Sunday Song Book #1169

2015年03月08日 | Sunday Song Book

2015年03月08日プレイリスト
「ジミー・ウエッブ特集 Part 2」
1. 希望という名の光 / 山下達郎 '10
2. DIDN'T WE / RICHARD HARRIS "A TRAMP SHINING" '68
3. WICHITA LINEMAN / GLEN CAMPBELL '68
4. GALVESTON / GLEN CAMPBELL '69
5. EVIE / BILL MEDLEY '69
6. ALL I KNOW / ART GARFUNKEL '73
7. HIGHWAYMAN / THE HIGHWAYMEN '85
8. ADIOS / LINDA RONSTADT "CRY LIKE A RAINSTORM, HOWL LIKE THE WIND" '89
---------------------------------------------------
■内容の一部を抜粋
・近況
この一週間は家に籠ってひたすら曲書き。声を出したりするので多少声が嗄れ気味なんだとか。

・希望という名の光
「来る3月11日で東日本大震災4年を迎えることになりました。東京なんかはもう、何事もなかったようにですね、毎日が過ぎておりますけれども。未だに23万人近くの方々がですね、避難生活を送ってらっしゃいます。長引くそうした不自由な生活の中でですね、いろいろな心の問題出てきてるようであります。心よりお見舞い申し上げます。一刻も早い安定した日常生活に戻れることを陰ながらお祈り申し上げております。わたしミュージシャンですので具体的に何をできるということではありませんけれども、一所懸命働いて世の中を回してですね、それで少しでもお役に立てられればというようなことを考えつつ音作りをやっております。今年もツアーは出かけますので、是非ともお出かけいただきたいと思います。希望という名の光」と達郎さん。

・ジミー・ウエッブ特集 Part 2
ジミー・ウェッブ特集のパート2。今ではシンガー・ソングライターとしてのほうがステイタスがあるけれど、今回の特集ではソングライターとしてデビューした時代の'60年代末から'70年代にかけての主要作品を取り上げている。なかなか手強くて作品数が多いのと今でも現役バリバリなので追いついていけないとか。今週は'70年代から'80年代にかけてのヒット・ソングの数々をオンエア。

・DIDN'T WE
先週の終わりはリチャード・ハリスの「MAcARTHUR PARK」をかけたが、この曲が収録された1968年のアルバム『A TRAMP SHINING』は当時センセーショナルな受け止め方をされて、このアルバム中から他の歌手がカバーするカバー・バージョンがたくさん生まれた。特にシングル「MAcARTHUR PARK」のB面としてリリースされた「DIDN'T WE」はリチャード・ハリスの作品が1969年に全米チャート63位、いろいろな人がカバーしてジム・ウェッブの作品でも代表的な隠れた名曲として知られている。ジミー・ウェッブが脚光を浴びた頃の作風はほとんどブロークン・ラブ・ソング、女の子と別れたというペシミスティックな歌ばかり。「DIDN'T WE」も今度こそうまくいくと思ったんだけれど、結局愛は手の中から砂のようにこぼれてしまったという歌。達郎さんはこの頃のジミー・ウェッブの作風を「美しい
ペシミズム」と呼んでるそうだ。きれいなメロディの曲なのでミドル・オブ・ザ・ロードのシンガーにたくさん取り上げられた。フランク・シナトラ、メル・トーメ、ジョニー・マティス、ビッグ・ダナーなど数え切れないくらいの人が取り上げてるジミー・ウェッブの初期の代表作。

・WICHITA LINEMAN
この時代、ジミー・ウェッブとパートナーを組んで最もヒットが大きかったのはグレン・キャンベル。1968年、全米3位のミリオンセラーとなった「WICHITA LINEMAN」。カンサス州ウィチタの道路をクルマで走っていたら、荒野の中で電気(電線)工事の男がひとりきりで仕事をしているの見てインスパイアされて作られた曲。

