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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&感染力

2023-07-25 18:58:04 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは藤井‐脇本‐鷲田の近畿①に河野が番手戦,古性‐稲毛の近畿②,清水‐柏野の中国で佐藤は単騎。
 古性が前受け。3番手に佐藤,4番手に清水,6番手に藤井で周回。残り2周のホームからまず清水が動き,ホームの出口で古性を叩きました。これをさらに叩きにいったのが藤井。このときは河野が番手に続いていました。清水を叩いた藤井はバックで脇本が追い上げてくるのを待ち,河野の外まで脇本が追い付いてくると発進して打鐘。しかし番手は河野があっさりと奪いました。脇本はその後ろに入ろうとしましたが,清水が譲らず競りに。ホームからまた追い上げに行きましたが併走していた清水に合わされ,脚を使うところがないまま脇本は不発に。発進した清水がバックの入口で藤井を捲り切ると,後方から古性の捲り。この捲りに続いたのは佐藤。柏野の牽制を乗り越えた古性が清水を捲り切って優勝。佐藤は古性よりも激しく柏野に牽制されたので古性との差は開いてしまいましたが,柏野には競り勝って2車身差の2着。清水が半車身差の3着で柏野が8分の1車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は前々回出走の前橋記念以来の優勝で記念競輪8勝目。福井記念は一昨年も優勝していて2年ぶりの2勝目。このレースは脚力で上位の脇本と古性が連携せず,なおかつ脇本が番手戦を選びその番手が競りになりましたので,まず脇本がどのようなレースをするのかということが注目点。競らないで位置を下げて捲った方が,脇本自身が勝つためにはよかったでしょうが,番手戦を選択した以上は今日のようなレースをするというのもひとつの選択肢としてあり得ると思いました。やはり脇本は現状はだれかの後ろを回るよりも,自力を出した方がよいということでしょう。脇本が不発なら古性の優勝は当然の結果だと思いますし,脇本が不発ということも十分に考えられるレースでしたから,上位がこのようなメンバーで決着も順当なもののひとつだと思います。

 ウイルスがどのような変異を遂げるのかということは,ウイルスと宿主との関係だけで説明することができるわけではありません。宿主に対して弱毒化するような変異が,すべてのウイルスにとって可能なことであるとは断定することができないからです。
                                   
 もうひとつ,第三部定理七に注目する場合は,次の観点も見落とすことはできません。
 ウイルスの現実的本性actualem essentiamは自己の有に固執するsuo esse perseverareのですから,宿主から宿主へと感染していくことで自己の有を維持することが可能になる,他面からいえばこれ以外の方法では自己の有を維持していくことができないウイルスにとって好ましい変異がもうひとつあることになります。それは,宿主から宿主へと感染するpotentiaがより大きくなっていくという変異です。要するに,宿主から別の宿主へと感染していく力が大きければ大きいほど,そのウイルスはより自己の有に固執していることになりますから,このような変異を遂げることは,ウイルスの現実的本性に適合していることになります。よって,もしもこのような変異をウイルスが遂げることができるとすれば,この変異を遂げたウイルスは,変異を遂げる以前のウイルスを駆逐していくことになります。このことはそれ自体で明白だといえますから,これ以上の説明は不要でしょう。
 したがって,人間だけを宿主とするXというウイルスにとって,好ましい変異,これはXの現実的本性に適合する変異という意味ですが,その変異は二種類あることになります。ひとつが人間に対してより弱毒化するということで,もうひとつが現実的に存在する人間から現実的に存在する別の人間へとXが感染していく力を強くしていくことです。Xが必ずそのような変異を遂げることができるとは限りませんから,これはXの現実的本性に適合するXの変異がどのようなものであるのかということを示すだけであって,Xが現実的に存在すればXは必ずそのように変異するということを意味するわけではありません。しかし,Xはもしも変異するならばこのような変異を遂げていくという傾向を有するconariのはXの現実的本性そのものですから,これに逆行するような変異をXは遂げません。
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サマーナイトフェスティバル&お寺

2023-07-18 19:25:25 | 競輪
 函館競輪場で争われた昨晩の第19回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは佐々木‐平原‐神山の関東,脇本‐松浦‐山田の西日本で,新田と松井と山口は単騎。
 神山がスタートを取って佐々木の前受け。4番手に新田,5番手に松井,6番手に山口と単騎の3人を挟んで7番手から脇本の周回。残り2周のホームの出口まできてから脇本が発進。佐々木も踏み込んで打鐘から先行争い。神山と平原の車間が開いてしまったので苦労しましたが,脇本はホームの出口で佐々木を叩きました。山田が離れてしまい,松浦の後ろを松井が追走。出きった3人に対してバックから新田が捲っていったもののこれは不発。直線で脇本を差した松浦が優勝。脇本が半車身差の2着で西日本ラインのワンツー。このラインを追走した松井が4分の3車輪差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は小松島記念からの連続優勝。ビッグはウィナーズカップ以来の8勝目。サマーナイトフェスティバルは第17回18回に続く三連覇で3勝目。函館では一昨年のサマーナイトフェスティバルのほか,5月の記念競輪も勝っています。このレースは佐々木と脇本の自力対決ですから,よほどのことがない限りは脇本か松浦が勝つだろうと思っていました。脇本は簡単に差すことができる選手ではありませんが,松浦くらいのレベルにある選手が無風で番手を回れば,差し切るのは当然だと思います。山田が離れてしまったのですが,単騎の3人のうち追走になったのが松井だったのは,僕にはやや意外でした。

 お寺会堂ができたことによって,以前とは構造が変化していますから,この機会に改めて説明しておきましょう。
                                        
 会堂が新しく建った部分は,以前は木造でしたが現在は鉄筋コンクリートの2階建てになっています。会堂は2階にあります。階段もありますが,エレベーターも設置されています。
 この会堂の入口にあたる部分は,お寺の前の通り沿いになっています。この入口から入ることはもちろん可能ですが,僕はここからお寺の中に入るということはほとんどありません。もしもここから入ると,右側に受付があって,左が階段です。階段の横にエレベーターがあり,エレベーターの先にはトイレがあります。なお,トイレは2階にもあります。これらの向かい,つまりこの通路の右側は,台所があって,その横に食堂があります。食堂といっても食事をすることに限定された部分ではありません。たとえば彼岸会のときはこの部屋に塔婆がまとめて置かれますから,各自が自分の分をそこから取ります。これらの先は本堂に繋がっています。ただし本堂は建て直されていませんから木造です。
 僕は会堂の入口より道路をさらに先に進みます。ここは建て替えた鉄筋コンクリート製の部分が続いていて,最後に駐車場になります。この駐車場を通り抜けると,本堂の前の庭になります。この駐車場から庭に入ると,以前は石が敷き詰められていました。母の三回忌のときには妹がこの部分で躓いて膝をすりむいています。その後,この部分も本堂の入口まで,コンクリートで埋められました。
 僕はほぼこの本堂の入口の方からお寺に入ります。ここで靴を脱ぎますが,本堂は絨毯の上に椅子ですから,スリッパなどを履く必要はありません。僕はお寺に行ったときは会堂で墓参りをしますから,本堂で荷物を置き,必要なものを携えて本堂の左側の廊下から,前に説明した,会堂の入口の最も奥の部分,つまり新しい建物と以前からの建物の繋目の部分まで行きます。新しい建物は何も敷いていない床ですから,ここで備えつけのスリッパを履きます。したがって僕は本堂では何も履いていませんが,会堂ではスリッパを履いているということになります。
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阿波おどり杯争覇戦&叔父の希望

