津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「丹後三家物語」7・國中侍進退之事 附 細川丹後國主成事‐2

2021-08-20 17:16:39 | 史料

國中侍進退之事 附 細川丹後國主成事‐2

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 伽佐郡には頭立たる城侍八人 姓名追而可尋也 有けるが、
藤孝家臣石寺治右衛門を先田部尾安の何がしが許へつかはして、宮津より西北四郡治めぬる條、加佐郡の
各はや/\宮津へ出て禮會す有哉と申つかはしたりければ、尾安の徳内左衛門、石寺に對面仕、内々是よ
り可能出由、近邊の者共と申合といへ共、數人の相談彼是と遅々仕候。近日宮津へ参御禮可申上旨申され
ば、左あらば其程逗留して、各と同道仕歸へきよし申ける。依之徳内左衛門催促して、殘る七人の地頭と
も尾安が館に集りて、石寺に對面仕り、田部より舟に乗宮津をさして漕行ける。宮津には藤孝、松井佐渡
に仰けるは加佐郡の者どもが遅参せし條、汝早く田部参石寺に逢て、両人催促可致と有ければ松井佐渡畏
て、人數少々船にのせ田部をさして急けるが、加佐郡の各を石寺同船して來けるに金崎にて行あひたり。
松井は石寺が鑓印を見付いかに石寺殿歸り給ふか、各の遅きゆへ、又某被仰付候といひければ、石寺申け
るは無子細いづれも御同船申ぞとて、両方互に航して人々松井に一禮有。松井又各へ挨拶畢て後に松井申
けるは、石寺殿はこなたの舟へ乗給へといひければ、石寺各へ目禮して松井が舟へ乗移むとせし所を、田
部衆おもひけるは、扨はわれ/\を鐵炮にて打ものよと心得て、尾安の徳内左衛門飛懸て、石寺治右衛門
を一太刀に討はなし、海中へ突はめて、急田部に漕歸る。石寺が家來あるひは討れ或は海へ投込、一人も
不殘殺されたり。松井佐渡大に怒て討死せんとひしめけども、田部衆は大勢也、舟は次第に漕離いかんと
もすべき様なかりければ、是非なく宮津へ歸りつゝ藤孝へ此よし申ければ、さらば田部へ可向と、藤孝直
に出馬有て田部着人せられしが、彼八人の地頭とも各妻子を引つれて、思々に立退、城々を捨ければ何の
手間取事もなく加佐郡治りける、天正十年壬午の十月に丹後五郡悉細川殿の手に入て、すなはち國主と成
給ふ天是を與か、いかめしかりし次第なり。

               (この項了)

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細川家家臣に青龍寺以来の石寺家がある。この記事に登場する石寺治右衛門との関係ははきとしないが一族であろう。

  ■ 石寺九郎 【青龍寺以来】(南東2-6)      四百石
    1、五郎右衛門    山城国相楽郡石寺村・藤孝公青龍寺城在城の折召出、天正十一年(正月二十五日)伊勢亀山城攻之節相勤討死
    2、甚助 【田辺城籠城】   
             田辺城籠城前、甚介を以、三刀谷監物其外御家中之面々、御城中ニ被召寄、大阪表和平ニ相成候、御祝儀有之候処、
             大阪より秀林院様御生害之御到来有之、田辺御城及騒動申候と 

