完全性perfectioが思惟の様態cogitandi modiであるということと比較すれば,善と悪が思惟の様態であるということは理解しやすいと思います。
完全性は実在性realitasと同じですから,Aの実在性がBの実在性より大なる実在性であるなら,AはBよりも完全で,BはAよりも不完全と認識されるのです。しかしBの実在性はAの実在性よりも小なる実在性なのですから,その限りにおいてBは完全です。よってBが不完全であるというのは,BをAと比較した知性intellectusのうちにのみある思惟の様態であるということになります。しかしこのとき,Aの実在性がBの実在性よりも大なる実在性であるということ,同じことですがBの実在性がAの実在性より小なる実在性であるということは,そのことを認識するcognoscere知性を離れても事実である,つまりそれらの命題は真verumであるということが前提されています。よってその限りでは,これらのことはAおよびBの各々の本性essentiaに属することだといえなくもありません。
これに対して善bonumと悪malumは明らかに思惟の様態です。たとえばある人間がAとBを比較して,Aが善でありBが悪であると認識したとしても,それはその人間に限ったことなのであって,別の人間はBが善でありAが悪であると認識するかもしれません。それどころかその同じ人間が,それとは別のときにはAの方が悪でありBの方が善であると認識する場合もあり得るのです。したがって,何が善でありまた何が悪であるのかということは,知性によって善であるあるいは悪であると認識されるものの本性のうちにはまったく属することはなく,単にそのように認識する知性のうちにのみあることになります。
このように,完全性も善と悪も同じように思惟の様態であるとスピノザはいうのですが,善と悪が思惟の様態であるということはそのように認識される事物の本性とはまったく関係ないのですが,完全性は事物の本性とも関係し得ます。いい換えれば,善と悪の認識cognitioは事物の本性の十全な認識ではありませんが,完全性の認識は事物の本性の十全な認識でもあり得るのです。
前もっていっておいたように,これは乱暴な要約であり,なおかつホッブズThomas Hobbesがそう主張したということではなく,スピノザがホッブズの政治理論をこう解釈したということです。このような事情から,ホッブズが自然権jus naturaeについて主張したことは本当はこのようなことではないという類の反論については受け付けません。
『国家論Tractatus Politicus』の主張が,ホッブズの理論,あくまでもスピノザが解したホッブズの理論ですが,その政治理論と全面的に一致しないかといえばそういうわけではありません。二点だけですが,一致する部分はあります。それは自然状態status naturalisすなわち,人間がひとりでいる状態にあるときは,各人は各人の敵であるという状態,すなわち万人の万人に対する戦いという状態にあるという点では,ホッブズもスピノザも一致しているのです。ところがそのときホッブズは,各人が思いのままに自然権を行使するのでそのような状態が生じると解するのに対し,スピノザは逆に,この状態では各人は思うがままに自然権を行使することができないと解するのです。この部分ですでに両者の間で,自然権という権利がいかなる権利であるのかという解釈上の相違があるとみてよいでしょう。
次に,人間が社会societasを形成するのは,自然状態を解消するためであるという点でも,ホッブズとスピノザの間にある種の一致があるとみて僕はいいと思います。各人が各人の敵であるような状態,万人の万人に対する戦いの状態というのは,それを個人とみるのか人類とみるのかという点では相違が生じ得るとしても,人間にとってはよからぬ状態であるという点では,ホッブズもスピノザも一致した考えを有しているのは明らかだといえるからです。ところが,自然権がいかなる権利であるのかという点では元からの相違がありますので,社会状態,自然状態と反対の意味での社会状態の形成のために自然権がどうあらなければならないのかという点では,両者の間には差異が出てきます。ホッブズによれば,各人が思うがままに自然権を行使するのが自然状態ですから,社会状態においては各人は自然権を放棄しなければなりません。すべてではないにしても,一部は放棄する必要があります。
完全性は実在性realitasと同じですから,Aの実在性がBの実在性より大なる実在性であるなら,AはBよりも完全で,BはAよりも不完全と認識されるのです。しかしBの実在性はAの実在性よりも小なる実在性なのですから,その限りにおいてBは完全です。よってBが不完全であるというのは,BをAと比較した知性intellectusのうちにのみある思惟の様態であるということになります。しかしこのとき,Aの実在性がBの実在性よりも大なる実在性であるということ,同じことですがBの実在性がAの実在性より小なる実在性であるということは,そのことを認識するcognoscere知性を離れても事実である,つまりそれらの命題は真verumであるということが前提されています。よってその限りでは,これらのことはAおよびBの各々の本性essentiaに属することだといえなくもありません。
これに対して善bonumと悪malumは明らかに思惟の様態です。たとえばある人間がAとBを比較して,Aが善でありBが悪であると認識したとしても,それはその人間に限ったことなのであって,別の人間はBが善でありAが悪であると認識するかもしれません。それどころかその同じ人間が,それとは別のときにはAの方が悪でありBの方が善であると認識する場合もあり得るのです。したがって,何が善でありまた何が悪であるのかということは,知性によって善であるあるいは悪であると認識されるものの本性のうちにはまったく属することはなく,単にそのように認識する知性のうちにのみあることになります。
このように,完全性も善と悪も同じように思惟の様態であるとスピノザはいうのですが,善と悪が思惟の様態であるということはそのように認識される事物の本性とはまったく関係ないのですが,完全性は事物の本性とも関係し得ます。いい換えれば,善と悪の認識cognitioは事物の本性の十全な認識ではありませんが,完全性の認識は事物の本性の十全な認識でもあり得るのです。
前もっていっておいたように,これは乱暴な要約であり,なおかつホッブズThomas Hobbesがそう主張したということではなく,スピノザがホッブズの政治理論をこう解釈したということです。このような事情から,ホッブズが自然権jus naturaeについて主張したことは本当はこのようなことではないという類の反論については受け付けません。
『国家論Tractatus Politicus』の主張が,ホッブズの理論,あくまでもスピノザが解したホッブズの理論ですが,その政治理論と全面的に一致しないかといえばそういうわけではありません。二点だけですが,一致する部分はあります。それは自然状態status naturalisすなわち,人間がひとりでいる状態にあるときは,各人は各人の敵であるという状態,すなわち万人の万人に対する戦いという状態にあるという点では,ホッブズもスピノザも一致しているのです。ところがそのときホッブズは,各人が思いのままに自然権を行使するのでそのような状態が生じると解するのに対し,スピノザは逆に,この状態では各人は思うがままに自然権を行使することができないと解するのです。この部分ですでに両者の間で,自然権という権利がいかなる権利であるのかという解釈上の相違があるとみてよいでしょう。
次に,人間が社会societasを形成するのは,自然状態を解消するためであるという点でも,ホッブズとスピノザの間にある種の一致があるとみて僕はいいと思います。各人が各人の敵であるような状態,万人の万人に対する戦いの状態というのは,それを個人とみるのか人類とみるのかという点では相違が生じ得るとしても,人間にとってはよからぬ状態であるという点では,ホッブズもスピノザも一致した考えを有しているのは明らかだといえるからです。ところが,自然権がいかなる権利であるのかという点では元からの相違がありますので,社会状態,自然状態と反対の意味での社会状態の形成のために自然権がどうあらなければならないのかという点では,両者の間には差異が出てきます。ホッブズによれば,各人が思うがままに自然権を行使するのが自然状態ですから,社会状態においては各人は自然権を放棄しなければなりません。すべてではないにしても,一部は放棄する必要があります。