2023-07-09 19:00:58 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは新山‐坂本の青森,郡司‐内藤の神奈川,犬伏‐小倉‐久米の徳島で宿口と松浦は単騎。
 犬伏がスタートを取って前受け。久米の後ろを取りたかったのが郡司と松浦で,このふたりは内に郡司,外に松浦で併走を続けました。内藤の後ろに宿口でその後ろが新山という隊列で周回。残り3周のバックからまず動いたのは宿口。コーナーで犬伏の横まで上がりました。その後ろから新山が発進。一旦は前を叩きましたがすぐに犬伏が巻き返しに出ました。バックで叩き返した犬伏の先行となり,4番手に新山,6番手に松浦,7番手に郡司,最後尾に宿口という一列棒状に。バックから新山が発進。このときにインから松浦が上昇し,坂本をどかして新山のマークを奪うと,松浦に郡司が続きました。新山が捲り切ったのですが,松浦がすぐに新山を差し,さらに外から郡司の追い込み。このふたりの優勝争いは接戦になりましたが,先んじてやや牽制を入れた松浦が先着。郡司がタイヤ差の2着。新山は1車身半差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は3月のウィナーズカップ以来の優勝。記念競輪は昨年の広島記念以来となる19勝目。小松島記念は初優勝。このレースは脚力では郡司と松浦が上位。このふたりが同じレースを走るときは大概はどちらかが勝つので,ここもどちらかの優勝になるのだろうと思っていました。レースの流れで郡司が松浦マークというレースになりましたから,ワンツーでの決着になりました。松浦が優勝の場合は宿口が後ろを回っているというケースになりそうとみていただけに,展開は僕にはやや意外でした。

 従妹の元夫の方は,僕の家の電話番号は知っていました。だから僕には電話で連絡がきたのです。しかし伯母の連絡先は分からないとのことでした。肺癌を罹患した叔父からみれば,僕は甥であって,ロサンゼルスの伯母は姉にあたります。なのでこのことを知っておくべきなのは僕よりは伯母でしょう。叔父が僕や伯母には秘匿しておきたいという気持ちであることは承知しましたが,さすがに僕だけ知って伯母に知らせないということは僕にはできませんでした。なので伯母には僕からメールで連絡を入れました。
                                        
 僕のも母も末期癌が発見され,余命を告知された上で死んでいます。そのときの両親のことを僕はよく知っていて,その経験からすれば,残りの期間は本人の望むように生きるのが最もよいことだと思っています。たぶん叔父も自身の余命のことは分かっている筈で,その上で僕には秘匿しておきたいという気持ちをもっているのですから,僕の方から叔父に連絡するということはしませんでした。叔父の気持ちが変われば別ですが,現時点でも叔父の方から直接に僕には何の連絡もありません。ですから僕は叔父が治療中であるということは分かっていますが,こちらからは連絡をしていません。僕や伯母には秘匿にしておきたかったから,従妹の元夫に叔父は連絡したのでしょうから,この状況が変わらないのであれば,というのは叔父の気持ちが変わらないのであればという意味ですが,もしかしたら僕はもう叔父と会うこともないのかもしれません。
 この日の午後9時20分に,ピアノの先生から電話がありました。翌日のレッスンの開始時刻の通知です。
 10月16日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後5時からでした。
 10月17日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
 10月20日,木曜日。新型コロナウイルスの4度目のワクチン接種の予約を入れました。
 10月21日,金曜日。14日に予約を入れておいた歯科検診の日でしたので,I歯科に行きました。午前10時からです。この日はクリーニングをした後で,歯ブラシが届かない位置の歯間ブラシの使用方法について,ちょっとした指導を受けました。
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三山王冠争奪戦&2022年9月の通院

2023-07-02 19:36:01 | 競輪
 前橋記念の決勝。並びは佐々木‐木暮‐小林の群馬,真杉‐平原の関東,深谷‐内藤の南関東で,古性と松本は単騎。
 真杉がスタートを取って前受け。3番手に佐々木,6番手に深谷,8番手に古性,最後尾に松本という周回。残り3周のホームから深谷が上昇。バックの入口で真杉に並び掛けましたが,真杉がそのまま引かなかったので,深谷の方が下げました。すると古性と松本が上昇。バックの出口で真杉を叩き,先頭に古性,2番手に松本という隊列に。3番手となった真杉はホームから再び上昇。古性を叩いたのですが,平原が追走を阻まれ,単騎に。流れの中で単騎になった3人が前で打鐘。ホームに入ると松本が発進。真杉を叩いて松本の先行に。下げた深谷は捲っていったもののバックでは一杯になり不発。直線の手前から松本と真杉の間に進路を定めた古性が前のふたりを差すと突き抜けて優勝。4番手から外を捲り追い込んだ佐々木が1車身半差で2着。先行した松本が半車輪差で3着。松本マークになった真杉は4分の3車輪差で4着。
 優勝した大阪の古性優作選手は高松宮記念杯からの連続優勝。記念競輪は一昨年7月の福井記念以来となる7勝目。前橋記念は初優勝。このレースは単騎になりましたが,脚力は最も上なので,先行するラインの後ろを回れれば優勝できるだろうとみていました。その点では最も重要だったのは位置取り。展開は思い描いていたのとは違ったものになったと思われますが,いいところで動いて前に出たことで,叩きに来た選手の後ろを取ることができました。ですから道中の立ち回りが優勝の決め手になったといっていいでしょう。松本は動かずに古性の後ろを回っていれば2着はあったかもしれません。ただ,3着にはなったものの自ら動いたことは僕は評価してあげたいです。

 8月26日,金曜日。妹の本牧脳神経外科への通院がありました。この通院があったために,この週は妹を木曜日に迎えに行きました。
 8月28日,日曜日。19日のピアノの先生からの電話で決定しておいたピアノのレッスンがりました。この日は午後2時からのレッスンでした。
 8月29日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
 9月2日,金曜日。お寺の総講に参加しました。2日の総講は月始総講という名目です。
 9月3日,土曜日。妹は土曜レクリエーションでした。このためにこの週は妹を家に連れて帰りませんでした。なので前日の総講に出ることができたのです。この日のレクリエーションは神経衰弱のようなゲームだった模様です。
 9月5日,月曜日。内分泌科の通院でした。
 病院に到着したのは午後2時半でした。中央検査室ではひとりの患者が採血のために待機していました。僕は先に採尿をしましたが,まだ順番が回ってきませんでしたので,注射針の処理をしてから採血をしました。
 診察が開始になったのは午後3時10分でした。HbA1cは6.5%でした。これは低血糖を発症したことが影響を与えています。何度もいっていることですが,僕は暑い時期ほど血糖値が下がりやすいので,夏場はどうしても低血糖を発生させてしまう頻度が多くなるのです。ただし,これは9月の診察で,もう夏の最盛期は終わっています。よって今後のことを考えれば,低血糖を発症する頻度は自然と減少していくでしょう。このことを踏まえて,注射するインスリンの量を減少させるという措置は,この日は採用しないことにしました。
 この日はほかには何も異常が出ていませんでした。HbA1cと血糖値以外の異常が何もなかったのは,この年の2月以来のことになります。
 主治医は10月から12月まで,伊豆の病院で勤務するとのことでした。このためにその期間は代理の医師が診察を行うということを告げられました。
                                        
