はこの区分で,人間が誤謬を犯している限りではその人間の精神は自己の力の下にある,あるいは同じことですが,自己の権利の下にあるとはいえないと思います。ある人間が誤謬を犯すということは,ある人間が虚偽を真理veritasと思い込むということと同じことなのであって,それが力potentiaであるということは不条理であると考えるからです。これはちょうど,ある人間がより多く働きを受けるpatiならより多くの自然権jus naturaeが属するといわれ得るとしても,それはその人間の力よりも無能力impotentiaを表示するというのと同じことです。
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フォワ賞・ニエル賞&悪

2022-09-12 19:24:51 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜から今日の未明に開催されたフランスのパリロンシャン競馬場のレースに2頭の日本馬が遠征しました。
 フォワ賞GⅡ芝2400m。マイラプソディはほかの5頭とはやや離れた外目を追走。逃げた馬からは3馬身差くらいの4・5番手でした。直線の入口では一旦は3番手に上がったものの,その後は伸びを欠き,勝ち馬から12馬身差の6着でした。
 ニエル賞GⅡ芝2400m。ドウデュースは好発でしたが7頭の最後尾に控えました。先頭からは7~8馬身差くらい。直線の入口まで同じ位置で進み,大外へ。伸びはしましたが勝ち馬から2馬身差の4着まで。
 マイラプソディはデビューからの3連勝で2019年の京都2歳ステークスを勝ったものの,それ以降は11連敗。ドウデュースの調教パートナーという位置づけでの渡仏ですから,この結果は止むを得ないでしょう。ドウデュースの方は,勝つことよりも凱旋門賞のための試走というような内容になりましたので,評価は難しいです。凱旋門賞は当然ながら相手が強くなりますから,まったく通用しないというケースもあるでしょうし,この内容を生かすことによって勝ち負けするというケースもあるでしょう。渡仏して10日ほどでのレースだったので,この馬自身のパフォーマンス自体はこのレースより上がると思いますが,相対的に通用する能力があるのかどうかということは,このレースだけでは判断できないです。

 現実的に存在する人間は,他人と争うということがあります。また他人を憎むということもありますし,他人に怒るということもあります。あるいは他人を欺くということもあるでしょう。そうしたこともその人間の自然権jus naturaeに属することになります。これは不条理に感じられるかもしれませんが,そういうわけではありません。なぜなら自然というものは,たとえば現実的に存在する人間が真の利益だけを意図すること,つまり人間の理性ratioの法則に適合したことだけに制約されるわけではないからです。むしろそうした人間にとっての真の利益というのは,全自然の一部なのであって,そちらの方が自然の法則に制約されているのです。もっといえば,このような人間が現実的に存在するということ自体が,自然の秩序ordo naturaeの法則に起因しているとわなければなりません。ですから自然の中には,現実的に存在する各々の人間にとって不条理と感じられることがあるとしても,それは全自然の秩序の大部分を知らないかゆえに不条理と感じられるだけなのです。あるいは各々の人間が,自分自身にとって都合がよいことを欲望するということから生じるともいえるでしょう。仮に僕たちの理性がある事柄を悪malumと判断するのであったとしても,それは自分自身の本性essentiaからみる限りでの悪なのであって,全自然の秩序からみて悪であるというわけではありません。これは第四部定義二から明らかなのであって,悪というのは僕たちの知性intellectusのうちにある思惟の様態cogitandi modiなのであり,僕たちが悪とみなす事物に備わった本性なり特質proprietasであるわけではないのです。
                                   
 次に,自然権は各々のコナトゥスconatusに由来するのですから,もしある人間のコナトゥスが別の人間のコナトゥスの下に属するなら,その人間の自然権もまたその人間の下にあるといわれなければなりません。いい換えれば,ある人間が自己の自然権の下にあるといわれるのは,その人間が自己の意向に従って生活し得る限りにおいてです。要するに,現実的にAという人間が存在するとして,Aが別の人間Bの力potentiaの下にある場合には,AはBの権利の下にあるといわれ,Aが自己の力の下にある場合には,Aは自己の権利の下にあることになるのです。
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善知鳥杯争奪戦&行使

2022-09-11 19:07:29 | 競輪
 青森記念の決勝。並びは中野‐新山‐内藤の北日本,吉田に椎木尾,郡司‐和田の神奈川,清水‐三谷の西日本。
 一旦は和田がスタートを取ったのですが,内から追い抜いた清水が誘導の後ろに入って前受け。3番手に郡司,5番手に中野,8番手に吉田で周回。残り3周のバックから吉田が上昇。中野の横でふたをしながらの併走でホームへ。スローペースになりましたが,この隊列のままだれも動かなかったので,清水の成り行き先行になり,3番手に郡司,5番手に吉田で引いた中野が7番手で打鐘前のバックに。ここから中野が発進していきましたが,新山は離れて単騎に。ホーム通過後のコーナーで郡司が牽制すると,中野は失速して不発。バックに入ると吉田が内から進出。郡司の横あたりまで来ると郡司が最終コーナー手前から発進。これを三谷が強めに牽制したため,清水と三谷の間が大きく開き,そこに突っ込んでいった吉田が抜け出して優勝。郡司マークからうまく吉田を追う形になった和田が2車身差で2着。三谷の牽制を乗り越えることはできた郡司が4分の3車身差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の宇都宮記念以来の優勝で記念競輪5勝目。青森記念は初優勝。このレースは今年の元日にデビューしてから30連勝していた佐藤がどのようなレースをするのかということがひとつの焦点。もしも後ろを引き出すようなレースをするなら新山が有利でしょうし,自分が勝つことも視野に入れるのであれば,その先行をだれかが捲ることができるのかということが注目点。ところがほかの3人の自力型に徹底的にマークされたため,先行することさえできませんでした。結果的にいえば,前受けをするか,そうでなければ後方に構えるかした方がよく,5番手になったのが敗因でしょう。吉田はうまく中野を封じた上で勝負所で内から進出しました。三谷の牽制が大きすぎたのは確かで,その面では恵まれたともいえますが,うまくレースをコントロールした上での立派な優勝だったと思います。

