スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞・海老澤清杯&非礼心

2018-04-11 18:55:57 | 競輪
 昨晩の川崎記念の決勝。並びは山中‐小原‐白戸の南関東,浅井‐北野の中部,松本‐香川‐桑原の瀬戸内に大塚の競り。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に山中,6番手に松本で松本の後ろは内外が入れ替わりながらの競りで周回。残り2周のバックで松本が上昇。このときは松本の後ろは香川で大塚は桑原の後ろ。合わせて上昇していた山中が松本を行かせてこのラインの後ろに。浅井が8番手に。バックで大塚が外を上昇し,香川の外に並び掛けると打鐘。競りはホームであっさりと香川が守りました。ここから浅井が発進していきましたが,それに合わせて山中も発進。バックでは山中が松本を捲り切りました。直線は小原が山中に詰め寄り,僅かに差してのフィニッシュとなり優勝。山中が4分の1車輪差の2着で南関東のワンツー。南関東の外を捲ったものの白戸と絡んで失速した浅井が1車身半差で3着。
 優勝した神奈川の小原太樹選手は記念競輪初優勝。このレースは浅井の地力が上位で,単にメンバーだけをみれば負けられないような構成。ただ,山中は地元のふたりを連れてのレースだったので,競りが長引くようであれば早めに叩いてしまい,地元勢を引き出すようなレースをする可能性はあり,その場合には小原に有利な展開になるだろうと予想していました。思ったほど激しい競り合いとならず香川が番手を守ったので,山中は満を持して発進したというような展開となり,むしろ展開に恵まれたのは山中だったと思うのですが,実際には浅井が来たから発進したのであり,自分のタイミングではなかったのでしょう。その分だけ小原が差すことができたというレースだったのだと思います。

 端正honestumと端正心honestasが組み合わさることによって,それらが非礼turpeと対をなします。スピノザが端正心について規定していることと,非礼について規定していることを対照すれば,確かにそれらが反対の概念notioであることは理解できるでしょう。一方で,行為として規定されている端正と,欲望cupiditasという感情affectusとして規定されている端正心が切断不可能な関係にあるということに注目するなら,単に行為として規定されている非礼にも,それと切断不可能な欲望があると理解する方がよいのではないかと僕には思えます。スピノザはそれについては言及していませんが,端正心に倣ってそれを非礼心とでも名付けておくなら,非礼心という欲望と非礼な行為は,切断することが不可能な関係にあるということができるでしょう。そして非礼心というのがどのような欲望であるのかといえば,人と人とが友情を結ぼうとすること,とくに非礼な人間が他者と友情amicitiaを結ぼうとするときに,それを妨害する欲望であるということになります。端的にいえば,自由の人homo liberが他者と友情を育もうとすることの根底となる欲望が端正心であるなら,自由の人と反対の意味において無知の人が他者と友情を結ぶことを妨げる欲望が非礼心であるということになります。
 この種の非礼心は,僕たちが他者に対して憎しみodiumを感じるときには必然的にnecessario発生します。そのメカニズムを示しましょう。
                                
 第三部諸感情の定義七により,憎しみは外部の原因を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeであり,この外部の原因が人間であるということは生じ得ます。第四部定理八により悪malumは悲しみの観念ideaなので,憎しみの観念は悪です。よって第四部定理一九により,僕たちはその観念を忌避しようとします。しかるに憎しみという悲しみは外部の原因の観念を伴っています。ですからこの場合はその原因の観念の対象が悪と認識されることになります。よってその対象が人間であるなら,いい換えれば外部の原因の観念が他者の観念であるなら,僕たちはその人間を忌避しようとするでしょう。このことを欲望として規定するなら,それはその人間と友情を育むことを妨害する欲望,あるいはその人間と友情を結ぶことを拒絶する欲望であることになります。
コメント
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