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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

直木賞・・山本兼一さん、おめでとうございます

2009-01-15 21:52:40 | 書籍・読書

火天の城 (文春文庫)
山本 兼一 (著)




芥川賞・直木賞が発表された。残念ながらお三方の該当作は未読である。ただ山本兼一氏の既刊「火天の城」は読んでいる。着眼点がユニークで面白い。ここでご紹介するのは、私が読んだ文庫本である。 文春文庫:620円 

   【信長の夢「安土城」築城の裏には、天下一の棟梁親子による想像を超えた創意工夫と
    葛藤があった。前代未聞の一大プロジェクトの全貌。信長の夢は、天下一の棟梁父子
    に託された。天に聳える五重の天主を建てよ! 巨大な安土城築城を命じられた岡部
    又右衛門と以俊は、無理難題を形にするため、前代未聞の大プロジェクトに挑む。信長 
    の野望と大工の意地、情熱、創意工夫--すべてのみこんで完成した未曾有の建造物
    の真相に迫る松本清張賞受賞作】

「利休にたずねよ」も早速読ませていただきます。おめでとうございます。


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島原の陣--決戦の日・・17

2009-01-15 17:26:12 | 歴史
松井外記か嫡子仁平次勝次ハ父か戦死を且而しらす、本丸の石垣に着て沢田九右衛門・戸波庄助・荒木弥三右衛門なと一所にて働く 後共に本丸に入候 、入江三大夫石垣を登るに鉄炮二ッ中り、深手なから暫く堪居候へ共、歩行不叶本陳に帰り、井口六大夫も鉄炮手負なから働候に、又大石に中りて引取候、有吉家士菅沼三左衛門初よりよく組足軽をすゝめ、賊壱人討取、米田家士戸村角兵衛と詞を交し働、本丸の口に至り高原半三郎と小刀を取替して証とす、此時鉄炮創十ヶ所はかり被り小屋にかへり候 一ニ始終其組を下知してこらへ居候と有 、父斎木半右衛門ハ尚も進て下知を加へ、其組足軽甲斐彦作討死、小頭溝部藤右衛門其外的野作左衛門・南助兵衛・工藤久八等よく鉄炮を打て大勢を打落す、生地貞右衛門次正・武藤山三郎等烈敷働き、深手負本陳のかへり候、米田内斎藤長兵衛・岡田権兵衛もすゝむて手に合、戸村角兵衛・中井理兵衛はしたるく働て討死を遂る、毛利藤兵衛塀下十二三間計近けるに、賊徒四五人突かゝる、毛利渡り合、鑓を合す、此時光利君の近習小野権兵衛実延すゝむて鑓を合、毛利と一同に敵壱人宛突伏、互に吃と見て名乗合、指物きぬを切、立物を折て取かはし候、其外柳川の浪士 一ニ江戸の浪士 鈴木 一ニ鈴村 角大夫・人見伊織と名乗て両人の働を感し、後証に立候也、米田か足軽正垣七左衛門ハ是長か差物くもて差と云を直し居たる所ニ、右の腕に鉄炮中り候へ共、尚相従ひ候、有吉か鉄炮頭長坂五郎兵衛仕寄場にて手負、組支配不叶故 一ニ本丸下ニ而深手負、本陳にかへると有 、嫡子長坂宇兵衛直に与を預り、所々にて敵をうたせ、本丸追手口に着けるに、賊徒稠敷矢石を発し、勢ひに乗て突て出る、長坂も鉄炮疵を被り候へ共、不厭敵を突殺し、若党吉松加兵衛・辛嶋勘四郎も太刀打して敵壱人宛討取候、名王善右衛門も組の鉄炮を卒シ、くりかへて城門をうちしらます、本郷縫殿助敵三人とせり合候に、脇より横合に突かゝるもの有て、敵こらへす逃入り候、縫殿は直ニ石垣に着て相働く、早水市郎兵衛も同所に在之かせき候

武藤十左衛門升形に着て鑓をあはせ敵を討、葛西父子・岡沢兵左衛門等も同所にて相働く、岡部形右衛門も組足軽をすゝめ水の手口にてミつから鑓を合せ賊を討取、屏の手に附く氏家志摩・佐分利加左衛門なと働候、同所に半時計せり合、与の小頭三嶋治兵衛其外角田徳兵衛・衛藤市大夫・柿原七左衛門・寺川喜左衛門・出田久之允等鉄炮よく発し、大勢打落す、治兵衛は中ニもかせきて疵を被り候、中山半左衛門ハ大手の城戸の前石垣の下に一番に着候に、傍輩を初其辺にハいまた見方壱人も来らす、相続て伊豆守殿の家士来り、互に小刀を指替て支証といたし候時に、若党岸上久左衛門討死、其身も股をうたせ、石にも中り働得す、終に本陳にかへり候、同士岡田作左衛門も続て石垣に着、平野弥次右衛門・同三郎兵衛・有吉雅楽・芦田孫作・高本慶宅なと追々来り相働、孫作と慶宅ハ一度ニ鉄炮に中り、弥次右衛門矢疵・鑓疵を被り・二男弥平太ハ討死いたし候

中路宇兵衛 周防子、後内蔵助と改 組の御弓を射させ、鉄炮をも打せ、よく下知を加へ自身ニも挊候、白木貞右衛門父子ハ本丸入口升形より四五間程左の方ニ至、鉄炮を打せ居候処、松野平兵衛高声に名乗て出来り、六七間程左之方ニ着候ニ付、敵突出可申間、其心得いたし候へと申候時、稠敷石を投、火をなけかけ候ニ付、平兵衛も数多疵を被り、蓮池の上迄ころひ落候へ共、又立帰り白木に詞をかはし、花房次右衛門も一所に在て小刀取かハし証拠にいたし候、佐分利彦右衛門・高見少五郎・宮部久八等も同所二着、何れも手疵を負 一ニ久八は冑打ひしかれ、手負働難成引取、廿八日ニハ城に入と有 、貞右衛門ハ顔血に染て少も攻口を不甘、此所は水の手升形より左石垣の折目也
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島原の陣--決戦の日・・16

