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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ベイサイドナイトドリーム&具体的な相

2023-04-05 19:18:41 | 競輪
 四日市競輪場で争われた昨晩のベイサイドナイトドリームの決勝。並びは新山‐守沢‐成田‐庄子の北日本でここに中田が番手戦,嘉永‐浅井‐渡辺の西日本で諸橋は単騎。
 浅井がスタートを取って嘉永の前受け。4番手に諸橋,5番手に新山で,新山の後ろは中田と守沢で内外が入れ替わりながらの周回。残り2周のホームで新山が発進。このときは守沢がマークしていました。しかし嘉永が突っ張ったので新山は引き,この間に最後尾まで下がっていた中田が再び守沢の横まで追い上げてきました。打鐘から再び新山が発進。後ろが競りになっていたのでふたりともついていくことができず,単騎の捲りに。ホームの出口では新山が叩いたのですが,嘉永が番手に嵌りました。渡辺が連結を外したので,浅井の後ろに諸橋が入り,競りの後ろだった成田が諸橋の後ろに。番手から出た嘉永と嘉永マークの浅井,さらに最終コーナーで内を突いた諸橋の優勝争いとなりましたが,外の浅井が抜け出して優勝。嘉永が1車輪差の2着に残り,諸橋が8分の1車輪差で3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は1月の別府のFⅠ以来の優勝。GⅢは一昨年9月の松阪記念以来となる優勝で31勝目。四日市では2014年,2015年2月,2015年8月,2018年と記念競輪を制覇しています。このレースは嘉永と新山の二分戦。新山の後ろが競りになりましたが,おそらく後ろからになった場合はこうするという事前の打ち合わせがあったのでしょう,新山が発進するタイミングで守沢が番手を守りました。しかし嘉永が抵抗したために,再び番手が競り合いになりました。守沢がすんなりと番手を回っているということに嘉永が気付いていたわけではないでしょうが,そこで一旦は突っ張ったことで,西日本ラインが優位に立ちました。結果だけでいえば新山は無理矢理にでもすぐに叩きにいった方がよかったということになるでしょう。

 福居は第二部定理三九共通概念notiones communesの具体的な相であるといっていたのでした。このいい方自体は僕は否定しません。ここまでの説明から分かるように,この定理Propositioは明らかに現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに共通概念が形成されるときの具体的な様式を示しているといえるからです。ただし,福居はこれとは違った意味でこの定理は共通概念の具体的な相であるといっているのであって,そのゆえに共通概念には一般性のレベルに差があるわけではないといっているのです。僕は逆に,この定理が第三部定理三八とは関係なしに,共通概念には一般性のレベルがあるということを示す,より正確にいうなら,共通概念に一般性のレベルに差があるということを現実的に存在する人間の精神に教えることを示していると考えています。いい換えれば,具体的ということが何を意味しているのかということが,福居と僕の間で異なっているといえます。福居はドゥルーズGille Deleuzeの共通概念の理論を否定するためにそのようにいっているのに対し,僕はこの定理が共通概念の形成の秩序を示すというドゥルーズの見解opinioには賛成します。その差異は,ここでいう具体的ということの意味の差異に還元することができるのです。
                                   
 福居は第二部定理三八が共通概念の一般的な相を示すのに対して,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を示すといっています。そこでいわれているのは,たとえば現実的にAという人間が存在して,このAがBという外部の物体corpusと関係するときに,AにもBにも共通かつ特有であるものは,Aの精神のうちで共通概念として認識されるということです。もう少し強調していうなら,そのことだけなのです。この限りにおいて,共通概念に一般性のレベルに差がないと福居が結論付けることは,誤っているとはいえないと僕は思います。というのは,AとBに共通かつ特有なものはひとつだけであるとは限らず,いくつかあると考えるべきであって,ここでは分かりやすくそれをXとYのふたつに限定するなら,Xの共通概念もYの共通概念もAの精神のうちに形成されるのですが,そこに一般性のレベルに差があるということはAの精神には知られないというべきだからです。
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瀬戸の王子杯争奪戦&福居の射程

2023-03-29 19:30:09 | 競輪
 玉野記念の決勝。並びは森田‐坂井‐吉沢の関東,渡辺‐小原の南関東,太田‐松浦‐荒井の西国で佐藤は単騎。
 太田が前受け。4番手に佐藤,5番手に森田,8番手に渡辺で周回。残り3周のバックの出口から渡辺が上昇の構えをみせると,誘導との車間を開けていた太田がホームでスピードアップ。渡辺はまた8番手まで引きました。バックに入って森田が発進。それに太田が応戦して打鐘から先行争い。ホームで太田が制しました。森田は外から松浦の位置を取りにいきましたがここは松浦が番手を守りました。隊列は乱れて坂井の後ろが吉沢,荒井,佐藤,渡辺,小原に。ホームから渡辺が発進。バックで小原と共に太田を捲り切りました。松浦が小原の後ろにスイッチ。直線は捲った渡辺の番手から踏み込んだ小原が差して優勝。小原を追った松浦が4分の3車輪差で2着。直線の入口では松浦の後ろに取り付いた佐藤が8分の1車輪差で3着。捲った渡辺が半車輪差で4着。
 優勝した神奈川の小原太樹選手は先月の豊橋のFⅠ以来の優勝。2018年の川崎記念以来の記念競輪2勝目。このレースは松浦と坂井が脚力では上位。共に番手戦となりましたので,前の選手がどこまで頑張るのかが最大の焦点。太田の先行になりましたが,残り2周のホームからある程度は踏んだ上で,さらにその後で激しい先行争いとなったため,後方に構えた渡辺の捲りがものの見事に決まることになりました。渡辺が後方を周回した上で早めに上昇の構えをみせたのがうまかったということでしょう。渡辺も脚力で著しく劣るわけではありませんから,先行争いの激化があればこういう結果も考えられるところでした。もしかしたら太田は前受けはしない方がよかったのかもしれませんし,逆に叩けなかった森田は前で受けた方がよかったのかもしれないということになるでしょう。

 田島は明らかに,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある混乱した観念idea inadaequataが十全な観念idea adaequataになると主張しています。少なくとも僕はそう解します。それと比較していえば,ドゥルーズGille Deleuzeはそのように明言しているというわけではありません。ただ,ドゥルーズの共通概念notiones communesの理論からは,結果的にそのようになるというように解さなければならないであろうと僕は思います。他面からいえば,ドゥルーズの共通概念の理論を精査すると,ドゥルーズは現実的に存在している人間の精神のうちにある混乱した観念が十全な観念になると主張していると僕には思えるのです。以前に『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』が未完のままに終わったことに関連するドゥルーズの見解を説明したことがありますが,それは『知性改善論』の段階では共通概念のインスピレーションをスピノザはもっていなかったのに対し,後にそれを思いついたので『エチカ』の執筆にとりかかったというものでした。これは,スピノザが結論について何の目途も立っていないのに『知性改善論』を書き始めたということになるので,僕は同意できませんが,ドゥルーズがそのように考えているということから,共通概念の理論がこのことと関連しているということは理解できるだろうと思います。
                                        
 福居は現実的に存在する人間の精神のうちにある混乱した観念が十全な観念になるということについては否定的です。そしてドゥルーズのその主張が,共通概念の理論と関係しています。というかドゥルーズの共通概念の理論からそのことが導かれているのです。このために福居はドゥルーズの共通概念の理論を否定しているのです。つまり福居がドゥルーズの共通概念の理論を批判するとき,その射程にあるのは,共通概念の理論そのものにあるというよりも,十全な観念と混乱した観念の関係にあるのです。
 僕は十全な観念と混乱した観念の関係については田島やドゥルーズよりも福居の見解opinioに同意します。なぜ僕がそう考えるのかということについてはすでに説明しましたからこれ以上は繰り返しません。しかしだからといってドゥルーズの共通概念の理論のすべてを否定する必要はないと考えます。なぜ僕がそう考えるのかは説明します。
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ウィナーズカップ&第二部定理三七の解釈

2023-03-21 19:31:21 | 競輪
 別府競輪場で争われた第7回ウィナーズカップの決勝。並びは新山‐新田‐守沢の北日本,古性‐脇本の近畿,松浦に福田,嘉永‐山田の九州。
 山田がスタートを取って嘉永の前受け。3番手に古性,5番手に松浦,7番手に新山で周回。前との車間を少し開けていた新山は,残り2周のホームの出口から発進。バックでは嘉永が突っ張り,先行争いになりましたが,打鐘で新山が嘉永を叩くと,ホームの入口では北日本の3人が出きりました。ホームに入って古性が発進。バックで新田が牽制しましたが,雨でバンクが滑りやすくなっていた影響もあったか古性に返された新田が落車。それを避けるために守沢が内に進路を求めると,古性マークの脇本と守沢の間が開き,脇本の後ろにいた松浦がそこに突っ込みました。松浦はコーナーで今度はうまく外に持ち出し,直線で競り合う新山と古性の外から両者を差し切って優勝。古性マークから松浦のさらに外に持ち出すことになった脇本が半車身差で2着。アクシデントで松浦に位置を取られるような形となった守沢が4分の3車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は昨年の広島記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の7勝目。ウィナーズカップは2020年に優勝していて3年ぶりの2勝目。このレースは新山の先行が有力で,すんなりしたレースになれば新田ですが,古性が脇本の前を回るというのは近畿の両者に何か考えがあってのことでしょうから,一筋縄ではいかないだろうと思いました。新田の落車は残念な出来事でしたが,そこでできた空間にうまく突っ込んだ松浦の判断が優れていたということでしょう。脇本はいい展開でしたが,自力の選手であるがゆえに松浦に先を越されてしまった感があります。こういったところは番手を回るケースが増えてくれば改善していくのではないでしょうか。

 人間に共通の本性essentiaといわれるときの人間が個物res singularisであるかと問われるのであれば,個物であると僕は答えます。しかしそれが第二部定理三七で個物の本性といわれているときの個物であるかどうかと問われたなら,それは場合によって答えが変わり得るのであって,したがって場合によっては個物ではないということもあると答えます。そして現状の考察に合わせていう場合には,人間に共通の本性といわれる場合の人間は,第二部定理三七でいわれている個物には該当しません。なぜこのようなことになるのかということを説明していきます。
                                   
 『エチカ』の定理Propositioの配置には意味があると考えなければなりません。第二部定理三七についていえば,この定理以降に証明されていく共通概念notiones communesについて,それは個物の本性を構成しないということ,いい換えるならば,共通概念は個物の十全な観念idea adaequataではないということを前もっていっておきたいがためにこの位置に配置されているのです。よってこの定理でスピノザが個物の本性といっているときの個物が何を意味しているのかということは,後続の定理で証明されている共通概念がどのようなものであるのかという観点から決定されなければなりません。ここでは第二部定理三九を援用しているのですから,第二部定理三九を援用して論理的に帰結させている事柄から,第二部定理三七でいわれている個物が何を意味するのかということを解さなければなりません。
 現実的に存在する人間Aと現実的に存在する人間Bが関係することによって,Aの精神mensのうちに人間に共通の本性が共通概念として形成される場合,この共通概念が何の十全な観念を構成しないといえるのかといえば,現実的に存在するAの十全な観念でありまたBの十全な観念であるといわなければなりません。よって第二部定理三七でいわれている個物とは,この場合には現実的に存在するAでありまたBであるということになります。よって,人間に共通の本性といわれるときの人間は,第二部定理三七でいわれている個物には含まれないことになります。人間に共通の本性は,Aの本性にもBの本性にも含まれますが,AとBそれぞれの本性そのものではないからです。
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金亀杯争覇戦&人間の形相的本性

2023-03-13 19:06:19 | 競輪
 昨晩の松山記念の決勝。並びは渡辺‐守沢の北日本,郡司‐福田‐松谷‐東の神奈川,伊藤‐山田の九州で松本は単騎。
 渡辺がスタートを取って前受け。3番手に松本,4番手に郡司,8番手に伊藤で周回。残り3周のバックの出口から伊藤が上昇開始。ホームで渡辺を叩きました。渡辺がそのまま3番手に続き,松本も挟んで郡司が6番手になっての一列棒状に。バックに入ると渡辺が動き,再び伊藤を叩いて打鐘。一旦ペースが落ちました。後方になった郡司が打鐘後のコーナーから巻き返すと渡辺が再びペースアップ。ホームでは守沢の牽制があったために郡司はかなり外を回る形になりましたが,バックの入口では何とか渡辺を叩きました。後方になってしまった伊藤を捨てた山田が捲ってくると松本がそれに乗る形に。最終コーナーで福田が牽制しましたが,再び立て直した山田が外から豪快に伸びて優勝。マークする形になった松本が4分の3車輪差の2着。牽制したときに守沢に内に入られ,踏み遅れてしまった福田が4分の3車身差で3着。
 優勝した佐賀の山田庸平選手は年頭の高知のFⅠを完全優勝して以来の優勝。昨年7月の佐世保記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは郡司の脚力が上だったのですが,神奈川が4人で結束したこともあり,やや無理気味な競走になりました。とくに渡辺はダッシュ力が持ち味の選手なので,叩くまでに脚を使い過ぎてしまったのが致命傷に。このように本命のラインが消えてしまう場合は自力型が優勝するのが通例で,山田は伊藤マークのレースを選択したので優勝までは厳しいのではないかとみていたのですが,早い段階で自力に転じたので優勝を引き寄せることに成功しました。松本は単騎でも先に仕掛けた方がよかったのではないかと思います。

 形相的本性essentia formalisを僕がいっている意味で解するのであれば,第五部定理二二でいわれているのは,人間の身体humanum corpusの本性は形相的本性であるということになります。このことは人間の身体の本性を観念対象ideatumとして,それを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaがあるといわれていることから明白で,これは人間の身体が認識cognitioの対象になっているといっているのと同じです。そしてここでいわれている人間の身体の本性というのは,個々の人間の身体の本性という意味にほかなりませんから,現実的に存在するある人間の身体の本性のことです。いい換えればある人間の身体の現実的本性actualis essentiaのことです。つまりこうした人間の身体の現実的本性は形相的本性でもあるということになります。よって第二部定理八によって,個々の人間の身体の現実的本性は,神の属性Dei attributisの中に含まれている,この場合はとくに延長の属性Extensionis attributumの中に含まれているというように僕は解します。
                                    
