スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

倉茂記念杯&聖書の普遍性

2016-01-21 19:13:26 | 競輪
 準決勝が雪で順延となったため,決勝も昨日に延期となった大宮記念。並びは桜井‐安部‐佐藤の北日本,平原‐武井の東日本,深谷‐浅井‐林‐岩本の中部。
 浅井がスタートを取って深谷の前受け。5番手に平原,7番手に桜井で周回。残り2周のバックに入るところから桜井が上昇開始。打鐘で深谷も踏んでいきましたが,外から桜井が叩きました。このラインに続いていた平原が4番手,深谷が6番手の一列棒状でホームを通過。バックに入って深谷が発進。後ろを警戒していた平原も併せて出ようとしましたが,勢いが違いすぎて深谷が前に。安部も番手から出ていきましたが深谷はこれもコーナーで飲み込み,直線で浅井の追撃を振り切って優勝。1車輪差で浅井が2着。1車身差の3着にも林が続いて中部の上位独占。
                                    
 優勝した愛知の深谷知広選手は年末の伊東温泉記念に続いて記念競輪11勝目。大宮記念は初優勝。昨年はデビューしてから最も苦しんだ1年になってしまいましたが,いい形で終えることができ,今年は幸先のよいスタートを切りました。ラインが結束が固い4人になりましたので,前受けから引いても6番手という分の優位さが大きかったと思います。競輪選手はどうしても怪我がつきものなので,確定的なことはいいにくいのですが,たぶん今年は昨年の分まで活躍してくれるでしょう。むしろ気がかりなのは平原の方で,明らかに調子を落としているように思えます。

 フェルトホイゼンがスピノザを批判するにあたって何を前提としていたかは,スピノザが返答で反応した冒頭部分がよく示しています。フェルトホイゼンからみればスピノザがキリスト教徒でなかったのは明白です。これもスピノザは認めるでしょう。だからフェルトホイゼンは当然のようにスピノザを無神論者とみなし,その生活など知りたくもないと書いたのです。
 これに対してスピノザは,キリスト教ないしは聖書だけが人を敬虔にするのではないと考えていました。だからキリスト教徒でない人にも,敬虔な人がいることを当然のように認めたのです。そしてそういう人は,結果的に聖書がかくあれと示している内容を実践しているのだから,異教徒であろうと無宗教であろうとキリスト者であると認識していました。後にゲーテはスピノザのことを最高のキリスト者と評価するのですが,スピノザがキリスト教徒であったことはただの一度もなく,ゲーテもキリスト者とは何かということを,スピノザと同じように考えていたかもしれません。もしもそうであるとすると,フェルトホイゼンとスピノザの対立は,汎神論論争におけるヤコービとゲーテの対立とパラレルな関係にあったといえるでしょう。フェルトホイゼンとかヤコービにとって,聖書とはあくまでもキリスト教徒だけに意味あるものでした。ですがスピノザやゲーテにとっては,聖書の内容はもっと普遍的なものであり,キリスト教徒であろうとなかろうと人類一般に妥当するものであったのです。
 たぶんスピノザとかゲーテがしたような考え方をフェルトホイゼンはできなかったのだと思います。あるいはそんなことは思いもよらなかったといった方がいいかもしれません。部分的にはそれはデカルト主義を守るという目的から発したものといえるでしょうが,単にひとりの人間として考えた場合には,フェルトホイゼンはたとえば王党派に属していたような連中よりよほど進歩的であった筈ですが,スピノザからみれば反動的だったのだと思います。たぶんマイエルは理性によって人が敬虔であり得ることは認めたでしょうから,フェルトホイゼンはマイエルより反動的であったと僕は解しています。
コメント
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