 自然権jus naturaeがコナトゥスconatusに由来するとすれば,第一に,自然Naturaのうちに現実的に存在するすべてのものは自然権を有するということが帰結し,また,自然のうちに現実的に存在するもののうち,同一の自然権を有する複数のものが存在することはないということが帰結します。そしてそのために,現実的に存在するあるものがより多くの自然権を有するということは,そのものがより大きな力potentiaを有するということを表示するのではなく,そのものの無力impotentiaを表示することになるのです。現実的に存在する人間が,受動passioに隷属している限りでは,その人間が自然権を有するということは,理念的な意味でしかないということを,僕は前もって指摘しておきましたが,それは,より多くの自然権を有するということは,そのものの無力を表示するということと関係します。現実的に存在する人間が完全に受動に隷属するというのは,実はリアルな事象ではないと僕は考えているのですが,仮にそのような事態を想定するとすれば,その人間は働きを受けるpati限りで自己の有に固執しますが,能動的に自己の有に固執するperseverareことはありません。したがって,この人間は,理念的には自然権を有するということができても,その自然権を行使している,能動的に行使しているとはいえず,むしろ自然権を放棄しているということになるでしょう。つまり,理念的に自然権があるということと,自然権を行使するということは,分けて考えておいた方がよいのです。
                                        
 それではスピノザが『国家論Tractatus Politicus』で指摘していることを引き続いて検証していきます。
 コナトゥスに自然権が由来するのであれば,現実的に存在する諸個人は,各人がなしていることのすべては,最高の自然権に従ってなしているということになります。人間は理性ratioに従っていようと従っていなかろうと,自己の有に固執するというコナトゥスは働き,またその働きactioについては意識しているからです。よって,自然権が何事かを現実的に存在する人間に対して禁じるとすれば,それはだれもがなし得ないこと,あるいはだれもが欲望しないことだけであることになります。つまり自然権というのは,現実的に何かを禁じるようなものではありません。
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リコー杯女流王座戦&自然権の規定

2022-09-10 19:08:28 | 将棋
 7日に指された第12期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳白玲が10勝,加藤桃子女流三段が8勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 振駒で西山白玲の先手で5筋位取り中飛車。相銀冠の持久戦になりました。
                                        
 先手が桂馬を打った局面。この桂馬は先手が手損をする手順で交換となったもので,すでにそのあたりの指し方に問題があったのかもしれません。
 後手は銀取りを無視して☖7五歩と突きました。桂馬を打ったからには☗6四桂が自然に思えますが,☗同歩と取りました。これは銀を取っては厳しいとみたのか,それとも別の狙いがあったからなのかは分かりません。ただこうなれば☖同銀☗同銀☖同角まで必然の進行です。
 先手はそこで☗5四歩と突いて角筋を通し,☖同歩に☗4四桂と跳ねました。先手としてはこれが桂馬を打ったときに本線の狙いだったのかもしれません。後手は☖4二金寄。
                                        
 第2図から☗7四歩☖7六歩☗6六角から角交換に進みました。ただこの進展は左側の双方の駒が捌けていますので,6九の金が働きに乏しい分だけ後手が有利でしょう。なので第1図の☗5六桂はやや無理な攻めだったということになりそうです。
 加藤三段が勝って挑戦者に。第7期以来の五番勝負出場。第一局は来月26日に指される予定です。

 喜びlaetitiaを感じることを人間の自然権jus naturaeに含めることは不自然ではないと思います。人間には喜びを感じる権利があるとか,人間は喜びを希求する権利があるといった言明は,それほど違和感なく受け入れられるのではないかと思います。したがって,受動passio一般を人間の自然権から除外してしまうと,受動的な喜びもまた自然権から除外されてしまうことになるでしょう。僕はそれは避けたいので,人間は能動actioであれ受動であれ,自然Naturaの力potentiaの下になすことはすべて,その人間の自然権であると規定するのです。
 もうひとつの理由は,たとえ悲しみtristitiaを感じているにせよ,そのときにもコナトゥスconatusは働いているという点です。現実的に存在する人間は,喜びを希求し悲しみを忌避するという本性essentiaを一般に持っているのですから,たとえばAという人間が現実的に存在し,Aが悲しみを感じるとすれば,Aにはその悲しみを忌避するというコナトゥスが働くagereのです。もっとも,Aはこの時点で悲しみを感じていると仮定されているので,その悲しみを忌避するコナトゥスが働くというより,その悲しみを除去するようなコナトゥスが働くといった方がいいかもしれません。つまり,ある悲しみを除去するようなコナトゥスが働くということまで含めて悲しみを感じることとして理解すれば,それを自然権に含めることは違和感なしに受け入れられると思います。人間には悲しみを回避する権利があるとか,人間には悲しみを除去する権利があるといった言明は,ごく自然な言明であると受け入れられるのではないでしょうか。
 ですから,喜びもまたそのような感情として人間の自然権として僕は規定します。つまり,喜びという感情自体が人間の自然権であるというよりは,喜びを希求することや,感じた喜びを保持するような自然権があると僕は規定するということです。そしてこのような規定は,自然権が由来するコナトゥスに適合するのではないかと思います。なぜなら,喜びを希求するとか喜びを保持しようとすること,また悲しみを忌避することや悲しみを除去しようとすることは,感情affectusとしていえば欲望cupiditasですが,欲望とは第三部諸感情の定義一により,人間の現実的本性actualis essentiaであるからです。
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スポニチ盃アフター5スター賞&コナトゥスと悲しみ

