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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■お安く読む・講談社現代新書「戦国大名の経済学 」

2020-07-21 10:16:48 | 書籍・読書

 世の中、何をするにも銭がいる。細川家の金欠病はつとに有名だが、長く続いた戦国時代が平定されたあとも、天草島原の乱や、正保年間の長崎への阿蘭陀船来航に対する出兵など、短期間の間の物入りがあった。当然のことながら、藩経営の難題事であった。
数万の軍勢を動かすのにどれだけのお金が必要だったかというのは、大いなる疑問であったが、この著はこれに応えてくれるらしい。

                        戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)

兵士の装備一式70万円、鉄炮一挺50万~60万円、兵糧米代1000万、捕虜の身代金20万~70万円…「お金」から読み解く戦国時代。 

著者について

川戸 貴史
川戸貴史(かわと たかし)
一九七四年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(経済学)。現在、千葉経済大学経済学部准教授。専門は、貨幣経済史。
著書に『戦国期の貨幣と経済』(吉川弘文館)、『中近世日本の貨幣流通秩序』(勉誠出版)がある。
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■再考「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」

2020-07-21 09:17:15 | 徒然

   78歳になった爺でも松任谷由美なる歌手などは大好きで、時折口ずさんだりしている。
2012-11-08 「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」という一文を書いたら goo blog(gooブログ)  さんからお叱りを蒙った。
「アフィリエイト、商用利用、公序良俗等の規約違反により、又は、法令上規定された手続により現在、1件の記事を公開停止させていただいております。」とある。
7年3ヶ月余経過しているが、いまだにその原因が判らない。アフリエイトも商用利用もしていないから、公序良俗に違反しているというのだろうか。
その際、荒井由美の「海を見ていた午後」の一番の歌詞を全文ご紹介したが、これが著作権等に抵触したとでもいうのだろうか。
著作権違反=公序良俗違反という訳だろうか。
具体的な理由の説明がないから面倒くさくて該当記事は削除してしまったのだが、毎日ブログを書こうと「編集トップ」を開くと必ずこの一文が表示される。

 最近ふと、歌詞の掲載が問題の原因ではないのではないかと思いだした。
私は伊丹三樹彦の「句」と、荒井由実の一番の歌詞のあるフレーズにある風景がよく似ていることに気づいてそれを指摘したのだ。

                                                                 

例えば俳句の世界などでは、名人ともいえる俳人の間でも類似の句があることは周知のことである。(鷹羽狩行著、俳句の秘宝 p69~類相と類句)
鷹羽は「似た句ができるのは短詩型の宿命である」と記している。上の二つの詩(句)は類型詩でもなく、風景が類似しているだけである。

 私は三樹彦にしろ荒井由実にしろ、素晴らしい才能の持ち主だと思っているし、このような類型の詩(?)が生まれても一向におかしくないと考えている。
どちらの作品が先にできたのかなど、そんな詮索もしたことはない。
しかし、もし私がかいたあの記事が、曲解されているのだとしたら、大いに不本意ではある。

今回のこの一文が削除の原因だとしたら、再度きついお叱りがある事だろう。
ちなみに、2012-11-08 「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」の記事とはこれである。(歌詞は削除している)

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            「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」                      2012-11-08

 最近、伊丹三樹彦の句集「神戸・長崎・欧羅巴」を手に入れて読んでいる。
句調は現代句とでもいうのだろうか、私にはちょっとついていけないものがあるが、この句集の題が示すようになかなかお洒落である。
そんな中に次のような句を見つけた。
           シェーカー振る 角瓶越しにタンカー浮き   (神戸編・煉瓦煙突から)

 これを読んだとたん、荒井由美の「海を見ていた午後」を思い出した。
一番の歌詞の5行目の「ソーダ水の中を 貨物船がとおる」とある。
           (歌詞の全文ご紹介は「知的財産権(著作権・商標権等)、名誉、プライバシー等の権利侵害」に該当し、出来ないらしい)

 松任谷(荒井)由美がこの舞台となったレストラン「ドルフィン」を訪ね、作詞に至った状況をTVで話しているのを見たことがあるが、まさにカウンター(テーブル?)の上に置かれたソーダー水に、後ろの窓越しに遠く貨物船が通っていくのが映り込んだのだ。すごい観察力とすぐに詩にまとめる素晴らしい能力に恐れ入って観たことをおぼえている。 

 神戸と横浜、バーとレストラン、夜と昼などの違いはあるが、二人の感性は見事にその風景を切り取り表現している。
まさに天才のなせる業であろう。(70爺にもお二人を天才と思うだけの感性は持ち合わせている) 

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■文久三年「恕斎日録」(18)

2020-07-21 06:15:26 | 恕斎日録

125
  十七日
  十八日
  十九日
  廿日
  廿一日 今日同姓隠居次郎助より 同姓親ミ咄として 此
      方家内共案内いたし候ニ付 いつれも相揃参る
      事 饗応ハ 以来共互ニ取可申候ニ付 成る丈質         =扌偏ニメ・
      素ニいたし候申談ニ而左之通
       此次ニハ小子方へ可□□筈也
      献立 吸物 こち 大鉢 るひの魚 ふク ゆてさしミ
126
         丼
         大鉢 すし 小丼一ツ添 波美酒も出ス
  廿二日
  廿三日
  廿四日 南関鍛冶和田源太郎作ミネエルケヘール壱挺
      代六百五拾目あい求 今日同所会所役人武田権左
      衛門江代銭相渡候事
  廿五日
  廿六日
  廿七日 頃日以来数十日之旱魃ニ而 祇園宮ニおゐて
127
      御祈祷被 仰付 今日満日ニ付 同役中同道参拝
      之事
  廿八日
  廿九日 此方御飛脚 去ル廿三日長州通行之節承候に者          下関戦争 - Wikipedia
      当廿一日 長州田浦前■船一艘通行いたし候處          =己の下に大「」異体字
      長州臺場より ■船ニ迎四五十発大砲打 其内二
      発■船ニ中り候様ニ相見 ■船ハ発炮ニも不
      及ニ公海之様ニ引取候由 何様返報いたし候模
      様ニ而 来ル廿六日頃押懸可申哉之由なり
                  右ハ蘭船之由           
128
     一当月廿六日 ■船長州臺場江押懸 下関亀山八幡
      打崩 臺場石垣打崩打崩 長州■船造之船ニ一発当        亀山八幡宮・歴史由緒 
      り 千石船一艘打崩 其外下関土蔵等数ヶ所打崩、
      廿五発之内十発中り候由 長州ヘハ死人無之由
      申候得共 内実ハ餘斗ニ有之候を 隠し居候欤も
      難斗との段 小倉村上新蔵より申越候事
      右 今度長州より■船を打拂候次第ハ 此以前 下
      関辺社内等之浮浪人三十人斗り集り居候間 城
      下へ相伺候處 邪广ニ不相成候ハヽ其尽ニ閣候
      様との御差図ニ候處 漸々相増八十人余ニ及 所
129
      柄之悪党共を手成敗いたし候間 所柄も欽居候
      由之處 右■船発炮騒動之節 城下本より人数八
      百斗り 甲冑之士を被差出候處 右之面々 いつれ
      も互ニ見知り居候由 左候ヘハ 右騒動も右浮浪
      共より引起 内輪ハ城下よりも情実を存候事欤
      と相見候由なり 長州申分ハ 異船打払ハ たとへ
      公辺へ伺候而も埒明不申候ニ付 禁庭より
      御直命を受候而いたし候事との風説なり
     一去ル廿日 今日と姉小路様 御出仕御帰り之節 何者        姉小路公知
      とも不知待受殺害いたし候處、直ニ御存命           朔平門外の変
130
      之ふりニ而御帰り御逝去之由なり
      右御方者 公武御合躰を唱 内分者天下之
      動乱を加斗し候間天誅を加候と 所々江張紙い
      たし候由 三條様へ茂 今度御辞職不被成候ハヽ
      不待時日 同様代天行罰と張紙いたし候ニ付 三
      條様直ニ御辞職被成候由 三條様へ者右二付 此
      方之御人数十人斗り完警衛ニ相詰候由も申来
      右此方より大筒手十人 土州様より十人被差越
      不寝番夜廻り等いたし候由
        右張紙
131
              ■法崘三条中納言              ■=耳偏ニ専 「轉」が正  
      右之者 姉小路中納言ニ同腹ニ而 公武御一和
      を名として 実天下之争乱を好シ者ニ付 急速ニ
      辞職隠居不致候ニおいて者 不出旬日代天誅
      殺戮者也
              右所々ニ張候由也

 

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■『家康のワイン』

2020-07-20 18:05:27 | 論考

 過日、ご厚誼をいただいている、小倉在住で「 小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次氏から、以下のような大変興味深い一文をお送りいただいた。
氏は九州でお一人の名誉ソムリエだとお聞きしている。その故をもって「小倉藩葡萄酒研究会」を立ち上げられておられる。
忠利が作らせた葡萄酒のことなどを研究されての論考をたまわったのが、お付き合いの始まりである。
過去にその他いろいろな論考をお送りいただき、お許しをいただいて当方ブログでご紹介してきた。

今回も又お許しをいただいて皆様にご紹介申し上げる。
「家康のワイン」は、秀吉へ又信長へと遡るのかもしれない。

     
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         『家康のワイン』                                        小倉藩葡萄酒研究会・小川研次

 明の李時珍著『本草綱目』(一五七八年)は慶長十二年(一六〇七)に長崎にいた林羅山の手に渡り、徳川家康に献上された。
さて、そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼酎にしたものは大毒がある」という。
醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相である。
(子供の頃、舌を紫色にして舐めていたようなもの)

「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈である。それが真の葡萄酒だともいふ。」

完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄がある中国ならでは可能だったのである。
しかし、日本ではどうだろう。そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。 
一五四九年八月十五日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエルは日本人の「酒」に関して報告している。
「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。この地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」
(『聖フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)

 また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは一六二〇〜二二年に『日本教会史』を編集している。
「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、九州は下)における桃や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないからであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から染料や籠などを作っていたのだ。

一五九二年のイエズス会総会においてヴァリニャーノがポルトガル産の葡萄酒の不足からミサに支障をきたすので、日本の野生品種である山葡萄(葡萄蔓)で造った葡萄酒の使用の可否をローマに求めたのである。この回答は一五九八年にローマから届いている。保存性を高めるためにポルトガル産の葡萄酒を混ぜることも許可された。(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』二十)

宣教師らは、在来種の山葡萄による発酵も試みたが、アルコールの低さや雑菌による汚染などにより、味はおろか保存さえもできなかった。やがて、ポルトガルの葡萄酒を混入することにより、保存性を高めること知る。しかし、これはあくまでミサ用葡萄酒だったのである。

では、家康(一六一六年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本資料』第十二編之二十四)
慶長十年(一六〇五)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』雄松堂書店)
家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったのであった。
さらに慶長十八年(一六一三)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えられる。実は、その根拠に日本人も関係している。

フェリペ二世(一五二七〜九八年)のお抱え料理人フランシスコ・マルティネス・モンチのレシピ本として発刊された『Gastronomi ia Alicantina Conduchos de Navidad』(一九五九年出版)である。
一五八四年十二月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
「フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワインは至福の喜びを与えてくれる」そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。
「王子」は単数形で書かれているが、使節リーダーの伊東マンショと思われる。ちなみにマンショはマカオにて司祭叙階後に小倉で勤務している。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインペドロ・ヒメネスと同じであり、カルロス一世(一五〇〇~一五八八)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質であったことを意味する。

現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェドル(仏)マタロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるのだが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオである。

「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でもヘレスでは、白ブドウ「ペドロ・ヒメネス」を天日干している。超甘口シェリーは有名だ。

現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばとされる。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
また、マラガワインも現在では酒精強化ワインだが、天日干ししたペドロ・ヒメネスやモスカテル(マスカット)を使用している。
家康の遺品葡萄酒はこのペドロ・ヒメネスの可能性がある。三年間で三壺を消費して二壺を遺していたのではなかろうか。
幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(一六四四)まで待たなければならない。
『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」とあり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本のどこかで造られていたことになる。
ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』の「薬効」を意識していただろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであった。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に日本人は酒や焼酎を加えることにした。つまり、「ワイン」ではなく「混成酒」なのである。
「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性がある。

天正八年(一五八〇)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と言うなり」
「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」

これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎そして氷砂糖である。
当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方である。
『料理塩梅集』寛文八年(一六六八)
「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜる。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そこに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度程よくかき混ぜること。