2009-01-15 09:05:15 | 歴史
塩田次兵衛敵三人を切留 此刀ハ生地秘蔵にて、冨士ひくしといへ共と銘したる二ツ胴の刀なり 、其身も鉄炮疵二ヶ所被る、扨志水と生地に敵弐拾人はかりかゝり来るを見、両人鑓取直し向ひけれハ、いつれも引入、其中より弐人抜出て北る者を、両人長刀にて矢筈に切り捨る、其折志水鉄炮にて胯を打せ候へ共、尚進て生地主従三人向の岸に着居候、見方壱人も不来、無程松井角左衛門来て詞をかはす内に、角左衛門家来大野弥左衛門鉄炮手を負、川崎九右衛門ハ石に打れ、外ニ僕六人疵を被る、続て外記来り候、是も家人冨新十郎・四宮藤左衛門・高山清十郎鉄炮手負、僕三人石手負、各其所にさゝへ居候、橋津又兵衛老武者にて歩行不叶、小頭秋永十郎左衛門・深野吉右衛門両人にて肩にかけ、組の鉄炮拾壱挺玉薬の裁料、藤田九郎兵衛共に来て生地を見付、是まてハ又兵衛殿を御供申候、最早武右衛門殿鉄炮の御下知あられ候へ、何れも存分に働可申と云、武右衛門彼等か振舞を感し、日比申合する如く是よりは我等下知すへきそとて、水の手の小坂を上る、塩田次兵衛深手にて上り煩ふを見、其方ハ志水と共に退候へ、我等討死するとも今迄見届たる働共親兄弟に語候へとて薬を与へ、相別れ、鉄炮を小つるへにして込替々々敵を打落させ候、外記甚感し、扨々残所なき下知也と云、橋津又兵衛も此小坂を上りしか共息切せしと見へ、城の方を後にして雉(ママ)に腰かけ休ミ居けるを外記大に恥しめ候
  橋津も二の丸にてよく鉄炮うたせ候、此時鉄炮手負石にも打れ候間、引取候へとの
  下知をうけ、寄之側に至候へ共、行歩不叶小屋に帰り、組ハ生地に支配せしめ、嫡
  子権之允を残し置候、其夜ハ生地持筒に加るへき旨ニ而、橋津権之允も父又兵衛与
  の鉄炮と郡筒を加へ、四五人召連、生地壱所ニ夜中張番相勤候
松井掃部も外記と一所に来て、其辺見かゝりの敵悉く鉄炮にて打静めけるに、此方の足軽九人疵を蒙る、深野吉右衛門も石手負て引退候、此所に働居候藪嶋之助 道家与 、住江茂左衛門を初其外大勢疵を被る、夫より一段上壱丈はかり削立たる岸有、こゝにて鉄炮を打すへきとて外記と武右衛門と鑓を岩壁に立かけ漸々に上る、西沢文右衛門も外記と一所に来る、足軽・下僕等追々ニ手操に上り候、城より近々と見下て矢石烈敷、手負死人多候間、武右衛門高らかに冑をかたふけよと云、外記あの敵を追込へきと云時、武右衛門足軽両人に下知して敵弐人打倒すと、外記忽起上り生地も続て水の手の升形脇に敵十人はかり鑓・鉄炮持居たるを見、外記鑓を突出んとするに、口より脊に二ッ玉を打ぬかれ、其まゝべつたりと居しを、転さる内に生地抱き留れ共忽に息絶候

武右衛門下知して外記か家来に我組の足軽をも差添、免シ指物をももたせ 松井か免差物は金の角取紙六枚を二段に付、上に赤熊を出しとしたる大指物なり 死骸を下し候、永田十左衛門 平野与 升形より五六間海手の方に着居たるに、武右衛門詞をかけ、右之段断候へハ、扨々惜き士也と十左衛門申候、生地か小頭秋永十郎左衛門鉄炮に中り疵を被り、生田清大夫 一ニ六左衛門 ・永井七左衛門石手負て引取、西沢文右衛門も其側よりすゝミのほりて討死いたし候、生地ハ猶も着居けるか我壱人爰にて働ても証拠なけれハ無益也、海手の方に松井家の差物見ゆる故一所に働へしと思ひ、石垣の根を五六間も行所に、岩角を蹈はつして七八間も下に落たりしか共、幸にして少もいたます、東向に大なる洞あり、此中に村上吉之允・山田忠三郎有、小塚太郎兵衛と云浪人も両胯を打ぬかれ入居候、生地は其まゝ屏下ニ駆上る、初見へたるゆるし指物ハ松井角兵衛なり、添頭山本七郎右衛門両人にて鉄炮を打せ居たる也、夫より水の手の方に白木貞右衛門・同五兵衛・佐分利兵太夫着居たるに、生地も行て言をかはす、其所に尾崎伊右衛門組の鉄炮 伊右衛門ハ手を負て引取 三宅半右衛門と云者相組をつれて来候間、武右衛門今よりハ我等下知すへきそと云けれハ、三宅懐より久年母を三ッ取出し、証拠の為とて遣シ候をいつれにもわかち喰けると也、此所も矢石烈しく、山本か立物に石中り打はなし候間、武右衛門是を取て人々に相断て蹈破候
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島原の陣--決戦の日・・15

2009-01-14 22:43:55 | 歴史
三淵内匠しきりにすゝんて本城の下に至り相働候、家人金光角左衛門差物を取て来るに、二丸江乗入候時右手を鉄炮にて打ぬかせ、左手に取直し真先かけて従ひ候、中野角兵衛もよく働て附従ひ、森内喜兵衛ハ二ツ玉ニ而胴を打ぬかれて死し、堀平大夫も頭を打せ候へ共脳を砕に不至 後に平癒 、塚本平左衛門ハ喉を打せ、兵藤六之允ハ腕を打ぬかせ、古庄文右衛門ハ竹鎗にて脇腹を突せ、横田杢十郎ハ肩先を突せ、菅権七も深手負、鑓持角蔵ハ首を打ぬかれしかとも尚死せす 老年迄其矢首に止り候 、如此手負討死多候へ共、昭正尚進て既に犬走に着んとせし時、鉄炮にて右の肩を打せ転ひける所に、又石にて目庇をうたれ、深手にて働難く、死人に腰をかけ息つき居たる処、従兵卅計の武者半弓を持せ長刀を提けたるか、昭正か側近く来り、何の御衆に候や、深手負れ御家来も手負死を致し比類なき御働ニ候、我等ハ黒田甲斐守家来にて候、互に名乗合て証人となるへしと云、昭正同心せす、是ハ仰とも不覚候、今存命不定の体にして、いかに城に後を向候へき、元より後栄を求る所存ならねハ証人の望も無之候、細川越中守家中にてハ人らしく召仕候者なる由、すげなく申切て以後ハ返答をもせさりし故、此上ハいかに云共引かれまし、扨々けなげなる振舞哉と感する声して立去り候、其後御旗本よりの命によりて頼母助・清田石見等に理り本陳に帰り候