 この日も薬局に寄ってから帰宅したのですが,おくすり手帳を持参するのを忘れてしまったので,シールだけもらいました。インスリンと注射針は在庫がありました。帰宅したのは午後4時半でした。
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中野カップレース&移動

2023-06-27 19:06:04 | 競輪
 久留米記念の決勝。並びは新山‐新田‐成田‐渡部の北日本,坂井に坂本‐津村の九州,脇本‐東口の近畿。
 成田がスタートを取って新山の前受け。5番手に坂井,8番手に脇本で周回。打鐘周回のバックから津村との車間を開けていた脇本が発進。誘導との車間を開けていた新山がこれに対応し,打鐘から突っ張りました。東口がうまく坂井の前に入ったので,行けなかった脇本が5番手に迎え入れられ,坂井が7番手の一列棒状に。バックから再び脇本が発進しましたが,これは勢いがなく,コーナーで失速。満を持して新山との車間を開けていた新田が踏み込んだのですが,マークの成田がさらに外から鋭い脚で新田を差し切って優勝。新田が8分の1車輪差の2着。渡部も1車身半差の3着に流れ込んで北日本勢の上位独占。脇本マークから渡部の外に進路を取った東口が半車輪差の4着で逃げた新山が半車輪差の5着。
                                        
 優勝した福島の成田和也選手は昨年12月の立川のFⅠ以来の優勝。グレードレースとなると2013年6月の高松宮記念杯以来。記念競輪はその直前の函館記念以来で5勝目。久留米記念は初優勝。このレースは新山が新田を連れて先行し,それを脇本が捲ることができるかということが焦点。脇本の最初の発進は新山が突っ張り,2度目は脇本自身が一杯になって失速ということで,新山と脇本の争いは新山に軍配が上がりました。成田はスタートを取りに行きはしましたが,道中は脇本を大きく牽制する必要はないような形に。その分だけ脚が残り,展開的には最も有利だった新田を差し切ることができたのでしょう。

 妹はPCRの結果で陰性でした。これは妹だけではなく,妹と同時にPCR検査を受けたグループホームの利用者は全員が陰性だったのです。しかし事実として妹が勤務している通所施設ではクラスターが発生していましたし,グループホームの利用者のひとりが新型コロナウイルスに罹患していました。こうした事情を鑑みれば,この時期に妹を移動させることはあまり好ましいこととはいえませんでしたし,グループホームの関係者にとっても,できればそれは避けてほしいところであったと思います。少なくともグループホームに滞在していれば,不特定多数の人と接触するというようなことは絶対に生じないからです。しかし,目薬はどうしても処方してもらわなければなりませんでしたから,このときは僕の方から無理を言ってこのような対応をしてもらいました。О眼科が入っているビルにはI歯科も入っています。僕はこのときに歯科にも立ち寄って,検診の予約を入れました。
 7月25日,月曜日。妹をグループホームに送りました。この時点ではまだ,通所施設の再開の目途は立っていませんでした。
 7月29日,金曜日。I歯科で歯科検診を受けました。この日は歯科の事情があって,10時15分の予約でした。歯茎のチェックをして,クリーニングをしました。
 8月4日,木曜日。午後1時すぎに父の元同僚であったSさんが来訪しました。これは予定されていたものではなく,急なものでした。この日は父の命日でしたので,仏壇に線香をあげて帰りました。Sさんは日野公園墓地にあった父の墓には何度も墓参りをしていたのですが,墓じまいをしてお寺の中の会堂に移骨しました。このことはSさんには伝えていませんでしたので,Sさんは日野公園墓地の方に向かってしまい,墓がなくなっていたので驚いたようです。お寺の中にあるということはこのときに伝えました。
 8月7日,日曜日。午後4時20分にグループホームの妹の担当者のSさんから電話がありました。グループホームの利用者は,翌8日から通所施設に出勤することになったという連絡でした。再開が8日からだったのか,グループホームの利用者の出勤が8日からだったのかは不明です。
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高松宮記念杯競輪&有用

2023-06-18 19:32:15 | 競輪
 岸和田競輪場で争われた第74回高松宮記念杯の決勝。並びは新山‐佐藤の北日本,松井‐郡司の神奈川,脇本‐古性‐稲川の近畿,松浦‐山田の西国。
 発走後は牽制になりましたが,脇本がスタートを取って前受け。4番手に松浦,6番手に松井,8番手に新山で周回。残り3周のバックの出口から新山がゆっくりと上昇を開始。誘導との車間を開けていた脇本をホームで叩きにいきましたが,脇本が突っ張りました。4番手に松浦,6番手に新山が下り,松井が8番手の一列棒状になって打鐘。バックから松浦が発進。スピードは悪くありませんでしたが,古性が執拗に牽制して松浦は失速。松浦を止めた古性が直線の入口から踏み込んで優勝。インを回って,直線は古性と稲川の間に突っ込んだ佐藤が1車身半差で2着。古性マークの稲川は4分の1車輪差で3着。
 優勝した大阪の古性優作選手は2月の全日本選抜競輪以来の優勝でGⅠ5勝目。ビッグは6勝目。高松宮記念杯は昨年からの連覇で2勝目。2016年12月に当地の記念競輪の優勝もあります。このレースは前で受けた脇本が引いて捲りを狙うのではなく,突っ張り先行を選びましたので,6番手以下になってしまった選手は優勝のチャンスが著しく失われました。圏内になった松浦の捲りはよいスピードでしたが,牽制して自分より最後まで前に出させず,そのまま踏み込んでの優勝ですから,番手選手としてとても価値のある優勝になったのではないかと思います。

