國中侍進退之事 附 細川丹後國主成事‐2
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 伽佐郡には頭立たる城侍八人 姓名追而可尋也 有けるが、
藤孝家臣石寺治右衛門を先田部尾安の何がしが許へつかはして、宮津より西北四郡治めぬる條、加佐郡の
各はや/\宮津へ出て禮會す有哉と申つかはしたりければ、尾安の徳内左衛門、石寺に對面仕、内々是よ
り可能出由、近邊の者共と申合といへ共、數人の相談彼是と遅々仕候。近日宮津へ参御禮可申上旨申され
ば、左あらば其程逗留して、各と同道仕歸へきよし申ける。依之徳内左衛門催促して、殘る七人の地頭と
も尾安が館に集りて、石寺に對面仕り、田部より舟に乗宮津をさして漕行ける。宮津には藤孝、松井佐渡
に仰けるは加佐郡の者どもが遅参せし條、汝早く田部参石寺に逢て、両人催促可致と有ければ松井佐渡畏
て、人數少々船にのせ田部をさして急けるが、加佐郡の各を石寺同船して來けるに金崎にて行あひたり。
松井は石寺が鑓印を見付いかに石寺殿歸り給ふか、各の遅きゆへ、又某被仰付候といひければ、石寺申け
るは無子細いづれも御同船申ぞとて、両方互に航して人々松井に一禮有。松井又各へ挨拶畢て後に松井申
けるは、石寺殿はこなたの舟へ乗給へといひければ、石寺各へ目禮して松井が舟へ乗移むとせし所を、田
部衆おもひけるは、扨はわれ/\を鐵炮にて打ものよと心得て、尾安の徳内左衛門飛懸て、石寺治右衛門
を一太刀に討はなし、海中へ突はめて、急田部に漕歸る。石寺が家來あるひは討れ或は海へ投込、一人も
不殘殺されたり。松井佐渡大に怒て討死せんとひしめけども、田部衆は大勢也、舟は次第に漕離いかんと
もすべき様なかりければ、是非なく宮津へ歸りつゝ藤孝へ此よし申ければ、さらば田部へ可向と、藤孝直
に出馬有て田部着人せられしが、彼八人の地頭とも各妻子を引つれて、思々に立退、城々を捨ければ何の
手間取事もなく加佐郡治りける、天正十年壬午の十月に丹後五郡悉細川殿の手に入て、すなはち國主と成
給ふ天是を與か、いかめしかりし次第なり。
(この項了)
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細川家家臣に青龍寺以来の石寺家がある。この記事に登場する石寺治右衛門との関係ははきとしないが一族であろう。
■ 石寺九郎 【青龍寺以来】(南東2-6) 四百石
1、五郎右衛門 山城国相楽郡石寺村・藤孝公青龍寺城在城の折召出、天正十一年(正月二十五日)伊勢亀山城攻之節相勤討死
2、甚助 【田辺城籠城】
田辺城籠城前、甚介を以、三刀谷監物其外御家中之面々、御城中ニ被召寄、大阪表和平ニ相成候、御祝儀有之候処、
大阪より秀林院様御生害之御到来有之、田辺御城及騒動申候と