津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■清正勲績考による「清正君築熊本城事」加藤家傳より

2022-07-22 13:24:39 | 史料
「清正勲績考 巻第二十七」から「清正君築熊本城事」加藤家傳より
 
加藤家傳ニ曰、清正城地國中ニ求メ隈本城西祇園山ヨリ大砲ヲ放ツニ矢玉城中ニ落ツ、故ニ祇園山ニ城ヲ可築トテ頂ヲ平カニスト云ト
モ心ニ不協、玉名郡横島ニ地ヲ撰メトモ邪ノ文字ニ和訓ヒトシキ故ニ茶臼山ニ城を移シ、加藤右馬允(可重)・森本儀大夫・飯田覺
兵衛縄張ヲ検考ス、家士各受取ノ丁場アリ、二ノ丸天奏屋敷ト三丸・森本作事ノ櫓早ク出來ス、天守ノ棟上ヲ待テ同日ニ棟上シ二丸ニ
繩明神ヲ祝ヒ、隈本ノ文字阝ニ畏ルト云テ忌テ熊ノ字ヲ用ユ、熊本城ハ要害無双ノ地ニテ縄ニ微妙ノ功ヲ施シ、形勢朝鮮蔚山ニ似テ天
地ノ検ヲ用ト云、
 
 
 
 
 
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■清正勲績考・目次₋1

2022-07-22 07:01:19 | 書籍・読書

 熊本史談会の若い友人・中村裕樹君から「清正勲績考」の目次を紹介してほしいとリクエストが来た。
改めて眺めてみると目次だけで16頁ある。「おい/\冗談じゃないぞ」と思ったが、「内容など多くの人がご存じないと思います。」と書いてある。
さてどうしようかと考える。スキャンすれば9頁あるが、自分でも内容を確認するためにタイピングしてみようかと思った。
熊本はコロナ感染者が大爆発している。ますます外出がおっかなく成って部屋に籠っているから、まあ3~4回で終わらせられるだろう。
図書館から借りたこの本、また返却日が迫っている。(古書で4,000円購入するか・・・)
とにかく、リクエストの応えるべく頑張ってみよう。

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   目  次

通鑑清正勲績考 首巻
   序
   自序
   加藤家系図
   加藤家武器の図
   加藤家軍詞百十五箇条
   総目録

通鑑清正勲績考 附録
   本国寺来歴のこと
   發星山本妙寺由来のこと
   清正君挽詞并に序

清正勲績考巻第一~巻第八(欠本)

清正勲績考 巻第九
   太閤出軍、附り名護屋在陣の人数のこと
   朝鮮国の来歴、附り朝鮮王李氏大明に属すること
   朝鮮の王城騒動、附り王李■出避のこと    (■日偏ニ?=えん)
   清正君漢江を渡る、附り曽根孫六水練の事
   小西行長和議を計る、附り通事景應瞬誅に伏すること
   小西軍勢王城に入る、并に清正君先魁のこと
   太閤名護屋に着陣、附り清正君の使到着のこと
   太閤朝鮮に到らんことを命ず、附り浅野長政諫諍のこと
   知将朝鮮に手配り、并に宇喜多秀家敗軍のこと

清正勲績考 巻第十
   臨津合戦、并に萬頃臺の下に闘うこと
   梅北盛定殿下を窺う、并に晴簑入道強盗に遭うこと
   諸将重ねて朝鮮出軍の命を蒙る、附り忠興君に賜う書簡のこと
   清正君長橋に到着、附り海汀倉邊合戦のこと
   坂井貞行佐敷に還る、附り四雄密談のこと
   梅北人数八代城に渡海す、附り濱田水島物語のこと
   板井貞行等登城、附り梅北對面のこと

清正勲績考 巻第十一
   佐敷の四雄謀略、附り梅北盛定最後のこと
   佐敷城外の迫合、附り梅北盛勝誅せらるのこと
   薩賊麥島城を攻む、附り松浦筑後守後援のこと
   田浦小迫合、附り田浦相模天草内蔵助を討捕ること
   相良軍誤って戦う、并に佐敷留守居太閤の印章を賜ること
   玄旨君薩州に下向、附り祁答院晴簑自殺のこと
   金應瑞虚を和軍に告ぐ、附り和将南原に赴かんと欲すること

