津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・11

2009-01-12 10:51:48 | 歴史
八代衆の活躍
夫より立允主ハ本丸北の方流尾筋の山下に御押詰候節、城中より之鉄炮はけしく来候へ共踏こたへられ候、此辺ニ而有馬玄蕃殿家老有馬内記来り、上下廿人はかりにて居候か見事ニ有之、立允主御詞をかけれれ候由、此尾筋四方より能見へ、さて難所にて踏留かたく、御側の面々御手を引御腰を押なとして御供いたし、別而中山少大夫御先ニ立、右之通仕、御牀机も参合不申候間、少大夫膝にしはらく御腰をかけられ御休被成候、此砌の事にや井門文三郎御先に参候を、志方半之允文三郎か上帯を後より取、引すへ、其方御供之様子御鷹野の時分の体にてハふり合見事也と誉る、文三郎今年十九才也、此時の返答に是程の事に振合か入事ニてハ無之と云しと也 後ニ半兵衛委細ニ言上仕候へバ、亀右衛門か孫じやほとにさう有ふとの御意有之候由

扨若き者共ハ城ニ乗、挊(ハタラキ)候へと御下知ニ付、中にも上羽又右衛門支配之御筒持ニ而、御座所より壱間計りすゝミ出、壱尺程の岸ニ一番ニあかり、折敷鉄炮打かけ候を見事也と両度迄御褒詞ニ付而、ふりかへり御礼申上候由、其時坂本角之允に、其方常々鉄炮得ものなれハ、又右衛門同前ニ打候へと被仰候ニ付、御持筒おつ取、又右衛門か右脇に揚り折敷打候か、又所をかへ左の方ニ而打候ニ薬を打きり、少大夫に薬ハなきかと申候へハ、首ニかけたる早がうを引切、両度遣申候、何も敵五六人も打候様ニ覚、坂本ハ別而広言して挊候ニ、出丸より之横矢両もゝを打ぬき、あをのけニ倒れ候時、立允主、手負候哉、申残す事あらハ申置候へと御直ニ被仰候、老母壱人居候間、奉願由申候へハ、御心得候と被仰、半兵衛ニ角之允のけさせ候と被仰、山内九兵衛・溝口久兵衛・守田半左衛門ニのけ候へと申付候、其内二味方五間はかりもすゝミ寄候とて、坂本か伏たる上を乗越候へハ、角之允いかり目をあけ、通り候へとさけひ、あおのけに伏なから脇差をぬき切払ひ候由、又右衛門ハ猶も膝台にて打候をねらひの鳥を打候様ニ有之と、立允主に半兵衛申上御感有之候、又右衛門左の方ニねちむき薬を込候時、右の出丸より鉄炮にて右の鬢先より玉たけ縫て打抜、血なかれ候ニ付、引取候へと被仰候、目に血入難儀いたし候得共、鉄炮を持なから御目通り壱弐間程之内、腰かゝめ如常罷通候 此手負ふり見事ニ候と後迄御感候と也 、歩小姓山内九兵衛・小嶋九郎大夫も同敷御持筒を取て防き候、角之允手負候時ハ升形より十四間半程有之、又右衛門手負候時ハ八九間程ニよせ付候ニ付、向ふハ升形之虎口、西の方右ハ本丸の出丸より横矢強く、手負討死数多にて、此分ニ而ハ城に乗かせき兼可申候、鉄炮頭ニは誰々参候哉、敵を打ひしくへきハ唯今也とて、神足少五郎に右の丸を射閉候へと御下知有之候へ共、御鉄炮漸十挺内外ならて不参防き兼候、然れ共何れも精を出し数多打殺、塀の手打透候、右御取詰被成候前後、中村平吉・加悦長十郎 両人御小姓 ・太田九右衛門 歩小姓 等死を遂、足軽以下之者五人討死、上羽又右衛門・坂本角之允を初手負十三人有之候、此砌藪図書も立允主之御側ニ参候也、右せり合之内大組頭・者頭衆ハいまた不参候哉と、はしめ御尋之時ハ誰も見へ不申、少間有て御尋之時ハ佐渡・頼母昇見へ、其間壱町半弐町半計も可有之哉と申候、其時御使被遣、各其所ニ被罷在候哉、我等ハ先ニ着居候と被仰越候、返答ニ余り進ミ過られ候間、少し御見合可然由也
コメント (2)
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