スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日本テレビ盃&欠如

2022-09-29 19:18:12 | 地方競馬
 昨晩の第69回日本テレビ盃。フルデプスリーダーは枠の中で立ち上がり,負傷したために競走除外となって13頭。
 すぐにサルサディオーネが先頭に。ノットゥルノが2番手でマークし3番手にクラウンプライド。2馬身差でギガキング。5番手にペイシャエス。3馬身差でミューチャリーとフィールドセンス。2馬身差でマンガン。4馬身差でジュランビルとメスキータ。2馬身差でクレールアドレ。1馬身差でマイネルヘリテージ。4馬身差の最後尾にグレートコマンダーと縦長の隊列。最初の800mは48秒5のハイペース。
 3コーナーを回るとクラウンプライドも前の2頭を追いかけていき,サルサディオーネ,ノットゥルノ,クラウンプライドの3頭が雁行に。直線に入るとすぐにノットゥルノは脱落。クラウンプライドがサルサディオーネを競り落として抜け出すと,外からフィールドセンスの末脚が炸裂。クラウンプライドを差し切って優勝。クラウンプライドが半馬身差で2着。一杯になりながらもサルサディオーネが3馬身差の3着に粘り込みました。
 優勝したフィールドセンススパーキングサマーカップから連勝。重賞は初勝利。転入後はいい競馬を続けていましたが,JRA時代の実績から考えるとこのメンバーでは厳しいのではないかとみていたので,個人的には驚きの勝利でした。年齢的にもここにきて強くなるということは考えにくいので,JRA時代は何らかの理由で力を十分に発揮することができていなかったということなのだと思います。そういう意味では移籍して大成功だったということになるでしょう。母の父はスペシャルウィーク。母の従兄にゼンノロブロイ
 騎乗した船橋の本橋孝太騎手は2013年のテレ玉杯オーバルスプリント以来となる重賞2勝目。管理している船橋の山下貴之調教師は昨年のかしわ記念以来となる重賞3勝目。日本テレビ盃は初勝利。

 三木はスピノザの哲学には弁証法が欠如していると批判しています。このことは事実です。ただ,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがスピノザの哲学に見出した欠如というのは,弁証法の欠如であったかというと,実際にはそうではなかっただろうと僕は考えています。
 これは何度かいったことがあったと思いますが,ヘーゲルはスピノザについて,実に注目するべきことをいっています。ヘーゲルにとって哲学というのはふたつしかありませんでした。ひとつがスピノザの哲学で,もうひとつがそれ以外の哲学です。この発言から容易に理解できるように,ヘーゲルは自身に先行する,これは時間的な意味で先行するということなので,自身よりも以前の哲学者の中では,とくにスピノザに注目していたのです。これはデカルトRené Descartesではなくてスピノザという意味であり,またカントImmanuel Kantではなくスピノザという意味をもつので,とても重要です。
 しかしヘーゲルは,そのスピノザの哲学の中にも不十分なものがあると考えました。それはスピノザの哲学の中には主体subjectumという概念notioが一切みられない,つまり主体という概念が欠如しているという点にあったと僕は解します。そこでヘーゲルは,スピノザの哲学の中に主体という概念を取り込むために,弁証法を用いたというのが僕の見方です。したがって弁証法というのはヘーゲルにとってはスピノザを超克するための一種の方法論なのであって,確かにスピノザの哲学には弁証法はありませんが,弁証法自体の欠如よりも,主体という概念の欠如の方が,ヘーゲルにとっては重大なことだったと僕は思うのです。
                                   
 主体の排除は,スピノザの哲学の大きな特徴のひとつですが,このことについては何度も示してきましたので,ここで詳しく説明することはしません。ただこのことは政治論とも関係しています。たとえばスピノザは統治権imperiumを人びとの共通の意志voluntasに基づく権利と規定しますが,こうした規定が可能なのは,人びとに共通の意志,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる意志作用volitioの総体としての意志があり得ることを前提しなければなりません。そしてこれは,事物の十全な観念idea adaequataの形相formaならびに本性essentiaは,それを認識するcognoscere知性intellectusと無関係に同一だからです。
コメント
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