清正勲績考 巻第十二
   小西重ねて檄文を呈す、附り朝鮮王商議のこと
   朝鮮王平壌府を避く、附り明兵敗北のこと
   清正君両王子を檎にす、附り異説のこと、并に加藤家武具のこと
   清正君オランカイに攻入る、附り延膽の城陥ること
   延膽軍夜肥軍を襲う、并にオランカイ都の放火のこと
   オランカイ軍興起、附り神仏擁護のこと
   清正軍濟州に入る、附り世琉兜宇須を檎にすること
   印金の城陥る、附り通事後藤を檎にすること
   オランカイ人狼藉、并に世琉兜宇須王子を拝すること

清正勲績考 巻第十三~巻第十六(欠本)

清正勲績考 巻第十七
   來幣使登城、り朝鮮の諸臣書を太閤に呈して清正君を賞すること
   明使を饗し、爾書に依て太閤忿怒、附り小西行長陳謝のこと
   明鮮の冊使帰帆、并に清正君再び朝鮮の先鋒を蒙むること
   冊使朝鮮の都に帰着、附り朝鮮の群臣商議のこと
   和軍再び朝鮮に到る、附り清正君梁山の城を攻取ること
   沈惟敬大明帝を欺く、并に朝鮮王再び出避のこと
   小西計策して清正君を討たしめんと勧む、附り李舜臣獄に下ること
   和軍朝鮮の地を略す、并に司馬星禁獄のこと
   明帝商議、附り重ねて援兵を朝鮮に遣ること
   明帝命じて朝鮮八道を分理す、并に惟敬偽言を巧みにすること
   朝鮮在陣の将合戦の期を咨稟す、并に惟敬密書を投して清正君を計ること
   惟敬小西に降る、附り楊元惟敬を擄にすること
   金應瑞虚を和軍に告ぐ、附り和軍南原に赴かんと欲すること

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■精読開始「宇土支藩の大借金」

2022-07-21 08:40:24 | 史料

 先にオークションで入手した宇土支藩の大借金に関する「一札」である。
昨日現物が手元に届き、久しぶりの古文書読破である。30,000石の宇土支藩にとって5,000両の借金とはただならない。
背景が判るのではないかと、精読に掛かろうと思っている。                          

                          

                   

 

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■コロナ大爆発

2022-07-21 08:19:13 | 熊本

 私のダイアリーには毎日コロナ感染者数(熊本県)をメモしている。2020年2月以来である。
今年の1月の末、数日間1,000人を越えておどろいたが、その後しばらく4~500位で落ち着きを見せていたが、7/5突然1,589人となり同様の数字が6日続いた。
7/12初めて2,000人を突破して2,333人となり2,000人代が6日続いた。
18日1,441人・19日1,176人と下降をたどるかと思っていたら、昨日は突然3,772人である。

3回目のワクチン注射をためらっていた奥方も、2,000人を突破したころさすがに驚いて注射の予約を入れた。
私はと言えばまだ4回目の案内が来ない。
後遺症なのかどうか判らないが、注射をした左上腕部の痛みがずっととれず、腕が上がらず不愉快感がいつも付きまとっている。
4回目を打てば、痛みが増すのではないか等と思ったりもするが・・・
一番こまるのは、いろんな施設の使用制限が行われることだ。これはなんとか勘弁願いたい。今日の数字が気になって仕方がない。

追記 17:14 今日21日は4,240人大爆発は続いています。明日は5,000人突破か・・・

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■錦橋

2022-07-21 06:49:45 | 熊本

           

 遠景に宇土櫓と天守閣が重なっているのが見える。
その下に見えるのは家庭裁判所、その左手は建物は改築されているが当時の共済会館・五峰閣(現KKRホテル)、近景左手は今はなくなってしまった厚生年金会館である。

昭和55年頃の懐かしい景色である。
前の道路は県道31号熊本-田原坂(鈴麦)線、右手に進むと上熊本駅に至る。
夏目漱石が上熊本駅に降り立ち、熊本に第一歩をしるしたからと、地元の放送局が「ぼっちゃん道路」と命名したが不評のようだ。
夏目漱石が熊本に赴任したのは1896年(明治29年)のことで、残念ながらこの道は通っていない。
それゆえ漱石は京町台へ上り新坂から熊本の景色を眺めて「森の都」といったとされる。