・GALVESTON
翌1969年、全米4位のミリオンセラーとなったグレン・キャンベルの「GALVESTON」。ガルベストンはテキサス州の都市。いわゆるご当地ソングみたいなもの。この一連のヒットでグレン・キャンベルは一挙にスターダムにのし上がり、作詞作曲のジミー・ウェッブも時代の寵児として脚光を浴びることになる。L.A.でスタジオ・ミュージシャンをしていたグレン・キャンベルはシンガーとしての夢が叶い大スターの道を歩むのはジミー・ウェッブとのコラボレーションのおかげ。この曲と「WICHITA LINEMAN」の間奏はグレン・キャンベル自身がトワンギング・ギターというチューニングを下げたギターを弾いていると言われてる。ギタリストなので自分の曲で弾いている。

・EVIE
この時代、達郎さんは高校生でジミー・ウェッブに入れ込んでいて、ジミー・ウェッブと書いていたら日本盤を片っ端からお小遣いを貯めて買っていたという。その時代に手に入れたシングルでビル・メドレーの「EVIE」。ライチャス・ブラザーズから独立してソロ・シンガーになったビル・メドレーが、ブラジル音楽祭に出品して賞をとったシングル。アメリカではヒットしなかったがブルジルでは結構知られた曲。なぜか日本盤が奇跡のようにポリドールから発売されて、達郎さんは一所懸命聴いたとか。アルバムに入ってないのでまだCDになっていない。ジミー・ウェッブの作品はCDになってないものが多いそうだ。アレンジはビル・メーカー。

・ALL I KNOW
1968年、1969年は凄まじい数の曲を書いたが、'70年代に入りジミー・ウェッブは職業作家に対して疑問が生じて、作家としての道を捨てシンガー・ソングライターの道を歩み始める。シンガー・ソングライターとして発表した作品の評価が高く、彼のアルバムの中から曲を取り上げて歌うシンガーがたくさん出てきた。ミドル・オブ・ザ・ロードのシンガーが中心で、そんな中からアート・ガーファンクルが1973年にサイモン&ガーファンクルから別れてソロ・シングルを出した。名盤『ANGEL CLARE』からシングル・カットされた「ALL I KNOW」は1973年、全米9位のベストテン・ヒットになった。この後、アート・ガーファンクルはジミー・ウェッブとコラボしてゆくことになり、アルバム『WATERMARK』では全曲ジミー・ウェッブの作品を取り上げている。そのコラボのとっかかりになった曲「ALL I KNOW」もひじょうにペシミスティックな曲。"君を傷つけてしまった 君も僕を傷つけるし 僕たち簡単に傷つけすぎる あんまり簡単に怒りを見せてしまうんだよ 愛してるんだ 僕にわかるのはそれだけさ 終わりはいつかやってくるもの 時の経つのは早すぎる 未来が来るのも早すぎて 過去はなかなか終わらない 愛してる それだけだ"という辛い歌。達郎さんは日本盤を持ってるそうだが邦題が「友に捧げる賛歌」で内容と異なるタイトルがついてるという。作曲ポール・ウィリアムス、作詞ロジャー・ニコルスとなっていて1曲目の「TRAVELING BOY」と間違ってるとか。

・PROMOTIONAL COPYとかNOT FOR SALEの文字
リスナーから「番組のプレイリストにアナログ・レコードのレーベルが掲載されることがありますが、そこにPROMOTIONAL COPYとかNOT FOR SALEの文字が書かれているのをよく見かけますが、これは通常の市販品よりも非売品の方が中古市場に出回って状態も良いということなのでしょうか?」という質問。
「別にそういうわけではありません。プロモ盤を売る人がいてそれがセコハン屋に回るということなんですけれども。プロモ・シングルだからといって別にコンディションがいいというのは、必ずしもそうではありません。ただ単に来たものがプロモ盤、売ってるのがプロモ盤でそれを買ってきたというアレです。全然プロモ盤でもボロボロのもありますし、ちゃんと売ってる正規盤でもきれいなやつもあります。答えになってないかもしれません。すみません」と達郎さん。