 ただし,人間の身体の本性を僕が解するような意味で形相的本性として考える場合に,人間の身体の形相的本性はこのような仕方で神のうちにあるとだけ結論してよいとは僕は考えないのです。これと別の形相的本性があるのであって,そしてその形相的本性は,文字通りの意味で存在しないものの形相的本性であるというように解釈できないこともないのです。ここで僕が念頭に置いているのは,すべての人間に共通するような人間の身体の本性のことです。あるいはこの場合はとくに人間の身体に限定する必要はありません。すべての人間に共通するような本性であれば,人間の身体に共通しようと人間の精神mens humanaに共通しようと構わないので,単にすべての人間に共通する人間の本性といういい方の方が適切でしょう。
 第四部序言では,人間の本性の型に近づく手段になると僕たちが確知するcerto scimusもののことを善bonumと解するという意味のことがいわれています。ここでいわれている人間の本性の型というのが,諸個人によって異なる型と解することは,できないことはありませんし,第四部定義一と照合すると,むしろその方がいいように僕には思えます。しかしそれを人間の本性の型といういい方をするのは不自然だといわなければなりません。
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水都大垣杯&自然科学的な神

2023-03-07 19:42:40 | 競輪
 大垣記念の決勝。並びは平原‐久木原の埼玉,山口‐岡本の中部,岩谷‐井上の九州で坂本と古性と犬伏は単騎。
 久木原がスタートを取ったのですが,平原は他の選手たちをかなり気にしての道中となり,誘導の後ろに入ったのは残り3周のバックに入ってからでした。3番手に山口,5番手に古性,6番手に坂本,7番手に犬伏,8番手に岩谷という隊列になりました。隊列が決まった直後のコーナーに入るところから岩谷が上昇を開始。ホームでは山口も合わせて出て,残り2周の1コーナーでは平原,山口,岩谷の3人が横一列に。ここから平原が一旦は引き,バックに入るところで岩谷が前に。打鐘では3番手に山口で5番手に古性,6番手が平原と坂本でその後ろに久木原。ただペースがさほど上がりませんでした。ホームに入ると最後尾にいた犬伏が発進。バックの入口で岩谷をかますとあとは離す一方で,最終コーナー付近ではセーフティーリード。そのまま後続を千切って犬伏が優勝。バックから捲った古性が5車身差で2着。古性の後からの発進になった山口が2車身差の3着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は昨年8月に小倉でFⅠを完全優勝して以来の優勝。グレードレースはこれが初優勝。このレースは抑えて前に出た岩谷がペースを落とし過ぎました。このために犬伏のかましが最後尾からのものだったために,かました時点でのほかの選手とのスピードに差がありすぎ,あっけなく決着。このレースのようにラインが少なく単騎の選手が多くなると,このようなかましが決まるケースがありますが,それにしてもものの見事に決まった感じです。最後尾になったので腹を括ったということはあるでしょうが,かましにいった犬伏の勝負度胸が光るレースでした。

 スピノザは第四部序言の中で,神あるいは自然Deus sive Naturaといういい方をしています。これはスピノザが神と自然を,通常に思われているほどには異なっていないと考えていることの端的な証拠といえます。すでに説明したように,スピノザが神の本性の必然性とか神の本性の法則というとき,それは僕たちが慣れ親しんでいる語句でいえば自然法則と置き換えてそう大きな間違いは起きないのですから,確かにスピノザは,僕たちが普通に考えているほどには,あるいは『はじめてのスピノザ』に合わせていえば,スピノザの哲学の入門者が抱いているほどには,神と自然を異なったものとは考えていないのです。自然のうちに起こることはすべて神の本性の必然性あるいは自然法則に従って生じるのであって,それは別に僕たちが自然現象として理解するような,諸々の物体的現象だけを含んでいるのではありません。僕たちがあるものを認識し,またあることを意志し,またある感情affectusに捉われるといったようなことも,すべて神の本性の必然性あるいは自然法則によって生じているのです。そしてこのような意味で,スピノザがいっている神は自然科学的な神なのであり,何ら宗教的な神ではありません。僕がよくいういい方でいえば,スピノザがいっている神は,信仰fidesの対象ではなく,認識cognitioの対象です。いい換えれば,僕はスピノザがいっている神,すなわち絶対に無限な実体substantiaが存在するということを知っている,十全に認識しているのであって,そのことを信じているのではないのです。
 それでは汎神論と関係する部分の考察はここまでにして次に移ります。
                                         
 『はじめてのスピノザ』の第二章の二節で,事物の本性essentiaと力potentiaの関係が,人間の現実的本性actualis essentiaとしての欲望cupiditasと絡めて説明されています。その中で國分は,普通は不変の本性というものがあって,その上で欲望という移り気なものが働くと理解されているけれども,スピノザの哲学では力としての本性は変化するのであり,その変化して辿り着いた各々の状態が欲望として作用するのだという主旨のことをいっています。これはたぶんスピノザの哲学についてきわめて重要なことをいっていますので,僕も詳しく探求していくことにします。
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読売新聞社杯全日本選抜競輪&真理の原理

2023-02-27 19:37:23 | 競輪
 高知競輪場で行われた昨日の第38回全日本選抜競輪の決勝。並びは新田‐守沢‐成田の北日本,吉沢に香川,脇本‐古性‐三谷の近畿で浅井は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に吉沢,7番手に脇本で周回。残り2周のバックで浅井と吉沢,香川と脇本の車間がそれぞれ開いて打鐘。コーナーに差し掛かったところから脇本が発進。ホームで新田を叩くと,新田は古性のインで粘りました。しかしこの競りは古性が守り,バックに入って新田は内を後退。外から浅井が捲りその後ろに吉沢が続きましたが,これは前まで届かずに不発の形。直線は車間を少し開けていた脇本の番手から古性が踏み込んで優勝。新田の後ろからうまくすり抜け,古性と三谷の間を割った守沢が1車輪差で2着。古性マークの三谷が4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は昨年6月の高松宮記念杯以来の優勝。ビッグ5勝目でGⅠは4勝目。全日本選抜競輪は昨年からの連覇で2勝目。このレースは新田がいつものように前受け。それに対して脇本が残り1周半の段階から捲っていったので,脚を残すだけの余裕がありませんでした。古性も新田に競られましたので楽ではなかったのですが,わりとあっさり決着をつけることができたので,脚力をひどく消耗するまでには至りませんでした。記念競輪よりもビッグで結果を残しがちなのは,脇本の番手を周ることが多いからで,ビッグになると脇本も記念競輪レベルよりも脚を使わなければならないために,差しやすくなるということでしょう。

 円の十全な観念idea adaequataが持続duratioのうちに存在するのでないなら,それは永遠aeternumから永遠にわたって存在することになります。第二部定理八系のいい方に倣えば,それはDeusの無限な観念が存在する限りにおいて存在する観念です。つまり現実的に存在する人間は,円を十全に認識するcognoscere限りでは,神の無限な観念が存在する限りにおいて存在する円の観念を認識しているといわなければなりません。そしてもちろん,円の観念というのは一例にすぎないので,どんな観念対象ideatumであれ,それを十全に認識するのであれば,その観念対象についての永遠のaeternus真理veritasを認識していることになります。これは神の無限な観念が永遠から永遠にわたって存在する思惟の様態cogitandi modiであるからで,このゆえに真理が思惟の様態であったとしても,持続のうちに存在する人間の精神mens humanaが,永遠の真理を認識するということが可能になっているのです。
                                   
