津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■昆虫採取

2022-08-11 11:21:17 | 徒然

 特段昆虫採取をしたわけではなく、お三方が我が家のベランダに飛来してご臨終と相成った。
世の中の子供さんたちは夏休みの最中だから、自由研究とやらで昆虫標本つくりなどを考えて居る人がいるかもしれないが、同じAPに子供さんも住んでいるようだが、日頃の付き合いもなく捨てなければなるまい。
なんだか今年は、蝉がおとなしい気がする。もっとも外出が朝散歩だけだから気が付かないのかもしれないが・・・
しかしこうして眺めていると、小学生の頃8月の末に泥縄で昆虫標本を造ろうと、網をもって走り回ったことを思い出す。
玉虫やカミキリムシなどの方が取りやすかったように思う
しばし詳細に観察した後、古いA4封筒に入れてあすのごみ収集に出すことにした。

               

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川ガラシャ・黒田官兵衛室・加藤清正室そして島津義弘母公と北の方

2022-08-11 06:38:59 | 歴史

    熊本城の天守の完成は慶長五年だとされる。それは清正が黒田如水を迎えるために、天守の完成を急げという旨の書状の存在による。
清正の宇土城攻め、柳川攻めのあと清正・如水らは薩摩攻めの為に芦北迄進んでいる。ここで秀吉からの薩摩攻め停止の連絡が入った。
如水が帰途、熊本城に立ち寄ったのかどうかは、よく判らない。
清正が如水を歓待しようという考えは、これは清正の新婚早々の室・清浄院(家康養女-水野勝成妹)の大坂脱出後、如水の領内豊前に上陸後、物心両面の援助を受けて無事に熊本に入国したことに対しての最大の謝意であったろう。

 各大名家の奥方の大坂からの脱出は、細川ガラシャを人質にせんとする石田三成の画策が原因している。
そのガラシャが慶長5年7月17日これを強硬に拒み悲劇の死を遂げた事で、特に家康方の諸将方が夫人を大阪からの脱出を試みる。
如水夫人は嫡子・長政の室と共に脱出帰国している。

 一方西軍に於いても、薩摩の島津義弘の母公と夫人が大坂を離れて帰国の途についている。
先にご紹介した■野島・來島黨船軍、附薩州侯ノ母公勇死ノ事は、その悲惨な事実を知らなかった私にとっては衝撃的な内容であった。
義弘周辺の資料を見てもこの辺りがはっきりしないが、黒田家史料ではいささかの関係資料が散見される。

その後の細川・加藤・黒田・島津各家の歴史をみると、何かしらその後の運命のエポックメイキングだったように思える。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする