Motoharu Radio Show #176

2014年02月14日 | Motoharu Radio Show

2014/02/11 OnAir - 2nd. Week - 大滝詠一追悼特別番組 ~ありがとう、大滝さん~ 第三回
01.はっぴいえんど:颱風
02.大滝詠一:君は天然色
03.大滝詠一:雨のウェンズデイ
04.大滝詠一:指切り
05.大滝詠一:それはぼくぢゃないよ
06.大滝詠一:五月雨
07.大滝詠一:1969年のドラッグレース
08.大滝詠一:あつさのせい
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■内容の一部を抜粋

佐野元春 : さて、昨年末、大滝詠一さんが亡くなりました。とても残念なことです。突然の訃報に驚いた方も多いと思います。謹んでお悔やみを申し上げます。'70年代から現在まで大滝さんは独特の美学と方法論を持って日本のポップ・ミュージックにひとつの可能性を開いてきました。Motoharu Radio Showでは四回に渡って大滝詠一追悼特別番組「ありがとう、大滝さん」を放送しています。今夜はその第三回目。'80年代、Motoharu Radio Showから現在まで、過去30年間に渡る貴重なアーカイヴをもとに、リスナーのみなさんと大滝さんの思い出を振り返ってみたいと思います。

大滝さんといえば「ゴー・ゴー・ナイアガラ」。ミュージシャンとしてだけではなく、ディスク・ジョッキーとしても素晴らしい仕事をなさっていました。選曲、構成、そしてトーク。大滝さんの番組「ゴー・ゴー・ナイアガラ」は時代を超えて多くの音楽ファンを魅了しました。前回までは「Motoharu Radio Show」アーカイヴから抜粋してそのDJ、大滝詠一の名調子を振り返ってみました。大滝詠一追悼特集。今週と来週はミュージシャンとしての、またソングライターとしての大滝さんを振り返ってみたいと思います。

以前僕はNHK Eテレで「ザ・ソングライターズ」という番組をやっていました。国内の優れたソングライターに曲作りについていろいろな話を聞いていくという内容でした。そのとき真っ先に話を聞いてみたいと思ったのが大滝さんでした。そこで出演について相談したところ、自分はテレビ出演は苦手なんだけれどもラジオだったらやってもいいよ、ということで、なんとこの「Motoharu Radio Show」でゲスト、大滝詠一が実現することになりました。そのときの放送をちょっと振り返ってみたいと思います。

●「Motoharu Radio Show」2011年4月5日放送アーカイヴ

佐野元春 : 自分、NHKで「ザ・ソングライターズ」という番組をやっていまして...

大滝詠一 : 失礼しました、本当に。佐野くんから出演依頼がきましてね。いや、本当に僕はアレだったんですけれど、今日はその「ソングライターズ」のラジオ版ということでひとつ、あのお許しいただければというようなことで。

佐野元春 : ははは。ありがとうございます(笑)。うれしいです。'69年と言えばウッドストックがあったりとか、当時のロック・ジャーナリズムは「ニュー・ロック」なんていう言葉で、いろんな新しいバンドが出てきた、本当に激動のときだったんじゃないかと思うんですけれども、はっぴいえんどでとにかくやりたかったことは何だったんですか?

大滝詠一 : 何だったんですかね。とにかく日本語のロックというのは細野さんが考えたキャッチフレーズですから、えーっと思ったわけですけれどね(笑)。あの頃にもよく訊かれたんだけれども、日本語のロックって、日本語で歌ってどうでしたかって、よく訊かれるんですけれどもね、まず第一感はノリが悪いんですよ。こんなもん歌ってかっこ悪い(笑)。これが第一感です、やってる側の。自慢じゃないですけれど。どうやったら、なんからしく聴こえるようになるんだろうかということの闘いだったですね、三年間はね。

佐野元春 : 僕らの世代で聴いて思ったことは、はっぴいえんとの詩、例えば大滝さんが書かれた「颱風」という曲があって、英語の音韻を、日本語の音韻に置き換えて歌うというか、詩を書くというか、それをやった初めての世代かなって僕思ってるんですけれども。これも意識的にやってました?

