Life in America ~JAPAN編

I love Jazz, fine cuisine, good wine

第2の里帰り ベイエリアでの48時間その2

2024-05-19 19:43:45 | アメリカ生活雑感
おしゃべりしてゆっくりしすぎたせいか、めずらしくDedeも、そして当然私も寝坊。
そのおかげで、久々に仕事のプレッシャーのない朝を気持ちよくむかえられた。
夕べは風が強かったので一晩中窓の外では木々の音がざわざわと聞こえてきて、それもなんだか子守唄のような心地よさだっだ。


Berkeleyの高台にあるDedeのおうち。毎年ここでThanksgivingのテーブルを囲んだっけ。

朝食後は、Dedeと昔のようにキャンパス付近をぶらぶらしてみる。
数年間住んでいたアパートはそのままだったが、大学前のメイン通りのテレグラフアベニューはすっかり様変わりしていた。
コロナ禍で閉店したままの飲食店や、空きスペースにペンキで描かれた落書きが悲しく見苦しい。
趣味の悪いビルが出現したり、学生用のアパートが林立する無機質な街並みには虚無感が漂う。


昔住んでいた学生アパート。毎晩近所で暴れる学生がうるさくてたまらず引っ越したけど、キャンパスに近くて便利だった。

 
悪趣味・・


落書きだらけの空きビル


レコードを買いあさったなじみの古レコード屋さんはつぶれずにまだあった。めちゃうれしい!


バークレーの学生たちの集会に歴史的に使われたPeople’s Parkにはバリケードが築かれ、四隅には警官の姿。
何事かと聞くと、こともあろうにここに学生アパートを建設する予定(表向きは)で、よからぬデモなどを起こされないように見張っているのだという。




もちろん、デモなど起こる気配もないので、ポリスも暇を持て余している様子。
まったく天下のUCBが予算をこんなことに無駄遣いしているのか、と情けなくなる。

あきれ返りつつ学内に入ると、見慣れた場所で見慣れた景色が広がっていた。
今全米の大学に広がりつつある、イスラエルによるガザ侵攻、ガザの人たちに対する虐殺行為に対するデモ。
大学がイスラエルの企業に資本援助をすることに対する抗議チラシも多くみられた。
2001年の9月、9・11の直後も同じような光景が広がっていたっけ。





他大学とは違い、UCBではあくまでも平和な形でデモが行われていて、ゴミひとつない整然とした運動だったのが印象的。
卒業式を中止するほどの大学もあったそうだが、ここではそんな暴力は一切見られなかった。


卒業式のシーズンでもあり、すぐ横の正門前では卒業セレモニーを終えた学生たちが誇らしげに記念撮影をしていた。



近くのカフェではいつもと変わらず学生たちが勉強をしている。
この対比もいかにもバークレーらしい。

コロナですっかり留学生が減ってしまったUCBはその遅れを必死で取り戻そうと、最近では学部・学科を乱立させているらしい。それもあって、学生や教授陣の住むアパートが急激に必要になり、市内各所で高層アパートの建設が始まっているのだとか。
中には(失礼だが)成績が良くなくても簡単に入れる学科もあり、”UCB卒業”のネーミングほしさに主にアジアの学生が殺到しているとかで、大学のレベル低下が懸念されている。

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第2の里帰り ベイエリアでの48時間その1

2024-05-19 17:33:57 | アメリカ生活雑感


LAへの出張帰り、今度こそベイエリアに寄ろうと決めていた。
昨年LAに来たときは団体行動だったので行けなかった、近くて遠い第2の故郷。
あのとき行っておけばよかった、
あのとき会っておけばよかった、
そう思うことがないように、思いついたら即行動、これからはこれで行こうと決めている。

LAから1時間半、ひとっ飛びでサンフランシスコへ。
この空港はLAXよりはるかにきれいで明るく洗練されている。すぐにBARTに乗り継げるし、タクシーやUberの列に並ばなくてもいい。
懐かしいロックリッジ駅までは、1.75ドル。
駅を出るとDedeが待っていてくれた。
彼女に会うのは、シカゴに訪ねてきてくれた時以来だからもうかれこれ6年?
私が初めてバークレーで生活を始めたときからずっと、私の人生を見守ってくれていた生き証人の彼女。
英語が喋れなくて四苦八苦していたときも、大学のプレゼンクラスで悩んでいた時も、助言しつつそっとそばで手を差し伸べてくれた。
彼女なしでは今の私はあり得なかっただろう。

彼女を紹介してくれたのが、当時クラスメートだった親友でエジプシャンのHODA。今はドイツに戻って、メディアに引っ張りだこの政治学者だ。
この地に降り立ち空気を吸うと、この20年間が走馬灯のようによみがえる。
青春の匂いだ。










アメリカ生活最初に住んだ家。一軒家の中で数人の留学生が部屋ごとに住んでいた。

何も変わっていないDedeの家で部屋に荷物を下ろし、さっそく昔暮らしたNeighborhoodを散歩。
二人でよくおしゃべりをしたカフェで、まるで昨日の続きのようにコーヒーを飲みながらおしゃべりに花が咲く。
寒かったロスとは違い、ここは陽差しが温かい。


アフガン料理の店でゆっくりと夕食を。


部屋からのベイエリアの眺めは何一つ変わらない。

ふかふかのベッドで、やっとビジネスモードからオフへと気持ちが切り替わった夜だった。
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豊竹若太夫 襲名を祝う会

2024-03-25 23:26:21 | ニッポン生活編


人形浄瑠璃「文楽」で途絶えていた大名跡、豊竹若太夫(わかたゆう)が57年ぶりに復活する。
文楽太夫の第一人者で御年77歳の豊竹呂太夫さんが、祖父で人間国宝だった先代、十代目豊竹若太夫から300年以上継承されてきた若太夫を受け継ぐ。
「豊竹若太夫」は、文楽界においては「竹本義太夫」に次ぐ大名跡だ。

その襲名を祝うパーティーが、大阪のホテルニューオータニで盛大に開かれ私も末席に加えていただいた。
私のようなものが何故出席したかというと、毎年淡路で行われている「浄瑠璃素義大会」に呂太夫さんが審査員として来てくださっているというご縁からだ。
私はその素義にコロナが明けてから3年間、ださせていただいている。
誰にでも気さくなお人柄で知られる呂太夫さんは、嫌 な 顔 一つせず2日間朝から夕方まで私たち素人の語りを真剣に聞いてくださり、 アドバイスもくださる。
ぶっ続けで聴かされるのは正直たまったもんじゃないだろうとお気の毒に思うのだが、それでも毎年、素敵なお帽子をお召しになって淡路にお出ましくださるのだ。





3月24日
大阪のホテルニューオオタニに集まったのは、そうそうたる顔ぶれの発起人を入れて約350人。
お着物姿の女性が場をおおいに華やげていた。
私もこの日はお着物。
母が残してくれた付下げをこの日とばかりに箪笥から引っ張り出し、帯、帯揚げ、帯締めを選んで朝からスタンバイ。
淡路と徳島からは総勢30人が呂太夫さんの晴れ姿を一目見ようと、バスをチャーターして駆け付けた。

  








会場を埋め尽くす大勢のお客様


発起人の一人、コシノヒロコさんはさすがの目力。
小さいころから伝統芸能に親しまれてきたというコシノさん。名前を継承することが意味すること、その意義を熱く語っておられた。


呂太夫さんに語りを習って15年、噺家の桂南光さんが楽しい乾杯の音頭
「私はちゃんと太夫について習っています。米朝師匠は芸者さんに教えてもらっただけ」と笑いをとる。


記念撮影


ご挨拶で思わず感極まる呂太夫さん。
その傍で、ビシッっときめて微動だにしない素敵な奥様の姿が。
高校の同窓生とのこと。この奥様あっての呂太夫さんなのだと納得。





会の最後には会場内をごあさつしながらぐるりと歩く呂太夫さんと奥様。


NHK大阪放送局長林理恵さんの、この帯は注目の的!
「壇浦兜軍記」から阿古屋の頭を大胆にあしらったデザイン。見台まであって素晴らしい。(黙って撮ってすみません。)

