スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&国家の普遍性

2022-09-28 19:25:29 | 将棋
 京都で指された昨日の第70期王座戦五番勝負第三局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり相早繰り銀。後手の豊島将之九段が9筋の位を取って,その間に先手から仕掛ける将棋。
                                        
 第1図で後手は☖3三歩と受け,☗6五歩に☖4二飛と回りました。
 ☗6四歩から決戦に出る手もあったのでしょうが先手は☗3三歩成☖同桂としてから☗3五角と引きました。
 ここで後手は☖3四歩と打ったのですが今度は☗6四歩☖同歩☗3四歩と決戦に。
                                        
 第2図まで進むと先手が優勢で,後手は挽回するのが難しくなっているようです。なので第1図が互角であるなら第1図から第2図に進める過程で,後手は変化が必要であったということになるでしょう。とはいえ準備不足だったという後手の回顧がありますので,先手の作戦の選択がうまくいった一局だったという気もします。
 永瀬王座が勝って2勝1敗。第四局は来月4日に指される予定です。

 浅野がいうように,おそらく三木は,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいう模範的公民であることを実践的に目指していました。もしスピノザがいう国家Imperiumの統治権imperiumが,共通の意志voluntasに基づくものであり,それによって市民Civesに義務を命令し,市民がその義務を果たすことが各々の市民の自然権jus naturaeであるとき,このときの市民の態度は,たぶん三木やヘーゲルがイメージしている模範的公民と大差ない,もっといえば一致するといっていいのではないかと思います。しかし,その原理はまったく一致しません。なぜなら,三木によれば国家という概念notioが個人という概念よりも普遍的であるがゆえに,個人は国家の中で模範的公民であることを求められたのでした。したがってこの場合には,統治権が市民の意志に基づこうが基づかなかろうが,一様に国家に対して模範的公民であることを命じられます。よってこの命令は,絶対に市民の共通の意志である,自然権の拡大に資すると断定することができません。三木の論法をとれば,たとえ国家が市民の自然権を迫害するとしても,国家という概念は個人という概念よりも普遍的であるがゆえに,自然権を迫害したり制限したりする命令にも従う必要が出てくるからです。これに対してスピノザの論法では,国家という概念が個人という概念よりも普遍的であるという主張は否定されます。少なくとも国家が市民に共通の意志によって市民に対して義務を課すとき,国家という概念の普遍性は,個人という概念の普遍性と同等に普遍的であるという結論になるでしょう。これでみれば明白なように,スピノザにとって国家というのは,個人にとってのあるいは市民にとっての,最終形態ではないのです。あるいは,仮に国家が最終形態であるにしても,それは特定のある国家だけが最終形態であるといわれなければならないのであって,それとは別の現にあるような国家が最終形態であるということはできません。
 このことは前に示しておいたように,スピノザが社会societasという概念と国家という概念を分けて考えていないということだけに由来しているのではなくて,スピノザの哲学には弁証法が欠如しているということとも関連します。なので僕は,この欠如についても,肯定的に評価します。
コメント
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