スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

中立的な外界&国家と社会

2022-09-20 19:12:06 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』の中に,ロシアの現代思想家のヴァレーリィ・ポドロガによる「身体,肉体,触れること」という,ドストエフスキーの小説全般に関連する,非常に長い論考が掲載されています。おそらく多くの人にとってそうだと思いますが,この本の中で最も難解な文章になっています。僕についていえば,ポドロガのいわんとしていることの半分はおろか三分の一も理解できていないだろうと思います。その理由の一端は,ポドロガにもあります。論考の内容があちらこちらに移ってしまうことや,例証の少なさなどです。ただ,ドストエフスキーのことを深く理解していれば,そうした部分は乗り越えられるのでしょうから,僕が理解できないことの最大の理由が,僕の知識量の不足にあることは間違いありません。
                                        
 この難解な文章の中で,ポドロガは,物語の中に入ることおよび物語の中から出ていくことについて論述しています。この部分は僕にとって関心があります。ただ僕はポドロガがいわんとしていることについては理解できていないのですから,ここではポドロガの論述そのものに焦点を当てることはしません。いい換えればそれについて僕が考えていることを語っていきます。また,ポドロガはドストエフスキーの小説について何事かをいわんとしているのですが,僕はこうしたことはドストエフスキーの小説に限定して考えるべきことであるとは思いませんから,小説一般に関連するような事柄として探求していきます。
 ポドロガがいっているのは,たとえば「たそがれる」とか「夜が明ける」といわれるなら,それはそのようにいう人にとっては,自分を含めた出来事のひとつである外界の状態を確認しているのであって,それらの状態はそれ自体ではその人に対しては無関心なのでありあるいは中立であることになります。よってそれをいっている人は,そうした自分にとって無関心で中立である外界の内部に身を置いているのですが,そのようにいう限りではその外部に身を置いていることになります。なぜなら,自分にとって無関心で中立的な出来事のことを眺めてそれを言語化する,つまり言語によって表現するためには,そこからは外に出ていなければならないからです。
 これは言語学的な要素を含んでいるのですが,僕はその点は無視します。ただし哲学的には考えることにします。

 集団の成員に対してそれを遂行するように義務付ける共同の意志voluntasが,主権とか統治権imperiumといわれることになります。いい換えれば主権あるいは統治権というのは,集団が有する自然権jus naturaeのひとつということもできるでしょう。この集団はひとつの個物res singularisであって,すでに示したように,現実的に存在する個物はそれに固有の自然権を有するのであり,この場合にはその自然権が,主権とか統治権といわれることになるのです。したがって主権とか統治権といわれているような権利は,集団を構成する成員の各人に対して,その他の多数者によって決定される権利であるということができます。ただし,現実的に存在する国家Imperiumの統治権というのは,ひとりの手中にある場合には君主制といわれるのであって,この場合のその他の多数者によって決定される権利というのは,決定determinatioの過程を意味するのであって,現実的に存在する国家の主権ないしは統治権が,その国家の国民のうちにあるということを意味しているわけではありません。
 このような統治権とか主権を含むような集団が国家といわれ,その国家の成員が国民といわれることになります。ただしそれは,その権利が,共同の意志に基づいて法律lexの制定や解釈,あるいはその廃止をするような者に与えられている場合にいわれるのであって,それよりも狭い範囲でも成立します。そういう場合はそれは国家といわれずに社会societasとか共同体など,ほかの名目でいわれることになるのです。たとえば会社にも社則というものがあって,それがその会社の社員に対してその規則を守るように義務付ける共同の意志とみられる限りで,この会社はひとつの社会とみられるということです。つまりこの共同の意志に基づく自然権という観点からは,国家と国民の関係と会社と社員の関係は同じなのです。
 これでみれば分かるように,確かにスピノザは,三木がいっているように,社会という概念notioと国家という概念を厳密に区別していません。ただその相違は,その主権なり統治権が適用される範囲の大きさから区別されているだけであって,それが共同の意志に基づく自然権を規定しまた自然権に規定されるという点では変わるところがないからです。
コメント
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