スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

「火の国杯争奪戦」in久留米&ふたつの問題

2022-10-05 19:41:59 | 競輪
 久留米競輪場で行われた昨日の熊本記念の決勝。並びは小松崎‐守沢‐佐々木‐高橋の北日本,深谷‐郡司の南関東,松浦‐村上の西日本で松岡は単騎。
 郡司がスタートを取って深谷の前受け。3番手に松岡,4番手に松浦,6番手に小松崎で周回。残り3周のバックから小松崎が上昇開始。深谷はすぐに誘導との車間を開けて引いたので,ホームでは小松崎が前に。高橋を追った松浦が5番手になり,切り替えた松岡が7番手。深谷は8番手になりました。バックに入ると深谷が反撃。小松崎も打鐘から突っ張っていきましたが,ホームの入口で深谷が叩いてかまし先行。7番手になった松浦はバックから発進。郡司はその時点で深谷との車間を開けていて,松浦を牽制。これで松浦は勢いを削がれました。郡司はそのまま深谷を追い,直線で差し切って優勝。松浦マークから郡司にスイッチした村上が深谷と郡司の間から郡司に迫りましたが届かず,半車輪差で2着。逃げ粘った深谷が半車輪差で3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は共同通信社杯からの連続優勝。記念競輪は4月の川崎記念以来になる14勝目。熊本記念は一昨年も制していて2年ぶりの2勝目。このレースは郡司と松浦が強力。郡司は深谷マークのレースになりましたので,深谷がどういうレースをするかで結果が左右されることになると思っていました。その深谷が前受けからすぐに引いて早めに巻き返すというレースをしたので郡司が有利に。松浦の捲りに対して番手捲りで対抗するのではなく牽制してストップさせましたので,番手選手としての仕事も果たした上での優勝ということになり,深谷とのワンツーにはならなかったものの価値は高かったと思います。このような展開になればこういう結果は大いにあり得るところで,配当がつき過ぎたという感があります。

 スピノザの政治論を個物res singularisの複合の無限連鎖が形而上学的に支えるということは,スピノザの哲学に個物の複合の無限連鎖という考え方があるので,それに基づく政治論が抽出されるということを意味します。つまり,ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの哲学に弁証法があるためにヘーゲルの政治論が成り立つのと同じ関係が,複合の無限連鎖とスピノザの政治論との間にあると僕は考えているのです。そしてこのためにスピノザの政治論では国家Imperiumが人間にとってあるいは人類にとっての最終形態とはならず,そしてそのゆえに,浅野がいうように,スピノザの政治論では,社会的地平から国家の問題を照射する道が開かれているのです。
                                        
 三木清に関連する部分の考察はこれだけですが,最後にヘーゲルの弁証法がスピノザの哲学からどのようにみえるかをみておきます。そこには大きく分けてふたつの問題が潜んでいるように思えます。
 ひとつは,これは弁証法に特有の問題ではなく,ヘーゲルの弁証法に特有のことですが,この弁証法は観念論的要素が強くなっています。一方,個物の無限連鎖は,すでにいっておいたように,延長の属性Extensionis attributumにも思惟の属性Cogitationis attributumにも適用されるので,観念論的要素はそれより弱くなっています。というか,この考え方は,ある物体corpusと別の物体が結合してより複雑な物体を構成し,その物体がさらに別の物体と結合してより複雑な物体を構成するという形式で容易に理解できますので,どちらかといううと観念論的要素よりも唯物的要素との相性がよくなっています。このことはスピノザが第二部自然学②補助定理七備考で複合の無限連鎖を説明している事柄から理解することができると思います。
 後にマルクスKarl Heinrich Marxは,ヘーゲルの哲学は観念論的であると批判し,スピノザの哲学を援用することによってそれを唯物論的に適用できるように処置しました。スピノザの哲学は平行論というべきで,唯物論といわれるべきではありませんが,唯物論と相性が良いのはヘーゲルよりもスピノザの思想であるのは間違いありませんから,マルクスがヘーゲルが修正しようとしたスピノザを用いてまたヘーゲルの修正をしたことは,僕には理解できないわけではありません。
コメント
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