宇野弥次兵衛一揆壱人仕とめ、石垣上るとて創を被り、伊藤儀大夫ハ討死いたし、嫡子権之允も手負候、河喜多久四郎・臼杵弥角兵衛なと一同ニ磡に着に木石等しきりに来り、久四郎か冑の真向に石あたり、立物微塵にくたけ、鉢を打ひしかれ候へ共不引堪居候

筑紫大膳磡に上り石に打れて創を被り、入江徳左衛門 大膳組 も同所に上り、高見権左衛門と一所に働、戸波儀大夫・飯銅上右衛門 ・財津善内兵衛 等同き励て、有馬豊氏の内有馬左門なと詞をかハし候由、其時徳兵衛冑に石あたり、立物も打折れ手負候へ共、猶堪て相働く 後に本丸に乗入 、上右衛門は真向より胸板ニかけ石にて打れ落候而働難成候間、家来肩ニかけ引取候 其時打よかめたる甲冑今の飯銅上太持伝居申候 、高見・財津も手負候、長岡八郎左衛門も石手負候へ共、猶もすゝむて相働、出田左兵衛 後作左衛門 ハ養父宮内元旦ニ手負候間、其組を支配いたし、今日も本丸塀下ニはやく着、立石助兵衛父子ハ三丸ニ而五十三人の組足軽を備、二ノ丸ニ乗入候処、小屋々々やけ煙にて道も難見分、此時足軽三十九人ハ嫡子市兵衛に付候而本丸石垣下ニ着働候処、残る者共を助兵衛召連来、父子一所に働、鉄炮を打せ候、不破平大夫も詰寄働候処、小頭冨田又兵衛鉄炮ニ中り、其外手負有之候へ共、尚も鉄炮打せ候、国友式右衛門も鉄炮打せ居候所に、佐渡守家人尾崎伊右衛門足軽五人つれ来り、式右衛門とおなしく打せ候ニ、弐ヶ所に鉄炮あたり本陳にかへり候、生地武右衛門先にすゝむを松井外記呼かけ、働ハいかにと問、武右衛門鑓をいたししるしを取慥なる由答けれハ、外記こゝろよく、我等も四人の子ともハ鳥飼召使ふ者共似合に心はせいたさせし上ハ、内々の通討死と極候也、先へ/\と云て采拝をふる故、武右衛門弥すゝミ行に、志水又左衛門一重 後一郎兵衛 に行逢、日比互に武勇を争ひ不快なりしか、此時和睦して共に助け合んと約し、打連て蓮池の上手の道にかゝり、向の岸に至らむとす、此時両人の外味方なく、屏の外石垣の辺に敵夥敷見へし中より、弐人相かゝりにすゝミ来るを、志水ハ升形の方岸下にて敵を突伏せ、生地ハ海手の方にて仕留、古井の内にはね入る
  右之鑓働を永良長兵衛二の郭の高ミより遠見し、後に沢村宇右衛門・丹羽亀之允・
  平野九郎右衛門等にむかひ、蓮池上の道にて茜の■(しなゑ)をさしたる武士弐人
  花やかなる鑓働せしを見たりと語り、廿九日の朝御本陳ニ興長出たる時、四人右之
  趣を申候間、武右衛門・又左衛門に書付出させ、佐渡より相達候と也、又左衛門は
  手負て引取、武右衛門ハ段々働有、佐渡家中にて原城武功の褒美ハ皆腰刀・金銀
  ニ而候へ共、武右衛門はかり百石の加増を遣し候、後年家老申付、山本源五左衛
  門と改候
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保科正之やら九鬼嘉隆やら

2009-01-14 17:06:29 | 徒然

「保科正之を大河ドラマに」しようと、地元があつめている署名総数が313,000人余になったと、「中日新聞」の記事としてYAHOOトピックスが伝えている。正之公生誕400年の2011年実現を目標に、NHKに要請を行う予定だそうだが、上伊那8市町村でつくる議員連盟が主に成っているようだ。
           ja.wikipedia.org/wiki/保科正之

熊本あたりでも、そんな気のきいた議員さんたちが出てこないものか・・・駄目だろうな・・
「細川三代」はドラマになると思うのだけれど・・・・・・

一方、「九鬼嘉隆」についての「大河ドラマ化」のアンケートが取られている事実がある。
           ja.wikipedia.org/wiki/九鬼嘉隆

さてさて向後どうなるのか興味は尽きない。
差し当たり「直江兼続」を、妻夫木何某がどう演じるのか、それも気になっている。
           www.nhk.or.jp/drama/html_news_tenchi.html
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熊本城・・源之進櫓

2009-01-14 15:50:52 | 歴史
熊本城内の多くの櫓の内に、関係した人物の姓なり名なりを冠したものが三つある。
飯田丸は加藤氏時代の飯田覚兵衛、監物櫓は細川家重臣・長岡監物、そして今ひとつが河喜多源之進に預けられたという「源之進櫓」である。(加藤氏時代の平左衛門櫓が一番大きいが現在はない)
2008年10月22日のブログで「河喜多石見の枝葉」を書いた。その折の系図を再掲する。


         +--河北五左衛門
         |  明智家中小笠原甚左衛門誅伐仕手・討死
         |
         |            +--平十郎
         |            |  父・石見死亡時勘気、後五百石、病死跡断絶
         |            |
         |            |           +--某 御暇
 ガラシャ夫人殉死|   妙見龍王城預  |           |        
 河北石見---+--藤平(石見)---+--五郎左衛門---+--助兵衛・・・・・・・・・・・・→列蔵家
          |    飯河豊前誅伐仕手・討死        | 
          |           |           +--次左衛門 病死
          |           |           |
          |           |           +--吉兵衛 病死
          |           |           |
          |           |           +--勘左衛門・・・・・・・・・・→助三郎家
          |           |           |
          |           |           +--角左衛門・・・・・・・・・・→一二家
          |           +--某
          |           |
          |           +--源之進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→和学家
          |               (父)石見相果候砌出生仕候
          +--甚吉(嘉兵衛)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→治部左衛門家
              細川休無忠隆家臣(誕生時より慶長八年迄)その後豊前にて召出