 写真に小さな水路が見えるが、かっての坪井川の跡である。(悪友は坪井川がこんな所を流れていたことを知らなかったという。証拠写真である)
懸っている橋は錦橋、右手の階段は京町台に登るためにその高低差を吸収するために、折り返すように登る階段で、かっての錦山神社(加藤神社)の旧参道でもある。

かっての写真を見ると橋の右手に鳥居が建っていた。昭和37年現在地へ遷宮するまで約76年間の京町(旧・氏家邸)に在った。

 この県道の開通で分断されたが、この一帯は「内坪井」と呼ばれる水堀と土居に囲まれた中級武士の屋敷が広がっていた。
現KKRホテルの裏手から小豆坂へ下る坂があり、坪井川に掛かる折栴檀橋をわたる登城口があった。
現在の城東中学のプールがある辺りであり、昔の面影を見出すことは不可能である。

 昭和55年、熊本市発行の「ふるさと 史跡と風土をたずねて」から写真を引用させていただいた。

 

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■籠城の輩清正へ相抱給ふ事

2022-07-20 06:50:59 | 史料

宇土城の開城後の宇土勢の処遇について、宇土軍記には次のような記述がある。
「四十・ 籠城の輩清正へ相抱給ふ事」
  宇土籠城の輩八代・矢部の人数共に、兼々約束の通小身侍に至迄不残一命を被助、先知の通少も無総意下行之

  清正被相抱候也、於熊本宇土小路と云所有之ハ、右小身の輩被指置候ニ付如此唱来由也、

 それらの事情は、現・八代未来の森ミュージアム学芸員である林千寿氏の博士論文「慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出」の中に、
清正が
小西旧家臣に所領を安堵し「宛行状」を与えた宛てた8名が紹介されている。(p46)貴重な資料である。
その中に登場する岸本新左衛門に宛てた加藤清正所領宛行状」を、史談会の会員・野口敬一氏が、2013年3月17日に矢部(現・山都町)
浜町にある割烹・本さつまに展示されていたものを撮影されていた。
先の6月例会の際に持参され拝見した。

                        
        
           宛行所領之事/八代郡内古閑村内/を四百石遣之候/全可之所務於/
           抽忠勲者可加/増之状如件    慶長五年十一月三日 清正(花押)

                               岸本新左衛門殿

 小西時代の旧所領を安堵するとともに、「忠勲抽んずれば」加増もしてやろうというのである。私はこの「岸本新左衛門」にいさ
さかの興味を持った。


 古い私のブログに、実はこれによく似た名前の「岸本新五左衛門」に宛てた宛行状が、2007年11月18日放送の「なんでも鑑定団」
の出張鑑定が山都町で開催された折出品されていたことを書いている。
「絶対明けてはいけない」と言い伝えられてきたというこの品物は二点あったようだが、100万という高額評価だった。
何故この様な高額評価になったのか古い話で記憶がない。
上記新左衛門の宛行状と同様時期の品物であるから、この人も小西家家臣であり同族だったのだろう。
(今にして思うと、新五左衛門ではなく新左衛門であったかもしれない・・・?)

小西氏の治世時代から加藤氏時代に移るほんのわずかの時代を物語る貴重な史料として評価されたのだろう。                            

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■雨の状況

2022-07-19 08:47:27 | 熊本

 大雨のお見舞いをいただきました。誠に恐れ入ります。
熊本県北部を含む九州北部を線状降水帯が移動しており、大雨となっているようで予断を許しません。
幸い熊本市内はそう強い雨ではありませんが、近所の水無川(健軍川)は堰をこえた水が暴れています。
今週いっぱいくらいは戻り梅雨で鬱陶しい事ですが、いずれにしろコロナの猛威もあって蟄居の生活です。
後二ヶ月ほどくたばらないように頑張りましょう。皆様もどうぞご注意の上お過ごしくださいませ。

