スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

泗水杯争奪戦&理性と睡眠欲

2018-12-04 19:00:51 | 競輪
 四日市記念の決勝。並びは吉田‐鈴木‐木暮の関東,浅井に園田,稲毛‐山本の近畿に内藤で岡村は単騎。
 牽制が長引きましたが浅井が意を決してスタートを取り前受け。3番手に岡村,4番手に稲毛,7番手に吉田で周回。残り2周のホームに入る前のコーナーから吉田が上昇。これを見て岡村が動き,ホームの出口では浅井を叩いて誘導の後ろに。吉田はすぐには上昇せず4番手で稲毛の動向を確認。バックに入って稲毛が動いたのを見て自身も発進。打鐘では先行争いになるかと思われましたが稲毛が争わずに4番手に入ったので,7番手に岡村,8番手に浅井の一列棒状になってホームを通過。浅井はバックの入口から発進。吉田との車間を開けていた鈴木が最終コーナーの手前から番手捲りを敢行しましたが,直線の入口では浅井が並び掛け,その勢いのまま先頭まで突き抜けて優勝。園田が離れてしまったので中団から浅井を追うような形になった山本が直線では大外を伸びて1車身差の2着。展開は絶好だった鈴木は4分の1車輪差の3着まで。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の競輪祭から連続優勝。記念競輪はその前に出走した豊橋記念以来の25勝目で出走機会3連続優勝。地元となる四日市記念は2014年,2015年2月,2015年8月と三連覇していて3年ぶり4度目の優勝。ここは出走メンバーの中では脚力は抜けた上位。ただ,調整は競輪祭に向けてであったでしょうから,体調面でのお釣りが残っているかが不安でした。稲毛を牽制した吉田がうまく先行に持ち込み,番手から発進した鈴木のさらに上を8番手から捲ってしまったのですから文句のつけようがない内容。終わってみれば実力通りの優勝であったといえるでしょう。

 睡眠欲は自然の秩序ordo naturaeが現実的に存在する人間に対して要求するもの,いい換えれば現実的に存在する人間が自然の秩序に応じて感じる欲望cupiditasですから,受動passioに属します。スピノザが,理性ratioによって欲望を統御する,他面からいえば精神mensによって身体corpusを統御するという,人間に対して不可能なことを求めている道徳律に対抗し,新たな道徳律として示したのは,能動actioによって受動を回避するということでした。このとき理性は精神の能動を意味するので,自由の人homo liberは理性に従って行動することになります。したがって,受動に隷属して睡眠欲にのみ従属するような人間がいるとすれば,そういう人間はスピノザが自由の人と反対の意味で用いる無知の人であるといわなければなりません。したがって,このような意味において寝坊ばかりしている人間がいるとしたら,そういう人間は間違いなく無知の人です。このことは僕も肯定します。ですからこのような人間の寝坊とか寝過ごしに対しては,寛容である必要は必ずしもないでしょう。
                                
 しかし一方で,現実的に存在する人間は睡眠を必要とするということ自体は疑い得ないのであり,睡眠欲はこのようなコナトゥスconatusとしてみられる限りでは,否定されるべき材料をもちません。むしろ理性が目覚めていることを要求していたとしても,受動に従って眠っていた方が,現実的存在の維持にとっては有益であるという場合さえあり得ることになります。ですから,確かに睡眠欲に常に従属し,惰眠を貪ってばかりいる人間は無知の人といわれるべきでしょうが,これとは逆に,一切の睡眠欲に従わないような人間は,自己の現実的存在を維持することを無視している人間であることになりますから,実は同じ意味において無知の人なのです。人間が現実的に存在するために睡眠を必要とするということは,理性によって,すなわち精神の能動によって確実に知るcerto scimusことができることなので,理性は本来的には,能動的に睡眠欲を肯定することができるからです。第三部定理五九は,能動と関係する欲望があるといっていますが,睡眠欲はそのひとつです。ただし個々にみれば,能動と関係し得る睡眠欲と関係し得ない睡眠欲があるということです。
コメント
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