スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

春日賞争覇戦&虚偽の積極性

2015-02-03 19:18:32 | 競輪
 年頭からの記念競輪の5連続開催の最後になる奈良記念の決勝。並びは早坂-佐藤の北日本,松谷-鈴木の南関東,稲垣-三谷の近畿,山形-岩津の四国中国で,天田は単騎。
 稲垣がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に山形,5番手に松谷,7番手に早坂,最後尾に天田の周回。残り3周のバックで早坂が上昇の構えを見せると松谷が先んじて動き,稲垣を叩いて前に。残り2周のホームに入って早坂が松谷を叩いて先行。3番手に松谷,コーナーでインを掬った山形が5番手,天田が7番手,稲垣が8番手という隊列に。打鐘から稲垣が発進。徐々に前に迫りましたが,バックの手前付近から佐藤に牽制されて失速。9番手になっていた天田が,稲垣から離れて自ら追い上げようとした三谷に続くように外から発進すると豪快に捲りきり,直線では抜け出して優勝。切り替えて追った佐藤が2車身差で2着。佐藤の後ろになった松谷が流れ込むように1車身半差の3着。
 優勝した群馬の天田裕輝選手は記念競輪初優勝。村上が二次予選,深谷が準決勝で敗退という波乱含みのシリーズでしたが,完全優勝ということで,仕上がりが万全であったのでしょう。単騎の戦いになりましたが,展開が非常にうまく嵌りました。とはいえ捲っていったときのスピードはかなりのもので,今後も目を離すことができない選手であるのは間違いないでしょう。

 スピノザの哲学において真理veritasとは,真の観念idea veraないしは十全な観念idea adaequataの総体のことです。ここから理解できるように,虚偽falsitasというのは誤った観念idea falsaないしは混乱した観念idea inadaequataの総体であることになります。このとき,これを実在的に考えた場合には,真理と虚偽の関係が,有と無の関係として結論されるのです。それなのに,誤った観念あるいは混乱した観念に積極性をスピノザが認めるのは,著しく不条理であるようにも思えます。無であるものに積極性が含まれる道理はありません。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizは真理がすべてのモナドMonadeの内部で表現され,虚偽はすべてのモナドの内部で表現され得ない,いい換えれば虚偽を実在的なものとする可能世界の存在を認めていないわけですから,むしろライプニッツの方が合理的な主張をしているとさえ認識されるかもしれません。
 しかし,スピノザは非合理的なことを主張しているわけではないのです。なぜなら,第二部定理一一系にあるように,人間の精神は無限知性の一部Mentem humanam partem esse infiniti intellectusです。そしてこれは人間の精神にだけ特有に該当する事柄ではありません。むしろどんな観念も,神の無限知性の一部です。そして第二部定理七系の意味から明らかなように,このようにして観念が把握されるなら,それはすべて十全な観念であるのです。いい換えれば,誤った観念とか混乱した観念というのは,ある有限知性に単独で関連付けられた観念,他面からいうなら神との関連付けがなされていない観念のことなのであり,もしも神と関連付けられれば,それは十全な観念すなわち実在的有entia realiaなのです。ですからスピノザがある有限知性と単独で結び付けられる限りにおいて無である混乱した観念に,何らかの積極性を認めたとしても,それは不条理なことをいっているのではありません。これは神と関連付けられれば有であるもののうちに積極性を認めているという意味だからです。
 虚偽が混乱した観念ないしは誤った観念の総体であるなら,むしろそこにあらゆる意味での積極性を否定するnegareことの方が不条理だといえるでしょう。それは神と関連付けられるなら真理であるもののうちに一切の積極性が含まれないと主張することになってしまうからです。
コメント
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