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■清正勲績考による「清正君築熊本城事」

2022-07-19 06:45:04 | 先祖附

「清正勲績考 巻第二十七」から「清正君築熊本城事」

(前略)清正君熊本ニ下着シ給ヒ城ノ形勢大國ノ主ノ居城ニハ宜カラズト思召テ、城ノ東ニ茶臼山ト云陽山ノ有シヲ撰ミ新ニ城ヲ築キ
給フ、曽テ國中ノ勝地ヲ撰ミ給フニ、玉名郡横島カ此茶臼山ナラデハ然ルヘキ地ナシ、殊ニ此山ハ勝タル地形ナレバトテ八月仲句ヨリ
城ヲ築ントアリテ、同十一月自ラ馬ニ騎テ一日ノ中ニ縄張シテ吉日ヲ撰ミ、十八日ヨリ鍬初シテ之ヲ築ク、防戦堅固ノ陽城ニシテ七重
ノ殿主ハ雲ニ聳へ千仭ノ空壕ハ霧ヲ生ズ、金殿珠閣石磡ノ上ニ羅列シ明窓闇門瓦廂ノ下ニ結構ス、朝鮮蔚山ノ城門ヲ引來テ筒口ニ建テ
高麗門ト称シ、宇土小西ノ殿主ヲ引取リ本丸ニ立テ宇土櫓ト云、壷井川ヲ流ヲ引テ内堀トシテ所々ニ板橋ヲ高シ白川ノ流ヲ以テ外堀ト
シテ虎口ヲ堅ス、三年ヲ經テ大半成就ス、大石ヲ島崎山ヨリ運ヒ巨材ヲ益城郡ヨリ出ス、其際ニハ家中ノ士卒各自ニ鍬ヲ握リ斧ヲ把テ
精力ヲ盡シ、高禄ノ家ト云トモ婦女各兵粮ヲ日々持運ブ、古今無雙ノ城郭ニシテ天守ノ矢切ニハ同田貫ト云名匠ニ命シテ劔ヲ錬セ之ヲ
設ケ給フ、其練工世ニ類ナケレバト兄弟ノ工人ニ清正ノ二字ヲ給リ、兄ハ清家、弟ハ正家ト称ス、彼レ等カ錬フ所ノ刀劔今ナヲ世ニ賞
玩ス、清正君城普請ノ間ハ今ノ古城船場口ノ升形ニ在ル薮氏ノ屋敷ニ居給ヒケルトカヤ、
         

         
                          (第一高校の正門を入りすぐ左側の一画部分が薮図書邸跡)
                          熊本日日新聞「甦る、熊本のたから‐熊本城復活の軌跡」から引用(其四)                                        
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

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■久しぶりの古文書落札

2022-07-18 08:50:58 | オークション

 昨晩久々にヤフオクで古文書を落札した。数日前から目を付けていたのだが、6・7名の方が興味を示して居られた。
締め切り1時間前に入札金額などの状況をチェックして戦略を立てる。
5,000円半ばが最高額、その方が私が入札後再入札される可能性があるから、入札1分前に10,100円で入札、案の定10分間の入札延長となった。
10,000円位まで再入札されるかもしれないと思い、「+100円」としてみた。
処が再入札をあきらめられたのか、そのままの金額で私が落札することになった。
いつもの事ながら応札された方々には申し訳なく思うが、勝ち負けは時の運で、私も一敗血にまみれたことは何度もある。
それ故ここで勝ち誇って、その品物の写真を掲載するのはやめておこう。
内容は安永五年七月、宇土細川家が5,000両という大金を借入れるにあたっての、「一札」と称する家臣数十名の連名の借用書である。
宇土支藩で5,000両の借り入れとは「何事?」と思い、内容を詳しくみてみたいという思いが通じた。
読み下した後、何時かご披露したい。この品物については、後では、某機関に他の宇土細川家に関する文書と共に寄付しようと思っている。

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■清正の宇土城攻め‐4

2022-07-18 06:06:53 | 先祖附

「清正勲績考」(巻第二十六)から「肥後國處々開城」

其頃薩州ヨリ兵ヲ出シ熊本領ノ葦北郡佐敷城ヲ攻ルノ由注進ニ依テ、宇土ノ城攻最中ナリト云トモ佐敷ヘノ後詰トシテ天野民部一隊
ノ士卒ヲ差向ラル所ニ、関原ノ一戦ニ西軍敗北ノ由ヲ聞テ薩軍驚悉ク退散シケレハ佐敷ノ城兵是ニ運ヲ開ケリ、石田・小西等既ニ召
捕レタルノ由告アリ、此上ハ宇土城ヲ明渡シテ退去シ然ルヘキノ旨、宇土城代小西隼人長元方へ清正君ヨリ示シ給フト云トモ西軍ノ
敗北ト云フ疑ヒ承引セズ、然ル所ニ小西行長ノ近習タリシ者落人トナリ逃下リケルヲ召取テ、此者ヲ城ノ屏近ク寄テ此者ノ直口ヲ聞
レヨト云入ル、城兵二・三人出向ヒ彼一戦ニ味方敗軍ノ事ヲ委ク聞テ此上ハ是非ナシ城ヲ明渡サン、然レトモ宇土・八代等小西領内
ノ諸城ニ籠ル士卒浪々ノ身トナリ方々へ離散シ妻子ヲ路頭ニ立セ見苦キ躰トナリテハ一命ヲ助タル甲斐ナシ、不残先知ヲ賜ヒ召抱へ
給ハゝ宇土・八代ノ兩城代小西隼人・同若狭ハ切腹シテ主恩ニ報ヒ城ヲ相渡サン、此儀相違ノ趣ナラハ各城ヲ枕ニシテ討死ㇲへキ旨
ヲ兩城代ヨリ申シ越ス、清正君之ヲ許容シ給ヒ兩城代願ノ如ク切腹シテ城ヲ異議ナク相渡ヘキノ旨印形モ到着ス、依之小西隼人長元
十月 日切腹シテ城ヲ明渡ス、清正君之ヲ受トリ加藤與左衛門重次・並河金右衛門  ヲ城衛トシテ入レ置ル、城内ニ紀州室ノ城主
堀内阿波守安房入道夫婦アリ、此レハ名ヲ得シ武功ノ老将タルガ近歳紀州没落ノ後小西行長ヲ憑ミ宇土ニ浪客タリシガ今度ノ一乱ニ
就テ籠城ニ及ベリ、清正君豫テ相知給フト云トモ此度宇土ニ籠城スト云コトハ曽テ聞給ハズ、落城ノ後不圖對面シ給ヒ、其手ヲ把テ
久シク城ヲ持コタへ堅固ナルコトヲ怪シク思ヒタルニ足下ノ籠城アリシ故ナリ、和睦ノ上ハ我等相應ノ扶助ㇲへシ、領内何方ソ心ニ
任セ居住セラルヘシトアリシカバ、直ニ宇土ニ在城アリタキノ旨ニ依テ其ノ心ニ任セ給フ、

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■花がつかない沢潟

2022-07-17 10:09:12 | 徒然

                                              

 「沢潟」の家紋にほれ込んで、水盤で沢潟を育てたいと思ったのはもう十七・八年も前の事である。
園芸店で探し回ったが残念ながらおいていなかった。昔は田んぼに自生していたそうだが、現在では邪魔者扱いにされているようだ。
そんなことをブログでボヤいたら、東京のTY様が4個の球根をお送りいただいた。
2009年の歳も押し詰まったころだから12年7ヶ月経過している。大変感激したことを覚えている。

毎年今の頃になると、小さな可愛い花が咲くのを待ち焦がれるのだが、ここ二三年咲いてくれない。
TY様からは「イワシの丸干し」を一匹埋め込んで下さいとご教示いただいたが、これを果たしていない。
化学肥料をまいたりしているが、そもそも田んぼに自生していたという植物だというから、それなりの環境を作らなければならないのだろう。
勝手は「いわし」は田んぼの肥料として珍重されていたという。
お正月のおせち料理に欠かせない「田作り」は、まさに豊作を保証する貴重な肥料であった「いわし」に由来する。

もう随分「イワシの丸干し」を食べていない。
食べる分と「沢潟」の分だけで良いのだが、2本だけ売っているだろうか?
奥方に頼めば貌をしかめられるのは必定なのだが、大事な「沢潟」の為に、求めてみようかと思ったりしている。