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二月逃げる。

2024-03-05 17:36:14 | ニッポン生活編
「一月往ぬる二月逃げる三月去る」とはよく言ったもので、
2月はまさに走って逃げた月だった。
でも、短い期間にさまざまなことを達成した感のある良き月でもあった。

月初は父の1回忌の準備もろもろ。
もう1年もたつのか・・・と去年の今ごろの、いつブザーでたたき起こされるかわからない不安な夜間同居生活を思い出す。
もう少し長生きしてれば、WBCも、38年ぶりのタイガース優勝も一緒に盛り上がることができたのにね。
・・・と言うてもせんないこと。
これからはただ、体に気を付けて両親の残してくれた心やものを大切に人生を生きていこうと思うのみ。

そして。

父の命日当日には、もうひとつビッグイベントがあった。



師匠が続けてきた義太夫節の会「阿波路会」の10周年記念公演。
この公演に向けて、昨年末からツールを用意したり、特別配布用の「10年史」を編さんしたり、公演の宣伝・広報をやったりともう大忙し。
その効果もあってか、2月11日の徳島公演は超大入り満員、立ち見も出るほどの盛況だった。







ぶっ続けで約80分の演目の始まり。


いつもは語りと三味線だけの素浄瑠璃形式なのだが、今回は特別に人形がつき、舞台も華やか。
(注)許可を得て撮影しています。



この準備とほぼ平行して夜中はシカゴと仕事のやり取りが続き、自分の舞台なども重なり結構ハードな月だった。
さぁ、3月は「去る」というが、うまく去ってくれるだろうか。 
どうなる!どうなる!?



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誰かに褒められるということ。

2024-02-07 18:46:47 | がんばろう、日本。
2024年最初の月は、病院通い(永遠に続く腰痛の検査)やら、2月にある師匠の記念公演のパンフレット制作やらであっという間に終了。
でもまぁ、何かが作られていく工程を見るのはいつも楽しい。

久しぶりに昔よく立ち寄っていたあるお店に顔を出した。
コロナ前なので、もう3年以上にはなるはず。
お店のオーナーは75歳・女性で、一人で店を切り盛りしている。
それも、もう35年も。
「自分の好きなことをやってるから楽しいのよ~」とおっしゃる。
そろそろ体力的にもしんどくなってくるからお店のことを考えないとね~、などと言いながら
お客さんがくると嬉しそうにきりもり。
やっぱりこのお仕事が好きなんだなぁ。

私がシカゴにいたころからのお付き合い。
「(田舎に帰ってきて)なんだか何をやってきたんだかって感じですよ」
と自嘲気味に笑った私に、彼女はすごくまじめな顔でこう戒めた。

「あなたね!あなたは違うっていうかもしれないけれどこれだけは言っておくわよ。
あなたがこっちに帰ってきてやり遂げた一番素晴らしいことは、ご両親を見送ったことなのよ。それだけは言っておくわ。他にもいろいろやったかもしれないけれど、これが一番すごいことなのよ。私はこれができなかった。だから両親のお世話をして見送った人のことは心から尊敬するの」

そうですかねえ。ケンカばっかりして、身の周りはすべてヘルパーさんがやっていたから自分としては何もしてなかったも同じなんですけどねぇ。
そう言うと、
「絶対、そんなことはないのよ!ご両親もどれほどうれしかったかと思うわ」と語気を強めた。

実はそんなふうに誰かから介護のことをほめられたのは初めてだったので、ちょっとほっとした。
とりあえず、帰ってきたことに意義はあったのだ、と。

まもなく一周忌。
今は息切れもなく元気に飛び回っているかな。
大好きなきんつば備えて待ってるよ~。

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おばあちゃん

2024-01-21 18:55:01 | ニッポン生活編
祖母の13回忌を自宅で。
もう13年なんだ・・と感慨深い。

祖母の死をめぐっては、我が家的には嫌な思い出しかなく、書くのもはばかれるのだが一応備忘録。
バリバリ元気で一人暮らしをしていた祖母だは、100歳を過ぎて風邪をこじらせ、一人暮らしは限界になった。
その介護方針をめぐって、叔母(祖母の次女、私からすると父の姉)と母が激突。
叔母は祖母を「自分で面倒みるけん、一切かかわるな!」と自宅に連れて行ってしまった。
いわゆる”囲い込み”というやつ。

