スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

春日賞争覇戦&セオリー

2022-02-13 18:52:47 | 競輪
 奈良記念の決勝。並びは吉田‐宿口の関東,脇本‐古性の近畿,石原‐宮本‐松浦‐柏野‐西田の瀬戸内。
 柏野がスタートを取って石原の前受け。6番手に脇本,8番手に吉田で周回。残り3周のホームを出る前から吉田が上昇。バックで脇本の横へ。脇本が引いたので6番手に吉田,8番手に脇本の隊列に変化しました。残り2周のホームから石原がスピードを上げて先行。吉田が少し離れた6番手,脇本はさらに離れた8番手となり,残り1周のホームまで動くことはできませんでした。バックに入ると宮本が番手から発進。吉田も脇本も不発に。車間を少し開けていた松浦が,直線に入る手前から踏み込んで宮本を差し,優勝。宮本が半車身差の2着で中国のワンツー。外から捲り追い込んだ吉田が4分の3車身差で3着。松浦マークの柏野が4分の1車輪差で4着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は昨年12月の広島記念を完全優勝して以来の優勝。記念競輪は14勝目。奈良記念は初優勝。このレースはこの並びとなれば石原の先行が有力。二段駆けも間違いないところで,それを捲ることができるのかどうかという点,あるいは分断策があるのかといったところが焦点。結果的に吉田と脇本が6番手を取ろうという争いとなったため,瀬戸内勢の作戦がスムーズに展開することになりました。吉田も脇本も器用なタイプではない上に,雨の中でのレースということで難しいところはあったと思いますが,ちょっと無策すぎたような印象は拭えないです。

 人間の知性intellectusが有限finitumであるがゆえに,右脳と左脳,第三種の認識cognitio tertii generisと第二種の認識cognitio secundi generisが対決すると感じてしまう場合があるという例も,青野が示していることから説明することができます。
 僕は青野が右脳と左脳が対決していると感じていることを,追究している真理veritasの相違によって説明しました。青野が示している例でいえば,左脳すなわち第二種の認識は当該の局面で駒得する順を追究しているのに対し,右脳すなわち第三種の認識は,その局面における将棋の本筋の一手を追究しているからです。そして青野はその将棋を対局者として指している立場ですから,右脳も左脳も自分が指しているその将棋に勝つことを追究しているというように考えるので,異なった結論を出す右脳と左脳が対決しているというように感じるのです。
                                        
 しかしこのことは,別の仕方で解することも可能です。将棋のある局面において本筋の一手を指すということは,その将棋を勝つことに繋がり得るでしょう。同様にある局面で駒を得する手があるのであれば,その手を指すことでその将棋に勝つことに繋がり得るのです。ただ青野が示した局面の場合は,駒を得することを目指すことが,勝ちには必ずしも繋がらなかったということです。本筋の手を指すことであれ,駒得を目指すことであれ,それは将棋のセオリーのひとつではあるのであって,なぜそれがセオリーになっているのかといえば,そのセオリーに則して指すことによって,将棋に勝つ可能性が高くなるからです。ただ,個々の局面においてはセオリーが成立しない場合があるのであり,青野が指していた局面では,駒得を目指すというセオリーが適用できなかったということです。このことは本筋の方にも当て嵌まるのであって,ある局面で将棋の本筋の一手というのがあったからといって,その手を指せば必ず勝つことができるというものではありません。むしろ本筋に対していえば異筋にあたるような手がその局面における好手であり,その将棋を勝ちに結び付けることができる一手であるという場合もあり得ます。
 ただ,本筋の手も駒得を目指す手も,セオリーすなわち勝つ可能性を高める指し方であることは間違いありません。
コメント
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