札幌で指された昨日の第2期白玲戦七番勝負第四局。
西山朋佳白玲の先手で三間飛車。後手の里見香奈女流五冠の方から角を交換して相向飛車になりました。先手の攻めが続くか否かが焦点に。
第1図で先手は☗5四歩と打ちました。現状は最後の持ち歩なので思い切った一手という感じで,たぶん正しく受けることができれば後手が優勢という局面だったのではないかと思います。
後手は☖6二玉と上がって受けたのですが,これは結果的に☗5四歩の勝負手を生かす手になってしまいました。
先手は☗3四歩と突きました。これに☖同銀は仕方がありません。そこで☗1六香☖1五歩と歩を入手して☗6六飛。後手はここで☖7四歩と打ちましたが☗同角と角の方で取って攻めが繋がることになりました。
実戦は☖7四歩が効果的な受けになりませんでした。☖6二玉と上がったところで先に☖7四歩と打っておくべきだったようです。
西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は来月1日に指される予定です。
もしもスピノザがいうように,権利jusを力potentiaと等置するのであれば,人間が自然Naturaのうちにひとりでいるならば,その人間には自然権jus naturaeはないといっても構いません。全自然の力というのは,ひとりの人間の力に対しては圧倒的であるからです。あるいはひとりの人間の側からみるならば,ひとりの人間のコナトゥスconatusが全自然の力に対してなし得ることはたかが知れているからです。単純にいえば,全自然の力に抗ってひとりの人間が自己の有esseに固執するperseverareことなどはほとんど不可能なことであるといって差し支えありません。よってこの人間には自然権はない,まったくないとはいえなくともほとんどないのであって,この人間が自己の有に固執する力は,全自然の力の下にあるということになるでしょう。いい換えればこの人間の自然権は,全自然の下にあるのであって,この人間の下にはないということになり,よって人間が自然のうちにひとりでいるなら,その人間は自然権を有していない,少なくとも有していないに等しいということになるのです。
しかしもしも自然権をそのような力,しかも可能的な力としてでなく現実的な力としてのみに解するのではなく,何らかの概念notioとして,それは倫理的な意味であっても法的な意味でも同じですが,そうした概念として理解するのであれば,たとえ人間がひとりで全自然のうちにあるときでも,そのような概念としての自然権は有しているのであって,単にそれを行使することができないだけであるというように解しておくのが安全です。僕は自然権というのを哲学的な概念として解しますが,一般的には自然権は法的な権利として解されるでしょうから,一般的にはスピノザがいっていることは,そうした人間には権利がないということではなく,権利を行使することが不可能になっているとか,権利を行使することがきわめて困難になっているという意味であると解する方が適切です。僕はあくまでも自然権を哲学的な概念として解しますから,ここではスピノザがいうように,そうした自然権がひとりの人間にはないといいますが,それはたとえば法的概念として自然権が認められないという意味ではない点には注意しておいてください。
西山朋佳白玲の先手で三間飛車。後手の里見香奈女流五冠の方から角を交換して相向飛車になりました。先手の攻めが続くか否かが焦点に。
第1図で先手は☗5四歩と打ちました。現状は最後の持ち歩なので思い切った一手という感じで,たぶん正しく受けることができれば後手が優勢という局面だったのではないかと思います。
後手は☖6二玉と上がって受けたのですが,これは結果的に☗5四歩の勝負手を生かす手になってしまいました。
先手は☗3四歩と突きました。これに☖同銀は仕方がありません。そこで☗1六香☖1五歩と歩を入手して☗6六飛。後手はここで☖7四歩と打ちましたが☗同角と角の方で取って攻めが繋がることになりました。
実戦は☖7四歩が効果的な受けになりませんでした。☖6二玉と上がったところで先に☖7四歩と打っておくべきだったようです。
西山白玲が勝って2勝2敗。第五局は来月1日に指される予定です。
もしもスピノザがいうように,権利jusを力potentiaと等置するのであれば,人間が自然Naturaのうちにひとりでいるならば,その人間には自然権jus naturaeはないといっても構いません。全自然の力というのは,ひとりの人間の力に対しては圧倒的であるからです。あるいはひとりの人間の側からみるならば,ひとりの人間のコナトゥスconatusが全自然の力に対してなし得ることはたかが知れているからです。単純にいえば,全自然の力に抗ってひとりの人間が自己の有esseに固執するperseverareことなどはほとんど不可能なことであるといって差し支えありません。よってこの人間には自然権はない,まったくないとはいえなくともほとんどないのであって,この人間が自己の有に固執する力は,全自然の力の下にあるということになるでしょう。いい換えればこの人間の自然権は,全自然の下にあるのであって,この人間の下にはないということになり,よって人間が自然のうちにひとりでいるなら,その人間は自然権を有していない,少なくとも有していないに等しいということになるのです。
しかしもしも自然権をそのような力,しかも可能的な力としてでなく現実的な力としてのみに解するのではなく,何らかの概念notioとして,それは倫理的な意味であっても法的な意味でも同じですが,そうした概念として理解するのであれば,たとえ人間がひとりで全自然のうちにあるときでも,そのような概念としての自然権は有しているのであって,単にそれを行使することができないだけであるというように解しておくのが安全です。僕は自然権というのを哲学的な概念として解しますが,一般的には自然権は法的な権利として解されるでしょうから,一般的にはスピノザがいっていることは,そうした人間には権利がないということではなく,権利を行使することが不可能になっているとか,権利を行使することがきわめて困難になっているという意味であると解する方が適切です。僕はあくまでも自然権を哲学的な概念として解しますから,ここではスピノザがいうように,そうした自然権がひとりの人間にはないといいますが,それはたとえば法的概念として自然権が認められないという意味ではない点には注意しておいてください。