もう一つの方法
山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これらを桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる。そして、空気に触れないように桶に詰める。
甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

『本朝食鑑』元禄十年(一六九七)
「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさらに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ=チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

『手造酒法』 文化十年(一八一六)
葡萄酒
焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒  、

山ぶどう酒
ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升

本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようである。
葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思われる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていた。
本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

さて、余談だが寛永五年(一六二八)、小倉藩藩主細川忠利の命によって造られた葡萄酒はどのようなものだっただろうか。「薬酒」となると上述のように「混成酒」となる。
肥後国転封(一六三二年)前の四年間の葡萄酒製造の記録しかないが、「薬酒」となれば、熊本でも製造したすることが出来たはずである。しかし、現時点では史料は見出せない。
当時、忠利は多くのキリシタン家臣を抱えており、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も潜伏させていた。(拙著『小倉藩葡萄酒事情』『秀林院の謎』)
私見だが、「小倉藩葡萄酒」は母ガラシャへの魂救済のためのミサに使用されていたと信じる。
それは熟した在来種のエビヅルで造られたのだが、一旦天日干しされ、足による圧搾が行われた。発酵後に長崎で調達したアルコール度数の高いスペイン・ポルトガル産の甘口ワインを混入し壺にて保存していたと推考する。
つまり、ヴァリニャーノらの造り方を踏襲していたのだ。
この葡萄酒は禁教令前の忠興時代から造られていたと思われ、小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスと伊東マンショが活躍していた時代である。
あのアリカンテのフォンディリョンを知った伊東が、葡萄酒の造り方を教えたことは想像に難くない。

「キリスト」の御血は「ワイン」でなければならなかったのである。

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■細川小倉藩(295)寛永五年・日帳(五月十ニ~十五日)

2020-07-20 13:10:33 | 細川小倉藩

                      (寛永五年五月)十二~十五日 

         |              
         |    十二日         
         |
         |  (後の阿部弥一右衛門)
郡中ヘノ貸金旱損 |一、山村弥一右衛門登城仕申候ハ、御郡ニ被成御酌候金子、日やけの在所ニ無甲乙割符可仕旨、被
之在所へ恒平ニ割 |  仰付候ニ仍而、日ニやけ不申在所ニかし申候ハ、銀子をかけわけ、かし申たるニ而無御座候、御
付く 旱ニ損ゼザ |  郡米をおい候て居申分を、彼成御貸候金子を以、上納仕候、其御郡米おい申候分を、加利足取立
ル在所ヘノ貸付  |  申候、其利分を日ニやけ申在所へかし、不足御座候ものニ、利を遣申候由、弥一右衛門申候事、
郡米之負債ノ加利 |
足ヲ旱損ノ在所へ |
遣ス       |   (有清)
彦山ヨリ五月ノ祈 |一、彦山座主ゟ、当月御祈祷ノ御札、以使僧被差上候事
祷札上ル     |
村田彦市預リノ鶴 |一、村田彦市被申候ハ、ぬし預りノ鶴をため池にてつかい申候處ニ、からすにすりたてられ候て、見
烏ニスリタテラレ |  うしない申候、小倉のわの内ニ居申候間、たつねさせくれ候へと被申候、御鷹師衆隙御座候へ
逸ル 探索ヲ乞ウ |  ハ、おあやうニハ不申候へ共、今程ハ御鷹師衆毎日高つかいニ罷出候ニ付、何共たつねかね申候
         |  間、如此ノ由被申候間、御側の御弓・御鉄炮之内六人被申付、たつねさせ候へと申遣候事、

         |              
         |    十三日         
         |
藍島之野牛三官ニ |一、一昨日、あいの嶋ゟ被成御取寄候野牛、今朝三官處へ被遣、御ころさせ被成候事、
殺サシム     |
白西堂      |一、白西堂、京爰元へ下着被申成候事
         |             〃
早松茸ヲ採ラシム |一、うさ郡さだ山ゟさ松茸可取上旨 御意ニ付、御小人ノ半右衛門ニ書状持せ遣候事、
         |     (浄勝院、吉田兼治室、三斎妹)(光賢)   (同室)      (辛螺)(栄螺)
三斎等へ辛螺栄螺 |一、三斎様・しやうせう院殿・烏丸様・御万様へ、今日にし・さゝい・松茸一籠つゝ、被進候事、
早松茸ヲ贈ル   |
さゞいぜ     |一、今日ハさゞいぜニ被成御座候事、

         |              
         |   (十四日 記事なし)         
         |

         |              
         |    十五日         
         |
演能       |一、今日御能御座候事、
         |  (研)   (弟子)
研師弟子ノ刃傷  |一、とぎ喜介でし太郎作と申もの、喜介女房をきり候て、主ハにかいニ而腹を切申候、女房の面を少
         |  切候由、死不申由ニ候事、
小脇差ノ身ノミノ |一、御能見物之もの、小わきさし之身斗、けやき御門ニ今朝落置候ニ付、御門番衆吉田少右衛門へ此
落物       |  由申候ヘハ、町中をふれ候て、落申もの候ハヽ、改可差上被申通ニ而、御門番持参申候事、

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■文久三年「恕斎日録」(17)