2022-09-09 19:19:48 | 地方競馬
 昨晩の第29回アフター5スター賞。御神本騎手は精神状態が不安定と判断され,キモンルビーは本橋騎手に変更。
 クルセイズスピリツとキモンルビーの先行争いとなり,逃げたのは外のキモンルビーの方。控えたクルセイズスピリツはオリジネイター,カプリフレイバーと並んで2番手を追走。5番手にベストマッチョ。6番手にプライルード。7番手にミチノギャングとギシギシとウインプリンツ。2馬身差でセイジミニスター。2馬身差の最後尾にワールドリングという隊列。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーからはキモンルビーとオリジネイターとカプリフレイバーが雁行。2馬身差でクルセイズスピリツとプライルードが追い上げてくる形に。直線に入って先頭に立ったのはカプリフレイバー。内の2頭は一杯になり,プライルードが勢いよく追い上げてきました。その勢いのままにカプリフレイバーを差したプライルードが抜け出して快勝。クルセイズスピリツもカプリフレイバーに迫ってきたものの届かず,3馬身半差の2着はカプリフレイバー。クルセイズスピリツがクビ差で3着。
 優勝したプライルードはここが優駿スプリント以来のレース。南関東重賞連勝で2勝目。このレースはギシギシが断然で,アクシデントがなければ負けることはないだろうとみていましたので,意外な結果。ギシギシは行き振りが悪くて苦しい位置取りになってしまったための敗戦ですが,その原因がどういったところにあったのかは今の段階では判断できません。プライルードは2着争いでは有力な1頭と評価していて,ギシギシが走れなかったなら勝っておかしくありません。3歳馬で斤量が軽かったとはいえ,この着差ですから,短距離ではかなりの能力があるとみてよいでしょう。父はラブリーデイ。母の父はサクラバクシンオー。ふたつ上の半姉が2019年にローレル賞を勝っている現役のブロンディーヴァで,ひとつ上の半姉が今年の福島牝馬ステークスを勝っている現役のアナザーリリック
 騎乗した船橋の本田正重騎手は優駿スプリント以来の南関東重賞15勝目。アフター5スター賞は初勝利。管理している大井の藤田輝信調教師は南関東重賞24勝目。アフター5スター賞は初勝利。

 第三部諸感情の定義三から分かるように,悲しみtristitiaは,大なる完全性perfectioから小なる完全性への移行transitioを意味します。完全性は実在性realitasと同じ意味ですから,現実的に存在するある人間が悲しみを感じるとき,その人間は大なる実在性から小なる実在性へ移行している,あるいは移行したことになります。このことは,コナトゥスconatusの働きactioに逆行しているといえます。なぜなら,第三部定理七により,コナトゥスは自己の有に固執するsuo esse perseverareという働きをなすのですが,大なる実在性から小なる実在性へ移行するなら,自己の有に固執していることにはならないからです。むしろこの定理Propositioが意味しているのは,現実的に存在する人間,というかこの定理は人間にだけ妥当するわけではないので,現実的に存在する個物res singularisはというべきですが,現実的に存在する個物は,より小なる実在性からより大なる実在性へ移行することを希求し,より大なる実在性からより小なる実在性へ移行することは忌避するということでなければなりません。実際に現実的に存在する人間は,より小なる実在性からより大なる実在性へと移行すること,つまり喜びlaetitiaを希求し,悲しみを忌避するという本性essentiaを有するということは,スピノザが主張していることでもあります。
                                   
 したがって,現実的に存在する人間が働きを受けるpatiことによって悲しみを感じるということと,コナトゥスは相反するということができます。しかるに自然権jus naturaeはコナトゥスに由来するのですから,そのコナトゥスに相反する事柄が現実的に存在する人間の自然権に属するというのは不条理だという見解opinioはあり得ますし,その見解には僕も同意できないわけではありません。実際のところ,人間には悲しみを感じる権利があるという言明は,意味は通じるとしても,奇妙なことを主張しているというように受け取られてもおかしくはないでしょう。
 それでも僕は,それもまた現実的に存在する人間の自然権に属するといいます。そこにはふたつの理由があって,ひとつは,働きを受けるということと悲しみを感じるということは別のことであるという点です。つまり人間は働きを受ければ必ず悲しみを感じるというわけではなく,喜びを感じることもあるのです。
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報知盃東京記念&自然権と力