大滝詠一 : 意識的にやりました。それ以前の人たちの、あと、前の聴いてみるとね、日本語で歌ってるんですよ。日本語っていうより漢字で歌ってるんですよ。で、松本くんは漢字が多いでしょ。字面はね。漢字で自分がおそらくノリが悪かったのは、漢字で歌っていたからだと思うの。だから全部音(オン)に分解したんですよ。だから僕の歌詞カード全部ローマ字になってるとよく言われたんだけれども。

佐野元春 : リスナーのみなさん。今、大滝さんのこの証言はとっても大事なことを言われてるんですよね。僕、「颱風」の歌詞、今一度手元にあるんですけれど、ちょっと読んでみたいんですよ。「四辺(あたり)は俄にかき曇り窓の簾(すだれ)を冽(つめ)たい風がぐらぐらゆさぶる」。こういう情景からはじまるんだけど...

大滝詠一 : それはね、例えばフォーク・ソングだと、"四辺(あたり)はー 俄にー かき曇りー" とか "窓の簾(すだれ)をー 冽(つめ)たい風がー" とか、こうなるんですよ。必ずこうなるんですよ。こうなって何がおもしろいもの? つまり、それは誰かがやってるし、誰でもやるから、誰もやらないことはないかと考えた(笑)。それで文節切るっていうくだらないアイディアを思いついた。

佐野元春 : まるでその日本語を英語のように...

大滝詠一 : 日本語英語ということもあるんだけど、ただ要するに、音に分解して文節切るということ。だから「四辺(あたり)は俄に」じゃなくて「あたりはに」で止めた。次は「にわかにか」で止めたっけね(笑)。馬鹿だよね。ふふふふふ。

佐野元春 : 馬鹿じゃなくて(笑)。これはとっても大事なことなんで、ちょっと僕、復唱したいんですけれど。「四辺(あたり)は俄にかき曇り」ですよね。普通のシンガーだったらば「四辺(あたり)は 俄に かき曇り」ですけれども、はっぴいえんど、大滝さんという歌手がやったのは「あたりはに わかにか きくもり」(笑)。これ、はじめて聴いた人は何なんだろうなって思いますよね。

大滝詠一 : 思いますよね(笑)。

・颱風

佐野元春 : 1971年、はっぴいえんど、アルバム『風街ろまん』から曲は「颱風」聴いてみました。

●「Motoharu Radio Show」2011年4月5日放送アーカイヴ

佐野元春 : 僕ら、レコーディングしていて楽器の録音はいいんだけれど、いちばん気を遣うのはヴォーカルのダビングですよね。で、大滝さんも自分は『A LONG VACATION』のときに、大滝さん、どんなふうにヴォーカル・ダビングしてるのか、人から聞いたんだけれど...

大滝詠一 : 見たことないよね。

佐野元春 : はい。見たことないです(笑)。

大滝詠一 : 見た人がいないんだよ。今のところ。

佐野元春 : なんか話によるとスタジオにこもってひとりでパンチイン、パンチアウトしながら...

大滝詠一 : やりますよ。結局、だってFUSSA STUDIOの5年間があってね、で、自分でエンジニアをやってたわけなので、そのときひとりしかいないわけだよね(笑)、当然。だからそのときに全部ひとりでやってましたから、もう『A LONG VACATION』のときはミキサー歴5年目6年目とか、7年目ぐらいのときですから。お手のもんですよ。

佐野元春 : 僕らだと大抵ディレクターとか、第三者がいて、歌を聴いてもらいつつ、ダビング進めてゆくというのが普通のやり方なんだけれども、大滝さんがひとりでヴォーカル・ダビングするというその理由は、やはり完全に曲のアレンジから、トーン・マナーから、全部知りつくしてるので、自分しか適切なヴォーカル・ダビングできない自信からなんでしょうか...

大滝詠一 : いやぁ、3つぐらいあるんですよ、理由が。それももちろんあるんだけれども、人がいるとやっぱり嫌なんだよ。

佐野元春 : あはははははは。はい(笑)。

大滝詠一 : それとか「どうぞ」とか言われるのも嫌なんだよ(笑)。

佐野元春 : 「歌ってください」とか「いいね」とか。

大滝詠一 : 「お願いします」って言われるの嫌なんだよね(笑)。自分でお金を出して、で、自分でミュージシャン集めてね、スタジオ代払ってだよ、自分でやってんだから。どうして僕はお願いされなきゃいけないのかっていうようなことをいろいろ考えたりとか。それから今はうまくいかないから、ちょっと元に戻してとか、どこまで戻すとか、そういうのを言ってるあいだが嫌なのよ。あそこでテンション落ちるもん、大抵。だから自分だとすぐ戻せるし、一曲だけパンチイン間違えてオケ消したことあるけどね。