2020-07-20 06:07:11 | 恕斎日録

117 
  五月朔日 当番ニ付嘉一郎代参
  二日  田口角助江参り 両家江出京被仰付御辞令等拝
      見 上妻宅江立寄候處 藤本幷入江・村上へ出合 藤
      本酔躰 入江列と議論之事
  三日  
  四日  今日 召出被仕候事
      作方之爭事言上 麦七分菜六分中通之作と申上候
      事 頃日者亀之助を以見事之スツホンを遣し 好
118
      物ニテかこひ置 度々たべたぞ被遊 御意候ニ
      付 小子より 此節南関御通行被遊候ハヽ 彼方ニ
      而差上可申相心得候處 堂崎路 御通行被遊
      候ニ付 差上出来かね候間 此節指上候断申上候
      事 乍恐京都之御都合も御宜敷御速ニ被遊 御
      帰国 奉恐悦候 乍恐 嘸々 御配慮被遊候たると
      奉存候断申上候處 大分心配いたしたとの 御
      意被遊候事
     一副役御奉行道家角左衛門方より聞左之通
      昨日 大坂より早打之雇□着いたし候處 将軍
119
      様江者大坂御城御見繕被成候との 勅諚ニ
      付近ニ彼方へ 御成之筈 且又一橋様江茂 御
      勅命ニ而御下り之由也
       右者 内輪之御模様ハ 至而煩敷尾模様ニ而 今
       度石清水 御幸之節 浮浪共ゟ奉し御□を御
       引セ被遊候而 攘夷之□を態ト拵立 同所ニ而
        将軍様攘夷之 勅命を被下 若兎角被有之
       候節 直ニ御親征之筈ニ有之候處 将軍様
       江関白様より極御内々御心を被為附候ニ
       付 俄ニ御病気ニ而 供奉御断被仰上候間
120
       一橋様ヘハ攘夷之 勅命御持参ニ而江戸江
       御下り 将軍様ヘハ 態ト大坂御城へ御引被
       成候哉之取沙汰いたし候段噂之事
  五日
  六日
  七日  先月廿七日御用の御欽ニハ 支配所役々 当時柄ニ
      付 態ト出宿ニ不及候段申聞置候處 今日 三役中
  八日  相揃 欽ニ参候間 酒肴振舞候事
      今日手嶋五一郎旅行ニ付 離杯申受家内へ相見
      候事
121
 (九日・なし)
  十日
  十一日
  十二日 此間無事 今日配下へ之御達左之通
             荒尾手永地士
                 中嶋武兵衛
      右者今度 公武より 御沙汰之趣ニ付 禁闕
      為御守衛 用意済次第早々被差出 詰中士段之振合
      ニ被 仰付候 此段御申渡御請之程可有御達候
      以上       選挙方御奉行中
         五月十一日
122
      右之通 御家中御侍を初 其外子弟之面々 在中御
      家人又ハ子弟之内へ 数百人被仰付候處 実王朝
      連より拵立候而 京都へも手法なき三條様を取
      立 異国を止候哉ニ相聞候ニ付 東大之面々江ハ
      親類中より心を付 心有る面々ハすへて御断申
      上候 其中王朝家共浮浪人をも手引□引ニ而 人
      差を以 住江列より拵立候由なり 夫を上より被
      仰付候事ハ如何之思召ニ有之候哉 定而後道ハ
      御代法を可被附候事と被相考候事なり
       右武兵衛も 師役より心を被附 此方へも伺出
123
       候得とも 上より之御達を差留候儀相成不申
       併段々心有物ハ御断も申上候事ニ付 御断申
       上候ハヽ 取継禍申候段申聞候處 其後一同出
       京いたし候事
  十三日
  十四日 吉広加左衛門より養子力童縁談相済候答礼と
      して書状幷麻横上下一反送り来候ニ付礼状
      仕出候事
     一今日同姓新次郎御小姓役翻訳ニ被仰付候事
  十五日
  十六日 今日御封来候事
124
      将軍様 頃日大坂江御入城之處 当月四日尚御上
      洛之筈を御延引ニ而 直ニ摂海より蒸気船ニ被
      召 御東帰之御模様ニ付 禁庭より御心遣被遊
      姉小路様御下坂御取扱被成 江戸より者近来之
      取沙汰ニ付 将軍様を御心遣奉り 諸武場之諸
      生 板倉様も 禁庭へ強而御願取ニ而 大坂へ御
      出仕御取扱之筈之由申来候事
     一馬代八両平川亀右衛門江今日相渡候事
               預ニ而八百目

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■細川小倉藩(294)寛永五年・日帳(五月十一日)

2020-07-19 15:30:31 | 細川小倉藩

                      (寛永五年五月)十一日 

         |              
         |    十一日         
         |
本丸下ノ堀に入ル |一、国遠道倫被申候ハ、御本丸之下之堀ニ、人二三人はいり申候間、我等申候ハ、此堀へ人入申候
者アリ      |            
入ル事厳禁    |  事、前廉はかき御法度候つるか、今ハ入候てもくるしからす候哉、御奉行所へ届候而、入被申候
入リシ者ノ詮索  |  か、■又ハ名を被名乗候ヘと申候ヘハ、たれのものとも名乗不申候、北ノ丸ノもの候由申候間、
         |     (皆川)
         |  然ハ治アなとニ届候而の事ニ候哉と、申候ヘとも、とかくの返事も不申候由、被申候事、
         |
冬ノ扶持宛行ノ奉 |一、御冬様へ去年十二月朔日ゟ三十人〇被遣との奉書、山田喜斎・沅西堂ゟ、京ノ三人衆へ参候ニ
書        |  付、京着ニ而渡申由、其ニ付、今度野原善太郎罷下、京ノさん用被仕上候、即目録 御前へ上り
京ノ算用目録   |                            (財津惣兵衛)
         |  申候、右奉書ノひかへ、善太郎手前在之、右ノさん用聞ハ才津・和田也、
         |                               (伝兵衛)
         |  (藍島、規矩郡)
藍島ニ野牛取   |一、あいの嶋へ野牛取ニ、御船頭徳嶋八兵衛差遣候事、
忠利猩々緋ノ陣羽 |一、猩々皮ニ而御陣はおり被 仰付候、此御横目ニ星出長五郎申付候事
織ヲ調整セシム  |
過怠ノ役     |一、明日m津岡角太夫・大阪迄過怠之御使ニ被遣候事、
         |                     (浅山)
         |一、三斎様ゟノ御返書、御小人吉六持来候、則修理御上り申候事、但、奥ニ而、森長介を以上ヶ申由候
         |  事
稲葉一通ヨリ海老 |一、稲葉民ア様ゟ御文箱、幷御音信ノゑひ二籠参候、則御返書出申ニ付、松岡九太夫ニ持せ、式ア殿
ヲ贈ラル     |  迄遣候、御心得申候との御返事に候事、
         |                       (藤ヵ)                                 (長泰)         
         |一、明日十二日ニ、江戸へ被遣御飛脚続亀介与武久作右衛門ハ、平野遠江様へ御見廻ニ被遣候、今壱
         |        (忠利室、千代姫)
江戸へ音信ノ物数 |  人七右衛門ハ 御裏様へ之御見廻ニ被遣旨ニ付、此両人ニ渡遣物数
         |   (細川光尚)
 光尚ノ小刀   | 一、御六様ちいさ刀一腰ハ、作右衛門ニ渡ス、
 宇佐宮ノ祈祷札 | 一、御六様へうさゟ上ル御札一包、七右衛門ニ渡ス、
         |    (長重)
         | 一、浅野采女様へ之 御書箱壱つ、同人ニ渡ス、
         |  (松野親英)(小篠) (町)
 江戸御留守居へ | 一、織ア・次太夫・三右衛門へ之 御書箱壱、同人へ渡ス、
         |
 筑紫広門小判三 | 一、右三人へ我々ゟ状一包、此内ニ、筑紫殿へ小判三十両の借状被成御返候も入遣、又浦上瀬兵衛
         |   ゟ、 御六様へ被為付置候御のり物かき善吉御ふちかたのさしかミも包入、上せ候事、
         |                       (蜂須賀忠英)
阿波へ寄ル使ニ遣 |一、同船ニ而、歩ノ御小姓松岡九太夫大阪迄日遣候、阿波守様へも被遣ニ付、あわへより被申候九太
ス物数      |  夫ニ渡遣物数
 大坂城普請奉行 | 一、四頭の御普請奉行衆へ被遣 御書箱壱つ渡ス、
 ヘノ書状    |
         | 一、松平阿波守様へ被進候 御書箱壱つ、
         |                       (慰英)
 幕府由布院勘定 | 一、上様由布院御勘定奉行衆へ被進 御書箱、仁保太兵衛ニ被渡候へと、申候而渡ス、
         |一、江戸へ参右弐人ニ、京ノ御かい物奉行参人へ被遣 御書箱壱つ、渡候事、
請書       |一、寺嶋主水方へ、奥村少兵衛ゟ上せ被申候しふかミつゝミ一つ、内ニ銀子在之由候をうけ取、上り
         |  申候、寺嶋方へ慥渡可申候、                  松岡九太夫(花押)
         |               ( 菰  包 )
         |一、式ア殿ゟ、京へ御言伝被成候こもつゝミ壱つ、又江戸ヘの御状、何も右之飛脚ニ遣、
         |  (規矩郡)
藍島ニテ捕獲ノ野 |一、あいの嶋ゟ野牛取て参候、御天主之下ニ入置候事、
牛天守下へ入ル  |