この源之進、父藤平(石見)が飯河豊前誅伐の際その仕手に指名され、不幸に討死した前後に出生している。幼名久四郎、島原の乱にも出陣して働いたが控えめな性格であったらしく、「先祖の働き」に比べると大した働きもしていないと、自らの戦功を言い立てることもなかった。後、「綱利君御幼年の比六斎門の上御櫓一ヶ所御預被成」従類共二居住したと綿考輯録(忠利公・下巻P50~51)は記している。これが今に源之進櫓と呼ばれるものである。
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島原の陣--決戦の日・・14

2009-01-14 09:29:08 | 歴史
立允主ハ向の升形より七八九間程の所にしはらく蹈こたへ、其後升形ニ御付候ニ、御供も前後ばら/\に少ク成、一所に居候ハ七人衆、原伝右衛門・昇の小頭能勢藤右衛門・御馬しるしさし角助・御加子 黒鍬の役也 権三郎・半兵衛家来両人彼是十二三人はかり有之、熊本の御人数も追々ニ岸下ニ着、中ニも山田新九郎ハ猩々皮の羽折を着、立允主の御側に参、御見知被下候様ニと申候と也、城内の防つよく弓鉄炮の外種々の物を投出し、灰をまき不浄を打掛候得へ共、初ハこらへ居候が、つゝけて投出し候ニ乱れ立、こらへたる者も友崩ニ石垣下より横筋違ニ、立允主の御座候方ニ三ケ度なたれ懸り候ニ、いつれも頂をふミつふさるゝとも不騒、折敷鑓の穂先をなたれ候者の方に向ケ候へと御下知にて其通りいたし、猶なたれ掛る者を御側の面々下江引居へ、三度目ニハ押留候而、以前の石垣下ニもとりこたへ候也

自是先、御馬験ハしほりて流尾筋の下ニ可指置旨御下知ニ付、其通いたし置候処、佐方源助心を付、揚時分遅きとて呼ニ罷越候、立允主も御心に叶ひ、はや揚ケ候へと原伝右衛門ニ被仰候ニ付、石垣下にしほりくる所の四半の大旗を押張立堅メ候時、跡より又二三間御詰寄被成候、夫より石垣の上ニ可上とて伝右衛門・藤右衛門両人ニ而引上候を、城内より見付防候間、藤右衛門も三ヶ所石手を負、馬印の絹打やふり、竿も雁股ニ而射割、鉄炮ニ而打折、角助も石手弐ヶ所負、腰より下三ヶ所鉄炮にて打抜候へ共、強力者ゆへ二度迄ハこたへ居候処、三度目にハ御馬印をさしなからたをれ候ニ付、手引ニ付居候黒鍬組権三郎鍬をこしにさし、馬印を取揚たるに、横手絹共に抜候を打ふり、細川立允一番乗と二声三声呼はり候、権三郎も石手を負候

扨伝右衛門・藤右衛門両人にて絹の不散様に押わげ、立允主の御側に持参候へハ、下なる昇をあけ候へと被仰、又御昇壱本張立上たる石垣の上に差上候ニ、此時其左右にハせり合はけしく候へ共、昇上る所には敵居不申、無別状立堅メ候、本丸升形虎口の石垣ニ一番に馬験を付堅メ候事一二の争ひ一人も無之、日の三尺はかり高き時分の由也、歩行之小姓梶野市右衛門と申者御馬験に付居候ひしか、御楯を持来、立允主の前ニ立候と也
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島原の陣--決戦の日・・13

2009-01-13 23:09:30 | 歴史
松井新太郎ハ早く蓮池の上に至り、鉄炮をくばり後勢を見合する所に、松井角兵衛来り、無程尾藤金左衛門馳着、志水新之允も組を下知して出来り、本丸に着んと云、新太郎申候ハ、然らハ我等か鉄炮にて上箭をうたせ、先を払ふて各をのせ参らすへし、それ角兵衛も来り候へとて、足軽をくり出し岸をのほらせ候、小笠原備前・清田石見等も下知を加て本城に逼る、長岡右馬助ハ手創重く本陳に帰り候へ共、其組は思ひ/\二先手に加り、惣而諸手共に一騎かけの風情なれハ、諸奉行・諸頭も我一と争ひすゝミ、次第前後の格も崩れ、他家の士卒・諸浪人も志有ハ入交て相働候、光利君もとく二の丸に入て御下知被成候、浅山修理亮御先をはらふて足軽をすゝめ、立所に賊三人を打殺させ、其身も壱人鑓付て首を取、高橋九左衛門も御先ニ鉄炮を立夜ニ入候而ハ御意を請、浅山修理・猿木勘左衛門同様ニ本丸ニ参、寺尾左助と一所ニ鉄炮打せ候 、林弥五左衛門御筒召連、御旗先を守護仕り、御馬印ハ村井長兵衛あつかり能ク裁判いたし、堀平左衛門ハ御側の鉄炮よく立候而御意ニ叶申候

忠利君も無程ニ丸に御馬をすゝめられ、御旗本の内にても先江被遣候面々も有之候、落合勘兵衛二の丸ニ而鉄炮の立様、両殿様御意ニ叶候由仰を蒙り候が、与召連御先二参可申旨被仰付候、大将分の内にては林丹波守殿早く二丸に乗入れ候か、あまりに先を志して後ハ士卒に離れ主従三人に成、其身鉄炮に中り壱人の家来も手負、僕壱人鑓をかつき甚難儀の体なりしに、立孝主の軽卒石川三郎右衛門それと知て近寄候をまねき、我を本営ニ送り得させよと仰候間、畏て扶け起し脊負て大勢の中を押分かへり候 吉政悦て姓名を問、後に立孝主に謝礼有之候也