 これが基本的なスピノザの哲学における真理の認識の原理です。このために,真理が虚偽falsitasになるということはありません。よって,虚偽が真理になるということもあり得ないのです。また,十全な観念と混乱した観念idea inadaequataの関係は,有esseと無の関係をも意味するのですから,有であるものが無になるということもないし,無であるものが有になるということもないのです。よって,スピノザの哲学における神は,真理を虚偽にすること,また虚偽を真理にするということは不可能だし,同じことですが有を無にすることと無を有にすることは不可能です。
 そこで,そうしたことを自由意志voluntas liberaによってなし得る神が存在するとしましょう。一見するとそういう神は,確かにスピノザがいう神にはなし得ないことをなし得ることになりますから,スピノザが示している神よりも完全であるようにみえるかもしれません。ところが,スピノザの哲学における真理の原理からすると,神がそれをなし得ると主張するならば,真理は永遠であることはできないことになります。真理を虚偽にすることができるのなら,今日は真理であったことが明日には虚偽になるということも想定しなければなりませんし,逆に今日は虚偽であったことが明日には真理とされるということも想定しなければなりません。
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施設整備等協賛競輪in伊東温泉&自由意志の観点

2023-02-20 19:16:31 | 競輪
 昨日の施設整備等協賛競輪in伊東温泉の決勝。並びは青野‐竹内‐佐藤の東日本,山口‐川口の岐阜,阿部‐隅田‐久保田の西国で石塚は単騎。
 山口と久保田がスタートを取りにいきました。内の山口が誘導の後ろに入って前受け。3番手に阿部,6番手に青野,最後尾に石塚で周回。石塚は結果的に東日本ラインを追走するレースになりました。残り4周のバックから青野が上昇開始。前を抑えにいくのではなく,阿部の外で併走を続けました。このまま残り3周のバックへ。その後のコーナーで青野はさらに上昇し,山口を叩きました。山口はすぐには引かず,このラインを追走した石塚の内で一旦は粘りました。打鐘前のバックから阿部が発進。ここから青野と阿部の先行争いに。この先行争いは最終周回のバックまで決着がつかず,阿部がいききれないとみた隅田が番手から発進。青野を捲り切りました。久保田の後ろに山口が続いて3人の優勝争い。外から伸びた山口が内のふたりを差し切って優勝。隅田が半車輪差の2着。久保田が4分の1車輪差の3着。
 優勝した岐阜の山口拳矢選手は昨年11月の大垣のFⅠ以来の優勝。グレードレースは一昨年の共同通信社杯以来の2勝目でGⅢは初勝利。この開催は全日本選抜競輪に出走しないメンバーでの争い。そういったメンバー構成では山口の脚力は他を圧倒していて,優勝候補の筆頭。初日の特選は失敗しましたがその後は3連勝でその期待に応えました。隅田が阿部の番手を回るレースになり,阿部はいききれなかったものの番手捲りのような形にはなりましたので,山口にとってよい展開であったわけではありません。直線の伸びは目立つもので,それがほかのメンバーとの力の差だったということでしょう。青野がよく頑張っただけに,竹内はもう少し何かできたのではないかとは思います。

 なし得ることのいくつかをなさないようなものは最高に完全summe perfectumとはいい難いので,神Deusが最高に完全であるためには,神はなし得ることのすべてをなさなければならないということから帰結するのは,神は自由意志voluntas liberaによって働くagereことはないということです。なぜなら,たとえばAとBの両方を神はなし得ると仮定して,自由意志によってAをなし,Bはなさないとするなら,神はBはなし得るのになさないということになります。つまり神はなし得ることのうちのいくつかはなさないということになります。よって神がこの種の自由意志によって働くと仮定すれば,神はなし得ることのすべてはなさないといわなければならず,したがって神は最高に完全であることができなくなるのです。
                                   
 神が善意によって何事かをなすということはないということがライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに向けられた批判であるとすれば,神は自由意志によって働くものではないという批判は,デカルトRené Descartesに向けられたものといえます。デカルトが規定する神は,自由意志によって働く神であり,しかしこの神はなし得ることのいくつかはなさない神なので,最高に完全ではないというようにスピノザはいっているのです。ただ,これは哲学的な観点のみに向けられた意味であって,キリスト教神学における神も,自由意志によって働く神なので,そうした方面に対する批判にもなっていると解しておかなければなりません。スピノザが無神論者といわれるようになったのは,神が自由意志によって働くということを否定したからだという面が最も大きく影響したのであって,そのことはデカルトの哲学よりキリスト教の方が強く重視したといえるからです。とはいえ,確かになし得ることのすべてをなす者と,なし得ることのいくつかはなさない者とを比較すれば,なし得ることのすべてをなす者の方が完全であるというべきであって,なし得ることのすべてをなさない神,つまり自由意志によって神は働くと規定しているキリスト教にとってもデカルトにとっても,これはその規定を逆手に取られているといえるでしょう。
 たぶんこれらのことは,『はじめてのスピノザ』の読者にも適用することが可能だと僕は考えています。
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たちあおい賞争奪戦&汎神論

2023-02-12 19:09:29 | 競輪
 静岡記念の決勝。並びは吉田に守沢‐成田の北日本,渡辺‐深谷‐郡司‐佐々木の南関東,清水‐松浦の中国。
 スタートを取ったのは成田。吉田の前受けとなり,4番手に渡辺,8番手に清水の周回に。残り3周のバックの入口から清水が上昇。バックでは渡辺に蓋をしました。コーナーで渡辺が引いたので清水が4番手で渡辺が6番手に。成田と清水の車間が開きましたが,ホームで清水が上昇。出口で吉田を叩きました。その外から清水ラインを追って上昇してきた渡辺が発進。ラインの4人で清水を叩いて打鐘。5番手になった清水はホームからすぐに巻き返しにいきましたが,深谷が合わせて番手から発進。このために清水は不発になりました。後方になった吉田がバックから捲ってきたものの,これは最終コーナーで郡司に牽制されて失速。吉田を止めた郡司がそのまま踏み込み,直線で深谷を差して優勝。深谷が4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。失速した吉田から郡司に切り替えた守沢が4分の3車身差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は昨年10月の熊本記念以来の優勝で記念競輪15勝目。静岡記念は初優勝。このレースは渡辺が早めに先行して深谷の番手捲りという展開が濃厚なので,深谷と郡司の争いになるだろうと思っていました。このラインの4番手を回る佐々木はこのレベルでは経験に欠けているので,吉田か清水のどちらかが郡司の後ろには入れるのではないかとみていたのですが,佐々木まで続いての先行になりましたから,深谷と郡司にとってはなおのことよい展開となりました。郡司は捲ってきた吉田を止めていますから,仕事をした上での優勝といえ,これは見事でしょう。5番手の清水がホームから早めに巻き返そうとした分,深谷の発進が少し早めになったことが,深谷と郡司の差になって表れたといえそうです。

 まず,スピノザの哲学が汎神論であるとして,どのような意味で汎神論といわれるべきかということを確認しておきます。一口に汎神論といっても,いくつかのタイプの汎神論がある筈で,スピノザの哲学がどういうタイプに属するかを確認しておくことはとても重要です。
                                   
