奥州會津の城主、長尾喜平治景勝は 時に上杉會津中納言 太閤御他界以後、繼目の御禮延引せり。因茲家康公より
上洛可有由度々使札に及よいへ共、更に承引なかりけり。左あらば景勝退治とて、大軍を催し給ひ、家康
公六月十六日大阪を御進發の時、細川越中守忠興も家康公の御供なり。爰に石田治部少輔三成は、内々家
康公と不和なるが、常に隠謀有けるにや、時節來と悦て、家康と一戦を遂、勝負を可決とぞ勇ける。此
石田三成は江州彦根に於て、僅に十八萬石の所帯なれば家康公に對敵すべき人にはあらねども秀吉公の御
時より五奉行の第一にて諸大名の心入、天下の風味を呑とかや、一味の歴々多かりけり。先七月十九日に
家康公の御留主居佐野肥後守を追ひ拂、其外此度關東下向の諸大名大阪に殘し置妻子達を悉本丸へ取込け
る。爰に越中守忠興の内室をも、城中へ可入とて催促數度に及びけれども曾て承引なかりければ、城より
人數を二千ばかりつかはして、細川の屋敷を取巻ける。内室是を見給ひて只一筋にと思ひ切、十歳の男子
と八歳の女子有しを手づからこれを刺殺、其刀にて自害せり。女性の身のしわざにはたけしとも奇特とも
例しすくなき次第也。忠興留守に殘されし三人の家來は小笠原正齋、河北石見、稲留伊賀といふ者なり、
正齋石見はからひて屋敷に火をかけ兩人も腹切て焔の中へ飛び入ぬ。稲留伊賀はゆへありて大阪いまだ無
事の時より越中に有けるが、主人の妻子自害有て屋敷も灰燼となりければ稲留聞てあきれはてとてもいひ
わけ立かたしと行方しれずに成にける。
ガラシャ夫人が二人の子供を手にかけたという話はここにも出てきている。いい加減な話に満ちた史料である。