2022-09-08 19:15:47 | 地方競馬
 昨晩の第59回東京記念。御神本騎手が精神的に不安定と判断され,フレッチャビアンカは今野騎手に変更。
 サトノプライムは立ち上がって1馬身の不利。シュプレノンとパストーソが並んで逃げるようなレースから,シュプレノンが単独のハナへ。3番手にランリョウオーで4番手にホーリーブレイズ。5番手併走のエメリミットとストライクイーグルまでは一団。2馬身差でセイカメテオポリス。3馬身差でフレッチャビアンカ。2馬身差でウラノメトリア。5馬身差でブラヴール。11番手にマンガン。12番手にロードマイウェイ。13番手にドスハーツ。6馬身差の最後尾にサトノプライム。最初の1000mは64秒8のスローペース。
 3コーナー前からシュプレノンは手が動き出し,コーナーに差し掛かるところではパストーソが先頭に。2番手にランリョウオーが上がり,一時的にこの後ろが3馬身くらい開きました。差を詰めてきたのはセイカメテオポリスでさらにフレッチャビアンカ。直線に入るとすぐにランリョウオーが先頭に立ち,外からセイカメテオポリスとフレッチャビアンカ。この後ろは差が開いてしまい3頭の争い。フレッチャビアンカは脱落。セイカメテオポリスはランリョウオーに迫りましたが届かず,直線先頭のランリョウオーが優勝。セイカメテオポリスが4分の3馬身差で2着。フレッチャビアンカが1馬身4分の3差で3着。
 優勝したランリョウオーはここが大井記念以来のレースで南関東重賞3勝目。このレースは出走馬の半数以上は勝ってもおかしくないと思えるメンバー構成で大混戦。距離に不安はなく3連勝中のこの馬が最もチャンスはありそうでしたが,休養明けの長距離戦でどうかというところはありました。接戦となった2着馬も休養明けでしたから,その分の不安が出たという結果ではなく,能力的にさほど差はないということなのだと思います。母の父はシンボリクリスエス。祖母はファビラスラフイン
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手はスパーキングサマーカップ以来の南関東重賞28勝目。第50回,52回に続き7年ぶりの東京記念3勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞56勝目。第55回以来となる4年ぶりの東京記念2勝目。

 理性ratioに従う限りでは,つまり能動的である限りでは,すべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致します。よってこの限りでは現実的に存在するすべての人間の自然権jus naturaeが一致します。なので,現実的に存在する諸個人の自然権が異なるのは,それら各々の人間が働きを受けるpati限りにおいてです。したがって,ある人間Aの自然権が,別の人間Bより大きな自然権を有するとすれば,それは現実的に存在する人間Aが,人間Bよりも多く働きを受けているということを意味します。後に示すように,僕はそのときに,確かにAはBより大きな自然権を有するということを認めるのですが,AがBよりも大きな力potentiaを有していることは認めません。というのは,たとえば第四部定義八から明らかなように,人間が十全な原因causa adaequataとなって,いい換えれば能動的に何事かをなすならば,それはその人間の力とみなせるのですが,人間が働きを受ける場合には,つまり受動的である場合には,それはその人間の力を表現するexprimereのではなく,無力impotentiaを表現するからです。ですから極端にいえば,ある人間がより多くの自然権を有するということは,その人間の無力を多く表しているということになるのです。
                                   
 人間のコナトゥスconatusは,その人間が能動的であろうと受動的であろうと働くagereので,僕は受動的である限りにおいて人間がなすこともその人間の自然権に含めます。しかしこの点については疑問をもつ人もいるでしょうし,否定的な考えをもつ人もいると思います。僕はそういう見解opinioも理解はできますので,そうした見解の根拠についても説明しておきましょう。
 第三部定理五九から分かるように,人間は能動的である限りにおいては,基本感情affectus primariiのうち欲望cupiditasと喜びlaetitiaを感じることはありますが,悲しみtristitiaを感じることはありません。つまり人間が悲しみを感じるということは,その人間が受動的である,働きを受けている場合に限られるのです。よってある人間が,別の人間よりも多く受動passioに隷属しているのであれば,その人間は別の人間よりも大きな悲しみ,これは数多くの悲しみという意味でありまた深い悲しみという意味でもありますが,大きな悲しみを感じることが多くなるであろうということが容易に帰結します。
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お~いお茶杯王位戦&侵害の発生

2022-09-07 19:37:45 | 将棋
 一昨日と昨日,平田寺で指された第63期王位戦七番勝負第五局。
 豊島将之九段の先手で角換わり相腰掛銀。終盤まで激戦が続く大熱戦の素晴らしい将棋でした。
                                        
 数手前に後手の藤井聡太王位が☖1三角と打ったのが好手で,先手はその手が厳しいので苦戦に陥ったと判断していたようです。ただその後で後手がすぐの攻めに出なかったので,先手に☗8四金と打つ手が入り,第1図では難解な局面となっていて,後手はここでは負けかもしれないと思っていたとのことです。
 第1図から☗7七金と寄って角筋を通し,☖6五歩の受けに☗1五歩と攻め合いに出ました。ただこれはあまり正しい判断ではなかったようで,角が動けるようになったのでとりあえず☗8七角と上がり,☖6九銀と打たせないようにするのが有力でした。
 この後,飛車角交換になってまた後手が優位に立ったのですが,4八の金を取らずに成銀を6八に寄せたため,また難しくなりました。
                                        
 第2図まで進んで思わしい変化がすべて負けなので,先手はここで負けと判断したとのこと。実戦は☗5三歩と打ちました。代案は☗5八金と☗6六歩。☗5八金は後に実戦でも現れて先手が負けていますので,☗6五歩から無理やりこじ開けにいってどうだったのかということになるでしょう。
 4勝1敗で藤井王位が防衛。第61期,62期に続く三連覇で3期目の王位を獲得しました。