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■馬鹿者の毎日

2020-07-19 11:28:11 | 徒然

                  

刊本「福岡県史 近世史料編‐細川小倉藩(一)」は、昨年11月2日に「■細川小倉藩(62)寛永元年・日帳」でご紹介を始めた。
これが62回とあるのは、その前に同書の(三巻)に掲載されている元和期を61回にわたりご紹介したことによる。
(一巻)は今日を含めてあと4回で完了する予定だ。都合498頁に及んでいるが、297ー62=235日でタイピングしたことになる。
苦労したのに一日約2頁しかできていないことに、ちょっとショックを受けている。
この後、第二巻の寛永五年六月から寛永七年の六月迄484頁、第三巻の寛永七年七月~寛永八年十一月迄の153頁の都合637頁が控えている。
一日2頁のペースで320にちばかり、爺様のスタミナは続くのだろうかと頭を抱え込んでしまう。

現在はこの「細川小倉藩」と「恕斎日録・文久三年編」が重なっているから、一時期「細川小倉藩」はお休みしようかとも考えている。
他にもいろいろタイピングしたいものが目白押しで、爺様は大いに多忙である。
自分自身「ご苦労なこったい」と思いながらも、やめることができないないでいる「大馬鹿者」である。

 

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■そろそろ梅雨明け・・?

2020-07-19 08:58:24 | 徒然

 寝苦しさに目が覚め早起きしましたが、陽が上がると蝉の合唱がすさまじくどうやら梅雨明けといった感じです。
ひときわやかましく鳴いているのはクマゼミでしょうが、休む間もなくお疲れ様なことでしょう。
昨日、今日と一時雨の予報がありましたが、見事に外れ、あすも雨の予報がありますから、梅雨明け発表は明後日くらいになるのでしょうか。
例年よりずいぶん遅い梅雨明けになりそうですが、そうなればなったで、連日の猛暑に耐えなければならず辛い季節になります。
去年はメダカの水槽の温度管理に失敗して、少し死なせてしまいました。今年も猛暑になりそうですが、一匹も死なせないように注意しています。
その前に、自分自身がくたばらないようにすることはもちろんですが、皆さまも御身御自愛くださいませ。

                 

       追記:予想に反して熊本の梅雨明けは連休明け(27日?)とか言っています。16時前入道雲と雨雲が同居しています。

                    

 

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■文久三年「恕斎日録」(16)