 第一部公理一は,存在するものはそれ自身のうちにあるesse in seかほかのもののうちにあるかのどちらかであるといっています。このうち,それ自身のうちにあるものは第一部定義三により実体substantiaといわれます。またほかのもののうちにあるものは,第一部定義五により様態modiといわれますが,様態は実体の変状substantiae affectioと同じです。いい換えれば様態的変状modificatioに様態化した実体というのと同じです。したがって,自然Naturaのうちに存在するものは,実体であるか様態すなわち実体の変状あるいは様態的変状に様態化した実体のいずれかであって,それ以外のものは自然のうちには何も存在しません。
 第一部定理一四により,自然のうちに実在する実体はDeusだけです。よって自然のうちに存在するのが実体と様態のいずれかであるとするなら,自然のうちに実在するのは神か,神の変状あるいは様態的変状に様態化した神のいずれかです。したがって,自然のうちに様態として存在するあらゆるもの,とくに有限様態として存在する個物res singularisというのは,その個物という様態的変状に様態化した神なのです。このような意味でスピノザの哲学あるいは思想は汎神論であるということになります。他面からいえば,スピノザの哲学のことを汎神論という場合には,以上の事柄が踏まえられていなければならないのであって,とくに自然のうちに存在するいかなる個物も,様態的変状に様態化した神であるということが,汎神論ということの意味のうちに含まれていなければならないのです。國分が指摘しているように,スピノザの汎神論というのは,宗教的な要素は含まれていないのであって,むしろ自然科学に近似した思想であるといえます。
 『はじめてのスピノザ』では,この種の汎神論が帰結するのは,絶対者としての神という世間の見解opinioを逆手に取ったものだといわれています。ただしスピノザにそういう意図があったかはまた別です。
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春日賞争覇戦&現実的本性の移行

2023-02-05 19:31:11 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは阿部‐新田‐佐藤の北日本,皿屋に柏野,中西‐山田‐三谷‐栗山の近畿。
 三谷と新田がスタートを取りにいきました。新田の方が外だったのですが加速力で上回り誘導の後ろに。阿部の前受けになりました。4番手に中西,8番手に皿屋で周回。残り3周のホームから皿屋が上昇。これは誘導との車間を開けていた阿部が対応して突っ張りました。皿屋が引いたところで中西が発進。ホームで阿部をかまして前に。栗山は離れ,三谷の後ろに阿部という隊列に。打鐘後のホームに戻って阿部が叩き返しにいきましたが,残り1周から山田が番手捲りを敢行。阿部は不発になったので今度は新田が発進。バックから三谷が牽制しつつ発進。直線の入口まで三谷と新田のつばぜり合いになりましたが,三谷が制して新田は失速。そのまま単独の先頭に立った三谷が優勝。新田が一杯になったので三谷に切り替えた佐藤が1車輪差で2着。後方からの捲り追い込みになった皿屋の番手からコーナーで内を回った柏野が1車身差で3着。大外を回った皿屋が半車身差の4着で新田は4分の1車輪差で5着。
 優勝した奈良の三谷竜生選手は前回出走の京王閣のFⅠからの連続優勝。記念競輪は2019年の伊東温泉記念以来となる6勝目。奈良記念は2018年以来の2勝目。この開催は有力と目された選手のうち,脇本が腰痛で欠場,古性は失格,平原は落車と次つぎに脱落していきました。なので決勝に残ったメンバーでは新田と佐藤が上位。ただ近畿勢の並びからしてどう考えても早めに先行しての二段駆けという展開になりそうで,新田の脚力であればそれは乗り越える可能性もあると思いましたが,阿部が前を回るのでどうかとみていました。阿部も先行意欲は高かったと思いますが,皿屋を突っ張ってすぐに中西に来られたので,不意を突かれてしまったのでしょう。その点では中西が発進するタイミングがうまかったといえそうです。新田が三谷との競り合いに負けたのは,展開もあったでしょうが,発走直後に前を取るためにいくらか脚を使ったことも影響したかもしれません。各自がそれぞれの役回りで力を出したよいレースだったと思います。

 第三部諸感情の定義二から分かるように,喜びlaetitiaは小なる完全性perfectioから大なる完全性への移行transitioを意味します。つまり,現実的にAという人間が存在して,このAが何らかの喜びを感じるということは,Aがより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することを意味します。
                                   
 完全性というのは第二部定義六により,実在性realitasと同じです。だから,現実的に存在するAがより小なる完全性からより大なる完全性に移行するということと,Aがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのと同じ意味であることになります。
 スピノザの哲学で実在性とは何かといえば,それはpotentiaという観点からみた本性essentiaにほかなりません。したがって,Aの実在性とAの本性は,実在性とか本性というものを,どのような観点から理解するかという差異にのみ帰せられます。よってAがより小なる実在性からより大なる実在性に移行するというのは,力という観点からみる限り,Aがより小なる本性からより大なる本性へと移行するということと同じでなければなりません。ただし,こうした移行というのは,Aが現実的に存在する限りで生じることですから,このようにいわれる場合の本性というのは,現実的本性actualis essentiaでしかあり得ず,Aのあるいは人間の形相的本性essentia formalisではあり得ません。つまり,現実的にAが存在して,そのAが喜びを感じるということは,力という観点からみる限りで,Aがより小なる現実的本性からより大なる現実的本性へと移行するということを意味するのです。
 この現実的本性の移行が,AにとってAの中に起こることといえるのかどうか,いい換えればAの本性ならびに形相に変化を齎しているといえるのかということについては,いえるという見解もいえないという見解もあり得るというように僕には考えられます。単純に現実的本性をAの本性と解すれば,それが小なる現実的本性から大なる現実的本性へと移行するのですから,Aの現実的本性に変化が齎されているといえるでしょう。しかし,Aという人間がいくら喜びを感じたとしても,Aの形相が変化しているわけではない,つまりAがBになるわけではないので,変化は齎されていないともいえます。
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表彰選手&無限知性による認識

2023-01-30 19:44:17 | 競輪
 昨年の競輪の表彰選手は23日に発表されました。
                                        
 MVPは福井の脇本雄太選手。KEIRINグランプリ,日本選手権競輪,オールスター競輪,玉野記念,燦燦ムーンナイトカップ,向日町記念に優勝。GⅠを2勝してグランプリも優勝したのですから当然の選出でしょう。2020年以来となる2年ぶり2度目の最優秀選手賞。
 優秀選手賞は3人。まず大阪の古性優作選手。全日本選抜競輪,高松宮記念杯に優勝。記念競輪は勝てませんでしたが,GⅠ2勝ですからこれも当然の受賞。昨年の最優秀選手賞で優秀選手賞は初受賞。
 ふたり目は広島の松浦悠士選手。サマーナイトフェスティバル,奈良記念,川崎記念,富山記念,岐阜記念,広島記念に優勝。GⅠは勝てなかったのですが,年間を通しての活躍から考えればこれも当然の受賞だと思います。2019年,2020年,2021年に続き4年連続4度目の優秀選手賞。
 3人目は福島の新田祐大選手寛仁親王牌に優勝。グレードレースの優勝がこれだけだったので,3人目は共同通信社杯を勝って記念競輪を3勝した郡司浩平選手との争い。GⅠを勝ったということが選出の決め手となったようです。2015年,2017年の最優秀選手賞で,優秀選手賞は初受賞。
 優秀新人選手賞は岩手の中野慎詞選手。デビューが一昨年の12月。9連勝で昨年の3月にA級に昇級。さらに9連勝で4月にはS級に。S級初出走となったのが6月で9連勝でFⅠを3連続優勝。青森記念を予選から3連勝して決勝で初黒星を喫しました。その後もFⅠでは2回の優勝を飾っていますので,グレードレースの優勝こそないとはいえ格別の成績。当然ながら記念競輪制覇が今年の目標になるでしょう。
 特別敢闘選手賞に北海道の新山響平選手。競輪祭に優勝。これはGⅠ1勝で優秀選手賞を受賞した新田選手との兼ね合いでしょう。2016年に優秀新人選手賞に選出されて以来の表彰です。
 ガールズ競輪と自転車競技はこのブログでは扱っていませんので,これ以外の受賞者については割愛します。