 これについてはまず次の点から考えなければなりません。
                                   
 ある事柄が合倫理的であるといわれるのは,それが有徳的であるときの振る舞いに一致するからです。有徳的であるということは,理性ratioに従うということです。いい換えればそれは精神の能動actio Mentisから生じます。しかるに第三部定理五九により,そこから生じる感情affectusは喜びlaetitiaであるか欲望cupiditasであるかのどちらかであって,悲しみtristitiaではあり得ません。よって,何らかの感情がその感情を抱いた人間に何らかの振る舞いをさせるとき,その振る舞いが理性から生じる感情によって決定される振る舞いと一致するのは,喜びか欲望の受動感情だけであって,悲しみから生じる感情は,理性に従うことによって決定される振る舞いへとは人間を決定しないようにみえます。よって,ある感情が合倫理的であるといわれるとすれば,それは喜びか欲望のどちらかであって,悲しみは合倫理的ではあり得ない,もっといえば人間が悲しみによって決定される振る舞いは,すべからく合倫理的ではあり得ないということになるでしょう。
 ところが,このことは成立しないのです。したがって,愛amorが一般的に合倫理的な感情であり,憎しみodiumは一般的に非倫理的な感情であるといわれるとき,それは愛が喜びであり憎しみが悲しみであるからというわけではないのです。これは重要なことなので,分かりやすい一例を示しておきます。
 スピノザは第四部定理五〇で,人間が理性の導きに従っている場合は憐憫commiseratioは悪malumであって無用だといっています。このことの根拠になるのは,第三部諸感情の定義一八にあるように,憐憫は悲しみの一種であるということです。しかしこの定理Propositioは,憐憫が悪であったり無用であったりすることには条件が付せられていて,それは人間が理性に従っているということです。ですから,理性に従っていない場合は,憐憫というのは悪であるとはいえないし無用であるとはいえない,むしろ有用であるといえるのです。しかもこの場合の有用というのは,ここで不安metusが有用だといっているのと同じではありません。不安が有用だといっているのは僕であって,第四部定理五四備考でスピノザがそういっているわけではありません。
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施設整備等協賛京都向日町カップ&合倫理性への影響

2023-06-11 19:53:28 | 競輪
 京都向日町カップの決勝。並びは朝倉‐黒沢‐志村の関東,佐々木‐佐藤‐小島の神奈川,簗田‐二藤の静岡で阿部は単騎。
 朝倉と黒沢がスタートを取りにいき朝倉の前受け。4番手に佐々木,7番手に簗田,最後尾に阿部の周回。残り3周のバックの出口から簗田が上昇。阿部は続きませんでした。誘導との車間を開けていた朝倉は,誘導が退避するタイミングから突っ張りました。上昇していた静岡のふたりが下りてきたので隊列に乱れが生じ,簗田が黒沢の後ろに下りて3番手。4番手に志村,5番手に佐々木でこの後ろに下りてきたのが二藤。佐藤が7番手になって打鐘。ホームから最後尾の阿部が発進。バックで黒沢が対抗してここから黒沢と阿部の激しい競り合い。制したのは黒沢で阿部は直線で一杯。黒沢の後ろにいた簗田が直線で阿部の外から黒沢を差して優勝。簗田の後ろになった志村は黒沢の内を突き,こちらも黒沢を差して半車輪差の2着。黒沢が4分の1車輪差で3着。
 優勝した静岡の簗田一輝選手はこれがグレードレース初優勝。現況の脚力だと朝倉が最上位と思えるメンバーでしたが,簗田は記念競輪の決勝などの経験はこのメンバーの中では多く,その経験が生きれば優勝の目があるとみていました。結果的に朝倉は2周の先行のようなレースになってしまい自滅。無理に先行争いをするのではなく,よい位置に下りることができたことでチャンスが広がりました。最後尾から単騎での捲りになった阿部のスピードは見所がありましたが,さすがにあの位置からでは苦しいでしょう。一旦は静岡ラインを追った方がよかったかもしれませんが,下りる位置によっては競ることになるかもしれないので,これはこれで仕方なかったのかもしれません。

 XのAに対する愛amorとBに対する愛を,それぞれ個別の感情affectusとしてみるのであれば,たとえBに対する愛がAに対する愛を抑制したり除去したりするのであっても,愛が一般的に合倫理的な感情であることには何の影響も与えません。しかし個別の感情がそれぞれどう対応し合うのかということまで考慮に入れるのであれば,この場合は,XのAに対する愛はAに対してもBに対しても合倫理的であるけれど,XのBに対する愛は,Bに対しては合倫理的であるけれどAに対しては合倫理的であるとはいえず,むしろ非倫理的であるとみられなければならないといういい方が可能です。そして僕はこのこと自体は肯定します。このとき,このことが愛は一般的に合倫理的な感情であるということに対してどのような影響を与えるかということについては,ここまで考察してきたことをまとめた上で判断を下す必要があると思います。
 まず重要なのは,スピノザの哲学において合倫理的であるということは,ある種の行動ないしは振る舞いについていわれることであって,感情そのものやその他の思惟の様態cogitandi modiそのものについていわれることではないということです。つまり愛は一般的に合倫理的な感情といわれるとき,それは愛という感情そのものについていわれているのではなく,愛という感情がその人に生じさせる振る舞いについていわれているのです。要するに,愛という感情はその人に合倫理的な振る舞いをさせるように仕向けるので,それは合倫理的な感情であるといわれているのです。
                                   
 この振る舞いを具体的に示しているのが第三部定理三九です。この定理Propositioは条件を付けていますが,原則的にある人を愛した人はその人に親切にするようにするといっていて,この親切にするという振る舞いが合倫理的であるために,愛は一般的に合倫理的であるといわれるのです。ではなぜ他人に親切にすることが合倫理的であるといえるのかといえば,それは現実的に存在する人間は有徳的であれば,いい換えれば理性ratioに従っているならば他人に対して親切にするからです。有徳的であれば必然的にnecessario合倫理的であり,その合倫理的な振る舞いをさせる受動感情は,合倫理的といわれます。
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水都大垣杯&第一の課題

2023-06-06 19:10:09 | 競輪
 大垣記念の決勝。並びは橋本に佐藤‐菅田の北日本,松谷‐山賀の南関東,犬伏‐荒井‐園田の西国で浅井は単騎。
 犬伏がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に松谷,7番手に橋本で周回。残り3周のバックから橋本が上昇。残り2周のホームの入口で犬伏と並ぶと,誘導が退避するタイミングで犬伏を叩きました。浅井がスイッチすると,松谷もスイッチ。差のある4番手に浅井,5番手に松谷,差のある7番手に犬伏,最後尾の園田は荒井と車間が開き,縦長の一列棒状で打鐘から残り1周のホームに。ここから犬伏が巻き返しを図りましたが,浅井が先んじて発進。松谷が浅井の捲りに乗ったこともあり,犬伏は不発に。浅井はそのまま猛スピードで橋本を捲り,マークの松谷との差は直線で詰まったものの抜かせずに優勝。浅井マークのレースになった松谷が1車輪差で2着。佐藤マークから直線で松谷と山賀の間を突いた菅田が4分の3車身差で3着。松谷マークの山賀が8分の1車輪差の4着で橋本マークから内に進路を取ることになった佐藤が半車輪差で5着。
 優勝した三重の浅井康太選手は4月の四日市での協賛競輪以来の優勝でGⅢ32勝目。記念競輪は一昨年9月の松阪記念以来となる31勝目。大垣記念は初優勝。このレースは犬伏が人気に推されていましたが,先行するのは橋本でしょうし,浅井の位置取りが犬伏よりも後ろになるとは考えにくかったので,簡単ではないだろうと思っていました。結果的に松谷がずっと浅井マークのレースになったため,余計に苦しくなりました。浅井の捲りに対して佐藤がもう少し抵抗するのではないかと思っていたのですが,あっさりと乗り越えることができたので,差こそ詰められたものの展開的には楽な形での優勝。佐藤が牽制できなかったのは浅井のスピードがよかったためですから,浅井の脚力が以前に戻りつつあるということなのだと思います。