沢村宇右衛門ハ本丸に引取る一揆に詞をかけ候へハ、五六人取てかへし突かゝるを両方たゝき合、弐人突伏る内に其余ハ本城に引入候間、首を取て御前二持来候、服部九郎太郎 十七歳 も友好につゝき働けるか、鑓を合せ太腹を突せなから抜打に其敵の首を切て落す、友好さし寄て九郎太郎か背を抑へ鑓を抜せ候へハ、九郎太郎敵の首を提け打笑て立上り候へ共、深手にて血夥しく流れ存命不定ニ候を、忠利君遥に御覧し付られ、扨々気強なる若者名を何と云そと御尋被成候、友好、之直と一所に在て私手に付参候、浪人服部九郎太郎と申者ニ而候と申上候へは甚御感被成、水をとらすへしとて、手桶の底に少有ける水を柄杓なから被下候、友好罷出けれ共御手つから被下、気力を付候へと被仰、服部有かたく頂戴仕候、友好申候ハ、今衆軍身命を忘れ一盃の水をも求め難きに、匹夫の身にて君前の清水を賜る、平日の万鈞にもかへたし、冥加に叶たる者哉、向後掻器を以服部か家の紋と定め候へしと申候へハ、忠利君も御喜悦被成候、
有吉舎人勝之賊三人と突合、弐人を突留、寺本八左衛門見届候、且御前にての高名なる故御褒美として鞍置馬を被下候、右之外高名の輩多く、死傷の者も有之、はやすゝむて本丸ニ着たるも多く有之候、忠利君も蓮池の辺まて御すゝミ被成、伊豆守殿・左門殿江御使者被遣、二丸迄御出候へと度々被仰進候、
中川長吉は海手の方より二の丸ニ乗入候処、蓮池の上坂中にて鑓を合、其敵を仕留候が、鉄炮しけく来り胴ニ五ツ迄玉留り、右の手の甲を打抜、痛ミ強く首を取事ならす鼻をそき候、其時味方壱人も不来、無程藪嶋之助きたり詞をかわし、森半大夫父子も本丸の方ニすゝミ候間、長吉も本丸にかゝり可申と云を、中々其手にてハ成ましく候、是非共二引取可然由半大夫申候、佐渡家来松井外記も参、見届候段申、三尺手拭を以疵を巻、首に懸させ、下ニ有之陳小屋ニ連来、暫居候様、無程落城之節一同ニ引取可然由申候而外記ハ先二すゝミ候、
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島原の陣--決戦の日・・12

2009-01-13 08:28:10 | 歴史
佐渡・頼母・寄之等ハ二の丸にて働く士卒ニむかひ、此敵を悉く討んとせは、他の手より駆ぬけて本丸を乗取る事もあらむか、壱人なりと先にすゝミ、本城に乗入て高名を遂られ候へと下知いたし候間、我先にとすゝミ候へ共、賊徒尚も二ノ丸にさゝへて防き、塀の内よりも鉄炮打候間、一同に磡に付事もならす、蓮池の辺にて敵合勝負も数多あり、他家の士卒・浪人等も少々すゝミ来りて相交り、分捕高名之者有之候、間野勘左衛門貞勝鑓を合せ首を取、式部手に属たる浪人伊藤市兵衛、中根市左衛門に付たる加々山作兵衛一所に在て相働、藪図書か三男藪熊之允・寺尾求馬信行 舎人組 同所にて鑓を合、同く賊を討、鑓を奪ひ蓮池の上より岸を攀(ヨジリ)て攻上る、藪か手に附たる浪人山田庄兵衛も共に働き、同浪人奥田藤左衛門鑓を合首を取、夫より本丸磡の下に至、興長家士上原九郎右衛門ハ蓮池の辺に在しに、敵十人はかり鑓を揃突かゝる、上原か下人四五人有けるか突立らるゝ、九郎右衛門すゝんて鑓を入、賊を突伏首を取、立上らんとする時、五六人前後より取つゝミ、鑓数にて終に上原を突ふする、年久敷召使候者続て敵を討、深手負て忽倒れ候、遠藤九兵衛も鑓を合、突伏て鼻をかき鑓をも奪ひ、尚すゝんて松崎助左衛門等と共に相働く、栗坂一大夫ハ城中の陥穽に落入腰を打、刃簇を蹈て足にも疵を得なから杖にすかりて興長か矢面に立を、本陣に帰れといへ共不退 後城中に入、家僕四人各石にて疵を被る 、頼母助者も進むて働き、米田与七郎ハ蓮池の辺にて小屋より賊不意に出突かゝるを、不透鑓を合突伏る、時に歩卒田辺小右衛門大音にて、只今出たる敵を米田与七郎突とめたり、いつれも御覧候へと呼ハり候、是長か者頭松岡四郎兵衛すゝミけるに、敵大勢鑓長刀を揃突かゝるを、松岡鑓を合壱人突伏る、小崎次郎左衛門 藪図書組 松岡と同時に鑓を合、首を取、藤本伊織・谷助大夫等も一所に在て相働く、松岡が嫡子権佐ブロウもよくかせき候 本城升形の下に着て疵を被り候 、松井外記父子五人すゝむて働き、嫡子仁平次勝次小屋より出る敵を突伏討取、弟中山助九郎 中山藤兵衛養子 ・角田伊左衛門・同左五右衛門も思ひ/\に働き候、堀口庄右衛門恒広ハ兼而討死を極めけれは、前後左右に敵をうけ二三人突倒し、数ヶ所の疵を被り其場をさらす死を遂る、外記も戦死の志故嫡子仁平次と相別れ前ミ候に、不浄捨の水道より乗入んと思ひ、蓮池のほとりに臨ミ、鑓を取て手痛く戦ひ賊を突伏ける時、堀口か討たれるを聞、則其場に至り見るに、既に息絶しかハ尸(シカバネ)を起し、外記も程なく追着へきそと高らかに申候、庄右衛門嫡子三太郎 十六才、後庄右衛門 大病にて小屋に居る由を聞、死骸を送り、今ハ思ひ置事なしと云て、寄之か矢表にすゝミ候、
  堀口三太郎ハ、父庄右衛門諸勢と共に城乗する由を聞起て、浪士菅屋一運斎并桑原
  弥兵衛一同に打出、無程寄之に追付、猶すゝむて蓮池の頭に至、本丸海手の石垣に
  着、石手鉄炮手負候へ共不退、諸勢と共に本丸に入、父か討死せし事不知しと也
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島原の陣--決戦の日・・11

2009-01-12 10:51:48 | 歴史
八代衆の活躍
夫より立允主ハ本丸北の方流尾筋の山下に御押詰候節、城中より之鉄炮はけしく来候へ共踏こたへられ候、此辺ニ而有馬玄蕃殿家老有馬内記来り、上下廿人はかりにて居候か見事ニ有之、立允主御詞をかけれれ候由、此尾筋四方より能見へ、さて難所にて踏留かたく、御側の面々御手を引御腰を押なとして御供いたし、別而中山少大夫御先ニ立、右之通仕、御牀机も参合不申候間、少大夫膝にしはらく御腰をかけられ御休被成候、此砌の事にや井門文三郎御先に参候を、志方半之允文三郎か上帯を後より取、引すへ、其方御供之様子御鷹野の時分の体にてハふり合見事也と誉る、文三郎今年十九才也、此時の返答に是程の事に振合か入事ニてハ無之と云しと也 後ニ半兵衛委細ニ言上仕候へバ、亀右衛門か孫じやほとにさう有ふとの御意有之候由

扨若き者共ハ城ニ乗、挊(ハタラキ)候へと御下知ニ付、中にも上羽又右衛門支配之御筒持ニ而、御座所より壱間計りすゝミ出、壱尺程の岸ニ一番ニあかり、折敷鉄炮打かけ候を見事也と両度迄御褒詞ニ付而、ふりかへり御礼申上候由、其時坂本角之允に、其方常々鉄炮得ものなれハ、又右衛門同前ニ打候へと被仰候ニ付、御持筒おつ取、又右衛門か右脇に揚り折敷打候か、又所をかへ左の方ニ而打候ニ薬を打きり、少大夫に薬ハなきかと申候へハ、首ニかけたる早がうを引切、両度遣申候、何も敵五六人も打候様ニ覚、坂本ハ別而広言して挊候ニ、出丸より之横矢両もゝを打ぬき、あをのけニ倒れ候時、立允主、手負候哉、申残す事あらハ申置候へと御直ニ被仰候、老母壱人居候間、奉願由申候へハ、御心得候と被仰、半兵衛ニ角之允のけさせ候と被仰、山内九兵衛・溝口久兵衛・守田半左衛門ニのけ候へと申付候、其内二味方五間はかりもすゝミ寄候とて、坂本か伏たる上を乗越候へハ、角之允いかり目をあけ、通り候へとさけひ、あおのけに伏なから脇差をぬき切払ひ候由、又右衛門ハ猶も膝台にて打候をねらひの鳥を打候様ニ有之と、立允主に半兵衛申上御感有之候、又右衛門左の方ニねちむき薬を込候時、右の出丸より鉄炮にて右の鬢先より玉たけ縫て打抜、血なかれ候ニ付、引取候へと被仰候、目に血入難儀いたし候得共、鉄炮を持なから御目通り壱弐間程之内、腰かゝめ如常罷通候 此手負ふり見事ニ候と後迄御感候と也 、歩小姓山内九兵衛・小嶋九郎大夫も同敷御持筒を取て防き候、角之允手負候時ハ升形より十四間半程有之、又右衛門手負候時ハ八九間程ニよせ付候ニ付、向ふハ升形之虎口、西の方右ハ本丸の出丸より横矢強く、手負討死数多にて、此分ニ而ハ城に乗かせき兼可申候、鉄炮頭ニは誰々参候哉、敵を打ひしくへきハ唯今也とて、神足少五郎に右の丸を射閉候へと御下知有之候へ共、御鉄炮漸十挺内外ならて不参防き兼候、然れ共何れも精を出し数多打殺、塀の手打透候、右御取詰被成候前後、中村平吉・加悦長十郎 両人御小姓 ・太田九右衛門 歩小姓 等死を遂、足軽以下之者五人討死、上羽又右衛門・坂本角之允を初手負十三人有之候、此砌藪図書も立允主之御側ニ参候也、右せり合之内大組頭・者頭衆ハいまた不参候哉と、はしめ御尋之時ハ誰も見へ不申、少間有て御尋之時ハ佐渡・頼母昇見へ、其間壱町半弐町半計も可有之哉と申候、其時御使被遣、各其所ニ被罷在候哉、我等ハ先ニ着居候と被仰越候、返答ニ余り進ミ過られ候間、少し御見合可然由也
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頭蓋骨の中で

2009-01-09 23:41:03 | 徒然
 夕方所用で出かけ帰ってきてから頭蓋骨の中がおかしい。右の耳の奥のほうで、メタンガスが発生するような、ボコボコと言う不連続な不愉快な音がずーっと続いている。首を傾げたり、頭を振ったりいろいろしているが、この症状・・すでに8時間ほどになる。晩酌をしてアルコール中毒にしてしまえとばかり、久しぶりに少々過してみたが・・駄目だ。妻に話すと彼女もそういう症状に出っくわしたらしい。「音がする方を下にして寝ると良い」という、ご託宣である。然らばそうして寝るとするかと思う内に、ボコボコ音は酒酔い状態で活発さを増してきて、不愉快極まりない。血圧が上がったのだろうか。さて明日の朝はどうなっていることだろう。首がこわるという、二次災害も発生した。

 1/10 追記
 思いもかけず二三の方にお見舞いを頂戴して恐縮しています。
寝ている間中ボコボコ音に悩まされ、いささか睡眠不足で一時間ばかり遅い起床となりました。症状もすこしは改善されましたが、首を上下に振るとボコッボコッと音がしています。A先生から耳鼻科で診療を受けるよう、お勧めがありました。連休明けには病院に行かなければと思っていますが・・・
いろいろ身体にガタがきて、すっかり老人域に突入したことを体感しています。
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島原の陣--決戦の日・・10

2009-01-09 11:46:25 | 歴史
興長家司松井角左衛門ハ、敵鉄炮をさし当向ふを急に蹈込突候ニ、鉄炮を打放なから仰に倒れて角左衛門には不中、平野弥次右衛門・松井掃部等其早業を感し候、同家来近藤庄兵衛も鑓合に敵を討、辻少左衛門ハ弐人を討取、すゝんて鉄炮創を被り候、西村太兵衛も賊を討、松井右兵衛・入江三大夫ハ竹内七郎右衛門 御馬廻 家人小野三左衛門等と共に鑓を合、敵弐人を討取、杉立市左衛門ハ三人討取、木附茂兵衛・同作右衛門・遠藤九兵衛等何れも力戦首を取、下津半助組の卒を下知して大勢の敵を打しらめ、向ふ敵と鑓を合討取、井口市郎右衛門小屋より出る敵壱人突伏、直ニ小屋に火を放つ、旗奉行西垣庄大夫政吉ハ大四半の団(円)居を押立、真先にすゝミけるか、鉄炮に中て死し、其子太右衛門正勝父に代て乳付の大旗円居をもしきりに先にすゝめ候間、寄之是を呼返し、少し小高き所ニ円居を立て、田中三郎左衛門をして是を守らせ、敵味方の様子を見計ひ、西垣ハ猶も旗をすゝめて先に赴き候、興長ハ二丸に入ても寄之か居所を不知、頻りにすゝミ行に此所にて父子相逢て勇ミ悦ひ、しはらく同所に在て下知いたし候、右馬助重政か嫡子八郎左衛門之直は生膚にてすゝミけるか、簀戸切破て二の丸ニ入、蓮池の近辺にて後殿の敵にわたり合、中にも久留守(クルス)差たる者三人突かゝるに向ひ、壱人の胸板を突通すに、鑓をたくりて近つく所を刺貫きなから鎧着たる賊を中にさし上、二三度振て打付候間、血飛て之直か着たる白黒大筋の袷にかゝり、一入いかめしかりしを見て弐人ハ本丸のかたに逃入候、是此所にての一番首也、沢村宇右衛門ハ御本陣より御供仕候か、頓而御先に参り此所に走着、鑓を合せ敵を討 之直と一二の論有 、家士いつれも相働、小姓矢野新左衛門・足軽秋岡与三右衛門等疵を蒙り、僕少兵衛ハ鉄炮に中て死す、之直弟長岡平左衛門重勝も続て働、若党阿部伝兵衛太刀疵を被る、之直家士林宅左衛門を初各働、中村藤九郎鉄炮創を被り、其外手負多く有之候、右馬助重政組を励シ、手の者をすゝめて二丸に入敵を仕留め、采配を振て士卒をいさめ、小屋々々に火を放たせ、左右を下知して通り候に、小屋の内より賊不意にでて重政をやり過ごし、左の頬先より耳の際迄したゝかに突を、不騒見返りて一鑓に彼賊を仕たをし、家士下田市左衛門に首を取せ候、市左衛門其外家士市野太郎左衛門・太田左次兵衛・三宅儀右衛門等よく働、手疵を負、重政も深手にて苦痛に不堪、隊下并手の者にもよく働候へと申置、本営ニ帰り候、其時も市左衛門に下知し、道々の小屋に火をかけ通り候、折節東風烈敷して二の丸内こゝかしこの火の手焼上り、鍋嶋家より焼立たる出丸の煙と一ツに見へて立のほる、諸手の士卒二丸に入むとしても、追手の方は御当家と立花家の両軍攻入て猛火盛に、天草丸より西の出丸にハ鍋嶋殿衆込入て猛火ニ而通り難く、唯跡より押詰てさゝへたり、此折鍋嶋殿ハ二丸より本城迄も一乗に攻取れと、頻に下知され候へ共、賊徒諸方より集り一図に西の土居を防き働き候間、佐賀勢死傷の者多くいまた其攻ミへさる処に、熊本・柳川の両手二郭蓮池の辺に火をかけ焼上るを見て、土居を守る賊後ろをつゝまれ叶ひ難く存候哉、本城の方に引退く、鍋嶋氏・水野氏等の人数一二を争ひ攻入、諸手もすき間なく詰寄る、賊も心あるハ払ひ太につほむもあれ共、多くハ五三人十人廿三十村々に本丸に引入を立允主御覧候而、神足少五郎にあの敵を打立よと御下知有て、しきりに鉄炮を打掛候、又本丸流尾筋の下に小屋有之、敵出張いたし居候も共に打立られ引取候
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島原の陣--決戦の日・・9

2009-01-08 21:50:17 | 歴史
松野縫殿助ハ亦敵を討て首を取、吉弘四郎大夫も鑓を合、首を取て牧野伝蔵殿実験に備へ、加悦平馬も同所ニ而見之、有吉手米田与七郎ニ属したる浪人篠原清兵衛 一ニ金掘と有廿八日ニ詳出 は敵壱人かゝり候を仕留、首を頼母佐に見せ捨申候、此外我先と二の丸ニ乗入、中にも高名之輩ニハ釘本十左衛門谷主膳組 ・山路太左衛門 同上 ・魚住藤三郎 同上 ・宇野喜太郎 西郡要人組 ・道家清十郎 同上 ・佐分利彦左衛門 備前組 ・佐々次郎右衛門 同上 ・荒木太郎助 伯耆組 中根勘兵衛 同上 ・平野茂左衛門 佐渡組 ・安場仁左衛門 頼母佐組 ・安井喜平次 松野右京組 ・友田八大夫 嶋又左衛門組 ・田辺平大夫 筑紫大膳組 ・青木与吉 同上 ・本庄三郎兵衛 同上 ・天草文右衛門 同上 ・芦田孫作 有吉舎人組 ・芦田次郎左衛門 同上 ・野瀬儀左衛門 同上 ・鳴海門大夫 藪図書組 ・中川佐左衛門 平野九郎右衛門組 ・小崎与次兵衛 坂崎清左衛門組 ・服部武右衛門 ・中路加兵衛 志賀左門組 ・伊丹角助 同上 ・服部九右衛門 同上 ・長谷川七兵衛 仁左衛門子 ・北村半右衛門 西郡組 ・香山与助 ・舎人組 ・魚住藤七 谷組 ・杉山長大夫 同上 ・矢野吉兵衛・荒瀬市之允・大竹与三左衛門・菅村藤兵衛等也、此内手創を被りたるも有之候、辻惣右衛門・安田次右衛門ハ御鉄炮の台打ニ而御供仕候処、惣左衛門忰太郎兵衛・次右衛門忰久左衛門両人申合二ノ丸ニ乗込、鑓を合、銘々冑首討取候、
 此趣追々御聴ニ達候処、細工方之者御場所二罷出、もし手疵を被り候而ハ御用差支候間、右体之
 儀無之様兼而被仰付置候処、背御意不届ニ被思召候、以来左様之儀無之様ニ相心得可申旨被仰
 付候
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田中宇太郎家「家事録」から、明治九年子十月廿四日

2009-01-08 13:42:23 | 歴史
 熊本市横手にお住まいの田中家がお持ちの「家事録」から、神風連にかかわる記事をご紹介する。
この家事録は、熊本市上林町で質屋を営んで居た田中宇七郎が(敬称略)認めたものである。
明治七年家事録戌八月日と表書きされ、裏表紙には大きく田中宇七郎と署名されている。
数ページに亘り、先祖の法名が記されており、その後に明治六年八月から明治廿八年に至る熊本の種々事件が「年代記」として記されている。それぞれの事件の実見や風聞が大変興味深く記されているが、其の記述は教養の高さを伺わせている。