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■ガラシャ夫人御生害より422年

2022-07-17 07:59:24 | 人物

  旧暦・新暦の差はあれども、7月17日ともなるとガラシャ夫人の御生害に触れずばなるまい。422年も昔の事だがいつも心に残る。

 (慶長五年六月)十七日の暮に及ひ、又催促の使多人数を引具し、玉造の御屋敷をかこミ、使を以て再三御ことハり申せとも、
種々難渋に及はるゝの間、急度御迎を参らせ候、早々御越有へしと荒らかに申シ、内に押入へき様子也、小斎・無世(河北)聞之、
稲留ハ御門に有て暫く敵をあしらひ給へ、我々御自害をすゝめ申さむとて、奥へ参りかくと申上候、本より御覚悟の上なれハ少も
驚き不被成、忠隆君の奥様諸共ニ御自害可有旨にて、御部屋へ人を進られ候に、見へさせられすと申候間、御機嫌あしくいとゝ御
力なく御支度被成候 一ニよし/\と計り被仰候とあり、忠隆君御内室の御事、隣屋敷宇喜多秀家の室ハ御姉なる故、密に末の桐と
申女を以被迎合、加賀の屋敷江立退せ給ひし也

宮仕の女こと/\く御暇被下、落去候様ニ被仰付候得共、相残たるも有之、密に忍ひ出候も有之候、中にも・おくと申両人の局
御遺言被成候ハ、子供之事ハ我為に子なれは忠興君の為にも子也、改め言におよハす、三宅藤兵衛事を頼候也、此上にいはれさ
る事なから藤(松の丸)を御上へ御直し不被成様ニとの事なり、両人涙を流し、ヶ様の事はかり申候はんには他人に被仰付候へし、
明暮御側を離れす深き御恩を蒙り候身の此時に至りいかて立退候半や、是非御供可仕と申候得は、上様又仰に、我詞に背きてハ死
するとも嬉しと不思、なからゑて最期の体を申さハ、草の陰にても満足たるへしと様々被仰候て、忠興君御子様方江の御形見の品
々御消息被残置、御光様の御乳の人には御光様の御形見を御渡被成候、おく・霜も此上ハせんかたなく御受申上候、扨は心にかゝ
る事なし、少齋介錯仕候得と被仰候、畏候とて長刀をさけ老女を先に立て参りけれハ、御髪を御手つから上へきり/\と巻上させ
給ヘハ、少齋左様にてハ無御座候と申上けれハ、心得たりとて御胸の所を両方江くハつと押ひらき給ふ、少齋敷居をへたてゝ居候
ひしが、御座の間江入候事憚多候得は、今少こなたへ御出被遊候得と申上けれハ、則敷居江ちかき疊に居直らせ給ヘハ、長刀にて
御胸元をつき通し奉り候

少齋も爰にて御供可仕候得とも憚なれハとて表へ立出候、おく・霜は御形見の品々を取持御最期を見届、あやしき下女にさまをか
へ密に忍ひ出る、無世(河北)ハ此間に両人よりの言上を認、家人河北助六 六右衛門子、一ニ今日丹後より御見廻に参りしとあり
山内新左衛門ニ渡し、猶又いさい申上候様ニと云含め関東に差遣す、稲冨伊賀ハ是より先に御屋敷を立退候

偖(サテ)蔀遣戸を御死骸のあたりへとりかけ、御自害の間より奥方の戸まて鉄炮の薬をまきつゝけ火をかけ、少齋・無世一所に
有て、武士も武士によるへし、日本に名を得たる越中守か妻敵の為にとらハれにならんやと声々によはゝり、一同に切腹いたし候
 一ニさしちかへて死するとも有 河北か家人河北六右衛門両人を介錯して、其身ハ台所の土間にて腹を切る

金津助次郎、少齋と共に馳廻り御死骸のあたるへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜き
つゝ立、われらハ金津助次郎と云もの也、越中守奥方御生害にて、少齋・石見も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て主の供する様を見よ
と声高に呼り、立腹切て焔の中に飛入りしたりとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり

飛脚の両人は難なく御屋敷を出て弐丁計行延ひ、跡を見るに猛火さかんに見へけれハ、介六ハ新左衛門に向つて、最早石見殿も御
自害と見へたり、主親の最期を見捨て一足も先ヘハ行れすとて、立もとり煙の内にかけ込空くなる、山内は大切の御使なれはと思
ひ夜を日に継て関東江走下り候

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■お津與どの

2022-07-16 15:11:17 | 人物

 先日来、足元の史料を整理していたら、御備頭・田中左兵衛氏朝が、実兄小笠原備前・長衡の夫人「お津よ殿」の召仕の女に「不義の付文」をした事件に関する一文が飛び出してきた。
このことに就いては以前、■親族の不行跡で詳しくご紹介していた。
その折は、「お津よ殿」が何者かわからなかったが、今日はこの資料を読むうちに閃くものがあった。
早速「細川家」の史料をひも解いたら、間違いなかった、細川宜紀の第18子(13女)の「津與」であった。
小笠原長衡は、ガラシャ夫人に殉死した小笠原少斎を初代とする「備前家」の6代目である。代々夫人は細川家及びそのご連枝の家から嫁いできておられる。「津與」は細川宗孝・重賢の異腹の妹に当たる。
なんでまた、実兄夫人の召使女に懸想したのか、御津與さま付の医者に頼んで文を届けたりしているので、この医者は150石取から80石取に減知となった。
左兵衛本人は知行(4000石)を召し上げられ蟄居となった。尤も嫡男・典儀(7代)に対して、先祖の訳を以て2,000石を拝領した。
田中家は柳川藩主・田中吉政の弟・氏次を初代とする名家で、2代氏久は天草島原の乱の「実質一番乗り」の働きで有名である。
そんな田中家の名を傷つけた。実兄・小笠原長衡は10日間の差扣である。
そして親族一類が3日から5日の差扣となっている。親族関係をひも解こうと頑張ったがなかなか難儀である。

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■清正の宇土城攻め‐3

2022-07-16 06:23:00 | 史料

          先に「清正の宇土城攻め‐3」を書いていますが、順番を間違えてしまいました。先のものは3-2と変更させていただきます。

「清正勲績考」(巻第二十六)から「清正君捕密使於宇土城外」

清正君ハ其頃宇土城ヲ圍デ稠ク竹束ヲ附テ攻寄給フ所ニ、一夜深更ニ及ビ城内ヨリ一人忍ビ出テ竹束ノ邊ニ來ル者アリ、當番ノ足輕
之ヲ怪ミ組伏テ之ヲ見レバ年四十餘ノ雑人ニシテ勿論無刀ナリ、乃チ搦メ捕テ何者ゾト問ニ、宇土ノ町ノ商人ナルガ不圖城内ニ在シ
ガ忍へカネテ逃來ルトノミ云テ何事ヲ問テモ曽テ知ズト答フ故ニ、本陣ニ引來ルヲ清正君見給ヒ、此ノ者若杖ヲ引テハ來サル乎ト問
給フヲ以テ、之ヲ捕へタル足輕存シ當リ組伏タル時何ヤラン投捨タル様ニ覚タルトテ其所ニ行テ火ヲ點ジテ見レバ、果シテ貴命ノ如
ク竹ノ杖アリシトテ之ヲ取來ル、其ノ杖ヲ破テ見給ヘハ杖ノ中ニ一封ノ書アリ、之ヲ披キ見レハ八代ノ城代小西若狭へ宇土城代小西
隼人方ヨリ遣スノ書ニテ、熊本勢此ノ城ヲ攻圍タルノ間早々日限ヲ極メ其城ヨリ後詰セラレヨ、其ノ時ニ城内ヨリモ突テ出テ前後ヨ
リ挟サンデ寄手を追討ツヘキトノ紙面ナリ、サレバコソトテ清正君斜ナラズ喜ビ其書状ヲ元ノ如ク封ジ、地下人ニ金銀ヲ與へ城中ヨ
リノ飛脚ニ仕タテ八代城へ遣サル、小西若狭之ヲ披閲スルニ宇土城代小西隼人右筆某ガ相調フル手跡ニシテ隼人ガ判形其紛ナカリシ
カバ疑ヒナク之ヲ承知シ、來ル廿八日後詰スヘキ旨ヲ返書ス、彼飛脚之ヲ持参シケレバ弥ヨ之ヲ賞シテ物ヲ賜ヒ、八代ヨリ後詰ノ押
へ勢トシテ森本儀大夫一久・相田六右衛門・奥村數馬與力ノ士十五騎、鉄炮八十挺ヲ差向ラル、宇土ヨリ南三里ニシテ小川駅ニ至リ
宮原町ノ方ヘト赴ク所ニ吉本山ノ南ナル土橋ニ到ル、八代城ヨリ相圖ヲ違ジト九月廿八日ノ未明ヨリ各出軍ス、薩州ヨリノ加勢本郷
能登歩卒三百人ヲ率シ來リ加ル、都合千バカリニテ小川ニ到ラントスルニ、思ノ外ニ熊本人數道上ノ山ニ備テ待カケ散々鉄炮ヲ発シ
ケレバ、八代勢不意ヲ撃レ大ニ驚キ仰天シ鉄炮ヲモ取直サズ乱レ騒グ、相田権六ガ放ッ鉄炮、本郷能登ガ乗タル馬ノ大腹ニ中リ屏風
  タオレ      サカサマ
倒ニ薨ケル故、能登ハ倒ニ落ケルヲ相田権六透サズ走リ寄テ二刀ニシテ之ヲ斬留ルト云トモ敵ノ士卒ハ乱レ散テ之ヲ助ル者モナク、
我先ニト狼狽シ押合ヒ踏合ヒ八代ノ方へ引退ク、後世之ヲ乱橋ノ合戦ト称ス、