 現実的に存在する人間は,理性ratioに従っている限りでは本性essentiaが一致します。自然権jus naturaeはコナトゥスconatusすなわち現実的本性actualis essentiaに由来しますから,その限りでは自然権も一致するのです。よってこの場合では,ある人間と別の人間が自然権を侵害し合うことも生じません。ある人間の自然権が別の人間の自然権と一致するのなら,両者は自然権を拡大するために協力するということはあっても,一方の自然権を減少させるとか阻害するということは起こり得ないからです。それは各々のコナトゥスに反することだといえるからです。
 現実的に存在するある人間が理性に従うということは,その人間の能動actioを意味します。要するに,現実的に存在する人間は,能動的である限りでは自然権が一致しますし,互いの自然権を侵害するということもないのです。よって,現実的に存在するある人間と別の人間の自然権の相違は,現実的に存在する人間が理性に従わない場合に,あるいは同じことですが働きを受けるpati限りで生じることになりますし,同様に現実的に存在するある人間が別の人間の自然権を侵害するということは,その人間が理性に従っていない場合に,つまり受動的である限りにおいて発生するということになります。第四部定理三四は,人間は受動的である限りにおいて対立的であり得るということをいっていますが,この対立のひとつとして,他者の自然権の侵害があると理解してよいと思います。
 こうしたことも,自然権がコナトゥスに由来するがゆえに生じます。第三部定理九から分かるように,現実的に存在する人間は,十全な観念idea adaequataを有する限りでも混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも,つまり能動的である限りでも受動的である限りでも自己の有esseに固執するperseverare,いい換えればコナトゥスが働きますから,コナトゥスに由来する自然権もまた,十全な観念を有する限りで,理性に従っている限りである人間に属するということはできないのです。
 このことから気を付けておかなければならないことがあります。それは,たとえばある人間が別の人間より多くの自然権を有しているからといって,それは必ずしもその人間が他者より大きな力potentiaを有しているとはいえないということです。
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ヒューリック杯白玲戦&各人の自然権

2022-09-06 19:21:35 | 将棋
 3日に京都で指された第2期白玲戦七番勝負第二局。
 西山朋佳白玲の先手で三間飛車。先手から先に角を交換したので後手の里見香奈女流五冠は向飛車に。先手も向飛車に振り直しての相向飛車になりました。
 この将棋は僕には後手の仕掛けが無理に思えたのですが,手が進んでみるとそうでもなく,成立していたようです。
                                        
 第1図近辺が大きな分かれ目でした。後手が☖8四金と逃げたのに対し先手は☗7四歩と垂らしました。これは実戦のように☖同金と取らせ,☗4五銀☖同桂のときに☗5六角と打つ手に期待したもの。ただこの角が思いのほか働かず,先手が苦戦に陥りました。
 感想戦では手順中,☗4五銀と取らずに☗3四歩と打つ手が検討され,先手の攻めが細いかもしれないけれどもいい勝負という結論でした。そうであれば,☖8四金と逃げたときに☗7四歩と打たずに☗3四歩と打ってしまう手もあったかもしれません。その場合は7四の金を取る手は消えますが,7三に駒を打つ手は残りますし,後で☗7四歩と垂らす手も含みとして残るからです。なので後手としても第1図で☖8四金と逃げたのは危険で,☖6三金の方が安全だったのではないでしょうか。
 里見五冠が連勝。第三局は10日に指される予定です。

 自然権jus naturaeがコナトゥスconatusに由来するということからのもうひとつの帰結は,諸個人が有する自然権は異なるということです。これは以下の原理から帰結します。
 第三部定理七により,コナトゥスというのは現実的に存在する諸々の個物res singularisの現実的本性actualis essentiaを意味します。そこで現実的にAという人間とBというふたりの人間が存在するとすれば,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なります。第三部定義二により,事物と事物の本性は一対一で対応し合わなければならないので,Aの現実的本性とBの現実的本性が完全に一致するなら,AとBは同一の個物である,つまり同一人物であることが帰結しますが,この帰結はAとBというふたりの人間が現実的に存在するという仮定に反するからです。そのコナトゥスが各々の自然権の由来となるのですから,Aの自然権とBの自然権は,AのコナトゥスとBのコナトゥスが相違するだけ相違するといわなければなりません。ひとつめの帰結の説明の中で,2頭のライオンが自然権を侵害し合う例を説明したときに,ライオンAとライオンBの自然権は完全に一致するわけではないということをいっておきましたが,それもこのふたつめの帰結が理由です。
 現実的本性が一致する人間が存在するということはありません。これも事物と事物の本性が一対一で対応するということから帰結します。よって現実的に存在する人間は,その現実的本性が異なる分だけ異なった自然権を有するといわなければいけません。つまり,完全に一致する自然権を有する複数の人間が現実的に存在するということはないのです。ただし,それは完全には一致しないというだけであって,一致する部分を多く含むのも事実です。スピノザは人間の本性natura humana,つまり現実的に存在する人間のすべてに一般の本性があるということは認めていて,それは現実的に存在するすべての人間に反映されると僕は考えるからです。少なくとも,第四部定理三五により,現実的に存在する人間は理性ratioに従う限りでは本性が一致するのですから,もしもすべての人間が理性に従っているのであれば,その現実的本性は一致することになり,よって自然権も一致するといわなければなりません。
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韓国国際競走&侵害

2022-09-05 19:18:54 | 海外競馬
 昨日の午後に韓国のソウル競馬場で行われた韓国国際競走に2頭の日本馬が遠征しました。
 コリアスプリントGⅢダート1200m。ラプタスはかなり押して逃げる競馬。2頭が追い掛けてきたので,3頭で4番手以下を離すようなレースになりました。コーナーの途中から手を動かして後ろを離しにいきましたが,思いのほか差を広げることはできず,それでも残り50メートルまでは粘ったものの,3番手を追走してい馬に差され,半馬身差の2着でした。
 コリアカップGⅢダート2000m。セキフウは逃げ馬から2馬身差くらいの2番手を追走。向正面で徐々に差を詰めていき,3コーナーから逃げ馬に並び掛けていこうとしましたが,追いつくことができず,また差が広がる形。直線に入ってもその差は詰まらず,さらに残り100mで外から勝ち馬にも差され,勝ち馬から2馬身差の3着でした。
 ラプタスはたぶん能力上位で,勝機はあると思っていましたが,この馬は1400mの方が得意なので,スピードで圧倒されたり,または前半が速いペースになり過ぎた場合には崩れる可能性もあるとみていました。結果的に後者のパターンで差されたというケースになりました。セキフウは自分から勝ちにいくと力を十分に発揮することができない面がある上に,これが古馬との初対戦なので,厳しそうだと思っていました。そのわりにはレース内容は悪くなかったと思いますが,距離は長いようです。