佐野元春 : それは悲劇でしたね(笑)。

大滝詠一 : そうだよね(笑)。「論寒牛男(ロンサム・カウボーイ)」という『NIAGARA MOON』の後半のところで(笑)、あっ! と思ったね。すぐに止めて編集しましたけどね、後でね。それがひとつは人がいるのが嫌。人がいるとどうも自分の実力が出ない。人見知りがひとつ。それから人に命令されるのが嫌という我が儘な気質。

佐野元春 : 大滝さんらしいです。わかります。

大滝詠一 : あとは自分がエンジニアっていうか、自分がアシスタントというか、自分以上に自分の、どういうのかな申請にあったエンジニアリングとか、助手のやり方、僕以上にうまくやる人絶対にいないという(笑)。その3つぐらいですかね。

・君は天然色
・雨のウェンズデイ

佐野元春 : 1981年、アルバム『A LONG VACATION』から「君は天然色」、そして「雨のウェンズデイ」。2曲聴いてみました。大滝詠一追悼特集続いています。振り返ってみると大滝さんは常にレコーディングの技術についてとても意識的なミュージシャンでした。かつて大滝さんはレコーディング・エンジニア吉野金次さんと仕事をしていました。その影響もあって僕はアルバム『SOMEDAY』のエンジニアリングを吉野金次さんに頼んだという経緯があります。よいサウンドを作るにはよいレコーディング・エンジニアとの出会いが大事だ、そのことを教えてくれたのは大滝さんでした。「ザ・ソングライターズ」ゲスト大滝詠一に戻って吉野金次さんとの出会いについてこんなことを語っています。

●「Motoharu Radio Show」2011年4月5日放送アーカイヴ

佐野元春 : 当時は、レコーディング機材について訊きたいんですけれど、卓は何チャンネルだったんですか?

大滝詠一 : あれは16です。

佐野元春 : 確かエンジニアは吉野金次さん...

大滝詠一 : 吉野金次さんでした。だから吉野金次さんに教わって僕はあそこでエンジニアリングの面白みを味わうことができて。

佐野元春 : 当時はメインストリームは歌謡曲という音があり、そして大滝さんたちが、新世代たちが作ろうとしていたオルタネイティブな音がある。その音の違いは何かと言ったときに、やっぱりそれは録音にあるんだということに気づいた最初の世代だと思うんですけれども。大滝さん、細野さん...

大滝詠一 : だと思いますね。

佐野元春 : 当時は吉田保さん、そして吉野金次さん、このふたりがのちのロック、ポップのね、レコーディングの礎を作ったノウハウを持っていた唯一の二人でしたね。当時、レコーディングでソロを作られるときに吉野金次さんというエンジニアに求めるものは何でした、大滝さんは?

大滝詠一 : 吉野さんはね、とにかく自分の音と、ドラムなんか自分で持ち入りしますからね。リミッターも自分で、小型のポータブル型の持ってきて音作りのアレとか、マイキングですよね。マイクがこうどういうのとか、そのマイクの種類とかそういうようなことをいろいろと研究していた人だったので、我々と本当すごく話があったんですよ。

佐野元春 : 仲間という感じがした?

大滝詠一 : そういやね、「指切り」という曲があるんですよ(笑)、ソロ・アルバムに。

佐野元春 : いい曲ですよね。

大滝詠一 : あれね、一回歌ったきりなんです、アレ。あなたと一緒(笑)。リハーサルの曲なのよ。あれからちゃんとした、普通に出すもので、とりあえずガイドの歌ですよというつもりで、一回やったら吉野さんが「これがいい」って言うのよ。今のガイド・ヴォーカルなんだけどって言ったんだけれど、「絶対これだ」って。「これOKにしてくれなきゃ降りる」って言ったんだよ(笑)。

佐野元春 : 大滝さんはご自身でエンジニアリングをやられることでよく知られていますけれども、そのサウンド・メイキングだとか、一体レコーディング自体に興味を持ったきっかけというのは何だったんですか?

大滝詠一 : おそらくラジオだと思いますね。我々の世代は鉱石ラジオを(笑)、自分で作ったり、39スーパーだとか、59スーパーとか自分たちで組み立てたりとか、そのラジオで音楽が流れたきてというようなところからだと思いますよ。中学二年であとテープレコーダーを買ったので、そのときの録音の楽しみですかね。

佐野元春 : そしてナイアガラ・レーベルを設立なさいましたよね。'75年でしょ? このレーベルでもちろんプロデューサーとしてもやられたんですけれども、エンジニアリングも同時にやられた...

