スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯白玲戦&各人の自然権

2022-09-06 19:21:35 | 将棋
 3日に京都で指された第2期白玲戦七番勝負第二局。
 西山朋佳白玲の先手で三間飛車。先手から先に角を交換したので後手の里見香奈女流五冠は向飛車に。先手も向飛車に振り直しての相向飛車になりました。
 この将棋は僕には後手の仕掛けが無理に思えたのですが,手が進んでみるとそうでもなく,成立していたようです。
                                        
 第1図近辺が大きな分かれ目でした。後手が☖8四金と逃げたのに対し先手は☗7四歩と垂らしました。これは実戦のように☖同金と取らせ,☗4五銀☖同桂のときに☗5六角と打つ手に期待したもの。ただこの角が思いのほか働かず,先手が苦戦に陥りました。
 感想戦では手順中,☗4五銀と取らずに☗3四歩と打つ手が検討され,先手の攻めが細いかもしれないけれどもいい勝負という結論でした。そうであれば,☖8四金と逃げたときに☗7四歩と打たずに☗3四歩と打ってしまう手もあったかもしれません。その場合は7四の金を取る手は消えますが,7三に駒を打つ手は残りますし,後で☗7四歩と垂らす手も含みとして残るからです。なので後手としても第1図で☖8四金と逃げたのは危険で,☖6三金の方が安全だったのではないでしょうか。
 里見五冠が連勝。第三局は10日に指される予定です。

 自然権jus naturaeがコナトゥスconatusに由来するということからのもうひとつの帰結は,諸個人が有する自然権は異なるということです。これは以下の原理から帰結します。
 第三部定理七により,コナトゥスというのは現実的に存在する諸々の個物res singularisの現実的本性actualis essentiaを意味します。そこで現実的にAという人間とBというふたりの人間が存在するとすれば,Aの現実的本性とBの現実的本性は異なります。第三部定義二により,事物と事物の本性は一対一で対応し合わなければならないので,Aの現実的本性とBの現実的本性が完全に一致するなら,AとBは同一の個物である,つまり同一人物であることが帰結しますが,この帰結はAとBというふたりの人間が現実的に存在するという仮定に反するからです。そのコナトゥスが各々の自然権の由来となるのですから,Aの自然権とBの自然権は,AのコナトゥスとBのコナトゥスが相違するだけ相違するといわなければなりません。ひとつめの帰結の説明の中で,2頭のライオンが自然権を侵害し合う例を説明したときに,ライオンAとライオンBの自然権は完全に一致するわけではないということをいっておきましたが,それもこのふたつめの帰結が理由です。
 現実的本性が一致する人間が存在するということはありません。これも事物と事物の本性が一対一で対応するということから帰結します。よって現実的に存在する人間は,その現実的本性が異なる分だけ異なった自然権を有するといわなければいけません。つまり,完全に一致する自然権を有する複数の人間が現実的に存在するということはないのです。ただし,それは完全には一致しないというだけであって,一致する部分を多く含むのも事実です。スピノザは人間の本性natura humana,つまり現実的に存在する人間のすべてに一般の本性があるということは認めていて,それは現実的に存在するすべての人間に反映されると僕は考えるからです。少なくとも,第四部定理三五により,現実的に存在する人間は理性ratioに従う限りでは本性が一致するのですから,もしもすべての人間が理性に従っているのであれば,その現実的本性は一致することになり,よって自然権も一致するといわなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする