幽齋公の生年は天文三年四月だとされる。綿考輯録によると三説あるのだそうだが、定説とされている天文三年四月廿二日説は、幽齋公が誕生後米田源三郎(求政)とともに、生母智慶院に将軍からお付を命ぜられた築山家の家記によるものだとされる。綿考輯録にその様に記されている。上田将雄先生の「細川幽齋の出自について」をよむと、永青文庫に於いてはその「築山家記」が見つからないと記しておられる。
私はまだ内容を確認していないが、それと思わせるものが宮村典太の膨大な古記録「雑撰録」に所収されている。
嫡家は淀に代々在住しながらも細川家から禄を頂戴している。細川家家臣略系譜をたどると、四つの分家があり細川家に仕えた。
幽齋公以来の根本家臣といえる。
これは早々に図書館に出かけてコピーをしなければ成らないと思っている。系図は手許にあるのだが・・・・・
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