大滝詠一 : 人がいなかったから。全部ひとりでやらなきゃいけなかった。掃除する人もいないからね(笑)。掃き掃除からはじまるわけですよ。でマイク立てたりね。それからですよ。みんなが来て、譜面渡して。んでエンジニアの箱に入って、で行ったり来たりしてね。どうのこうのっていう。

佐野元春 : その後、時代はしかし、プロデューサー/エンジニアといってプロデュースもできるし、エンジニアリングもできる、そういう人がレーベルを作って、スターを育てて、それでレコードをヒットさせる。これ時代がのちにやってきますよね。その先駆けだったと思うんですけれども。ナイアガラ・レーベルでいちばん最初にレコーディングした日のことって覚えてますか?

大滝詠一 : はっぴいえんどから、つい最近、2003年の最後のレコーディングまで細かく覚えております。どのレコーディングがどういうふうにして行われたかっていうようなことは覚えております。自分でやってますからね、結局。

・指切り
・それはぼくぢゃないよ

佐野元春 : 1972年のレコード、アルバム『大瀧詠一』からレコード・エンジニア吉野金次さんとの仕事です。曲は「指切り」、「それはぼくぢゃないよ」2曲聴いてみました。大滝詠一追悼特集、Motoharu Radio Show、2011年4月5日の放送からゲストに大滝さんを迎えた回振り返って聴いています。

●「Motoharu Radio Show」2011年4月5日放送アーカイヴ

佐野元春 : 大滝さんがいちばん最初にポップ・ソングを聴いたっていうのは何歳ぐらいのとき、意識的にポップ・ソングに目覚めたのは何歳ぐらいのときですか?

大滝詠一 : それは'62年ですね。中学二年ですね。意識的なっていうのは。

佐野元春 : やはりラジオですか?

大滝詠一 : ラジオです。その前からラジオを聴いてましたが、いちばんの自分にとってのメインになる年は1962年なんですね。

佐野元春 : 中学二年生のときですか?

大滝詠一 : そうです。エルヴィスがリヴァイヴァル・ヒットしたんですよ。『ブルー・ハワイ』(笑)っていう映画が日本で大当たりして、それで昔の曲を再プレスしたらベスト10に入っちゃったっていうくらい、それが「Hound Dog」と「Don't Be Cruel」冷たくしないで、というカップリングだったんです。そのときにはじめて聴いたんです。

佐野元春 : エルヴィス・プレスリーは確か1956年にデビューですから...

大滝詠一 : 初シングル「Heart Break Hotel」はね。

佐野元春 : '62年というとかなりエルヴィスはスターとしてはもうオーソライズされていて、で、大滝さんにとってエルヴィスというのはどれくらいの存在だったんですか?

大滝詠一 : 『ブルー・ハワイ』で流行っている人みたいなふうですかね(笑)。ああいう♪Night and you And blue hawaii のね。ビング・クロスビーの持ち歌を自分のものにしちゃったんだからね。それは考えてみりゃすごい話ですよね。美空ひばりの持ち歌をあややが全部取ったみたいな感じだからね。そういう意味合いではすごい話ですよ。ちょっと例えが思い浮かばなかったんで、何なんだけれど。

佐野元春 : はい(笑)。

大滝詠一 : そういうようなことだったんだけれども、「Hound Dog」と「Don't Be Cruel」のカップリングを聴いたときにちょっとすごいと思いましたね。

佐野元春 : なるほど。その頃大滝さんはすでに楽器など弾かれてたんですか?

大滝詠一 : いや、全くない。僕は楽器は本当にはっぴいえんどになってから(笑)、やったに等しいですよ。だから本当に素人? もいいところで、以下のものでしかないです、どれも。どれもだめです。

佐野元春 : '62年、そのような出会いがあり、その後どんな音楽に興味を示しました?

大滝詠一 : '62年デビューがフォーシーズンズとビーチボーイズなんですよ。フォーシーズンズ、ビーチボーイズが'62年にデビューしてるので、本当にリアルタイムに彼らが出てきた第一曲目から「Sherry」と、まぁ日本では「Surfin' USA」だったですけれど。ここからずーっと出るもの追いかけてみたいな。だからこれ以降の人たち、'62年以降デビューのものは全部ずーっと'67年まで追いかけましたね。

佐野元春 : つまり、そうするとその後にビートルズが'64年にハプニングしますけれども、ビートルズ以前、ビートルズ以降をリアルタイムで経験している世代...