とはいえ老人を介護するというのは大変なことで、これまで自由奔放に一人暮らしをしていた叔母は早々にギブアップ。
預かっていた祖母のお金を使ってなんと、祖母の新居を建てるという暴挙にでた。

祖母は100歳で家を建てちゃったのだ!

でもその新しく住み心地の良い家で、ヘルパーさんたちに支えられて完全介護の老後を送った祖母は、しばし平穏な日々を送っていたに違いなく、たまに帰省して遊びに行くときちんとした身なりで私を迎えてくれた。
祖母にとって、最後の平穏な時間だったはずだ。

103歳を迎える直前の1月31日、静かに息を引き取った祖母。
歌を愛し、私たち孫をいつも気にかけてくれた最強の明治女の大往生だった。



祖母の最期のとき、私はアメリカにいた。
あとから顛末を知ったのだが、普段から長男の父(というか我が家)に恨みを抱いていた叔母は、父にさとられまいと祖母の死を隠してさっさと通夜・告別式を執り行ってしまったという。
そんなこともあり、わだかまった姉弟の間でもめにもめた相続・・・。

そんな叔母も2年前に亡くなり、亡くなる前、介護の人に「弟にあやまらなければならないことがある」と漏らしていたそうだ。
それが何だったのか、今となってはわからない。
勝手に祖母の全財産を散財してしまったことなのか、
最期まで父を精神的に苦しめたことなのか、
長男としてのメンツをずたずたにしてしまったことなのか、
知る由もない。

祖母への私からのメッセージは、
「あなたが育てた子供たちは、あなたの財産をめぐって最後まで不毛な争いをして、和解せずにそちらに行きましたよ。
もう一度ちゃんと何が悪かったのか、話し合ってくださいね」だ(笑)。

おばあちゃん、あなたが残したものは私がきちんと引き継いでまいります。


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2024年、静かな幕開け。

2024-01-14 13:47:32 | がんばろう、日本。
本当の意味で、父のいないお正月。
帰省した姉といつものように変わりなくおせちを食べ、お酒を飲み、だらだらと過ごす。
「喪中」はおせちも食さないのがしきたりなのだけど、昔からそんな細かいことに従うような信心深い家庭でもなかったので、
いつも通りを心がけて仏前の両親に献杯をしながら飲んだくれた。
私たちはこうやって元気にやっていますよ、と報告するのが一番の供養だから。

とはいえ、やはりいた者がいなくなるという寂しさからは逃れられない。
父の部屋に入り、空っぽのベッドを見ると涙があふれてくる。
・・・
いかんいかん、自分でも精一杯やったのだからあとは前に向いて進もう。

2024年の抱負。
「自分の時間を精一杯目指したゴールに向けて使う」

1)相続した不動産の有効利用
先祖が残してくれた大切な土地を、地域のために生かす道筋を建てる。

2)自分のために投資する。
元気でバリバリ動ける今でこそやれることに全力投球。

3)会いたい人に会う。

人間いつどうなるかわからない。それを思い知った2023年だった。だからこれからは躊躇しない。コロナで寸断された、遠くの友人・知人・親戚との直接のコミュニケーションを取り戻そう!

4)積極的に、県外&海外に行く。
会いたい人、ほしい情報をとりに。

5)仕掛ける。
待っていてはだめ。あらゆる接点を見つけて積極的に”取りに”行く。


元旦の震災のニュースから、より地域コミュニケーションの大切さを思い知らされた2024年の幕開け。
わが身として受け止め、被災地の支援を続けながらよりよりコミュニティーを作っていければと思う。
それこそが、私がここに帰ってきた使命(大げさだけれど)だと思う。



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Do!(どう)機会

2023-12-05 20:10:56 | ニッポン生活編

忘れもしない38年前。

会社の内定式の途中で阪神タイガースが日本一になり、式がいきなり祝賀会と化した、あの日。

そして我々もすっかり大人になり、11月18日東京都内で5年ぶりの同期会が行われた。

もうこの機会を逃すと会えない人たちもいるかもしれない、との思いから、今年は初参加を決めて上京。

配属部署もばらばらな135名もの同期が一同に集まった。

大阪支社配属→東京転勤→大阪転勤→東京転勤→2001年退社というすさまじい移動をした私。

田舎にすっこんでいたので恐る恐るお上りさん状態で顔を出してみると、それはそれで結構”知った顔”から声をかけられたりして、楽しいひと時だった。

何よりみな、元気で第2の、第3の人生を歩んでいる。

刺激をもらった。

 

二次会は「大阪支社」しばり。

やっぱりこっちの方が楽しかったなぁ。みんなつっこみはげしい、うるさい

これぞ大阪!というノリで。

当時48歳だった(!)という支社長も、わざわざ鳥取から来てくださった。

もうそれだけで行ったかいがあった。

 

私たちにとってはいつまでたっても兄のような、父のような存在。今も温かく見守ってくださり、

FBには一番にイイネ!を押してくださる大切な上司。

わずかな滞在だったけれど、旧友と飲み交わし、今まで話したこともなかった同期とも話し込んだ。

やっぱりこの会社で過ごした日々は、私の血となり肉となっていることを実感。

ありがとう!

 

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13年ぶりと18年ぶりの再会。

2023-10-20 14:55:33 | ニッポン生活編

10月はうれしい再会の月。

まずは、相棒の両親。

2010年にシカゴの自宅に遊びに来てくれて以来。しかも初めての日本訪問とあって、ブッキングを完了した5月からお互いにそわそわ、わくわく、ドキドキしていた。

私はいわゆる”嫁”の立場なのだけれど多分、相棒よりもずっと気持ちは実の子供に近い。

あちらの親もそう思ってくれている。これにはいろいろ理由ありなのだけれどなかなか説明ができない問題なので省略。

とはいえ、久しぶりの再会でなかなか濃い1週間を一緒に過ごすことができて、少しだけでも親孝行できてほっとしている。

 

そしてもうひとつは、古い友人との再会。

職場をやめてバークレーに遊学していたころ、語学学校で席を並べたブラジルのパトリシア。

そのころ、彼女も自分のキャリアを捨ててご主人の仕事(うちと同じく研究者)に帯同してアメリカへ。とはいえ主婦に収まる人でもなく、何かを身につけたい、人と交わりたい、と語学学校へやってきた。

お互いにそれなりに人生を積んだ年齢であったこともあってすぐに意気投合し、家を行き来して人生を語り合う親友になった。

一足先に私が日本へ帰国。そのあと彼女もブラジルに戻りしばらく音信が途絶えていた。

あるとき、彼女からのメールで彼女がジュエリーデザイナーになったことを知ってびっくり。

医療セラピストとしてのキャリアをバリバリこなしていた彼女が、フリーランスで仕事を始めるとは想像もつかなかった。

それでも大好きな道を選んだ彼女の勇気に、なみなみならぬ決意を感じ取った。

そしてコロナが明けた今年の春。彼女からメッセージが届いた。

「10月に日本に行くの。会いたい」

驚いたのはその理由。なんと「空手の世界大会(第10回KWF 世界大会)」に帯同するためだという。

地球の裏側の彼女とは、ここで会わなければもう会えないかもしれない。

2週間の滞在の間、1日だけ大阪フリー観光にやってくるという彼女に会いに、すぐに大阪行きのバスを手配した。

少しでも一緒の時間をもてるように同じホテルを予約し、その夜Barで14年ぶりの再会を果たした。

ふたりとも、涙目。。

あのときからちっとも変わらない、力強い目で彼女は思い切りハグしてきた。

 