 念のためにいっておけば,ライオンAの自然権jus naturaeとライオンBの自然権は,完全に一致するわけではありません。あるいは同じことですが,ライオンAのコナトゥスconatusとライオンBのコナトゥスは,完全に一致しているわけではありません。このことはもうひとつの帰結を説明するときに理解することができるでしょう。また,ライオンの自然権とシマウマの自然権の間には,一致する部分もあります。いい換えれば,ライオンのコナトゥスとシマウマのコナトゥスには一致する部分もあります。これは第三部定理七が,現実的に存在するすべての個物res singularisに適用されるということから明白ですし,シマウマの自然権を侵害する自然権をライオンが有しているということからも明らかでしょう。
                                   
 ここではシマウマとライオンで説明しましたが,これは自然権の一例です。よってここでいったようなことが,人間にも妥当することになります。つまり,ライオンにはシマウマの自然権を侵害する自然権があるように,人間は人間以外の個物の自然権を侵害するような自然権を有していることになります。これが,浅野とか佐藤一郎がいう,スピノザの哲学における人間中心主義の一例になります。人間が自然のうちにある他の個物の自然権を侵害する自然権を有するとすれば,たとえば環境保護とか動物愛護といった思想と,スピノザの哲学は非親和的であることになるでしょう。人間が他の個物の自然権を侵害する自然権を有しているということは,人間は自然のうちに現実的に存在する個物について,それを人間のコナトゥスに応じて利用する権利を有しているというのと同じことだからです。
 ただし,この自然権は人間のコナトゥスに由来する権利ですから,人間による自然の利用が,人間のコナトゥスあるいは人類のコナトゥスに反するのであれば,人間はそのような自然権を有さない,つまりそうした権利を手放さなければならないことになります。よって,ある種の環境破壊とか,ある種の動物虐待が,人間のコナトゥスないしは人類のコナトゥスに反するのであれば,そのような環境は保全されなければならないし,そうした動物は愛護されなければならないということになります。
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長良川鵜飼カップ&争い

2022-09-04 20:22:44 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは真杉‐平原の関東,岩本‐佐藤の東日本,志田‐山口‐川口の岐阜,松浦に大槻。
 平原がスタートを取って真杉の前受け。3番手に松浦,5番手に志田,8番手に岩本で周回。残り3周のバックの出口から岩本が上昇開始。志田が佐藤の後ろに続きました。ホームで岩本が真杉を叩きにいきましたが,真杉が突っ張りました。バックに入って岩本の外から志田が発進。打鐘で真杉を叩くと,真杉は山口を牽制して地元を分断しにいきました。番手は山口が守りましたが,川口は続くことができず,3番手に真杉で5番手に松浦という隊列に。バックでまた真杉が巻き返しにいくと山口が番手から応戦。ただこのふたりはそこまでに脚を使っていたため,さらに外から捲ってきた松浦には抵抗できませんでした。平原が真杉の番手から松浦の後ろにスイッチして,直線は松浦と平原の争いに。平原は差を詰めたものの並び掛けるところまではいかれず,優勝は松浦。平原が半車身差で2着。松浦の番手を平原に奪われた大槻が,立て直して平原を追い,2車身差の3着に流れ込みました。
 優勝した広島の松浦悠士選手は前回出走の富山記念からの連続優勝で記念競輪17勝目。岐阜記念は初優勝。このレースは志田の先行が有力なので,優勝候補の筆頭は山口で,脚力上位の松浦が2番手というのが僕の評価。僕が思っていた以上に真杉が頑張ったために,真杉と山口は厳しくなり,松浦の捲りがあっさりと決まる展開になりました。たぶん松浦は真杉が頑張るだろうとみて,真杉ラインの後ろを周回したと思いますので,その読みの鋭さが引き寄せた優勝だったと思います。

 ライオンはシマウマの自然権jus naturaeを侵害する自然権を有するのが,ライオンとシマウマのコナトゥスconatusの相違に由来するのであれば,もしコナトゥスの相違がない場合は,ライオンの自然権とシマウマの自然権の間で争いが生じ得ることになります。ライオンのコナトゥスとシマウマのコナトゥスには現に相違があるので,こうした仮定は無意味ですが,現実的に存在する2頭のライオンの間では,コナトゥスが相違しない分だけ,各々の自然権を巡る争いが生じやすくなります。もちろんライオンが別のライオンを食うということはありませんから,ライオンがシマウマの自然権を侵害するのと同じように,あるライオンが別のライオンの自然権を侵害するということはありません。これはライオンが別のライオンを食べるということが,ライオンのコナトゥスには含まれていないからです。しかし,ライオンAがライオンBの縄張りを侵害するということは,ライオンのコナトゥスによって生じ得る事象です。これはライオンAによるライオンBの自然権の侵害であるといえるでしょう。しかしライオンBもまたライオンであるのですから,それと同じコナトゥスをもっています。よってライオンBは,自らの自然権を侵害したライオンAに対して,方法はどうあれ反撃することになるでしょう。このときライオンBは,自らの自然権が侵害されたと認識してライオンAに対して反撃するわけではありません。僕が前に,すべての個物res singularisに自然権があるというのは,概念notioとしてあるということだといっておいた理由のひとつは,このような事象を,たとえライオンは自らの自然権を意識したりはしないとしても,ライオンのコナトゥスに由来するライオンの自然権として考えるためです。
                                        