大滝詠一 : リアルタイムでした。ですからエルヴィスのリヴァイヴァル・ヒット、エルヴィスで産湯をあの、タイムライン的には遅いんですけれどね。エルヴィス史の中では遅いんですけれど、まぁエルヴィスのほうがメインだったわけですよ。だからビートルズが出てきたときにはビートルズ何するものぞという感はあるんですよ。いっぽうではね。とはいいながらもビートルズの魅力にも抗し難いというのでイギリス勢のほうに入っていくっていうのと、あのときにエルヴィスを友だちに任した。

佐野元春 : あはははは。

大滝詠一 : '64年以降は友だちが買ったんです、エルヴィス(笑)。で、友だちが買ってきてそれで聴くっていうのにして任して、あとはビートルズ以降のイギリス勢を聴きました。

佐野元春 : なるほど。その後、実際に楽器を持ったり、自分で曲を作ってみようと思ったのは何歳ぐらいのときですか?

大滝詠一 : たまたま高校三年のときにドラムが、持ってる人がいて、買わないかって(笑)、いうふうに言われて。買う前にどんなものかっていうので借りて、田舎だったものですから、友だちの田んぼの真ん中の一軒家のところに行って(笑)、柱のところにバスドラをとめて。それでそこでドラムを叩いたのが最初の僕のあの、最初はドラマーなわけですね。

佐野元春 : リズムからはじまったんですね。

大滝詠一 : 最初に叩いたドラムの音ですけど、録音はあるんです。はじめて叩いたときから一応テープの。下手ですけど一応ビートをトンスタタントンと叩いてました。

佐野元春 : 当時もちろんオープンリールのテープレコーダーですよね?

大滝詠一 : あのときもう'67年だからカセットの第一号みたいなのが出てきて、それで二人持ってたので、あの頃ダビングみたいにことをやったりもしました。

佐野元春 : 大滝さんはじゃあリズムからはじまった、ドラマーからはじまったっていうことですよね。興味深いですね。

大滝詠一 : 僕はドラマーだと自分では思ってます。ときどきだから、ドラムのフレーズなんかはほとんど自分が考えてるものが多いと思います。今までのものの中では。

佐野元春 : その後の大滝さんのソロのいろいろな楽曲なみられるリズム・アレンジはいろんなヴァリエーションがあるんですけれども、これはやっぱり大滝さん、いちばん最初に手にしたのがドラムだったという...

大滝詠一 : ドラマーだったという。だからドラムが気になるんですよ。さっきも「Surfin' USA」でもアル・パーマー、誰が叩いてるというようなことに耳がいってしまうんですけどね。

佐野元春 : ひじょうに興味深いですね。その後、自分で曲を作ったり詩を書いたりするんですけれども、同時に多重録音というものにも興味を持ちはじめるでしょう?

大滝詠一 : そうでしたね。だからカセットが二台あったら多重録音ができるんだっていうことを高三ぐらいなときに、誰でもね、あの頃買った人はやったりしてるんですけれど。あれをひとりでやったらおもしろいんじゃないかっていうことを、で、ソロ・アルバムですね。さっきの吉野金次さんとやったソロ・アルバムの中でずいぶん多重録音自分でひとりで。あの「空飛ぶくじら」のB面の「五月雨」っていうのがあるんですけど、あれはベース以外全部自分でやってるんです(笑)。で、「それはぼくぢゃないよ」は全部自分でやってますね。スチール以外は。だから一人多重録音に凝ったのが'72年から'73年にかけてですね。

・五月雨

佐野元春 : 大滝詠一、1972年のレコード、「五月雨」。シングル・ヴァージョンで聴いてみました。
以前僕がNHK Eテレでやっていた「ザ・ソングライターズ」という番組で、松本隆さんをゲストに迎えた回がありました。1984年の大滝さんのアルバム『EACH TIME』。このアルバムに「1969年のドラッグレース」という曲があります。作詞松本隆、作曲大瀧詠一。「君が言うほど時間が無限に 無かったことも今ではよく知ってる だけどレースはまだ 終わりじゃないさ ゴールは霧の向こうさ」そんなふうに歌っています。そのあたりの経緯について大滝さんに尋ねてみました。最後のほうで大滝さん、ちょっと意味深なこと言ってます。

●Motoharu Radio Show2011年4月12日放送アーカイヴ

佐野元春 : 「ザ・ソングライターズ」で松本隆さんをゲストとして迎えたときにね、「1969年のドラッグレース」あの曲の詩は松本隆さん言うところによると、暗に大滝さんに送ったものだと仰ってたんですよ。大滝さんもそう思いますか?