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■坐班式(万延元年)4

2021-08-20 09:36:51 | 史料

 坐班式(万延元年)4     肥後讀史總覧・上巻より引用

    【御物頭同列】つづき
      御勘定所御知行取根役 
御役料米15俵、御勘定方御奉行触、12人、但独礼打込にして
      御裏方御知行取 御裏方御用人之支配、進席之時は御用人支配之御物頭列に入
      御奉行触御知行取 
      御留守居御番方
      御鷹方御知行取組脇 御用人之支配、御役料米10俵、御鷹方御知行取此所に入
      御知行取御馬方 御役料米10俵 御馬医も先役座上御役料米同様
      八代御城附 50人
      佐敷御番  25人
      御連枝様御附御知行取
      御中小姓組脇 御役料銀五枚
      御中小姓御小姓役
      若殿様御附御中小姓之御近習
      御中小姓御近習御目附 御役料銀五枚
      若殿様御附御中小姓御目附
      御次御中小姓御儒者
      御中小姓医業吟味役
      御次御中小姓御医師 銀五枚
      外様御中小姓御医師
      御次外様御中小姓跡御目   
      御中小姓御音信役 銀六枚
      御中小姓御案内役
      御中小姓御駕役 銀三枚、 御知行被下候得者御役料米10俵、両人共に人数拾人、御小姓頭組
      御次御中小姓
      若殿様御中小姓御次番 
      御中小姓御茶道 銀五枚、 御穿鑿役此所に入
      組附御中小姓 同列寸志之面々迄
      御中小姓御祐筆 銀三枚
      御奉行所御中小姓根取 銀七枚
      小物成方御中小姓根取 2人、銀七枚、御郡方御奉行触
      御次物書所御中小姓根取 銀三枚
      御中小姓吟味役 銀七枚、御奉行所触
      御中小姓御郡吟味役 銀七枚、御郡方御奉行触
      御小姓頭附御小姓根取 銀三枚
      御郡間御中小姓根取 銀七枚
      御勘定所御中小姓根取 銀七枚
      御裏方御中小姓御奉行触御中小姓、 学校士席御役人なと此内
      江戸御留守居支配御中小姓
      御中小姓御鷹方組脇 銀三枚、 御中小姓之御鷹方茂此所に入
      御中小姓御馬方 銀三枚、御馬医も先役座上
      御連枝様附御中小姓
      御留守居御中小姓席 寸志迄也、御郡代支配
      御知行取当前之御扶持方被下置候十四歳以下之者
      阿蘇組 財津大助触下
      御物頭之嫡子并着座之嫡孫
      組外并同列・着座之二男末子弟
      御知行取之嫡子并御物頭之嫡孫并同列之嫡孫
      御知行取同列之二男末子弟
      御中小姓之嫡子并御知行取之嫡孫二男末子弟
      阿蘇組之嫡子
      御船頭之組脇 御役料米20俵、 御中小姓は銀五枚、 御船頭頭之組、
             但組脇は御中小姓にても御知行取之御船頭之口に被附置候事
      御知行取之御船頭
      御留守居御知行取 同格は此所に入
      御医師之子
      御茶道之子
      御中小姓之船頭
      御留守居御中小姓同列
      御知行取御嫡子之嫡子
      御留守居御知行取之嫡子

           ・・以上、士席は是迄・・      

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■「あほふはらひ」という事

2021-08-20 06:33:42 | 歴史

 吉田多助という人物がいた。侍帳には「御次」とあるから君側にあった人なのだろう。
「肥後経済録」には次のようにある。
   吉田多助番頭ニて御座候、勝手向宜者ニて質を取、或ハ金かし等仕り、或は家中不勝手の者ニ仕送り等仕候て、
   武士の風義無之、専ら町人の所作仕候ニ付暇給り候処、猶上を不憚仕方とも御座候間、あほふはらひニ被仰付候

この「あほふはらひ」とは初めて聞く言葉だが、「阿呆払い」とでも書くのだろうか?
別項に「侍ニて娼家ニ立寄候者ハ皆あほふ払ニ被申付候、左様の者共親迄も役儀被差除申候、此類の者四五人も御座候」とある。
はたして吉田多助なる人物が娼家通いをしていたかどうかは判らないが、「あほう払」という処分は誠に不名誉なものであったことは間違いない。


 一方同時代(宝暦の頃)、江戸に於いて小崎某なる小姓組の者は、遊里で遊びが過ぎ金がないので足止めにされた。
自らも遊びに溺れこんで帰ろうという意思が消え失せ、関係者が出向き説得するが「朝露の登りつめたるこころかな」という俳句を送って巌として帰ろうとしない。
殿様(重賢公)の御耳にも当然入り、御手許金を融通されてようやく帰ったと「聞くままの記」に記されている。
この小崎某なる人物は、「あほう払」にはなってはいないが、小姓組をはずされ帰国の上隠居したらしい。
大矢野門兵衛の話として記録されている。

 

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