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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■チョット観音の引っ越し先

2022-08-18 08:32:54 | 徒然

 熊本城築城前の茶臼山の頂上にあった「クワンノン堂」は、鋤身崎(西子飼町)の正蔵院近くの慈性庵という観音堂にしばしの間お引越しをいただいた。ゆえに「チョット観音」と呼ばれた。
そのチョット様、その後どちらへお出でになったのだろうか?

 参勤交代では花畑邸をご出発になった一行は、熊本城内を通り二の丸御門から、京町口に出ると氏家家の屋敷を廻って観音坂を下られ、内坪井から立町を通り豊後路を初日の宿泊地の大津へ向かわれる。
観音坂の名前の由来は、この坂を下り切った左手に観音堂があったことによる。
ここに鎮座して居られた観音様も、茶臼山の観音堂のご出身?だと伝わる。チョット様がここに来られて落ち着かれたのではないか。
どんなに資料を探しても両方のつながりを思わせる資料はない。

 我が熊本史談会会員の福田晴男氏の名著書「くまもとお大師まわり」にも、両方登場するが、つながりには触れて居られないところを見ると、資料には現れないのだろう。

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■細川光尚宛、従兄弟・蜂須賀忠英書状

2022-08-18 06:28:48 | オークション

  寛永19年(?) 書状 折紙形式 計1点 徳島藩 第2代藩主 蜂須賀忠英 花押 熊本藩主 細川肥後守あての返書 滞在先からの発信 阿波国        
        

 阿波徳島藩二代目藩主・蜂須賀忠英(蜂須賀小六の曾孫)から、肥後細川藩二代目藩主・細川光尚にあてた書状である。
それぞれが挨拶状を交わしている。忠英は腫物が出来たらしく光尚はこれにもふれているが、どうやら全壊している。
二人の親し気な文通は、忠英の生母が徳川家康養女・敬台院(小笠原秀政女・万)であり、光尚生母も又家康養女・保壽院(小笠原秀政女・千代)であり従兄弟の関係である事による。
小笠原秀政室は徳川家康嫡男信康の女登久姫(峯高院)であり、長女が万姫、次女が千代姫である。
男子は忠侑(嫡男長次が中津藩主)、忠真(小倉藩主)、忠知(杵築藩主)、松平重直(出羽上羽藩主)などそれぞれが大名となった。

商品説明が詳しいが、寛永19年の書状と比定して居られる。光尚は前年3月17日に死去した後5月5日遺領相続、5月19日に江戸発駕、6月14日熊本着。ひょっとすると18年かもしれない。

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