大滝詠一 : '69年に細野さんと僕と松本くんと一緒に、松本くんが運転して、軽井沢からぐるっとひと周りする旅というものをやったんです(笑)。あのときの歌です。結局ね、曲ができなかったんだよね(笑)。彼曰く、あのときの思い出を曲にしたんだと思います。

佐野元春 : あの詩というのは、やっぱり大滝さん、松本さん、細野さんが共有していた景色というふうに僕ら思っていいわけですよね。

大滝詠一 : 思っていいと思いますけどね。はっぴいえんど以前というか直前ですね。はっぴいえんどはじめるぞというような、それがおそらく'84年になって、15年経ってたわけですよね、『EACH TIME』のときには。そのときに、「まだ終わりじゃない」というようなことを、彼は言いたかったわけじゃないですか。僕は終わるつもりだったですけどね(笑)。

・1969年のドラッグレース

佐野元春 : 大滝詠一、アルバム『EACH TIME』から「1969年のドラッグレース」聴いてみました。
大滝詠一追悼特集、Motoharu Radio Show、2011年4月12日の放送からゲストに大滝さんを迎えた回振り返って聴いています。そうですね、もちろんこの「1969年のドラッグレース」のように松本隆さんと組んで作った曲も素晴らしいんですが、大滝さん自身が詩を書いた曲も魅力的です。大滝さん自身はいつも「作詞のほうはどうも」と謙遜していましたが、僕は個人的には大滝さんの書く詩は好きです。初期のレコード「あつさのせい」ごきげんなロックンロール。この曲について大滝さん、おもしろおかしくこんなふうに語ってくれました。

●Motoharu Radio Show2011年4月12日放送アーカイヴ

佐野元春 : それともうひとつは今回大滝さんが来てくださるということで、大滝さんが作詞をし作曲をした曲をピックアップしたんですけれども。

大滝詠一 : すいません、わざわざ、なんか気を遣っていただいて。大した歌はないですよ。言っときますけど僕の詩はね(笑)。

佐野元春 : 初期の作品においては擬音が多いですよね。どどどど、とか、いらいらいら、とか。

大滝詠一 : 多いですよね~。あれはオノマトペ。宮沢賢治は僕は一回も読んだことはないんだけれども(笑)、オノマトペが多いというのはあとで聞きましたね。やっぱり同県人だからなんでしょうか。

佐野元春 : 言葉の韻律というものに焦点を合わせて見ていくと、大滝さんはじめてやった楽器がドラムということで、リズムから先にくる人なんだなということがわかった。

大滝詠一 : リズムです。

佐野元春 : ソングライティングにおいても歌詞を書くときに、その意味性よりも韻律のほうに先に...

大滝詠一 : 仰る通り。意味性よりもというより意味性なし。音律100%。

佐野元春 : あはははは。けっこう意味が出てると思うんですけれども(笑)。

大滝詠一 : あとでこじつけ。意味は全く考えたことないですよ。自慢じゃないですけど。「あつせのせい」ってのがあって、みんな言ってて。「あっ! と驚くためごろう~」のがあの頃流行ってたのよ。「あっ!」っていうふうに言ったら、次に人は「と驚くためごろう~」と頭に浮かぶだろうと。で「つさにのぼせあがった」と違うの言ったら、ガクっとくるだろうっていう。そういう(笑)。ふふふ。ウケた? ウケてるね~。いいよ(笑)。

・あつさのせい

・番組ウェブサイト
「番組ではウェブサイトを用意しています。是非ご覧になって曲のリクエスト、番組へのメッセージを送ってください。待ってます」と元春。
http://www.moto.co.jp/MRS/

・番組終了のお知らせ
佐野元春 : さて、残念なお知らせとなりますが、Motoharu Radio Show、この番組は今年の3月をもって終了することになりました。まずは長い間、番組を愛聴してくださったみなさんに、心から感謝したいと思います。どうもありがとう。最終回までまだ後4回あります。最後まで楽しんでくださいね。

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