本当に会いたかったの。どうしてたの?私はいろんなことがあったわ。

あれから、ブラジルに戻ったりまたアメリカに戻ったり4回も往復したの。そのたびに私は仕事をあきらめた。バークレーでは「子育てをしながら夫の帰りを待つ妻」を命じられたけど、それが私には耐えられなかった。

今こうしてジュエリー作家になったのは、もとはといえばバークレー時代に小さなワークショップに行ったのがきっかけだった。だって、私も人生で何かがしたかったのよ。

ブラジルに戻ってからも、夫は私が仕事を持つことに賛成しなかったわ。女はだまって子育てしていろ、と言わんばかりに。

「マッチョ」な考えを持つ彼とのことを、思えば私は何も知らなかったのね。

 

意を決して、1年前に離婚。

二人の男の子を引き取り、育てあげながら自らもジュエリー作家として仕事をしている。

その傍らで、次男の空手教室に送り迎えしているうちに自分も通い始め、「今では私だけが道場通いよ」と笑う。

 

「あんたは強いよ、強い!昔からそうだった。自分の道は自分で切り開く、そういう人だったじゃない」

私が言うと、

「Shokoから学んだのよ、私。一度しかない人生、自分で見つけなきゃって」

 

カウンターが閉まってひっそりとしたホテルのバーで、地ビールで乾杯しながらゆっくりとお互いの空白を埋めていく。

ありがとう、友よ。

18年前の私たち。

赤ちゃんだったペドロ坊やも、もう21歳。ジャーナリストを目指している。

UCバークレー前のカフェ。よくここでお茶しながら英語を鍛えたよね。

 

再会の夜。

 

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誰かのごみは誰かの宝。One man's junk is another man's treasure

2023-09-27 09:53:02 | アメリカ生活雑感

20年ほど前に亡くなった叔父の家の整理をコツコツと進めている。

こっちも年とるし、この夏場は特にきつかった。

長く県庁勤務をしていた叔父は、(私のかすかな記憶では)博識で、おしゃべりが好きで、多趣味で、蔵書が半端なく、収集癖のある人だった。

鉄道、切手、古銭、骨董・・・なんでも手を出していたことを今になって思い知った(涙)

自分で始末をせずに死なれたあと、どれほど大変なことか本人は知る由もないだろう。

 

普通ならば気にせずに古紙回収に出してしまえばよいのだけれど、それができないのが私の性。

地元の歴史を語るうえで残しておかなければならないような重要書類なども見つかり(昔はコンプライアンスなどなかったのか、自宅にいろんなものを持ち帰って保管している)でもまぁ今となってはそれも時効だし、地域のために役立ててもらう方法を周囲にいろいろと相談してみたところ、県立の文書館がそのような歴史的印刷物を引き取ってくれる(かもしれない)と助言をいただく。

 

重い腰を上げて、ひたすら整理にかかる。

町史、古い地図、古い賃貸借契約書、写真、はがき、・・・すきまから際限なく現れるものたちと悪戦苦闘数か月。

バカ重い「町史」だけでもいったいどれほどあったろう。

ひとまず、段ボールに10箱を運び込んだ。

 

恐縮がる私に文書館の方は「県でもきっちり保管されていないものもありますから、こういう個人の方から寄贈されるものは本当に価値があってありがたいです」と言ってくださり、それだけでも労力が報われた。

とはいえ、まだそれでも半分ほどか

 

没後20年たって、何の付き合いもなかった姪っ子がこうやって遺物を掘り出しているとはよもや知るまい。

叔父よ、あなたはいったい何がしたかったのか?

これだけ一生懸命ガラクタ集めても、最後は一人。持って死ねないのよ。

 

自分が死ぬときは、きちんと整理して誰にも迷惑をかけないようにしてから死のう、とつくづく思う。

最善の方法は、

「焼けるものはすべて焼却してください。それ以外はこのお金で始末してください」と、廃棄費用を包んでおくこと。

人のふり見て我がふりなおせとはまさにこのこと。

勉強させてもらった。

 

つづく・・・

 

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