津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■数日遅れのニュース・熊本城「薬研堀」の事

2021-08-18 21:41:17 | 熊本

 数日前(14日?)のTVで、熊本城内の薬研堀に大量の水が溜まって水堀状態になったことを報じていた。
なんでも配水管が熊本地震で壊れたのではないかという風な話だったように思う。
ここには確か、地震で解体された石垣の石が並べおかれていたように思う。それもすっかり隠れていて相当な深さになっている。
ご厚誼いただいているブログ「徒然なか話」の管理人S様はフットワークの良い方で、さっそく現場に出向かれて写真を紹介されていた。
熊本城には空堀がいくつかあるが、薬研堀以外は水は溜まっていないようだ。
私はふと、なぜここだけ名前がついているのだろうかと不思議に思った。
ひょっとすると、唯一の水堀「備前堀」同様、「薬研堀」も古の昔は水堀ではなかったのか?
明日にでも、富田紘一先生の著書などを眺めてみようと思っている。
今度の土曜日の史談会の日まで、水堀のままだろうか眺めてみたいものだ・・・

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■「丹後三家物語」6・國中侍進退之事 附 細川丹後國主成事‐1

2021-08-18 11:53:28 | 先祖附

  國中侍進退之事 附 細川丹後國主成事‐1

 天正十年の秋、一色五郎討れて後は宮津近邊の城侍ども細川殿へ随ひけり。大久保の城主一色左近大
夫、粟田の城主河島備前、府中の城主延長修理進、須津村の大内宮内右衛門、龜山の城主石川浄雲齋常吉
幾地の地頭、此等の者を先として拾人に及一事に宮津へ降参す。是より彌細川に威勢くはゝり、國中の城
々を攻落す。在々の地侍細川衆を引うけて戰死者も有、或ひは館を相渡、即時に随ふものもあり、中郡、
熊野郡の地頭ども他國へたち退者多し、中にも成願寺の星野因幡、江波和泉、黒部の城主松田遠江は細川
を引うけて各うちまけ亡びたり。間人村の荒川武蔵島村の二ヶ城、石川尾張羽太越前は城を渡して降参
す。下岡の高屋好淸、徳光村の後藤悪介、いづれも但馬へ立退ぬ。爰に與佐郡日置より北方竝に竹野郡の
地侍は、本庄、菅野、蒲入、宇川邊の領主山の内將監通論を大將として將監が在所本庄菅野の両城に楯籠、
本庄には龜島の城主島田藤兵衛、野室の太田右京、土井小十郎、平村の城主小倉備前籠ける。菅野の城には
竹野郡の内吉永の矢野兵衛佐、後藤金藏、岩木の城主井上卒度右衛門、岡ヶ城の小瀬因幡籠ける。寄
手の大
將は細川與市郎忠興、同舎弟頓五郎、其勢千餘りにて先本庄の城取まきて、一日一夜せめけるが、城中事
の外強見えければ、寄手先攻支度せよやとて
在家を毀ち、竹木等を拂ひよせけり。斯處に忠興申されける
やうは此城主山の内將監は元來公方家の臣下にて本國は丹波也。公方の都にまします時、此將監同親父山
内伊勢守とは常々御所にて参會し公私に付て父子ともに互■したしき舊友たり。先年京都の逆亂に皆ちり
/\に成し後、此人何國に有とも不知也。何とて此所には住れけるぞ。いにしへを思へばあながち攻可亡
に非とて既に和談に成にける。籠城の地侍其在々安堵の事子細有べからざるの旨事究る故に將監は本庄、
菅野の両城を細川にぞ渡しける。然れば忠興城主將監に對面せんとある所に將監俄に胸痛して天正十年
十月二日に頓死せり。法名雄譽院前親衛校尉雪岫了卓居士と號す。將監か一子三郎兵衛通忠いまだ若年た
り、細川父子懇志不淺して終に忠興へ奉公す。彼山内は代々公方家の臣たりしが萬松蔭義晴公の御治代よ
り、公方家以の外御衰微にて剰永禄八年五月十九日、光源院義輝公、三好松永等が為に御生害の砌より、
公方家の諸臣流浪しける時、山内伊勢守、同子息將監丹波國船井郡橋爪といふ我舊領に隠れ居て世間の體
をぞ窺ける。爰に丹波國の住人本庄菅野の城主、水戸部丹太郎安親といふ者あり、山内伊勢守通意と故あ
りて常に音問したりける。其比丹太郎が一子島太郎安治伽佐郡へ舟軍して、成生浦にて討死せり。然ば丹
太郎一子を討れて味方弱き事を嘆き、潜に丹波へ馳参り、山内に厚談して、將監を丹太郎が聟に仕、當國
へ同道して、本庄菅野両城のぬしに致せしなり。夫より將監此の國に心をかけ、せん/\に伐取て、天正
十年秋の比は、與佐半郡竹野郡手に入、既に丹波郡を脅所に、細川父子當國に來り、落年本庄表も平均に
なりしかば與謝、中郡、竹野、熊野の四郡忠興に從ひけり。 (つづく)

 

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