'70年代入ってジム・ウェッブは職業作曲家からシンガー・ソングライターに転身する。自分の作品を中心に活動するが、歌がそれほどうまい人ではないので、アルバム・チャートのトップ100に一枚も入ったことがない。作品はますます内省的になり、ミドル・オブ・ザ・ロードの歌のうまいシンガーによく取り上げられるようになる。作詞作曲なので歌詞がとても深いから、いろいろな人に取り上げられる。そんな中からカバーというかたちでヒットが生まれる。そこから代表的なものを選んで後半にオンエア。

・HIGHWAYMAN
1977年にジミー・ウェッブがアトランティックから発売したアルバム『EL MIRAGE』の1曲目に収められた「HIGHWAYMAN」は1985年にウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングスとジョニー・キャッシュとクリス・クリストファーソンのスーパー・グループのザ・ハイウェイメンという名義で発売されて、全米カントリー・チャートNO.1、その年のカントリー・ソングのグラミー賞を獲った。"かつて俺は馬に跨り馬車道に出没する追い剥ぎだった 剣と銃を手に 女たちはたやすく俺に抱かれ 命知らずの若者は俺のナイフに倒れた ついに俺は捕らえられ 25歳の若さで縛首 でも俺はまだ生きている" これが一番で二番は "かつて俺は船乗りだった この船乗りは嵐に巻き込まれて 事故に遭って死んだと言われたけれど 俺はまだ生きている" その次がダムの建造者になって "この人はコンクリートに身体を打ち付けられ死んだ 埋葬されたんだけれども 今でもこの世を彷徨ってる" 最後は "宇宙船に乗って 宇宙の向こう側にある あの世の旅に出よう そしてこの世から切り離された別世界に着いたら 安らかに魂を永眠させる場所を探したい もしかしたら来世はまた荒野の追い剥ぎとして生まれ変わるかもしれない もしくは単に雨のひとしずくとして それでも俺は生き続け そして必ずこの世に帰ってくる" そうした輪廻の不思議な歌をカントリーの御大が4人がかりでやってNO.1にさせた。ジミー・ウェッブはコード・チェンジの激しい曲の反面でカントリー・フレーバーの曲もたくさん作っている。グレン・キャンベルも当時はポップ・カントリーといわれて一世を風靡した。

・ADIOS
アート・ガーファンクルと並んでジミー・ウェッブの作品を好んで取り上げたのがリンダ・ロンシュタッド。リンダ・ロンシュタッドの1989年のアルバム『CRY LIKE A RAINSTORM, HOWL LIKE THE WIND』はアルバム・チャート全米7位だがダブル・プラチナ・アルバムの大ヒット・アルバムになった。まぁリンダ・ロンシュタッドは全部プラチナ・アルバムなんでアレなのだが。その中でジミー・ウェッブの「ADIOS」を取り上げている。ソングライター、ジミー・ウェッブが好きな人にはよく知られた一曲。"17歳のときにあなたと一緒に家を飛び出した カリフォルニアの海辺でマルガリータを飲みながら 古びた酒場で夜を明かした カリフォルニアの海辺をあとにした私を恩知らずと思わないで そんな怪訝な目で見ないで さよならごきげんよう 二人じゃダメなのよベイビー どんなにそばにいても さよならごきげんよう" 駆け落ちしたんだけれども結局別れてしまったという歌。リンダ・ロンシュタッドの名唱。プロデュースはおなじみのピーター・アッシャーで、なんとコーラスにブライアン・ウィルソンが参加していて当時話題になった。

■リクエスト・お便りの宛て先:
〒102-8080 東京FM
「山下達郎サンデー・ソングブック」係

2015年03月15日は、「ジミー・ウエッブ特集 Part 3」
http://www.tatsuro.co.jp
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする