スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

KEIRINグランプリ2022&受動感情の場合

2023-01-02 19:20:58 | 競輪
 12月30日に平塚競輪場で争われたKEIRINグランプリ2022。並びは新山‐新田‐守沢‐佐藤の北日本と脇本‐古性の近畿で,平原と郡司と松浦は単騎。
 郡司,新山,平原の3人がスタートを取りにいきました。誘導の後ろに入ったのは新山でそのまま前受け。5番手に郡司,6番手に平原,7番手に松浦,8番手に脇本という隊列になりました。しかし残り5周の周回中に松浦が動いて新田の外へ。新田が一旦は引いたので,2番手に松浦で3番手が新田。6番手に郡司,7番手に平原,8番手に脇本という周回に。残り3周に入ると新山が誘導との車間を少しずつ開けていき,呼応するように脇本も平原との車間を開け始めました。残り2周のホームで新田が松浦の外に追い上げ,ここからは競り。この競りは新田が制して新山の番手を守る形になりましたが,松浦がうまく新田の後ろに入って守沢が4番手になって打鐘。平原との車間を開けていた脇本はこのあたりから発進。ホームに入ると守沢が松浦の外まで追い上げました。脇本はバックにかけてその外まで追い上げ,新田は番手から発進。しかし脇本が古性と共に捲り切りました。古性の後ろには郡司がスイッチ。直線では古性も郡司も前との差を詰めましたがそれぞれ届かず,この並びのままフィニッシュ。優勝は脇本でマークの古性が4分の1車輪差の2着になり近畿のワンツー。郡司は4分の3車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は11月の福井FⅠ以来の優勝。グレードレースは9月の向日町記念以来。ビッグは8月のオールスター競輪以来で9勝目。グランプリは初優勝。このレースは新山が早い段階から駆けていくことが濃厚。北日本はラインから優勝者を出すのであれば,佐藤が3番手で守沢が4番手の方が,分断を狙われにくかったように思います。この並びだとだれかがそれをやる可能性はあり,松浦がその動きをみせました。新田はもう少し早い段階で番手から出た方がよかったと思いますが,後ろが競る形になったのでそれが難しかったかもしれません。いい換えれば北日本勢は松浦に当初の作戦を覆されたということになるでしょう。それでも隊列がさほど短くなったわけではありませんから,後方から番手捲りのさらに上を捲った脇本の強さが際立ちました。秋から調子を落としているとみていたのですが,元に戻っていたようです。元に戻っていれば現役では最強ですから,今年も大活躍してくれるでしょう。

 第四部定理七は,感情はそれに相反する,より強力な感情affectu fortiore, et contrarioによって抑制されまた除去され得るといっています。つまり,理性ratioそのものが感情を抑制したり除去したりすることはできません。よって賢者は,理性そのものによって感情を抑制しまた除去しようとしたりするのではなく,理性から生じる感情によって,受動感情を抑制しまた除去しようとするのであるということをすでに考察しました。ただ,ある受動感情が抑制されまた除去されるというのは,この様式だけで生じるわけではありません。受動感情はそれに相反する強力な感情によって抑制されまた除去されるので,もしAという人間が現実的に存在していて,Xという受動感情に刺激されているとして,その人間がXと相反しかつ強力なYという受動感情に刺激されるafficiときには,Xという受動感情は除去されるか少なくとも抑制されるからです。このとき,Aは賢者として受動感情を抑制しまた除去しているわけではありません。受動感情に刺激され続けているという点では,その感情がXからYになっただけで,変わるところはないからです。つまりAは無知者として存在し続けていることになります。ただ,もしAを,Xという受動感情に刺激されている人と限定してみれば,Xという受動感情に刺激されている限りでのAは,その限定された存在existentiaをやめることになります。第五部定理四二備考で,無知者が存在することをやめるといわれているのは,具体的にはこのような意味です。つまりある特定の無知者であることをやめるという意味で,その特定という限定を排除すれば,無知者は無知者として存在し続けるということになります。
 これは受動感情に限定した説明です。感情だけなく,受動passioを広く一般的なものとしてみた場合にも,現実的に存在するある人間が,ある特定の受動の存在であることはやめるけれども,受動する存在であるということ,つまりその特定の受動とは異なった別の受動の存在者であり続けるということがあります。受動感情に刺激される人だけが無知者あるいは奴隷といわれるわけではなくて,一般に働きを受けるpati限りで人は無知者といわれ奴隷といわれるのですから,その場合も説明します。
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