津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

島原の陣--決戦の日・・13

2009-01-13 23:09:30 | 歴史
松井新太郎ハ早く蓮池の上に至り、鉄炮をくばり後勢を見合する所に、松井角兵衛来り、無程尾藤金左衛門馳着、志水新之允も組を下知して出来り、本丸に着んと云、新太郎申候ハ、然らハ我等か鉄炮にて上箭をうたせ、先を払ふて各をのせ参らすへし、それ角兵衛も来り候へとて、足軽をくり出し岸をのほらせ候、小笠原備前・清田石見等も下知を加て本城に逼る、長岡右馬助ハ手創重く本陳に帰り候へ共、其組は思ひ/\二先手に加り、惣而諸手共に一騎かけの風情なれハ、諸奉行・諸頭も我一と争ひすゝミ、次第前後の格も崩れ、他家の士卒・諸浪人も志有ハ入交て相働候、光利君もとく二の丸に入て御下知被成候、浅山修理亮御先をはらふて足軽をすゝめ、立所に賊三人を打殺させ、其身も壱人鑓付て首を取、高橋九左衛門も御先ニ鉄炮を立夜ニ入候而ハ御意を請、浅山修理・猿木勘左衛門同様ニ本丸ニ参、寺尾左助と一所ニ鉄炮打せ候 、林弥五左衛門御筒召連、御旗先を守護仕り、御馬印ハ村井長兵衛あつかり能ク裁判いたし、堀平左衛門ハ御側の鉄炮よく立候而御意ニ叶申候

忠利君も無程ニ丸に御馬をすゝめられ、御旗本の内にても先江被遣候面々も有之候、落合勘兵衛二の丸ニ而鉄炮の立様、両殿様御意ニ叶候由仰を蒙り候が、与召連御先二参可申旨被仰付候、大将分の内にては林丹波守殿早く二丸に乗入れ候か、あまりに先を志して後ハ士卒に離れ主従三人に成、其身鉄炮に中り壱人の家来も手負、僕壱人鑓をかつき甚難儀の体なりしに、立孝主の軽卒石川三郎右衛門それと知て近寄候をまねき、我を本営ニ送り得させよと仰候間、畏て扶け起し脊負て大勢の中を押分かへり候 吉政悦て姓名を問、後に立孝主に謝礼有之候也

沢村宇右衛門ハ本丸に引取る一揆に詞をかけ候へハ、五六人取てかへし突かゝるを両方たゝき合、弐人突伏る内に其余ハ本城に引入候間、首を取て御前二持来候、服部九郎太郎 十七歳 も友好につゝき働けるか、鑓を合せ太腹を突せなから抜打に其敵の首を切て落す、友好さし寄て九郎太郎か背を抑へ鑓を抜せ候へハ、九郎太郎敵の首を提け打笑て立上り候へ共、深手にて血夥しく流れ存命不定ニ候を、忠利君遥に御覧し付られ、扨々気強なる若者名を何と云そと御尋被成候、友好、之直と一所に在て私手に付参候、浪人服部九郎太郎と申者ニ而候と申上候へは甚御感被成、水をとらすへしとて、手桶の底に少有ける水を柄杓なから被下候、友好罷出けれ共御手つから被下、気力を付候へと被仰、服部有かたく頂戴仕候、友好申候ハ、今衆軍身命を忘れ一盃の水をも求め難きに、匹夫の身にて君前の清水を賜る、平日の万鈞にもかへたし、冥加に叶たる者哉、向後掻器を以服部か家の紋と定め候へしと申候へハ、忠利君も御喜悦被成候、
有吉舎人勝之賊三人と突合、弐人を突留、寺本八左衛門見届候、且御前にての高名なる故御褒美として鞍置馬を被下候、右之外高名の輩多く、死傷の者も有之、はやすゝむて本丸ニ着たるも多く有之候、忠利君も蓮池の辺まて御すゝミ被成、伊豆守殿・左門殿江御使者被遣、二丸迄御出候へと度々被仰進候、
中川長吉は海手の方より二の丸ニ乗入候処、蓮池の上坂中にて鑓を合、其敵を仕留候が、鉄炮しけく来り胴ニ五ツ迄玉留り、右の手の甲を打抜、痛ミ強く首を取事ならす鼻をそき候、其時味方壱人も不来、無程藪嶋之助きたり詞をかわし、森半大夫父子も本丸の方ニすゝミ候間、長吉も本丸にかゝり可申と云を、中々其手にてハ成ましく候、是非共二引取可然由半大夫申候、佐渡家来松井外記も参、見届候段申、三尺手拭を以疵を巻、首に懸させ、下ニ有之陳小屋ニ連来、暫居候様、無程落城之節一同ニ引取可然由申候而外記ハ先二すゝミ候、
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島原の陣--決戦の日・・12

2009-01-13 08:28:10 | 歴史
佐渡・頼母・寄之等ハ二の丸にて働く士卒ニむかひ、此敵を悉く討んとせは、他の手より駆ぬけて本丸を乗取る事もあらむか、壱人なりと先にすゝミ、本城に乗入て高名を遂られ候へと下知いたし候間、我先にとすゝミ候へ共、賊徒尚も二ノ丸にさゝへて防き、塀の内よりも鉄炮打候間、一同に磡に付事もならす、蓮池の辺にて敵合勝負も数多あり、他家の士卒・浪人等も少々すゝミ来りて相交り、分捕高名之者有之候、間野勘左衛門貞勝鑓を合せ首を取、式部手に属たる浪人伊藤市兵衛、中根市左衛門に付たる加々山作兵衛一所に在て相働、藪図書か三男藪熊之允・寺尾求馬信行 舎人組 同所にて鑓を合、同く賊を討、鑓を奪ひ蓮池の上より岸を攀(ヨジリ)て攻上る、藪か手に附たる浪人山田庄兵衛も共に働き、同浪人奥田藤左衛門鑓を合首を取、夫より本丸磡の下に至、興長家士上原九郎右衛門ハ蓮池の辺に在しに、敵十人はかり鑓を揃突かゝる、上原か下人四五人有けるか突立らるゝ、九郎右衛門すゝんて鑓を入、賊を突伏首を取、立上らんとする時、五六人前後より取つゝミ、鑓数にて終に上原を突ふする、年久敷召使候者続て敵を討、深手負て忽倒れ候、遠藤九兵衛も鑓を合、突伏て鼻をかき鑓をも奪ひ、尚すゝんて松崎助左衛門等と共に相働く、栗坂一大夫ハ城中の陥穽に落入腰を打、刃簇を蹈て足にも疵を得なから杖にすかりて興長か矢面に立を、本陣に帰れといへ共不退 後城中に入、家僕四人各石にて疵を被る 、頼母助者も進むて働き、米田与七郎ハ蓮池の辺にて小屋より賊不意に出突かゝるを、不透鑓を合突伏る、時に歩卒田辺小右衛門大音にて、只今出たる敵を米田与七郎突とめたり、いつれも御覧候へと呼ハり候、是長か者頭松岡四郎兵衛すゝミけるに、敵大勢鑓長刀を揃突かゝるを、松岡鑓を合壱人突伏る、小崎次郎左衛門 藪図書組 松岡と同時に鑓を合、首を取、藤本伊織・谷助大夫等も一所に在て相働く、松岡が嫡子権佐ブロウもよくかせき候 本城升形の下に着て疵を被り候 、松井外記父子五人すゝむて働き、嫡子仁平次勝次小屋より出る敵を突伏討取、弟中山助九郎 中山藤兵衛養子 ・角田伊左衛門・同左五右衛門も思ひ/\に働き候、堀口庄右衛門恒広ハ兼而討死を極めけれは、前後左右に敵をうけ二三人突倒し、数ヶ所の疵を被り其場をさらす死を遂る、外記も戦死の志故嫡子仁平次と相別れ前ミ候に、不浄捨の水道より乗入んと思ひ、蓮池のほとりに臨ミ、鑓を取て手痛く戦ひ賊を突伏ける時、堀口か討たれるを聞、則其場に至り見るに、既に息絶しかハ尸(シカバネ)を起し、外記も程なく追着へきそと高らかに申候、庄右衛門嫡子三太郎 十六才、後庄右衛門 大病にて小屋に居る由を聞、死骸を送り、今ハ思ひ置事なしと云て、寄之か矢表にすゝミ候、
  堀口三太郎ハ、父庄右衛門諸勢と共に城乗する由を聞起て、浪士菅屋一運斎并桑原
  弥兵衛一同に打出、無程寄之に追付、猶すゝむて蓮池の頭に至、本丸海手の石垣に
  着、石手鉄炮手負候へ共不退、諸勢と共に本丸に入、父か討死せし事不知しと也
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