2020-07-19 06:49:57 | 恕斎日録

109
  十六日 当月六日 太守様京都被遊 御発駕籠豊後路被
      遊 御通行旨御達事
  十七日 今日荒木氏より岩崎物部へ口達之趣左之通
      公武之御際表向者御和熟之御沙汰ニ候得共 内
      実者中々左様ニ而無之 将軍様江戸より御帰
      府御当日ニ相成 禁庭より俄ニ御留被仰付 異
      人御返答之様者 摂州表より被差廻候而 夫々被仰
110
      聞 万一ニも戦争ニ及候ハヽ 将軍様ご自身惣
      大将ニて御征伐被遊候様との 綸言之趣ニ而
      将軍様を御先手同様之御扱ニ手有之 禁庭之
      御所置も如何ニ而 諸大名も銘々自国之御取□
      之御様子 右者浪人共弥以相募り 公家方も色々
      とそくらくし候由ニ付 浪人共御国中より手縄
      を引候様も難斗 薩州様者旅人一切入り込ミ不
      申 此方より差出候外聞共も 一向寄付不申候程
      ニ有之候間 御国中江無往来之旅人入込不申候
      様 御口屋/\取締候との事
111
  十八日 太守様 当月十六日靏崎被遊御着岸 来ル廿一日
      熊本江被遊 御着座候様 今日到来有之候事
      太守様 当月四日 二條城御成被遊御登城 同五日
      御参内 龍顔御拝 六日京都被遊 御初駕候段
      御到来ニ付御物頭列以上 便條を以御歓 御郡代
      以下明後十九日 御家老中 御中老中 廻方之御触
      達有之候事
  十九日
  廿日
  廿一日 太守様今朝七時之御供揃ニ而大津被遊 御発
112
      駕 四時頃ニ丸御屋形江被遊 御入 九時御花畑
      江被遊 御着殿候事
       今朝片山宅江同役中相揃 観音橋 御通行を
       奉伺候而 直ニ杭場へ罷出 少御間合も被為在
       溝口殿へ暫相待居候處 松野殿応対酒肴を振
       舞ニ相成候事
       何れも杭場 御目見申上候事
  廿二日 今度京都 御登りハ甚以御難儀之御時節ニ付
      乍恐御武運長久御勤伺速ニ被為済□ 遊 御下
      国候様廿一日一乗院江乍恐御祈祷相頼置候事
113
      に付き今日一乗院江御礼として神酒料 拾匁 小紙
      一把  一箱相送候事
  (廿三日・欠)
  廿四日
  廿五日 嶋原様御祖母様御下りニ而 今日長洲御泊りニ
      而御渡海之段至来有之候事
       右御通行ハ御用差支候ハヽ 同役不罷出候共
       不苦候由ニ付 今日者御用差支申候ニ付 其段
       上相答候而罷出不申候事
     一今夕此方家内隣家宇野家内上村方いつれも同
      道ニて権現山へ海老釣りニ参り候處 酩酊ニ及
114 
      其中 加惠寿共渡鹿天神へ参り候而 村上久太郎
      共河井家内連ニ而同様出浮居候間 帰り此方へ
      引而参候處 折節酩酊中ニ付失言有之 久太郎
      立腹いたし而引取候 夫より子飼刑部殿茶屋へ
      野々口家内共田中典儀方家内同道ニ而参居
      候間 同所より被相招暫饗応ニ而帰り候事
       右失言ニ付 翌朝村上へ参り相断候處 留守ニ
       付岩崎・入江は参り 右之次第及相談候處 久
       太郎其前入江へ参り相答候由ニ付 出勤之上尚
       入江取扱ニ而断相済候ニ付 夕方此方より尚
115
       又村上方江参り 呉々相断 和熟いたし候事
        以後酒を相慎候様記し置候事
      今夕権現山出浮伺ニおゐて 明後廿七日御用有
      之 御花畑へ罷出候様御達有之候ニ付 今晩直ニ
      刑部殿別荘へ袴取寄 荒木氏へ御受ニ参候事
       跡達而 其節ハ余程元気宜相見候断 同氏より
       噂ニ及候事
  廿六日 飯田丞之助宅發寄合ニ同役中罷越候事
  廿七日 今日於御花畑 御用有之候被仰渡左之通
       其方儀 御裏御作事御用懸被 仰付 出精相勤候 
116  
       ニ付 目録之通被下置旨被 仰出候
         御紋付御上下一具

      今日 御登城之事
       御奉行所 御入之事
  廿八日 今日到来大鼈二つ 茂見亀之助を頼 御次江差出
      候事
       追而 御歓被遊旨 同人より内分申達候事
     一今日乗馬引入之事
       栗毛五歳 代銭六百目 坂下平川亀右衛門所
            持 同人弟藤四郎より引入
117
        代金八両ニ相定五月十六日相渡

          (以下五月分・次回)

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■文久三年「恕斎日録」(15)

2020-07-18 15:36:49 | 恕斎日録

101
  四月朔日
    一今日江戸より早打之御飛脚出立 当時 京師之
     方御警衛被蒙候ニ付 相州御受付ハ御断被
     仰上天草之方へ御打替之御願之由 風評なり
    一今朝松野亘殿京都ゟ下着後見舞候処 段々 京
     都之様子噂ニ相成 将軍様江も尚御滞留被為
     仰付候由 御合躰ハ奉恐悦候得とも 浪人共之
     申分一々ガブと御打くらひ 議奏傳奏トガ
     リ過 一向條理と申事ハ絶而無之 天子様関白
     様江も下勝ニ相成 御持扱ニご様子 既ニ加々様
     御着之節 足利三代将軍之御像乱防いたし候者
102
     共 會津候ゟ被差押 弐人者打取ニ相成 其内弐人
     者同候之御家来之由 実ハ會津候廻し者ニ相見
     不怪御謀斗ニ而 御逮方ニ相成候處 禁庭ゟ右
     者忠義之者共ニ而候間 差免候様被 仰出 誠ニ
     條理転動之御扱之事ニ候
     天子様者 如何被思召候哉と尋候處 右等ハ総而
     ハ議奏傳奏之取計ニ而御存知ハ不被為遊候哉
     ニ奉察候 右等不慮の事多 近来ハ人気も関東へ
     向候様相見 迚も浪人共一洗之御決断無之候而
     者 治りかね可申見込之段 噂ニ成候事
103
  二日
     今日御達右之通
     方今不穏辞世ニ相成 殊ニ藩屏之儀 京都ゟ御達
     之趣茂有之候間 不慮之御手当□ 弥以御手厚被
     遊御覚悟ニ候 依之御国中御家人等子弟至迠
     相州爪同様 於御国許も池部啓太申談 西洋流銃
     隊稽古被仰付 自然之節者 別途ニ被召仕候筈候条
     右稽古筋之儀 各中差入被致世話候様 尤 下地之
     流儀ニ而 年々大筒手受持根戸者 是迄之通被仰付
     候筈候 此段可及達旨候條 左様御心得可有其御
     達候 以上          御奉行中
       四月二日
104
          御郡代家中

      御書附渡
     今度横浜港江英吉利軍艦渡来 三ヶ条之儀申立
     何れも御聞届難成候ニ付 其趣を以 可及応接候
     間 速ニ兵端を開候哉茂難斗 仍而者 銘々藩屏之
     任ニ有之候ニ付 夫々備向も可有之候由 京都御
     所司代様より御書付被成御渡候 右之通ニ而差
     寄大小炮を始 其余之兵□共 弥以御備組之面々
     者申ニ不及 御国中在御家人之子弟等ニ至迠 屹
     度其旨相心得申候 尤一己々々之存意を以騒
105
     立候様之儀有之候而者難相済 何事も御下知を
     待候様 組支配方へも精々可被示置候 以上
       四月二日

