スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

オールスター競輪&方向

2022-08-17 19:35:51 | 競輪
 9日から西武園競輪場で開催された第65回オールスター競輪は,13日の準決勝が台風の影響で順延となったため,決勝も15日に争われました。並びは新山‐小松崎‐守沢‐成田の北日本,寺崎‐脇本‐古性の近畿で,吉沢と松浦は単騎。
 古性がスタートを取って寺崎の前受け。4番手に松浦,5番手に吉沢,6番手に新山で周回。残り3周のバックから新山が上昇開始。寺崎は誘導との車間を開けて突っ張る構え。ホームで誘導が退避して新山が叩きにいきましたが寺崎が突っ張りました。内から松浦が上昇し,外からも被される形になった脇本は連結を外して引いたので,バックでは寺崎の後ろに松浦が入り,3番手に新山,7番手に脇本,最後尾に吉沢という隊列になって打鐘。バックに入って松浦が番手捲りを敢行。先頭で直線に入りましたが,後方からの捲り追い込みとなった脇本が差して優勝。松浦が4分の3車輪差で2着。直線で松浦と新山の間を突いた守沢が半車身差で3着。
                                        
 優勝した脇本雄太選手は6月の燦燦ムーンナイトカップ以来の優勝。ビッグは5月の日本選手権以来となる8勝目。オールスター競輪は2018年以来の2勝目。このレースは脇本の脚力が断然。寺崎がすんなりと先行になれば絶対的に有利ですし,仮に寺崎が不発になったり分断されたりしても自力で何とかできるだろうと思っていました。松浦がうまく動いて番手に入ったのですが,その番手捲りを後方から捲り切ったのですから,やはり力が違ったということでしょう。松浦も脇本を待って合わせて発進というのは至難の業ですから,番手から出ていったタイミングは悪くなかったと思います。吉沢が松浦を追うことができていれば,また違った結果もあったかもしれません。分断されたわけではなく,自ら連結を外していますので,番手戦という意味では脇本には課題が残るレースだったでしょう。

 主客二元論を政治論の形而上学的基礎に据えれば,主体subjectumとしての主権と,客体としての民衆という構造が出現します。このとき,主体は能動actioを意味して客体は受動passioを意味するのですから,主権の能動と民衆の受動という国家像が,この政治論ではよき国家像になるでしょう。この政治論に欠点があるとすれば,民衆の欲望cupiditasをすくい上げるような回路あるいは方向性をもつことができないという点にあります。主権から民衆の方向に向かうときにのみ能動的であるのですから,この国家像が一方向的でしかないのは一目瞭然といえるでしょう。このとき,主権とは何であるのかとか,民衆とはだれを意味するのかということは問題として残るでしょうが,方向性が主権から民衆のみだけであり,民衆から主権という方向性をもっていないということは間違いありません。
 スピノザが政治論を組み立てるとき,その基礎として自身の哲学を援用していることは間違いありません。ただ上述のような意味での形而上学的基礎として援用されているかといえば,必ずしもそうとはいえないように僕は思います。ただ,スピノザの哲学を形而上学的基礎として政治論というのを構築することはできる筈で,浅野自身はスピノザの政治論がそのような政治論であるとみているようです。僕は実際にそうであるとは断定しませんが,スピノザの哲学を形而上学的基礎に据えれば,ホッブズThomas Hobbesが示したとされるような政治論とは異なった政治論が構築されることは間違いありませんので,ここではそのような観点からそれを検証していくことにします。
 スピノザの哲学とデカルトRené Descartesの哲学の大きな相違のひとつに,人間の身体humanum corpusと人間の精神mens humanaの間の因果関係の有無というのがあります。デカルトの哲学はそこに因果関係があることを肯定するから二元論といわれ,スピノザの哲学はその因果関係を否定するから平行論といわれるということはすでに示した通りです。まずこの部分の形而上学的論理を確認しておきましょう。
 スピノザの哲学では,あるものと別のものの区別distinguereが実在的区別であるなら,一方が他方の,また他方が一方の,原因causaであったり結果effectusであったりすることはできないことになっています。
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