Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

Facebookは気が利いているのか、単なるお節介なのか。

2011-02-25 14:51:52 | アメリカ生活雑感
今週末はいよいよ、アカデミー賞の授賞式。
作品賞の大本命と目されているのが、日本でも公開中の『ソーシャル・ネットワーク』(8部門候補)。
ご存じ「facebook」の創立者マーク・ザッカーバーグとそのドロドロとした人間関係を描いた作品だ。

私はこの映画を、幸運にも日本からの帰りの飛行機の中で見ることができた。
さらによかったのは、日本語吹き替え版で見ることができたことだった。
なにしろこの映画、せりふが多いのなんの。英語だったらついていけなかったに違いない。
しかし見終わった感想はというと、世間の評価のように特に絶賛するようなものでもなかった。

ところが最近、面白い映画評を読んだ。
いはく、
「(Facebookは)コミュニケーション下手が作った、世界最高のコミュニケーションツール。
非常に皮肉な話しだが、そこがドラマとしておもしろい。」

なるどほね。

確かに、自分がこの映画を見ながらなんだか落ち着かなかったのは、天才マーク・ザッカーバーグのコミュニケーションの気持ち悪さからきていたように思う。
そんなやつが作ったFacebookが今や世界を席巻し、エジプトに革命までもたらしてしまったのだ。
思えばすごいツールなんだろう。

実は、私は当初からFacebookには否定的で、Pちゃんの再三の勧めにもなかなかアカウントを作らずにいた。
ただ、最後に私を動かしたのは、カリフォルニアの友人たちの催促だった。
「あなたさえアカウントを持てば、みんなでいろんな情報をシェアできるのよ!」
ただでさえ会うのが難しい、かといって「ご機嫌いかが」としょっちゅうメールをやり取りするほどでもない。
Facebookだとみんなの日常をシェアできるし、音信不通になっている古い友人を見つけ出せるかもしれない。
要は、簡単に「世界」が広がるのである。


しかし、最近になってFacebookに決定的に欠落している、恐れていたある欠点に悩まされ始めた。
要は、このツールは「人間の感情」を反映してくれないのである。
「ネットワークを広げる」目的で便利に作られたすぎたため、ときに“余計なお節介”がすぎるのである。
ある人と友達になったがために、その友達から「友達になりましょう」メッセージが乱暴に送られてくるようになったのだ。
知っている人もいるけれど、まったく知らない人もいる。
知らない人はごめんなさいと無視すればいいことだが、なまじ知っている人だとそうもいかない。

「別に友達になりたくなければ無視しとけばいいんだよ」
Pちゃんはこともなげに言うけれど、知っていながら無視するのもなんだか後味が悪い。
「親しい友達と情報をシェアしたくて始めたのに、別にそうでもない人のリストに名前を連ねてそこからまた誰かに発見されてドツボにはまっていくんだよね」

人間の感情はもっと微妙にできている。
たとえ友達の友達でも、昔から知っている人でも、つながっていたいと感じない人もいる。
逆に一回限り会った人でも、ずっとつながっていたいと感じる人もいる。
写真を見せたい友人もいればそうでない友人もいる。
そんな人間の感情を無視して、このツールは「もっともっと友達を増やしましょう」と迫ってくる。
いや、待ってくれ!もうちょっとそっとしておいてくれよ!

嫌いな人は事前にブロックしましょう。
嫌なら、友達の依頼を無視しましょう。
対処の仕方は用意されているのだけれど、どれも直接的でいまいちなやり方だ。(と感じるのは、私がウェットな日本人だからか?)
いや、所詮は「コミュニケーション下手が作った、世界最高のコミュニケーションツール」だからなのか?


結局のところ、私はFacebookは向いていないのかも。
いや、もっと軽く考えたほうがいいのかな。