松井新太郎ハ早く蓮池の上に至り、鉄炮をくばり後勢を見合する所に、松井角兵衛来り、無程尾藤金左衛門馳着、志水新之允も組を下知して出来り、本丸に着んと云、新太郎申候ハ、然らハ我等か鉄炮にて上箭をうたせ、先を払ふて各をのせ参らすへし、それ角兵衛も来り候へとて、足軽をくり出し岸をのほらせ候、小笠原備前・清田石見等も下知を加て本城に逼る、長岡右馬助ハ手創重く本陳に帰り候へ共、其組は思ひ/\二先手に加り、惣而諸手共に一騎かけの風情なれハ、諸奉行・諸頭も我一と争ひすゝミ、次第前後の格も崩れ、他家の士卒・諸浪人も志有ハ入交て相働候、光利君もとく二の丸に入て御下知被成候、浅山修理亮御先をはらふて足軽をすゝめ、立所に賊三人を打殺させ、其身も壱人鑓付て首を取、高橋九左衛門も御先ニ鉄炮を立夜ニ入候而ハ御意を請、浅山修理・猿木勘左衛門同様ニ本丸ニ参、寺尾左助と一所ニ鉄炮打せ候 、林弥五左衛門御筒召連、御旗先を守護仕り、御馬印ハ村井長兵衛あつかり能ク裁判いたし、堀平左衛門ハ御側の鉄炮よく立候而御意ニ叶申候
忠利君も無程ニ丸に御馬をすゝめられ、御旗本の内にても先江被遣候面々も有之候、落合勘兵衛二の丸ニ而鉄炮の立様、両殿様御意ニ叶候由仰を蒙り候が、与召連御先二参可申旨被仰付候、大将分の内にては林丹波守殿早く二丸に乗入れ候か、あまりに先を志して後ハ士卒に離れ主従三人に成、其身鉄炮に中り壱人の家来も手負、僕壱人鑓をかつき甚難儀の体なりしに、立孝主の軽卒石川三郎右衛門それと知て近寄候をまねき、我を本営ニ送り得させよと仰候間、畏て扶け起し脊負て大勢の中を押分かへり候 吉政悦て姓名を問、後に立孝主に謝礼有之候也
沢村宇右衛門ハ本丸に引取る一揆に詞をかけ候へハ、五六人取てかへし突かゝるを両方たゝき合、弐人突伏る内に其余ハ本城に引入候間、首を取て御前二持来候、服部九郎太郎 十七歳 も友好につゝき働けるか、鑓を合せ太腹を突せなから抜打に其敵の首を切て落す、友好さし寄て九郎太郎か背を抑へ鑓を抜せ候へハ、九郎太郎敵の首を提け打笑て立上り候へ共、深手にて血夥しく流れ存命不定ニ候を、忠利君遥に御覧し付られ、扨々気強なる若者名を何と云そと御尋被成候、友好、之直と一所に在て私手に付参候、浪人服部九郎太郎と申者ニ而候と申上候へは甚御感被成、水をとらすへしとて、手桶の底に少有ける水を柄杓なから被下候、友好罷出けれ共御手つから被下、気力を付候へと被仰、服部有かたく頂戴仕候、友好申候ハ、今衆軍身命を忘れ一盃の水をも求め難きに、匹夫の身にて君前の清水を賜る、平日の万鈞にもかへたし、冥加に叶たる者哉、向後掻器を以服部か家の紋と定め候へしと申候へハ、忠利君も御喜悦被成候、
有吉舎人勝之賊三人と突合、弐人を突留、寺本八左衛門見届候、且御前にての高名なる故御褒美として鞍置馬を被下候、右之外高名の輩多く、死傷の者も有之、はやすゝむて本丸ニ着たるも多く有之候、忠利君も蓮池の辺まて御すゝミ被成、伊豆守殿・左門殿江御使者被遣、二丸迄御出候へと度々被仰進候、
中川長吉は海手の方より二の丸ニ乗入候処、蓮池の上坂中にて鑓を合、其敵を仕留候が、鉄炮しけく来り胴ニ五ツ迄玉留り、右の手の甲を打抜、痛ミ強く首を取事ならす鼻をそき候、其時味方壱人も不来、無程藪嶋之助きたり詞をかわし、森半大夫父子も本丸の方ニすゝミ候間、長吉も本丸にかゝり可申と云を、中々其手にてハ成ましく候、是非共二引取可然由半大夫申候、佐渡家来松井外記も参、見届候段申、三尺手拭を以疵を巻、首に懸させ、下ニ有之陳小屋ニ連来、暫居候様、無程落城之節一同ニ引取可然由申候而外記ハ先二すゝミ候、
忠利君も無程ニ丸に御馬をすゝめられ、御旗本の内にても先江被遣候面々も有之候、落合勘兵衛二の丸ニ而鉄炮の立様、両殿様御意ニ叶候由仰を蒙り候が、与召連御先二参可申旨被仰付候、大将分の内にては林丹波守殿早く二丸に乗入れ候か、あまりに先を志して後ハ士卒に離れ主従三人に成、其身鉄炮に中り壱人の家来も手負、僕壱人鑓をかつき甚難儀の体なりしに、立孝主の軽卒石川三郎右衛門それと知て近寄候をまねき、我を本営ニ送り得させよと仰候間、畏て扶け起し脊負て大勢の中を押分かへり候 吉政悦て姓名を問、後に立孝主に謝礼有之候也
沢村宇右衛門ハ本丸に引取る一揆に詞をかけ候へハ、五六人取てかへし突かゝるを両方たゝき合、弐人突伏る内に其余ハ本城に引入候間、首を取て御前二持来候、服部九郎太郎 十七歳 も友好につゝき働けるか、鑓を合せ太腹を突せなから抜打に其敵の首を切て落す、友好さし寄て九郎太郎か背を抑へ鑓を抜せ候へハ、九郎太郎敵の首を提け打笑て立上り候へ共、深手にて血夥しく流れ存命不定ニ候を、忠利君遥に御覧し付られ、扨々気強なる若者名を何と云そと御尋被成候、友好、之直と一所に在て私手に付参候、浪人服部九郎太郎と申者ニ而候と申上候へは甚御感被成、水をとらすへしとて、手桶の底に少有ける水を柄杓なから被下候、友好罷出けれ共御手つから被下、気力を付候へと被仰、服部有かたく頂戴仕候、友好申候ハ、今衆軍身命を忘れ一盃の水をも求め難きに、匹夫の身にて君前の清水を賜る、平日の万鈞にもかへたし、冥加に叶たる者哉、向後掻器を以服部か家の紋と定め候へしと申候へハ、忠利君も御喜悦被成候、
有吉舎人勝之賊三人と突合、弐人を突留、寺本八左衛門見届候、且御前にての高名なる故御褒美として鞍置馬を被下候、右之外高名の輩多く、死傷の者も有之、はやすゝむて本丸ニ着たるも多く有之候、忠利君も蓮池の辺まて御すゝミ被成、伊豆守殿・左門殿江御使者被遣、二丸迄御出候へと度々被仰進候、
中川長吉は海手の方より二の丸ニ乗入候処、蓮池の上坂中にて鑓を合、其敵を仕留候が、鉄炮しけく来り胴ニ五ツ迄玉留り、右の手の甲を打抜、痛ミ強く首を取事ならす鼻をそき候、其時味方壱人も不来、無程藪嶋之助きたり詞をかわし、森半大夫父子も本丸の方ニすゝミ候間、長吉も本丸にかゝり可申と云を、中々其手にてハ成ましく候、是非共二引取可然由半大夫申候、佐渡家来松井外記も参、見届候段申、三尺手拭を以疵を巻、首に懸させ、下ニ有之陳小屋ニ連来、暫居候様、無程落城之節一同ニ引取可然由申候而外記ハ先二すゝミ候、