實ニ明治九年子十月廿四日午後十一時三十分、日初西山ニ没シ一天蕭瑟トシテ風穏ニ入定り、只空中銀河ノ耿々タルト星影ノ晃々タルノミシカ俄然トシテ一塊ノ殺氣熊本ニ横リ可驚ノ變動ヲ發生セリ、先ツ市街上無拍子ノ號鐘ヲ鳴シ失火を報スルヨリ各自戸ヲ開ヒテ一覧スルニ火鋒ハ南北へ亘リ五箇所二在リテ南ナルハ京街柳川丁士族早川景矩ノ邸則與倉陸軍中将ノ寄宿、次ハ二ノ丸銃隊營、次ハ櫻馬場砲兵營、次ハ山崎安岡縣令ノ寄宿、極南ハ第三大區小六區士族太田黒惟信ノ邸齊ニ燃立須更ニシテ火光満天二漲リ兵營中大小ノ砲聲震動シ彈丸頭上テ飛ンテ咫尺ノ間ヲ通(異体字)リ従来戦争ノ實景ヲ知ラサル、本地人民肝騰忽顛倒シ、慄々タル折柄或ハ傳フ柵ノ中外抜刀ノ士數百人アリテ己ニ兵隊其他軒(斬カ)殺無數ナルヲ見タリト、是ヲ聞テ忽雑沓紛亂ヲ究メ、火闌ナルニ及テハ鎮臺ノ近傍寂々トシテ人ナキカ如ク却テ市街ハ老ヲ扶ケ幼ヲ携へ遠近ノ親類ニ依テ安寧ノ地ヲ求ン事ヲ要シ、東西ニ奔走シ南北ニ馳騁シ北變ヲ避ケニ事ナシ、漸暁天ニ没シ廿五日ニ迄モ家財遠近ニ運送シ荷車ケハシク廿七八日コロヨリ市街相鎮リ候事

熊本藩士惣計百八十四人、鎮臺討死三百余、隗首熊本士族上野謙吾・加陽齊堅・太田黒伴雄 其夜深手ニ付生害致、其余も討死切腹追々残党相知多ク懲役ニ為成、巡査之手より相知候分ハ命運無候事 如何取筋合歟御裁判之儀ハ相分不申世情相静候事 珍事記ス 陸軍少将様余明ニ討死、熊本縣令安岡良亮様今夕討死
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島原の陣--決戦の日・・8

2009-01-07 13:09:42 | 歴史
鍋嶋家の攻口をさゝえたる切支丹共は天草丸・有江まるをも破られ、西の土居をきひしきかため、矢石を発して防之、田尻口の方を被破たる者も尚郭中にさゝへて相働候、当家の士卒しきりに進むて賊を討、殊に松山次郎大夫 松野右京組 は敵三人と突合、腕耳の下ふゑの脇をも突せ候へ共、起上りて壱人突倒し候、扨長刀にて冑頬当の上小手をも切られなから、又壱人仕留、壱人ニハ手を負せ候へとも、其身深手なれハ鑓をふる事もならず、歩行も難成引取候ニ、光利君御懇之御意御座候と也
和田伝兵衛子和田清大夫 後ニ与右衛門 も松山と一所に有て相働く 一ニ敵を打 、大嶋彦左衛門 小笠原備前与 は敵五人にわたり合、壱人突伏候へハ、残りハ小屋ニ逃入を亦壱人突すゆる、此時胸板を突伏候、伊藤左内 西郡要人与 すゝむて働候処、膝に鉄炮手を負、平野九大夫・森半大夫 藪図書与 ・乃生右平太 志賀左門与・蜂須賀弥次兵衛 筑紫大膳与 等は各敵を討取、佐藤安右衛門 右馬助与 は小屋之前ニ居たる敵壱人鑓を以立むかひ候を突伏、鼻をそかせ、扨ため池の右手二付本丸・出丸の方ニ進候処、小屋内より鑓突出シ候間、則突ふせはなをそかせ候、其小屋之前に土手有之、矢かゝりよく候間、御鉄炮を立しはらく打せ候内ニ、組之足軽自分者ニも手負少々有之、其時国友式右衛門・高田角左衛門・松岡久左衛門・伊藤山三郎等同前ニ参居候、田中作之允水の手口より乗入、壱人突留る、扨本丸の方ニにくる敵を追掛候処、壱人取て返し懸り来る所を突候へハ、つかれなから柄を取て飛候ニひかれころひ胸を強く打、二の丸のため池ニ而息をつき居候内、各本丸の方ニすゝミ行、右鑓付候敵も余人仕留候也、竹内八兵衛 志賀左門与 ハ鑓を合せ首を取けれ共、右の腕ニ鑓手負働ならす本陣に帰り、有吉舎人は敵弐人鑓長刀にて向ひ候を壱人突伏候、後藤一十郎小屋より出る敵壱人を仕留、北村甚十郎 鳥井六左衛門与 は浪人出田太郎左衛門と共ニ大勢の中にて鑓を合、賊を討、又組討の働有、河喜多久四郎 後ニ源之進 正季賊三人突留、道家角左衛門と互に詞を交し相働く、臼杵万五郎小屋の内の敵壱人突、又太刀打して首ハ切捨にし、兄庄大夫ハ組討に賊を仕留、元田伝次も首を取 後鉄炮手負候へ共本丸ニ入 財津市兵衛ハ小屋間を駆通る所に、敵不意に出て突掛るを見返て鑓の鐏(イシヅキ)ニて突倒し首を刎、渡部平左衛門 大筒打 は敵十四五人なた長刀にてかゝり候ニ渡り合、鑓にて三人仕留申候、片岡平之允・余田三右衛門・高本慶宅も敵を討て首を取、余田ハ終ニ討死いたし候、藤本九右衛門 勘助嫡子 先にすゝむて鉄炮にあたり手を負、歩頭本庄角兵衛ハ御旗本より御使として罷越、御意之趣等申渡、直ニ二の丸ニ乗込候か、よく働て手疵を負引取候、若党弐人討死、小者弐人手を負申候、先手の様子御尋ニ付委敷申上、御本陣に相詰申候
 御帰陳之上被仰渡候ニ、御軍法を破一分之働仕候間、切腹をも可被仰付候得共、御赦免被成之旨
 也、後ニ名字を柴任と改申候
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