津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■和敬塾・和楽荘という建物

2021-08-17 16:03:34 | 自分史

 東京都文京区の目白通りから幽霊坂を下ると、現在の「肥後細川庭園」前にでる。
かってはこの坂の下り詰めには細川家の広大な敷地が広がっていた。私が所有する「細川侯爵家」の配置図がそれを証明している。
下り詰めのこの嫌な名前の坂道が、「肥後細川庭園=旧細川家・松聲閣」前まで突き抜けたのはいつの頃なのか、調べているがよくわからない。
この道を挟んだ反対側の広大な土地は、現在の文京区目白台1丁目‐3、‐4といった場所に当たる。
ここにかっては細川家関係の数軒の住宅が立ち並んでいたようだ。
私は祖父が侯爵家の家政所に勤めていた関係でこの地で生まれた。
生まれたのだが場所の確定はできずにいたが、この配置図を取得してからはこの住宅群のどれかに住んでいたのだろうと考えるようになった。
母が元気なうちに聞いておけば良かったとつくづく思うのだが、後の祭りである。
母が「胸突き坂を苦労して早稲田方面に下った」とよく言っていた話が、この住宅群では話が成り立たないと気づいた。
それに私の出生地は、恐れ多くも細川侯爵家の住居地として登録されている地番と一緒である。11筆ある広大な御屋敷のメイン地番である。
このことも不思議に思ってきたが、本籍地であればいざ知らずだが、父はかってに私の出生地を細川様のお住いの地番にしたものだと考えていた。

 改めて細川侯爵家(現・和敬塾)の配置図を見ると、東門の脇に二軒の住まいと車庫が存在することに気づいた。
ひょっとしたら、このうちの一軒ではないのか?そうすると母の話も出生地の地番も合点がいくことになる。
姉は関口台小学校に通っていたが、この東門を通ればすぐ近くである。
この東門は、現在の和敬塾の東門である。
         

上部が目白通り、右手が胸突き坂に至る通り 書き込まれていないが敷地左手に幽霊坂がある。中央の建物が侯爵邸(現・和敬塾本館)
右下の家政所が図面右下迄引き家されて現「永青文庫」 方位が示された左手に東門があり住宅二軒と真ん中に車庫が見える。

 何気に和敬塾の資料を眺めていたら、「和楽荘」というとんでもなく古い建物が存在していることを知った。
「門衛所」であったという。二件の住宅の一軒ではなかろうかとふと思った。
     和敬塾HPより 和楽荘(細川家門衛所)
奥の一軒が私の生まれた家なのかも知れないと思うと、胸にこみ上げるものを感じた。

                      こちらの写真は門衛所の写真とは少々異なっている。

 こんな感じの場所・住まいで、私は生まれたのだと思うことにしようと思っている。

 

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■「丹後三家物語」5・一色五郎内室嘆きの事

2021-08-17 06:46:57 | 史料

 ■「丹後三家物語」5・一色五郎内室嘆きの事

一色殿の御内室宮津へかへり給ひし後、五郎殿のうたれ給ふはじめ終りを聞給ひ、最後の時を思像深く
なげかせ給ひけり。過にし八日の卯の刻にわらはにむかひて宣ひしは、今日は細川殿より對面せん、我等
が家と細川殿たがひの先祖はしたしくて代々公方様につかへつゝ、爰かしこの戰ひに、互に頼みたのまれ
てちからを合と相見えて古きふみども有ければ、子孫の末とはなりぬれど、むかしをおもへばなつかしき
に、かく親子の縁と成たりし宿縁の淺からぬふしぎさよと宣ひて誠にいつよりむつまじく、馬鞍きれいに
よそほはせ、弓木を出給ふ。去年の夏の五月のころ一色殿に参りし後、かくにぎ/\しき供人にて、いづ
地へも出され給ふ事あらざればわらはも一しほ嬉しくて、城の窓より見をくれば、須津のはまみち過給ひ
山路にかゝり給ひしが、いまだ朝霧吹はらはでいとゞ幽に詠るに、おひしげりたる松蔭に見失ひまいらせ
て、供人も見えざれば、心の内にあぢきなくそゞろに泪のこぼれしを、しのびて人には見せぬとも、いま
はしくもおもひければ、さかづきを出させて、女房たちをもなぐさみしに、思ひの外の事ありてうせさせ
給ふ悲しさよ、かやうのくはだて有しとは、みづから夢にもしらねども、御最後の其の時にさぞ/\恨給
ふべしと明くれ歎かせ給ひけり。

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