 無限知性intellectus infinitusの本性essentiaならびに形相formaに変化が齎されることがないのであれば,第二部定理九系および第二部定理一二でいわれている,中に起こること,というのを僕のように解釈する限り,無限知性の中には何も起こらないということが帰結します。したがって,たとえば僕たちが僕たち自身の身体corpusの中に起こることを認識するcognoscereようには,無限知性は無限知性の中に起こることというのを認識しないということになるのです。別のいい方をすれば,僕たちの身体の中には,僕たちの身体ならびに精神mensの本性と形相に変化が齎されるような事象が生じるので,僕たちはそのことを認識するのですが,無限知性の中には無限知性の本性と形相に変化を齎すようなことは何も起こらないので,無限知性はそのことについては何も認識することはないのです。
 第二部定理一一系は,人間の精神Mentem humanamが無限知性の一部partem esse infiniti intellectusであるといっています。この人間の精神とかあの人間の精神といわれるような人間の精神,つまり現実的に存在する各々の人間の精神というのは,生成もすれば消滅もします。たとえばXという人間が現実的に存在するようになる,つまり誕生すればXの精神というのは生成します。またそのXという人間が現実的に存在することをやめる,つまりXが死亡すればXの精神は消滅します。このようにして,無数の人間の精神,無限知性の一部としての人間の精神ならびに身体は生成しまた消滅するのですが,それは無限知性の本性や形相に変化を齎すような消滅であったり生成であったりするわけではありません。そして生成と消滅に関してさえそうなのですから,現実的に存在する人間の精神が何事かを認識するというような個々の思惟作用や,現実的に存在する人間の身体が何らかの運動motusをなすといった個々の延長作用の観念は,なおのこと無限知性の本性や形相に変化を齎す影響を与え得るような事象ではありません。したがってこれらのことのすべてを,無限知性が認識することはないのです。
 ただしここで注意しておいてほしいのは,無限知性があることを認識するとかしないということと,神がある事柄を認識するとかしないとかいうこととは,別のことであるということです。
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ちぎり賞争奪戦&必要なこと

2023-01-29 19:06:08 | 競輪
 豊橋記念の決勝。並びは坂井‐久木原の関東,山口‐小堺の中部,脇本‐古性の近畿,片岡‐岩津‐池田の中四国。
 かなりの牽制になった後,古性が誘導を追って脇本の前受け。3番手に坂井,5番手に片岡,8番手に山口で周回。この隊列のままだれも動かずに残り2周のホームを通過。山口が内を上がって片岡の位置を取りにいこうとし,これは取れなかったのですが池田が連結を外したので,6番手以降は山口‐小堺‐池田の順に変化。打鐘を迎えてもまだスローペースで,脇本の成り行き先行のようなレースになりました。古性が少しだけ車間を開けて待ち構えましたが,捲ってくる選手はなし。直線から踏み込んだ古性が脇本の横まではいきましたが差すには至らず。逃げ切った脇本が優勝。マークの古性が8分の1車輪差の2着で近畿のワンツー。先に踏んだ坂井が古性の外から1車輪差の3着まで迫りました。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は前回出走の和歌山記念から連続の完全優勝。連勝を11として記念競輪12勝目。GⅢは13勝目。豊橋記念は2010年以来となる12年ぶりの2勝目。このレースは脇本の脚力が上位なので,これほど楽な先行になってしまえば後ろの自力タイプは手も足も出なくなるのが必然で,古性との直線勝負です。古性も牽制の意味もあったでしょうが,自分が踏み出しやすいくらいの車間を開けていましたので,その差し脚を封じた脇本が強かったといえるでしょう。牽制の末に脇本に前を取らせたほかの選手たちには何か意図があったと思うのですが,このような単調なレース人ってしまうとそれが何であったのかも分かりにくいです。脇本にとっても古性にとっても拍子抜けのようなレースだったのではないでしょうか。

 第二部定理八系でいわれているDeusの無限な観念ideaを,無限知性intellectus infinitusと同一視することができるというのであれば,なぜそれらを同一視することができるのかということの根拠を明確に説明することができるのでなければなりません。一方,それらが同一視することができないという場合には,同一視することができないことの根拠を示すと同時に,ここでいわれている神の無限な観念が何を意味するのかも説明することができるのでなければいけません。
 僕自身は,かつてはこの神の無限な観念を,無限知性と同一視してよいと判断していました。しかし現在は,同一視することができないのではないかという見解opinioに傾いています。傾いているというのは,断定することができるというほどではない,いい換えればそう断定できるほどの根拠を持ち合わせているわけではないという意味であり,同時にしかしそれは同一視することができないという可能性がきわめて高いだろうとみているという意味でもあります。この点に関して詳しい論考を行っているものとしては,『スピノザーナ10号』に収録されている,柏葉武秀の「存在しないものの存在論」があります。この論考は無限知性と神の無限な観念は同一視することができないという立場からのものですが,このことを考える上では間違いなく参考になります。
 もうひとつはっきりとさせておかなければならない点は,第二部定理九系および第二部定理一二で,対象ideatumの中に起こるすべてのこと,といわれているとき,中に起こること,とは何であるのかということについて,はっきりとした見解を示すことです。僕にとってこの点のヒントとなったのは『堕天使の倫理』で,僕はそこで佐藤拓司がいっているように,Xの中に起こることというのは,Xの本性essentiaならびに形相formaに何らかの変化を齎すことというように解しています。そしてこの僕の解釈からは次のことが帰結します。
 無限知性は書簡六十四で明確にされているように,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態です。よってそれは第一部定理二一により永遠aeterunusです。つまり無限知性の本性ならびに形相は,永遠から永遠にわたって存在するのであって,変化が齎されることはありません。
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東日本発祥倉茂記念杯&自由の人と賢者

2023-01-22 19:11:19 | 競輪
 大宮記念の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,吉田‐平原‐宿口の関東,郡司‐深谷‐萩原の南関東で中本は単騎。
 平原と郡司がスタートを取りにいきました。枠が内だった平原が誘導の後ろに入って吉田の前受け。4番手に郡司,7番手に新山,最後尾に中本で周回。残り2周のバックに入って吉田が誘導との車間を開け始めました。それをみて新山が上昇。打鐘後に吉田を叩いて前に。佐藤が連結を外しそうになったのですが,ホームの入口あたりで吉田が引いたので,新山の後ろに。後ろになった郡司がすぐさま発進。ホームの出口では新山を叩いてかまし先行に。佐藤の後ろに続かなかった中本が,萩原の位置を奪って3番手。バックで吉田が巻き返しにいきましたがこれは不発。直線入口あたりで郡司との車間を開けていた深谷が,郡司の失速をみて踏み込むと,そのまま突き抜けて優勝。深谷マークのレースになった中本が2車身差で2着。直線で外目から伸びてきた佐藤が4分の1車輪差で3着。さらにその外から追い込んだ宿口が半車輪差の4着。
                                         