 この観点についてはここでは明確な解答はしないといっておきましたから,これ以上の探求はここではしません。何らかの意味で理性ratioが悪malumを認識するcognoscereということを肯定するaffirmareのであれば,ここまでにいってきたことは守られなければなりません。それを守った上で,各々が,何らかの意味というのがどのような意味であるかということを考えていかなければなりません。もちろん,理性が悪を認識しないという見解opinioもあり得ますが,その場合でも,そこで考察をストップするのではなく,理性が悪を認識していると読解することができるような定理Propositioに関して,それらは善悪の認識cognitioとは関係していないということを説明する必要があります。
 これで第二の課題は第一の観点も第二の観点も説明することができました。なので第一の課題の解決に向かうことにします。この課題は,受動的な愛amorが理性に従って生じる感情affectusによって抑制されたり除去されたりすることは有徳的であるといわれなければならないのに,愛が一般的に合倫理的な感情であるといわれるのは不条理ではないかというものでした。このことは第二の課題の中で,合倫理的であることがより合倫理的になるという事例によって説明したことからも解決することができそうですが,こちらの課題は愛という感情を一般的にみたものなので,それとは異なった仕方で解決を目指します。というのは,理性から生じる感情によって愛が抑制されたり除去されたりするというとき,もしもそれが理性から生じる愛によって受動的な愛が抑制されまた除去されるなら,この説明でもよいのですが,受動的な愛を抑制したり除去したりする理性から生じる感情が,愛であると限定することができるわけではないからです。
                                   
 前もっていっておいたように,このことは,第三部諸感情の定義六で定義されている愛は,一般的なものであって,現実的に存在する人間は,このような一般的な仕方で愛を感じるわけではないということを踏まえておくことが重要です。すなわち,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeはすべからく愛といわれるのですが,外部の原因の観念というのは現実的には個別のものであって,AでもBでもCでもあり得るのです。
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ワンダーランドカップ&第二部定理一六系二の意味

2023-05-22 19:12:40 | 競輪
 昨日の宇都宮記念の決勝。並びは山田‐真杉‐佐々木悠葵の関東,浅井に内藤‐佐々木雄一の東日本,久田‐松浦‐岩津の四国中国。
 真杉がスタートを取って山田の前受け。4番手に浅井,7番手に久田で周回。残り2周のバックで山田が誘導との車間を開けました。それから久田が発進。打鐘で山田が突っ張って先行争い。この後のコーナーで真杉が久田を牽制。これで久田は浮いてしまいました。浅井が佐々木悠葵の後ろに続いていたので,久田の番手の松浦は下りるところがなく,7番手になっての一列棒状に。この隊列がバックまで続き,バックの出口から真杉が番手捲り。浅井は直線の手前から踏み込み,3人での優勝争い。差はそれぞれ詰まりましたが順位が変わるには至らず,優勝は真杉。マークの佐々木悠葵が4分の3車輪差の2着で関東のワンツー。浅井が半車輪差で3着。浅井マークから佐々木悠葵と浅井の間を突こうとした内藤が4分の1車輪差で4着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は2月に宇都宮のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は昨年7月の小松島記念以来の3勝目。宇都宮記念は初優勝。このレースは真杉と松浦が番手戦を選択しましたので,山田と久田のどちらが先行することになるのかが最大の焦点。前受けをした山田が叩きにきた久田を突っ張ることに成功しましたから,前を取った関東ラインの作戦がうまくいったというところでしょう。直線の手前で佐々木悠葵が浅井を十分に引き付けてから踏んでいったのも見逃せないところで,この走りが関東勢のワンツーに大きく貢献したと思います。浅井は自力で発進するよりも真杉の番手捲りを待って直線勝負に賭けました。届きはしませんでしたがこの選択も間違ったものではなかったと思います。

 僕の見解opinioは第二部定理一六系二と矛盾するのではないかという疑問が出るかもしれません。この系Corollariumは,外部の物体corpusの本性naturaの力potentiaより身体corpusの状態の力の方がより多く表現されていると読解できないわけではないからです。もしその通りで,この系が僕の見解と齟齬を来すのであれば,僕の見解は誤りerrorであることになるでしょう。僕はそういう可能性があることは否定しません。ただ僕は,僕自身の見解とこの系が真向から矛盾するわけではないと考えています。なのでその理由を説明していきます。
                                   
 この系は,現実的に存在する人間が何らかの外部の物体,たとえばXを表象するimaginariとき,その人間の精神mens humanaのうちに生じるXの表象像imagoは,Xの本性よりもその人間の身体humanum corpusの状態を表示するといっています。したがって,この表象像は,その人間の身体の状態の方を多く表示しているのであって,Xの本性を表示していないわけではありません。つまりXの表象像は,それを表象する人間の身体の状態とXの本性との両方を表示していることになります。そのとき,より多く表示されているのは,その人間の身体の状態の方であるということです。よってこの系が何をターゲットにしているのかといえば,現実的に存在する人間の精神のうちにある表象像であって,その表象像が形成されるにあたっての力関係がどうあるのかということではありません。つまり僕の見解とこの系は,そもそも何を説明しようとしているのかという点で相違があると僕は考えます。
 ではこの系が具体的に何をいっているのかといえば,現実的に存在する人間の精神のうちに生じる表象像は,それを表象する人間の身体の状態の方を多く表示しているのだから,たとえそれが表象されているものの本性を表示しているとしても,本性そのものを表示していることにはならないということです。したがって,一般に表象像は十全な観念idea adaequataであることはできず,混乱した観念idea inadaequataなのであるということです。これがこの系に含まれる意味であって,なぜそれが混乱した観念であるのかということを,表象像そのものに着目して説明しているといえるでしょう。これに対して僕は,それを表象像の形成の観点から説明しているのです。
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五稜郭杯争奪戦&無力

2023-05-16 19:12:03 | 競輪
 函館記念の決勝。並びは嵯峨‐新田の北日本に東口,犬伏‐小倉‐西田の四国中国,嘉永‐中本の熊本で和田は単騎。
 新田がスタートを取って嵯峨の前受け。4番手に和田,5番手に犬伏,8番手に嘉永で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。前を叩きにいくのではなく,犬伏の外で併走しました。嵯峨は誘導との車間を開けてペースを落とし,後続が叩きに来るのを待ち構えていたのですが,犬伏と嘉永の併走が続いたまま残り2周のバックへ。ここで犬伏が引き,嘉永が5番手,犬伏が7番手に入れ替わって打鐘。打鐘を迎えても嵯峨はペースを上げませんでした。引いた犬伏は打鐘後のコーナーから発進。嵯峨が合わせようとしたもののスピードが違いすぎ,ホームであっさりと犬伏が叩きました。しかし小倉がマークしきれなかったので単独でのかまし先行に。嘉永も発進し,犬伏との差を詰めにいくと,中本が離れたので,自力に転じた新田が少し離れて追う形に。直線に入って犬伏を差した嘉永が優勝。追った新田が2車身差で2着。かました犬伏が4分の3車輪差の3着に残り,新田マークの東口が1車輪差で4着。
 優勝した熊本の嘉永泰斗選手は4月に松戸でFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年10月の熊本記念以来となる2勝目。このレースは犬伏と嘉永が相互に牽制し合ったので,前受けから叩かれなかった嵯峨と新田にとっては絶好の展開で,本来ならば嵯峨の先行から新田の差しあるいは番手捲りとなる筈でした。ところが嵯峨がなかなかペースを上げなかったために,犬伏にあっさりとかまされることに。これは明らかに嵯峨の失敗で,新田の前を走る以上は,打鐘からは後ろを気にせずにピッチを上げるべきだったと思います。かましにいった犬伏はいいレースをしたと思いますが,小倉が離れてしまったのは大きな誤算だったでしょう。マークしていれば嘉永に対して何らかの抵抗ができたでしょうから,四国中国勢にとってはチャンスを逸したという感が残ります。もちろん捲って2車身の差をつけた嘉永も強い内容でした。