      右諸御郡一統相達
    一西洋炮稽古之儀 御奉行荒木甚四郎方へ相伺候
     次第左之通
     在御家人無給之身分 内作片手ニ稽古いたし候
     殊ニ付 御府中稽古且操練も必多度打寄 稽古者
     出来兼可申候 左様ニ候ハヽ飯米ニ而茂不被下
     候而者出来不申候段申伺候處 夫ニ者及申間敷
106
     西洋筒さへいまた出来合不申候間 先有合之筒
     丈そろそろ角打ニ而も打方いたし 操練ハ
     有折会所庭中ニても手数いたし候而も宜敷 且
     又炮術師役/\に者 西洋流稽古之事者一同ニ
     相触置候との事なり
  三日
  四日
  五日・強雨
  六日・強雨 今日増水左之通
     高瀬川八尺 安楽寺縄手床水ニ而四十丁程度
107
     畝無差障
     緑川壱丈壱尺無差障
     加勢川八尺 無差障
  七日
  八日
  九日
  十日 今日朝六時分出立ニ而 内田江出在 同所下小田
     香春ニおゐて 内田・小田・坂下・荒尾御家人中 西洋
     流操練見分之事
      惣人数五十人余 数隊交る/\操打 七頃相済
      内田会所泊
     今晩御惣庄屋共 同会所会談之事
     一御郡中海岸御手当御家人々数配一件
     一在御家人西洋法稽古等
     一右同自然之節被召仕候人操等
  十一日 今日内田手永稽古場ニ而先日試業残り諸芸見
      分     算学測量共ニ
  十二日 小田引移同所武藝見分之事
  十三日 小田海辺新地塘手損所等見分
      同所より 乗船 八代開見分 白浜村着岸 河内新道
109
      通り帰府之事
  十四日
  十五日
  

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■細川小倉藩(293)寛永五年・日帳(五月九・十日)

2020-07-18 05:50:04 | 細川小倉藩

                      (寛永五年五月)九・十日 

         |              
         |    九日         
         |
         |      (髭 籠)  
三斎へ白瓜子進上 |一、白ふりこひけこ壱つ、 三斎様へ被進之候、則早道ノ助市ニ持せ被進之候事、
三淵之直へ与フ蒔 |一、左膳殿へ被進之候鞍、蒔絵や久兵衛此中仕候へ共、久兵衛儀上方へ被成御上せニ付、上方へ持上り
絵鞍ノ制作    |  自分之さいくニ仕候而、下候へと可被申渡由、中川四左衛門ニ申付候、■金子も持上り仕立、重
奉行ノ替リニ誓紙 |  而算用仕候へと申渡候事、但、今迄ハ四左衛門を奉行ニ付置候へ共、上方ニ而仕分ハ誓帋ニ而済
ヲセシム     |  候へと、申付候事、
         |                                          (仁保慰英)
京都へ家具二百人 |一、蒔絵や久兵衛ニ被 仰付、京都ニ而御家具弐百人前仕に付、為手付銀四貫目可被相渡由、太兵衛
前註文ノ手付銀  |    (田中氏次)  
         |  ・猪兵衛方へさしかミ上せ申候事、
床几の制作    |一、御しゃうぎ弐つ、右久兵衛仕候へ共、半作に在之付、是又上方へ持上り申候、上方ゟ久兵衛自分
         |  ニ仕、下候へと、申渡候事、
中ノ早飛脚ノ旅程 |一、江戸ゟ、西沢文右衛門与矢田部角左衛門・明石源左衛門与西五郎助罷下候、中ノ早飛脚弐参候由
         |  申候、江戸ゟを四月廿六日に立、大坂へ五月四日の朝着、大坂を同実申刻に出船仕由申候事、此
江戸ヨリノ書状ノ |  便に参候物数覚
覚        | 
 御内書     | 一、御内書と御書付在之箱壱つ、
         |    (直政)
 松平直政書状  | 一、松平出羽様ゟ之御文箱壱つ、
         |                       (渋  紙)
 江戸留守居ヨリ | 一、江戸御留守居衆ゟ被上候文箱壱つ、但、是ハしふかミ包之内ニ而文箱ノともかけ候て在之ニ
 ノ文箱     |                    (貴田)
         |   付、右飛脚居申候ニ、引合可申とて、才兵衛をよひ、此段申渡、右之三箱渡申候、
         |                        (政時)
         | 一、江戸 三斎様御留守居衆ゟ、長舟十右衛門・貴田権内方へ被言伝候しふかミ包状文箱壱つ参
         |   候、則明日可遣ニ相究候、夜中ゆへ如此候事               〃
         |                   (細川光尚)
 光尚附侍ノ切米 | 一、江戸御留守居衆ゟ我々への書状幷 御六様衆ノ内、御切米江戸ニ而取度と申衆、又御国ニ而取
 請取ノ場所ノ好 |   申度と申来ノ書付参候事、
 ミ       |
         | 一、大坂ゟノ状も参候事、
三斎ヨリ白瓜請取 |一、三斎様へ白ふり、今朝五つ半時ニ早飛脚助市ニ持せ被進之候処ニ、夜ノ五つ半時罷帰候、則 三斎
         |  様ゟの御返書、二郎兵衛へ持参仕、森左太夫を以差上候事、
ノ返書      |

         |              
         |    十日         
         |
三斎ヘノ書状   |一、御小人吉六ニ、 三斎様へ被進之御書持せ申遣候遣申候、又江戸ゟの 三斎様御留守居衆ゟ、中
         |                     〃〃〃       〃
         |  津御奉行衆へ参状壱包、右ノ御飛脚ニ持せ遣候、則我等共ゟそへ状仕、遣候事、
         |   (一通)
稲葉一通ヨリ伊勢 |一、稲葉民ア様ゟ御飛脚参候ニ、いせゑひ一籠被進之候、御文箱も参候、則熊谷九郎兵衛を以上申候
海老ヲ贈ラル   |  事、
         |                                        (町)
江戸詰切米取ノ請 |一、江戸詰ノ衆御切米御国ニ而取度と申衆、又江戸ニ而取度と申衆ノ書わけ一紙ニして、三右衛門・
取望ノ場所書付ヶ | (松野親英)(小篠)
         |  織ア、次大夫方ゟ被差越候、慥請取申候、             広吉半介(花押)
         |一、蒲生猪左衛門ゟ、我等江戸ニ居申候とて、銀子壱包前かと被差越候へ共、私儀江戸ゟ罷下ニ付、
銀子請取     |  江戸ゟ右ノ銀参候由ニ而被渡下、慥請取申候、以上         海田半兵衛(花押)
一紙請取     |

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■ガラシャ夫人生害の日に読んだ二冊

2020-07-18 05:25:25 | 書籍・読書

              

