スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯白玲戦&自己の権利

2022-09-13 19:23:09 | 将棋
 10日に指宿温泉で指された第2期白玲戦七番勝負第三局。
 里見香奈女流五冠の先手で中飛車。後手の西山朋佳白玲がすぐに三間飛車に振っての相振飛車になりました。
                                        
 後手が2筋の歩を交換した局面。ここで☗3八金と上がって受けたのですが,これが敗着に近い一手となってしまいました。
 後手は☖5六飛と歩を取りました。これが先手が軽視していた一手。☗2三角と打てるのでこの手はないと思ってしまったようです。
 対して☖4五角と打つのが好手。☗3二角成では☖6六飛~☖8九角成が厳しいようです。ただ放置しておいては☖2六飛~☖6七角成がひどいので,☗5八金と受けました。
 これには☖2六飛と戻り,☗3二角成を強要させ,☖2七歩。二枚換えで破られるわけにはいかないので☗3九銀ですがそこで☖3三桂と跳ねておきます。
                                        
 これで将来的に飛車が2筋からいなくなってもすぐに駒を取られる心配がなくなりました。先手は馬を作ったものの働きがきわめて乏しい上に,玉型の差が大きく,第2図は後手がかなり優勢となっています。
 西山白玲が勝って1勝2敗。第四局は17日に指される予定です。

 もし現実的に存在する人間の精神mens humanaが,他者によって欺かれているとするなら,その人間は欺いている他者の権利jusの下にあるといわなければなりません。なぜなら,現実的に存在する人間は,他人の力potentiaの下にある限りでは他人の権利の下にあるといわれなければならないので,他人に欺かれている限りではその他人の力の下にあることになるからです。いい換えればこの限りにおいては,人間が物事を判断する力が,もちろんその力のすべてでがないにしてもその一部は,確かに欺いている人間の力の下にあるといわれなければならず,少なくともその力の分だけはその人間は欺いている人間の権利下に置かれていることになるからです。
 これは逆にいえば,人間の精神の思惟する力は,その人間が理性ratioを用いる限りで自己の権利の下にあるという意味になります。人間は理性に従う限りでは,他人に欺かれることはないからです。のみならず,人間は理性に従う限りではすべての事物を十全に認識するcognoscereのですから,他人に限らず,あらゆるものに欺かれるということがないということになるでしょう。現実的に存在する人間がある事柄について欺かれるということは,その人間がそのものの混乱した観念idea inadaequataを有するというのと同じことであるからです。
 これは『国家論Tractatus Politicus』では触れられていませんが,この点についても僕の方から注意を喚起しておきたいことがあります。
 スピノザの哲学では虚偽falsitasと誤謬errorは異なるのであって,人間の精神のうちにある事柄の虚偽があるということと,その人間がその事柄について誤謬を犯すということとは分けて考えなければなりません。僕はこの区分で,人間が誤謬を犯している限りではその人間の精神は自己の力の下にある,あるいは同じことですが,自己の権利の下にあるとはいえないと思います。ある人間が誤謬を犯すということは,ある人間が虚偽を真理veritasと思い込むということと同じことなのであって,それが力potentiaであるということは不条理であると考えるからです。これはちょうど,ある人間がより多く働きを受けるpatiならより多くの自然権jus naturaeが属するといわれ得るとしても,それはその人間の力よりも無能力impotentiaを表示するというのと同じことです。
コメント
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