 スピノザの哲学では,potentiaの反対が無力impotentiaといわれ,僕もそのような意味で力といいまた無力といいます。ただ,無力というのは,文字通りに力がないという意味であるわけではないということがここから理解できます。力というのは,第四部定理四系でいわれている,僕たちが隷属している力に対して,僕たちの本性essentiaのみによって説明される力が上回っている場合にいわれるものです。つまり,たとえばAが現実的に存在しているとして,Aに力があるといわれるのは,Aの本性のみによって説明される力が,Aが働きを受けている力より大きい場合のことを意味します。したがって,Aの本性のみによって説明できる力をAが発揮しているとしても,それが働きを受けている力を上回っていない場合,つまりAに作用しているAの外部の物体corpusの力の方が大きい場合は,Aには力があるとはいわれません。そしてこの場合にはAは無力であるといわれることになるのです。つまり無力というのは,あるものとほかのものとの比較の上でいわれるのであり,あるものが無力であるといわれるからといって,そのものが一切の働きをなしていないということを意味するのではありません。現実的に存在する人間は受動的である限りは無力であるといわれなければなりませんが,能動actioと受動passioが全体のバランスの中で判断されなければならないのと同じように,力と無力もそうしたバランスの中で判断されることになるのです。自由の人homo liberは能動的であり,そのゆえに力がある人間ですが,だからといって一切の受動に隷属していないということを意味するわけではありませんでした。いい換えれば自由の人も部分的には無力です。逆に奴隷は無力といわれなければなりませんが,部分的には力があるという場合もあるでしょう。力と無力はこのように,働く力agendi potentiaと働きを受けるpati力のバランスの上でそういわれるのであって,どちらかが100でどちらかが0であるというわけではないのです。
                                   
 第三部定理三九は,さらに僕たちに重要なことを教えてくれます。この定理Propositioのうち,憎しみodiumに駆られてそのものを破壊するなら,それはすべて受動ですが,その受動を避けたからそれが能動だとは断定できません。
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日本選手権競輪&自由の決定

2023-05-10 19:15:24 | 競輪
 7日に平塚競輪場で争われた第77回日本選手権競輪の決勝。並びは新山‐佐藤‐和田の北日本,脇本‐古性の近畿,犬伏‐清水‐香川の四国中国で山口は単騎。
 脇本と古性がスタートを取りにいき,脇本の前受け。3番手に新山,6番手に犬伏,最後尾に山口で周回。残り3周のバックの出口から脇本が誘導との車間を開け始めてペースがスローに。外から犬伏が上昇。山口もこのラインを追走して脇本を叩くと,新山が山口の後ろにスイッチ。脇本が8番手まで引いての一列棒状となってホーム。バックに入ると前に出ていた犬伏がそのまま発進して打鐘。脇本は車間の開いた8番手に置かれました。バックに入ると清水が犬伏との車間を開け,新山が発進するとすぐに番手捲りで対応。山口も自転車を外に出して発進。新山はいききれなかったので佐藤が香川と山口の間に進路を取りました。この佐藤の進路選択でやや外に弾かれた山口が,立て直して直線で外から追い込み,清水を差し切って優勝。清水が8分の1車輪差の2着。佐藤が半車身差の3着に追い込み香川が8分の1車輪差で4着。不発の脇本マークから最内に進路を取った古性が半車輪差で5着。
 優勝した岐阜の山口拳矢選手は前回出走の富山のFⅠから連続優勝。グレードレースは2月の施設整備等協賛競輪in伊東温泉以来の優勝でビッグは一昨年9月の共同通信社杯以来の2勝目。このレースは脇本の脚力が上位。展開で不発に終わるようなことがあれば,単騎でも山口が優勝候補の2番手ではないかとみていました。新山の先行も可能性としてはあったと思うのですが,犬伏ラインを追走するレースを選択したのがよい判断でした。直線の手前で佐藤に弾かれるような形になったのですが,立て直して差し切ったのは素晴らしかったと思います。犬伏がもう少し余裕をもって走れば清水が山口に差されることはなかったかもしれませんが,その場合は脇本の捲りが届いたかもしれません。脇本を不発に終わらせたのですから,四国中国ラインの作戦は間違いではなかったと僕は思います。

 現実的に存在する人間が自由libertasであることを決定できるのは,その人間だけであって,何かほかのものではありません。つまりだれかがだれかを自由であるようにすることはできませんし,その人間が属している社会societasなり国家Civitasなりがその人間を自由であるようにできるわけではありません。個人がほかの個人に対して,また社会や国家が個人に対してなすことができることがあるとすれば,その個人が自由であることを保障するということ,いい換えればその個人が自由であることの権利jusを侵害しないということだけです。しかしそうした権利が保障されている個人が現に存在するというだけでは,その人間が自由であるということはできません。現実的に存在する人間は様ざまなものから様ざまな仕方で働きを受けているのであり,その働きを受けるpati力potentiaがその人間の本性essentiaのみによって説明する力を上回っている限り,その人間は自由であるとはいえないからです。能動actioと受動passioを力の関係で示す國分の例が,人間の自由についていっているのはこのことになります。恐喝されて金品を渡す人間の力は,恐喝している人間の力を上回っているわけではありません。ですからこれは金品を渡している人間の受動であり,したがってその人間の自由ではないのです。そしてこの例は,恐喝されている人間の自由の権利が侵害されているということを明白に示しているといえるでしょう。でも僕たちが気を付けておかなければならないのは,こうした権利の侵害は,このように分かりやすい形でのみ発生するわけではないという点です。僕たちはそれが自分の自由であると思い込んで,自分の権利を侵害されている場合があるのであって,他面からいえば自分の能動という思い込みによって自身の権利を譲渡してしまうこともあるのです。
                                        
 僕が自由であることを決定するdeterminareことができるのは僕自身であり,ほかのだれでもありません。それと同じように,あなたの自由を決定することができるのはあなただけなのであって,ほかのだれでもないのです。単に権利が保障されているのだから自分は自由であると思わないでください。自由であることができるのは,その権利を行使する限りにおいてなのです。
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大阪・関西万博協賛競輪&自由の表象