 ここまでのことから理解できるように,各々の自然権が各々のコナトゥスに由来するのであれば,それぞれのコナトゥスの相違が大きいほどそれぞれの自然権は一致をみることが少なく,よって一方の他方への自然権の侵害による争いは生じにくくなり,逆にコナトゥスの一致する部分が大きいほど,自然権も一致する部分が大きくなるので,互いの自然権を侵害し合って争うケースも増加することになるのです。
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戸口の雑感⑬&コナトゥスと自然権

2022-09-03 19:23:53 | NOAH
 戸口の雑感⑫の最後のところでいったように,1979年8月26日に,東京スポーツが主催したオールスター戦が開催されました。戸口はこのとき藤波とも戦ったのですが,それに関連して戸口は藤波に対して簡潔な評価を与えています。
 でいったように,戸口は大木金太郎と組んでインタータッグの王者になった後,一時的にアメリカに戻っています。このときにカロライナで藤波と一緒になったそうです。戸口からみると藤波は身体が小さかったので,アメリカでやっていくのは厳しいだろうと感じたそうです。藤波はジャンボ・鶴田と比べられることが多かったレスラーですが,戸口はこの点で鶴田と藤波には歴然とした差があったというように認識しているようです。なのでもしも藤波が全日本のレスラーで,美獣とかファンクスといった超一流のレスラーと戦ったとしても,善戦することもできなかっただろうといっています。これは僕にとっては思いのほか厳しい評価でした。とくに戸口は後に新日本で藤波と実際に戦っているので,よりそのように感じられました。戸口にいわせれば,藤波が成功することができたのは,新日本プロレスで,それもジュニアヘビー級だったからだということのようです。佐藤と藤波のエピソードで紹介したように,おそらく藤波は選択の余地などなく新日本プロレスで仕事をすることになったのだと思われますが,戸口からすれば,それは藤波にとっては幸運なことだったということになるのでしょう。一方でこの評価からは,戸口自身の身体の大きさに対する自負も感じられます。
 当時の全日本プロレスのチャンピオンカーニバルは総当たりのリーグ戦でしたので,戸口は日本陣営に加入した後も,1980年と1981年のリーグ戦で鶴田とシングルマッチを行っています。どちらも時間切れ引き分けでした。このことについては戸口はふたりの試合はタイムアップが定番となってしまったので,その流れは断ち切りたかったと思っていたそうです。つまりこの流れは,戸口にとってよいものではなく悪いものだったことになります。しかしそのように両者に傷をつけないのが,馬場流のやり方だったと戸口は言っています。

 自然権jus naturaeがコナトゥスconatusによって規定されるということになると,ふたつの事柄が帰結します。これは『国家論Tractatus Politicus』では論じられていないのですが,重要なことなので僕の方から説明しておきましょう。
                                   
 コナトゥスを論じている第三部定理七は,何度かいっているように,人間にだけ固有に成立する定理Propositioではなく,現実的に存在するすべての個物res singularisに適用される定理です。したがって,コナトゥスが自然権を規定するのであれば,少なくとも概念notioとしては,現実的に存在するすべての個物が,その個物に特有の自然権を有しているといわなければなりません。ここで僕が概念としてというのは,多くの個物は人間のようには自然権を認識したり意識したりはしないでしょうから,そうした認識cognitioとか意識とは無関係に,つまりある個物が自身の自然権を何ら認識したり意識したりしないとしても,その個物には自然権があるというように解さなければならないということをいいたいがためです。
 僕はかつて,ライオンの自然権について語ったことがあります。おそらくライオンは,人間が自然権を認識するcognoscereようにはライオンの自然権を認識しないでしょう。それでもライオンには自然権があるというように解するべきです。なぜなら,現実的に存在する人間にはその人間に固有のコナトゥスがあるように,現実的に存在するライオンにはそのライオンに固有のコナトゥスがあるのであって,このコナトゥスが自然権を規定するからです。
 僕はそのときに,ライオンにはシマウマを食う自然権があるといういい方をしました。僕は生存権というのも自然権の一部と考えますので,ライオンにシマウマを食う自然権があるというのは,ライオンにはシマウマの生存権を,つまりは自然権の一部を侵害する自然権があるという意味になります。そしてこのことは,ライオンのコナトゥスとシマウマのコナトゥスとの相違によって生じるのです。いい換えれば,ライオンの現実的本性actualis essentiaとシマウマの現実的本性の相違によって生じるのです。このために,ライオンはシマウマを食う権利jusを有しているのであって,同じことですがライオンはシマウマの自然権を侵害する権利を有していることになるのです。
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マトリョーシャ&第三部定理九備考

2022-09-02 19:40:00 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に,杉田俊介の「老い衰えていく神の信徒として」という文章があります。この中で『悪霊』について触れられている部分があるのですが,そこで杉田は,スタヴローギンはマトリョーシャに対して恐怖を感じていたし,畏怖を感じてもいたという主旨のことが書かれています。これは僕にとっては意外な視点でした。
                                        
 マトリョーシャというのは,スタヴローギンから性的な虐待を受けることによって自殺してしまう少女です。この部分の描写が過激であったので,『悪霊』のこの部分は雑誌に掲載することができなかったのです。マトリョーシャは物語の中では明確な被害者であるので,彼女がスタヴローギンから怖れられていたし畏れられてもいたという解釈は,僕にとっては意外なものだったのです。
 杉田によれば,マトリョーシャは神を殺すことができたのです。少なくともマトリョーシャ自身はそのように信じていました。そのために異様な歓喜と興奮の中で自身の身を滅ぼしていったのです。このような杉田の解釈が成立するのかということは,僕には疑問です。ですが,もしもそうであったのなら,マトリョーシャがスタヴローギンによって怖れられたり畏れられたりする理由だけははっきりします。というのもスタヴローギン自身が神を殺すことを願っていたのであり,そのためにスタヴローギンは数多くの享楽や悪を重ねていたのです。マトリョーシャに対する虐待も,スタヴローギンが神を殺すための手段であったとみることができます。ところがスタヴローギン自身は最後まで神を殺すことを達成することはできませんでした。それなのに,自分が虐待したマトリョーシャにそれができたのだとすれば,あるいはスタヴローギンにそう思えたのだとしたら,スタヴローギンはマトリョーシャに対して畏怖の念を感じ,また自身がなし得ないことを成し遂げたことに恐怖を感じるでしょう。
 マトリョーシャに神を殺そうという意図があったとは僕は思わないです。でも,スタヴローギンには,マトリョーシャが神を殺したように思えたということは,大いにありそうだと思います。