  續撰ニ曰、相田権六郎ハ小川の一戦にをそく來り手にあハざるを無念に存じ、八代勢の引退くをしたひて行けるに、武者一騎
   しんがり
  後殿して退行に追つき、きたなくも後を見せ給ふ物哉引返し勝負あれと詞をかけられ、敵取てかへし権六と太刀二ッ三ッして
  押ならべ、馬上にて引組て落けるが権六力やすくれけん、とつて抑へ首を取たる故、比類なき働いたしたるとの御感状を給ひ
  ぬ、右の小川合戦の様子相田権六働ハ本書に記たると大きに相違仕候か、其合戦にあひたる者の物語聞置しハ此如候へ者、何
  レをか是とせんと云々、

八代勢ハ鉄炮少々捨行ニシテ這々逃帰ルニ、熊本勢佐久間角助  ヲ始メ各粉骨シ之ヲ追討テ首數三十九級ヲ獲タリ、時ニ熊本勢
ノ中ニ北川監物ト云者年ナルガ敵味方入乱レ一戦シテ兩方へ引分レケル時、味方ノ挟物ハ何レモ白練ノ切裂一本栗毛ナル故ニ之ヲ
目當ニ二町バカリ行テ見レハ、右ノ挟物シタル武者二・三騎アツテ思ヒ/\ノ挟物ナル故怪シク思ヒヨク/\見レハ皆敵ナリ、偖
ハ見損シ敵ノ中へ紛レ入リケルヨ取包マレ討レンハ犬死ニシテ朽惜カルヘシ、爰ハ心ヲ静メ敵ヲ欺左右ノ者共ニ向テ敵モ引取ルト
見ヘタリ、倡取テ返シ一人ナリトモ討捕ヘシ、各モ返シ給ヘト云テ馬ヲ引返シ一策加へテ馳還ルヲ見送リ、偖ハ敵ニテ在リケルカ
欺カレタル遺恨サヨ、追カケテ討捕ント各馬ヲ返シケル中ニ北川監物ハ虎口ノ難ヲ遁レケル、今度ノ一戦ハ清正君智明ノ徳ヲ以テ
反間ノ謀ヲナシ給フ故ニ森本等ノ勇士各高名セリ、謀ヲ帷幄ノ中ニ廻シ勝コトヲ千里ノ外ニ決スト云ル張子房ガ武徳ニ劣ルマシキ
ト世ニ称美ス、然ル所ニ関東ヨリ飛脚到着シ、去ル十五日関東ニ於テ一戦ヲ遂ラレ、石田方敗軍ニ依テ毛利中納言輝元卿モ降参ア
ルノ由告アリ、(以下略)

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■雨の中の散歩

2022-07-15 10:38:23 | 徒然

               戻り梅雨 ぬれそぼりたる靴を干し  津々

 折り畳み傘を携帯してはいたが、歩き始めたころは雨は降っていなかったが、途中で小雨に替った。
今朝の散歩4.2㌔を歩くのに小一時間かかってしまった。
気温は高くはないが湿度が高く、途中で汗びっしょり、後半は疲れて足がもつれ、喘ぎあえぎの帰宅と相成った。
自分で止めときゃいいのに思うのだが、健康の為にといささかの強迫観念もあってのことだ。
散歩を止めると、足腰のたたない爺になるのが恐い。スタスタとは歩けないまでも、足が動くうちは続けようと思っている。
我ながら「健気だ」と自賛している。シャワーをしてすっきりして外を見ると、今はすっかり上がって空も少し明るくなった感じ・・

           

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