2023-05-09 19:12:42 | 競輪
 4月30日に久留米競輪場で行われた大阪・関西万博協賛競輪の決勝。並びは朝倉‐橋本‐小林‐岡田の茨城栃木,伊藤‐柿沢の関東,林‐塚本の九州で嵯峨は単騎。
 柿沢がスタートを取って伊藤の前受け。3番手に林,5番手に朝倉,最後尾に嵯峨で周回。残り2周のホームの入口の手前から朝倉が上昇していくと林も対応。ホームでは3つのラインが横並びに。間になってしまった林は引かされ,朝倉が伊藤を叩いて打鐘。茨城栃木ラインを追っていた嵯峨は伊藤に絡まれる形になりましたがホームで5番手を確保。6番手に伊藤,8番手に林の一列棒状に。バックに入ると後ろの追い上げを待たずに朝倉の番手から橋本が発進。この番手捲りがものの見事に決まり,橋本が優勝。マークの小林が1車身差の2着。岡田も半車輪差の3着に続いて茨城栃木勢の上位独占。
 優勝した茨城の橋本壮史選手はこれがS級での初優勝。この開催は日本選手権に出場しない選手でのものなのでもとより混戦模様。しかも初日の特選にシードされた選手のうち決勝に進出できたのがひとりしかいなかったことでさらに輪を掛けました。その中で茨城栃木勢が4人も決勝に進出し,結束してのレース。叩きにいったときに前受けしていたのが,別のラインとはいえ同じ関東の伊藤で,変に邪魔されることがなかったのも幸いしました。このメンバー構成でこの展開での優勝ですから,GⅢで優勝したからといってすぐに記念競輪での活躍を見込むことはできないのではないでしょうか。

 体制によって自由libertasが保障されている場合,その体制の下で生活する民衆は,自身が何事も自由に決定するdeterminareことができて,現に自由に決定していると表象しやすくなります。とくにそうした民衆が,そうでない社会societas,つまり体制によって自由が保障されていない国家Imperiumの市民Civesと比べた場合,このことは非常に生じやすくなります。しかしこのことは,自由が保障された体制下にある民衆が,実際に自由に物事を決定していることを意味しているわけではありません。このために民主制は長続きしないという一面を有するのです。なぜなら民主制の体制下にある人間は,自分が自由に決定していると表象しがちなので,たとえ自由を放棄する決断をするとしても,それが自身の自由な決定determinatioであるというように表象してしまうからです。要するに現実的に存在する人間は,民主制を放棄して共和制を選択すること,あるいは貴族制すなわち独裁制を選択することについても,それが自身の自由な決定によるものだと思い込むことができるようになっているのです。このために,民主制は容易に共和制にまた貴族制へと変遷していくことになるのです。もちろんこれは民主制が長続きしないことの一面なのであって,現にある民主制がすべてこのような仕方で共和制や貴族制へと変化したというわけではありません。ただ,民主制を放棄すること,もっといえば自身の自由を放棄することも,自身の自由な決定であると思い込むことが,現実的に存在する人間には生じるということは,よく覚えておかなければなりません。そうした危険は現実的に存在している人間である僕たちに常に潜んでいるといわなければならないからです。
                                        
 スピノザがいう能動的自由というのは,現実的に存在している人間が十全な原因causa adaequataとなって自身の運動motusと静止quiesおよび思惟作用を決定することをいうのでした。いい換えれば,第四部定理四系でいわれている僕たちが隷属しているpotentiaに対して,僕たち自身の本性essentiaのみによって説明することができる力が上回ることをいうのでした。したがって,ある人間が自由であることを決定することができるのはその人間だけです。国家や社会の体制がそれを決定できるのではありません。
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大楠賞争奪戦&条件

2023-04-25 19:07:54 | 競輪
 武雄記念の決勝。並びは新山‐佐藤‐内藤の北日本,脇本に大川,伊藤‐山田‐橋本‐湊の西国。
 新山がスタートを取って前受け。4番手に伊藤,8番手に脇本で周回。残り2周のホームから伊藤が発進。そのまま新山を叩き,バックに入ると5番手に新山,8番手に脇本という隊列に変化。このまま打鐘。4番手の湊と5番手の新山,7番手の内藤と8番手の脇本との車間がそれぞれ開きました。ホームから新山が発進。バックで山田が番手から出ていきましたが,新山とマークの佐藤はそれを乗り越え,山田は3番手にスイッチする形に。8番手からの捲りになった脇本は直線の入口ではまだ山田の後ろの外でしたが,直線は外から差し切って完全優勝。新山が4分の3車身差の2着に粘り,佐藤が8分の1車輪差で3着。
                                        
 優勝した福井の脇本雄太選手は豊橋記念を完全優勝して以来の優勝で記念競輪13勝目。武雄記念は初優勝。このレースは脇本は8番手になるでしょうから,新山が先行することがあるのかそれとも5番手からの捲りを狙うのかということが展開上の最大の焦点。前受けはいつもの戦法で,伊藤が来たときに無抵抗に引きましたので,出させて5番手からというのが当初からの作戦だったのでしょう。そこから捲って山田の番手捲りを乗り越え,なおかつ佐藤にも差されなかったのですから,作戦としては成功だったと思います。ただ脇本が強すぎたということでしょう。伊藤はすんなり出させてもらったのですから,もう少しペースに緩急をつけてもよかったのではないかという気がします。

 僕たちの現実的本性actualis essentiaが,より小なる完全性perfectioからより大なる完全性へと移行することを希求し,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行することを忌避するのだとしても,それは僕たち自身に与えられた条件なり制約なりを超越することを希求し,またその条件なり制約なりに隷属することを忌避することを意味するのではないということを,國分は次のような例示で説明しています。
 ここにある人間が現実的に存在しているとして,この人間には2本の腕があってまた2本の脚があると仮定します。これは現実的に存在するすべての人間に妥当する例ではありませんが,あくまでも一例であると理解してください。この人間は2本の腕も2本の脚も動かすことができる,いい換えればこの人間の腕も脚も運動motusをなすのですが,単に2本の腕とか2本の脚とかいう場合には,それがどのような性能を有しているかということは無関係なのであって,腕が2本で脚が2本ということ以上の何かを意味することはできません。これがこの現実的に存在する人間にとっての条件に該当します。そしてこの条件は変化することがありません。つまりこの人間がより小なる完全性からより大なる完全性へと移行することともより大なる完全性からより小なる完全性へと移行することとも関係ないのです。もちろんこの条件の下に,この人間が1本の腕を失うということが生じるとすれば,この人間は大なる完全性から小なる完全性へと移行したのだということが可能ですが,こうしたことは外部の物体corpusから働きを受けるpatiことによって生じるのであって,この人間をこの人間としてだけ見たなら与えられた条件であることは変わりません。いい換えればこの人間をこの人間としてだけみたなら,1本の腕を失うことを忌避するということはできませんし,もう1本の腕を希求するということもできないのです。前もっていっておいたように,この場合の腕とか脚というのは一例にすぎないのであって,この種の条件は現実的に存在する人間にはもっとたくさんあります。最も単純にいえば,人間の身体humanum corpusというのは現実的に存在するその人間にとっての所与の条件であるといってもいいでしょう。
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北条早雲杯争奪戦&形相の変化

2023-04-18 19:22:36 | 競輪
 16日の小田原記念の決勝。並びは新田‐和田の北日本,真杉‐雨谷の栃木,深谷‐郡司‐内藤‐佐々木の南関東で神田は単騎。
 雨谷がスタートを取って真杉の前受け。3番手に新田,5番手に神田,6番手に深谷で周回。残り3周のバックから深谷が上昇開始。だれも抵抗しなかったので,佐々木までの4人が前に。新田がこのラインに切り替え,神田も続いたので,引いた真杉が8番手の一列棒状に。このまま深谷がペースを緩めなかったので打鐘からホームにかけてもだれも動けませんでした。バックに入ってから新田が発進しましたが,これに先んずるように郡司も番手捲りを敢行。新田も展開を考えればよく詰め寄りましたが,内藤の牽制もあって郡司が優勝。新田が1車身半差の2着。新田マークの和田が半車身差の3着。内藤が新田を牽制したときに内にいた佐々木とやや絡んでしまい,郡司マークの内藤は8分の1車輪差の4着で佐々木が半車輪差の5着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は2月の静岡記念以来の優勝で記念競輪16勝目。小田原記念は2016年,2018年,2019年と優勝していて4年ぶりの4勝目。このレースは深谷が駆けてすんなりと回った郡司が番手から発進すればほぼ勝てそうなメンバー構成。なので勝つためには南関東勢を分断するレースをする必要がありましたがそのようなレースにはなりませんでした。ですから郡司の優勝は順当といえるものでしょう。新田は中団になってしまったので飛びつきにくくなってしまったのですが,自力でいいレースをみせました。調子は上がっているのではないかと思います。

 事物の本性essentiaが変化するということは,その事物の形相formaが変化するというのと同じです。僕は現実的に存在するある物体corpusについて,この種の変化が生じないということをいいたいのではありません。おおよそ化学変化として示すことができるような変化は,この種の変化であるといえます。たとえば木は燃えることによって炭になりますが,これは木の本性を有する物体が,何らかの働きを受けるpatiことによって炭の本性を有する物体に変化したということであり,同様に,木の形相を有していた物体が,ある働きを受けることによって炭の形相を有する物体に変化したということです。
 しかしここで重要なのは,これは物体がそのように変化したということなのであって,木の本性が炭の本性になったということを意味するわけではありませんし,木の形相が炭の形相になったということを意味するわけでもないという点です。これは,もしある木が何らかの働きを受けることによって炭になるということが,木の本性が炭の本性になるということを意味するなら,木の本性を有するすべての物体がこのことによって炭の本性を有するようになる,つまり木の形相を有するすべての物体が炭という形相を有する物体になるということを意味しなければならないことになりますが,これをいうのが不条理であることはそれ自体で明らかだといえます。したがって,事物の現実的本性actualis essentiaは変化するといっても,それは力potentiaとして変化をしているのであって,現実的本性がそれ自体で変化する,たとえばAという現実的本性からBという現実的本性に変化するというようには解さない方がよいでしょう。
                                        
 國分がいっているのは現実的に存在する人間についてのことですから,木が炭になるというような変化は考慮に入れなくても構わないですし,まさかAという現実的本性を有する人間がBという現実的本性を有する別の人間になるということを國分はいおうとしているというように解する人もいないでしょう。ただ現実的に存在するAの力というのは変化するのであって,それはAという人間がこのようなA,あのようなAというように,様ざまに変化するということではあるというのも事実です。
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よさこい賞争覇戦&レベルの差

2023-04-11 19:33:56 | 競輪
 9日の高知記念の決勝。並びは新田に荒井,平原に松川,町田‐松浦‐才迫の広島,犬伏‐宗崎の四国。
 平原がスタートを取って前受け。3番手に新田,5番手に犬伏,7番手に町田で周回。残り2周のホームから町田が上昇。しばらくは犬伏の外で併走。打鐘を迎えてから前を押さえにいきました。平原は3番手に入ろうとする動きをみせましたが,才迫が位置を守り,平原が4番手となってホーム。今度は犬伏が発進。犬伏のかまし先行になったのですが,宗崎が連結を外してしまったために,町田が犬伏の番手に嵌りました。町田は最終コーナーから発進。バックから車間を開けていた松浦もそこから踏み出しました。しかし後方からの捲り追い込みになった新田が直線で外からふたりを差し切って優勝。松浦が4分の3車輪差で2着。町田が1車輪差の3着で新田マークの荒井が4分の1車輪差で4着。
 優勝した福島の新田祐大選手は立川記念を完全優勝して以来の優勝で記念競輪10勝目。高知記念は初優勝。このレースは普段は連携することの方が多い広島勢と四国勢が別ラインで戦い,残りのふたつが即席のラインということで,脚力それ自体が結果に占める比重が大きくなるだろうと予想していました。そうなると優勝候補は松浦と新田。展開は松浦に向いたといえますが,松浦が予期していたよりも新田のスピードが上回ったようで,最後は新田に軍配が上がるというレースでした。松浦は新田よりも平原の方を気にしていたのかもしれません。宗崎が犬伏に続くことができていれば,また違ったレースになったように思います。

 もしあのティラノサウルスとかこのティラノサウルスという形で知性intellectusがそれを概念するconcipereことができるとすれば,その観念ideaはティラノサウルス一般の観念,あるいはそうしたものがあったとしてティラノサウルスの共通概念notiones communesよりさらに明瞭判然とした観念であることになります。そしてティラノサウルスの観念として,これ以上に明瞭判然とした観念はないといえます。したがって,知性がティラノサウルスを知るためには,このティラノサウルスとかあのティラノサウルスといわれるような,個々のティラノサウルスを十全に認識していくのが最もよい方法であることになります。
 この場合のティラノサウルスというのは一例であって,事物は具体的に認識されるほどより明瞭判然となっていく以上,これはあらゆる事物の認識cognitioについて妥当します。したがって,人間のことを知るためには,人間に共通の本性essentiaを知るよりも,あの人間この人間といわれるような諸個人を十全に知っていく方がよいということになります。このとき,あのティラノサウルスとティラノサウルス一般の認識のレベルには,これは共通概念の一般性のレベルの差とは異なったレベルといわなければなりませんが,一般性のレベルに差があるということは明白だといえます。同様に,ある特定の人間の認識と人間に共通の本性の認識とでは,一般性のレベルに差があるといわなければなりません。しかしその双方のレベルの差が同じだけのレベルの差であるのかといえば,僕はそうであるとは考えないのです。つまり,ティラノサウルス一般とこのティラノサウルスの間にある一般性のレベルの差と,人間一般とあの人間との間にある一般性のレベルの差は,異なると僕は考えています。そしてその差は,人間一般とある人間の間の一般性のレベルの方が大きくなると僕は考えているのです。
                                   
 第二部定義七により,個物res singularesというのは多数の個体が協同して構成される場合があります。この多数というのは当然ながら決まった数を意味しません。よって,より多くの個体が協同することによって構成されている個物ほど,より複雑な個物であることになります。そして僕の考えでは,この個物の複雑さの度合が,一般性のレベルの差に比例します。
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