 人間の自然権jus naturaeを理性ratioによって規定するのではなく,能動actioであるか受動passioであるかと無関係に衝動appetitusによって規定しなければならないというのは,人間の自然権をその人間のコナトゥスconatusによって規定しなければならないといっているのと同じことです。このことは第三部定理九備考の冒頭でいわれていることから明白です。
 「この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ,それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる」。
 第三部定理九でいわれている努力conatusとはコナトゥスを意味し,そのコナトゥスが現実的に存在する人間の精神mens humanaとその人間の身体humanum corpusとに同時に関係するとみられるとき,そのコナトゥスは衝動といわれるというのがこの部分の意味になるからです。なお,この部分でスピノザが意志voluntasについていっていることは,スピノザの哲学全体の中で意志といわれるときの意味と異なっているとみられなければなりませんが,そのことについては現状の考察と無関係なので,ここでは探求から除外します。僕がこのブログで意志というときは,それは意志作用volitioの総体を意味するのであり,個々の意志作用というのは,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioのことであるという点にだけ注意しておいてください。
 自然権がコナトゥスによって規定されなければならないということは,人間の自然権は人間が存在existentiaおよび働きactioに対して持っているのに相当する権利juraを自然のままでもっているということからの結論ですが,次のように説明した方が分かりやすいかもしれません。
 理性から生じないような感情affectusは,もっぱら能動すなわち働きではなく受動passioであるといわれなければなりません。しかし自然権というからには,自然の力一般について論じなければならないでしょう。したがって,もしも理性によって生じる感情だけが自然の力potentiaに属し,理性から生じないような感情は自然の力に属さないというなら,自然権は理性によって規定されることになります。ところが実際はそうではなく,現実的に存在する人間の感情は,その人間の理性から生じるのであれ理性からは生じていないのであれ,つまり能動であれ受動であれ,自然の力に属するのです。
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王座戦&人間の自然権

2022-09-01 19:14:41 | 将棋
 高輪で指された昨日の第70期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は永瀬拓矢王座が10勝,豊島将之九段が9勝。持将棋が2局でほかに千日手が1局あります。
 振駒で永瀬王座が先手となり,角換わり相腰掛銀。後手の豊島九段が6筋の位を取る形に進めました。やや古い形で,時間の使い方からすると先手は十分には準備できていなかったように思えました。
                                        
 第1図で先手は8筋を手抜いて☗6二銀と打ち,☖4三金寄☗5五桂と攻めていきましたが,☖6九銀が厳しく,後手の攻め合い勝ちになりました。
 第1図で☗同歩と取ると☖7七歩☗同桂☖8九飛と攻められて厳しいと先手はみていたようですが,☗同歩に対しては手が広いところですので,もしもすでに苦しいと思っていたのなら,相手に任せてしまうのもひとつの方法であったように思います。
 豊島九段が先勝。第二局は13日に指される予定です。

 『国家論Tractatus Politicus』では自然権jus naturaeが次のように定義されます。
 神Deusの力potentiaは,絶対に自由なものです。もちろんここでいう自由libertasは,意志voluntasの自由を意味するのではなく,第一部定義七でいわれている自由です。この意味で,神の力とされるものを,スピノザは神の権利jusであるといいます。つまり神は自然Naturaに対して権利を有しているといわれるのです。他面からいえば,能産的自然Natura Naturansは所産的自然Natura Naturataに対して自由な力を有していて,この自由な力が能産的自然の権利とみなされるのです。そしてこの権利が神の自然権です。したがって,所産的自然に該当するすべてのものは,そのものが存在existentiaおよび働きactioに対して力を有しているなら,それと同じだけの権利をもっているといわれなければなりません。これが基本的に所産的自然に属するものの自然権を規定することになります。
 ところが,第四部公理により,所産的自然に属するものが現実的に存在するとき,それよりも強力な別の所産的自然が現実的に存在することになります。したがって,現実的に存在する個物res singularisの自然権というのは,必然的にnecessario制限された自然権です。あるいは制限されているというより,それ自身よりも強力な個物からの受動passioに常に晒されている個物が現実的に存在すると仮定すれば,その個物が何らかの自然権を有するということは,理念的に有しているということだけを意味するのであって,実際にはその個物に自然権があるということは無意味になってしまうでしょう。
 このことを前提として,現実的に存在する人間について考えてみます。
 もしも現実的に存在する人間が,理性ratioに従うことによって生活し,それ以外のものは何も求めないと仮定しましょう。この場合は人間に固有なものとしてみられる限りの自然権は,理性の力によって決定されることになります。しかしこの仮定は現実的に存在する人間の姿を正しく反映したものであるとはいえません。なぜなら第四部定理四系により,現実的に存在する人間は常に受動に隷属しているといわれなければならないからです。よって人間の自然権についてそれを理性によって規定するのは誤りerrorであって,能動であれ受動であれ各々の衝動appetitusによって規定するのが正しいのです。
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