 優勝した静岡の深谷知広選手は昨年10月の静岡のFⅠ以来の優勝。記念競輪は昨年8月の小田原記念以来の優勝で18勝目。大宮記念は2016年以来の2勝目。このレースは地元勢を引き連れた吉田の先行が有力で,新山がどのように抵抗するのか,また平原が番手捲りをしたときに郡司がさらにその上をいくことができるのかが焦点だと思っていました。ところが郡司のかまし先行という,僕が考えていない形のレースになりました。郡司の先行になってしまうと吉田や新山が捲るのはなかなか大変。実際に深谷はだれにも迫られることなく番手を回ることになり,絶好の展開でした。昨年までは深谷が郡司の前を回るケースが多く,それで郡司が恵まれるというケースも多々ありましたので,郡司が深谷の前を回るという場合には,このような展開になることも想定しておかなければならなかったということでしょう。

 第二種の認識cognitio secundi generisの場合も第三種の認識cognitio tertii generisの場合も,それで認識された十全な観念idea adaequataは,永遠の相species aeternitatisの下に認識されているのであり,したがって永遠から永遠にわたって存在することになります。つまり存在することをやめません。このような意味で,第五部定理四二備考の,賢者は賢者としてみられる限り存在することをやめないということの意味を解することは可能だと僕は考えます。そして字義通りの意味でいえば,こちらの解釈の方が近いといっていいと思います。現実的に存在する人間は,賢者であるか無知者であるかに関係なく,あるいは自由の人homo liberであるか奴隷であるかに関係なく,現実的に存在することをやめます。また,現実的に存在する人間の精神mens humanaが,十全な観念だけによって組織されるということはあり得ず,いくつかの十全な観念と,大抵の場合はそれより多くの混乱した観念idea inadaequataによって構成されます。しかし,賢者が賢者といわれるのは,あるいは自由の人が自由の人といわれるのは,その人が能動的である限りにおいてであり,同じことですがその人が事物を十全に認識するcognoscere限りでのことです。ですから,事物を十全に認識しているとみられる限り,賢者は賢者として存在することをやめないという意味に解することはできるのであり,そして確かに十全な観念は存在することをやめないのです。
 現在の考察からは離れますが,ここで第二種の認識と第三種の認識を考察したことから,スピノザが自由の人という場合と賢者という場合とでは,いくらかの相違があるのではないかということがみえてきます。僕は賢者を自由の人と置き換えた上で,ここまでの考察を続けてきました。このように置き換えて問題はないものと思いますが,実際には自由の人も賢者も同じように能動的に活動し事物を十全に認識するのであるにしても,強調されるポイントには相違があるとみることができます。第四部定理六六備考で自由の人が説明されるとき,理性ratioによって能動的であることとして説明されています。つまり第二種の認識が強調されています。これに対して賢者は,『エチカ』の最後の備考Scholiumでいわれているのであり,そこでは第三種の認識が念頭に置かれていると思われます。
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和歌山グランプリ&虚偽の認識

2023-01-15 19:31:05 | 競輪
 和歌山記念の決勝。並びは新田‐守沢‐山崎‐佐藤の北日本,脇本‐古性‐藤田の近畿で真杉と深谷は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。5番手に深谷,6番手に真杉,7番手に脇本で周回。残り2周のバックに入ったところから脇本が発進。新田と並んだところで打鐘。ここから新田は突っ張り,先行争いに。ホームで脇本が叩いて前に出ましたが,先行争いのあおりで新田が番手に入りました。3番手は確保した古性はすぐに追い上げ,新田の外で併走。競りがバックの出口まで続き,古性が奪い返しました。競りの後ろにいた守沢は半ば自力で発進したものの,前には追い付けず。直線は古性が脇本に迫りましたが差すには至らず,逃げ切った脇本の優勝。古性が4分の3車輪差の2着に続いて近畿のワンツー。守沢が半車身差で3着。守沢マークから外の方に進路を取った山崎が4分の1車輪差で4着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は競輪グランプリに続いての優勝。記念競輪は昨年9月の向日町記念以来となる優勝で11勝目。GⅢは12勝目。和歌山記念は初優勝ですが,2020年の高松宮記念杯を当地で勝っています。グランプリの内容から復活しているので,最有力候補。単騎の深谷がかまして後方になってしまうと苦しむかもしれないと思っていましたが,深谷も真杉も脚を使うことができない展開になりました。新田は突っ張ったというより番手を狙いにいったのではないかと思いますが,一旦は奪われた古性がすぐに追い上げることによって事なきを得ました。そういう意味では古性の役割が大きかった上での結果だったといえるでしょう。

 Xの混乱した観念idea inadaequataとXの十全な観念idea adaequataは,同じ人間の精神mens humanaのうちに同時にあることができます。現実的に存在するある人間の精神のうちにXの混乱した観念があるとき,その精神のうちにXの十全な観念が発生してもXの混乱した観念は排除されないとか,現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるとき,同じ精神のうちにXの混乱した観念が発生することは妨げられないということは,そのようなことを意味するからです。ただ,Xの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時にあるときには,その人間はXの混乱した観念については,それが混乱した観念であることを知ります。このことは第二部定理四二第二部定理四三から明白なのであって,もし現実的に存在するある人間の精神のうちにXの十全な観念があるなら,その人間はそれがXの十全な観念であるということを知るのであって,そのことによってXの真理veritasと虚偽falsitas,いい換えればXの十全な観念とXの混乱した観念とを区別することができるからです。よってこの場合にはその人間がXの混乱した観念を真理であると思い込むこと,あるいは同じことですがXの混乱した観念をXの十全な観念であると思い込むことは絶対に生じません。
 第五部定理四二備考で,賢者は賢者としてみられる限りではその存在をやめることはないといわれるとき,その意味を上述の主旨に関連させて解釈することは可能でしょう。すでに考察しておいたように,現実的に存在する人間は,必ずある観念から別の観念へと移行するのであって,それは十全な観念から混乱した観念あるいは表象像imagoへと移行することも含みます。ただそのときに賢者と無知者を分かつのは,十全な観念を認識しているか混乱した観念を認識しているのかという差異にあるのではなくて,混乱した観念を虚偽であると知っているか真理であると思い込んでいるかという差異にあるのでした。したがって,Xの十全な観念がある人間の精神のうちにある限り,その人間はXの混乱した観念を認識したとしても,常にそれが虚偽であると知ることになります。つまりその人間はXについて賢者であることをやめることはないでしょう。
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鳳凰賞典レース&規準

2023-01-07 19:25:05 | 競輪
 立川記念の決勝。並びは新田‐佐藤の福島,松井‐郡司‐和田‐岡村‐高橋の南関東で佐々木と北津留は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。3番手に佐々木,4番手に松井,最後尾に北津留で周回。残り3周のバックから松井が佐々木との車間を開け始め,ホームから発進しました。新田は引かずに郡司の横で粘る競走に。結果的に2番手以下は内が新田‐佐藤‐佐々木,外が郡司‐和田‐岡村で併走になって打鐘。競り合いが長く続き,バックに入るところで新田が奪いました。郡司は下りて新田の後ろに入ろうとしましたが佐藤と接触して自転車が故障したようでずるずると後退。最後尾に構えていた北津留が捲ってくると番手を奪った新田が発進。最後まで北津留を出させずに優勝。北津留が4分の3車身差で2着。こちらも自転車が故障してしまった佐藤は新田に続けなかったので,逃げ粘った松井が2車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手寛仁親王牌以来の優勝。記念競輪は一昨年の伊東温泉記念以来となる9勝目。立川記念は初優勝ですが,2010年暮れのSSカップみのりでビッグ初優勝を達成したのが立川でした。このレースは松井が先行して郡司が番手捲りとなればだれも太刀打ちすることができません。なので勝つためには分断策しかなく,新田がそれに出て,優勝をもぎ取ることになりました。松井に前受けされては突っ張られるでしょうから,前を取ったのもよかったと思います。そういう意味では1番車を得ていたのも大きかったでしょう。脚力だけでは以前ほどには他を圧倒して勝つということはできなくなってきていますので,今日のような競走が今後も増えていくかもしれません。