 昨日十七日はガラシャ夫人生害の日であった。
ガラシャにかんする本は種々14・5冊は持っているが、何気に安廷苑の「細川ガラシャ」の頁をめくっていた。
そして、最近購入したばかりの浅見雅一の「キリシタン教会と本能寺の変」も初読みしてみた。
何となんと・・・・・・お二人はご夫婦であることを知り、驚いてしまった。
お二人とも現在は慶応大学に奉職されている。そしてお二人ともキリシタン史の研究者である。
今後どのような研究成果を世に問われるか、期待して待ちたいと思う。
しばらく目を通してから、二冊並べて本棚に収めた。

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■手入れ放棄の結果

2020-07-17 15:11:14 | 徒然

                  

 これでも一応「肥後寒蘭」である。義父が育てていたものだがいつ我家にやって来たのか確かな記憶がない。
しかし義父が死んでから30年たつから、それ以前のことである。大いに長生きしている。

優雅な蘭専用の鉢に一本植えて育てて鑑賞したいところだが、とてもそこまでは気が回らず、まずは枯らさないことが第一義でやってきた。
今年一応植え替えはしようと試みたのだが、ほこりすぎて鉢から抜くことが出来ずに諦めてしまった。
ところが何を間違ったのか、今年は御覧のようにたくさんの花が咲いた。大満開である。
花をしばらく愛でて、その後鉢をばらしてでも、株分けしてみようとは思っている。
植物は好きだが、あまり手がかかるようなものは願下げである。

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■文久三年「恕斎日録」(14)

2020-07-17 10:30:30 | 恕斎日録

92
       荒木氏より被相渡候書付写
93
     一在御家人當代幷子弟共ニ是迠相州江相詰候名前            嘉永七年(安政元年)相州警備
      一何々度相詰候との儀  一身分
      一年齢         一師役之名
       右急々取調候事
     一農兵組立之事
      高千石之村ニ大概四人位積 年十七歳より五十迠
      御郡筒之段格ニ而可宜哉 右之通被仰付候得者初
      懸り 於会所操練四五十日斗いたし 其後一ヶ月
      ニ六度程も於会所稽古之事 尤 右稽古中者飯米
94
      可被下置哉之事
       下ニ付紙 岩崎より
        本行四人 荒木氏認被申候得共 一万石ニ
        四十人 拾万石ニ四百人 五拾万石ニ弐千人
        左候ヘハ ちと不足も可有之 千石迠五人
        程者積りか申方とも噂被致候事
       右同
        本文御郡筒之段格ニ而者能過ともハ 不致候哉
        無苗ニ而影踏除 脇差壱本位ニ而も可然と
        私より略咄置候事
95
      右之通申来候ニ付 今日呼出置候諸生ニ昼迠見分
      いたし候 昼後引取可申 左候ヘハ 明日之同
      役会催ニも間ニ逢可申候段 返書仕出候事
      右之趣 今朝御小庄屋共 詰所へ呼出 右之書付
      も見セ委細申置候 右ニ付 存付候ヶ条者 少し
      も無遠慮可申達候段申聞 御惣庄屋之内 木下初
      太郎同道いたし 昼過より帰府いたし候事
        御惣庄屋中も一通り咄合見込趣等書付 初太
      郎持参候事 右外聞者御家人之中両人差上候事
      暮ニ及帰府 直ニ荒木氏ヘハ参り 夫々申向 初
96
      太郎列見込之大略も申述置候事
     一右御惣庄屋共 会議之内ニ前文□紙 影踏除
      脇差一本被差免候との儀者 治世之時ハ羽ふり宜
      ニより寸志いたし候而も 進席いたし候情態ニ有
      之候得共 只今戦場ニ被召し候際ニ□成 一命をも
      差上可申事ニ候得者 僅影踏除 脇差一本位 被
      差免候而者 一人も進可申見込無之候 壱人五俵
      被下候而 御年貢差継ニも被付候ハヽ 別段之
      事ニ月 相進見可申哉との事
     一右之内 高割之儀者 一村何人との割る付けハ六ヶ
97
      敷 人質又ハ所柄人畜之釣号も有之 場所ハ其所
      ニより一ヶ村ニ半隊又ハ一隊との見込みニ仕立可申
      との事
        右稜ハ荒木氏ニも咄候処、尤被存候 併一人
        を壱口ニ積り候ヘハ 三千人ニ而ハ一万五千
        俵相當 此方ハ出来かたく被存候との事
      右ニ付 詰め間二階ニ而同役中会談
      一御扶持不被下候而者 進かね申候見込み之事
      一五家中御手當連人餘斗ニ有之 差合可申との
       事
98
      一水夫も三千人餘有之 是も同断之事
      一人畜少之ヶ所ハ 明高有之 富国強兵ニ差障
       可申との事
      一右之通ニ付 在御家人之子弟可召仕候との事
      右之通ニ付 同役中より見こみ書附 左之通相達候事
       本文略
      農兵一件ニ付 御惣庄屋共 会談之書付ニ 同役共
      とり付紙 且又 添書ニ當時之勢に而者 遊惰独身
      之外者望申間敷候得者 たとへ一口完被下候而も
      御用ニ立兼可申 御家中連人も不足 海邊ハ水夫三
99 
      千人余有之候間 其外より良民を農兵ニ被召仕候ハ
      ゝ 明高ニ成 富国強兵え差障り可有之候間 在御
      家人之子弟御郡筒、札筒ヨリ被召仕候ハヽ 御用ニ
      相立可申見込之段 書附相認 荒木氏へ口達添 相
      達候処 同氏より農兵之儀者一応従京都被 御在京中也
      仰出候事ニ付 可或丈 相調候様有之度候得共
      行兼候訳 尤ニ相聞候間 在御家人子弟等ニ而も
      其代ニ相調候ハヽ其方ニ而も可宜欤と被存候段
      噂ニ相成候間同役中も 其趣申伝候事
       右ニ付支配所/\へ在御家人之子弟等調出候
100
       様急々 夫々相達候事 其後夫々取調相達
  廿六日
  廿七日 今月十八日 島津三郎殿京都より発駕ニ而 日
    向之内 細島と申所へ着岸ニ而 帰城野由也
    夫迠之内ニ 異船渡来いたし居候ハヽ 直ニ打拂之                 薩英戦争は7月2日~4日
    筈之由 薩州通行人申候由之事
  廿八日
  (廿九日、記載なし)
  三十日

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