 スピノザは虚偽falsitasはそれ自体では否定しません。しかし誤謬errorは否定します。一方,知性intellectusのうちに虚偽があるだけでは,否定はしませんが肯定するaffirmareこともありません。しかし知性のうちに虚偽があり,同時にその知性がそれを虚偽であるということを知っている場合は,その虚偽を肯定します。これに関しては全面的に肯定するといっていいでしょう。したがって,スピノザが自由の人homo liberおよび賢者を肯定して,奴隷および無知者を否定していることをそのことと比例させて解するなら,現実的に存在するある人間の知性のうちに虚偽すなわち混乱した観念idea inadaequataがあるだけでは,その人間を自由の人ということはできませんが,奴隷ということもできません。同様にその人間を賢者ということはできませんが無知者ということもできないということになります。賢者と無知者,自由の人と奴隷とを分かつ規準は,この場合には,その虚偽を真理veritasと思い込むのかそれとも虚偽であると知っているのかという点にあるとみなすべきだと僕は考えます。
                                   
 現実的に存在する人間の精神mens humanaの一部は,必然的にnecessario混乱した観念によって構成されます。これはすでに示した通りなのであって,人間の精神は,人間の身体humanum corpusほどには複雑に組織されていない個物res singularisいい換えれば物体corpusの精神よりも,多くの混乱した観念で構成されることになります。ただそのことは,人間の精神が事物を知覚するpercipere適性が高いということを示すのであって,必ずしも否定的に評価する必要はありません。むしろ知覚perceptioの適性度という観点だけでいえば肯定的に評価されるべき事柄です。ただそうした知覚つまり表象imaginatioはそのすべてが混乱した観念なので,もしもそれは十全な観念idea adaequataであると思い込んでしまうのなら,その人間は奴隷とか無知者といわれるべきでしょう。しかしそれとは逆に,それが混乱した観念であるということを知っている,自覚しているのであれば,その人間は賢者でありまた自由の人といわれるべきなのです。
 自由の人とか賢者というのは,能動actioとくに精神の能動actio Mentisについてそういわれるのであり,表象というのは受動passioです。しかし表象像imagoを表象像と知る,つまり受動を受動と知るのは,精神の働きactioと解してよいのだと思います。
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KEIRINグランプリ2022&受動感情の場合

2023-01-02 19:20:58 | 競輪
 12月30日に平塚競輪場で争われたKEIRINグランプリ2022。並びは新山‐新田‐守沢‐佐藤の北日本と脇本‐古性の近畿で,平原と郡司と松浦は単騎。
 郡司,新山,平原の3人がスタートを取りにいきました。誘導の後ろに入ったのは新山でそのまま前受け。5番手に郡司,6番手に平原,7番手に松浦,8番手に脇本という隊列になりました。しかし残り5周の周回中に松浦が動いて新田の外へ。新田が一旦は引いたので,2番手に松浦で3番手が新田。6番手に郡司,7番手に平原,8番手に脇本という周回に。残り3周に入ると新山が誘導との車間を少しずつ開けていき,呼応するように脇本も平原との車間を開け始めました。残り2周のホームで新田が松浦の外に追い上げ,ここからは競り。この競りは新田が制して新山の番手を守る形になりましたが,松浦がうまく新田の後ろに入って守沢が4番手になって打鐘。平原との車間を開けていた脇本はこのあたりから発進。ホームに入ると守沢が松浦の外まで追い上げました。脇本はバックにかけてその外まで追い上げ,新田は番手から発進。しかし脇本が古性と共に捲り切りました。古性の後ろには郡司がスイッチ。直線では古性も郡司も前との差を詰めましたがそれぞれ届かず,この並びのままフィニッシュ。優勝は脇本でマークの古性が4分の1車輪差の2着になり近畿のワンツー。郡司は4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は11月の福井FⅠ以来の優勝。グレードレースは9月の向日町記念以来。ビッグは8月のオールスター競輪以来で9勝目。グランプリは初優勝。このレースは新山が早い段階から駆けていくことが濃厚。北日本はラインから優勝者を出すのであれば,佐藤が3番手で守沢が4番手の方が,分断を狙われにくかったように思います。この並びだとだれかがそれをやる可能性はあり,松浦がその動きをみせました。新田はもう少し早い段階で番手から出た方がよかったと思いますが,後ろが競る形になったのでそれが難しかったかもしれません。いい換えれば北日本勢は松浦に当初の作戦を覆されたということになるでしょう。それでも隊列がさほど短くなったわけではありませんから,後方から番手捲りのさらに上を捲った脇本の強さが際立ちました。秋から調子を落としているとみていたのですが,元に戻っていたようです。元に戻っていれば現役では最強ですから,今年も大活躍してくれるでしょう。

 第四部定理七は,感情はそれに相反する,より強力な感情affectu fortiore, et contrarioによって抑制されまた除去され得るといっています。つまり,理性ratioそのものが感情を抑制したり除去したりすることはできません。よって賢者は,理性そのものによって感情を抑制しまた除去しようとしたりするのではなく,理性から生じる感情によって,受動感情を抑制しまた除去しようとするのであるということをすでに考察しました。ただ,ある受動感情が抑制されまた除去されるというのは,この様式だけで生じるわけではありません。受動感情はそれに相反する強力な感情によって抑制されまた除去されるので,もしAという人間が現実的に存在していて,Xという受動感情に刺激されているとして,その人間がXと相反しかつ強力なYという受動感情に刺激されるafficiときには,Xという受動感情は除去されるか少なくとも抑制されるからです。このとき,Aは賢者として受動感情を抑制しまた除去しているわけではありません。受動感情に刺激され続けているという点では,その感情がXからYになっただけで,変わるところはないからです。つまりAは無知者として存在し続けていることになります。ただ,もしAを,Xという受動感情に刺激されている人と限定してみれば,Xという受動感情に刺激されている限りでのAは,その限定された存在existentiaをやめることになります。第五部定理四二備考で,無知者が存在することをやめるといわれているのは,具体的にはこのような意味です。つまりある特定の無知者であることをやめるという意味で,その特定という限定を排除すれば,無知者は無知者として存在し続けるということになります。
 これは受動感情に限定した説明です。感情だけなく,受動passioを広く一般的なものとしてみた場合にも,現実的に存在するある人間が,ある特定の受動の存在であることはやめるけれども,受動する存在であるということ,つまりその特定の受動とは異なった別の受動の存在者であり続けるということがあります。受動感情に刺激される人だけが無知者あるいは奴隷といわれるわけではなくて,一般に働きを受けるpati限りで人は無知者といわれ奴隷といわれるのですから,その場合も説明します。
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