津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

直木賞・・山本兼一さん、おめでとうございます

2009-01-15 21:52:40 | 書籍・読書

火天の城 (文春文庫)
山本 兼一 (著)




芥川賞・直木賞が発表された。残念ながらお三方の該当作は未読である。ただ山本兼一氏の既刊「火天の城」は読んでいる。着眼点がユニークで面白い。ここでご紹介するのは、私が読んだ文庫本である。 文春文庫:620円 

   【信長の夢「安土城」築城の裏には、天下一の棟梁親子による想像を超えた創意工夫と
    葛藤があった。前代未聞の一大プロジェクトの全貌。信長の夢は、天下一の棟梁父子
    に託された。天に聳える五重の天主を建てよ! 巨大な安土城築城を命じられた岡部
    又右衛門と以俊は、無理難題を形にするため、前代未聞の大プロジェクトに挑む。信長 
    の野望と大工の意地、情熱、創意工夫--すべてのみこんで完成した未曾有の建造物
    の真相に迫る松本清張賞受賞作】

「利休にたずねよ」も早速読ませていただきます。おめでとうございます。


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島原の陣--決戦の日・・17

2009-01-15 17:26:12 | 歴史
松井外記か嫡子仁平次勝次ハ父か戦死を且而しらす、本丸の石垣に着て沢田九右衛門・戸波庄助・荒木弥三右衛門なと一所にて働く 後共に本丸に入候 、入江三大夫石垣を登るに鉄炮二ッ中り、深手なから暫く堪居候へ共、歩行不叶本陳に帰り、井口六大夫も鉄炮手負なから働候に、又大石に中りて引取候、有吉家士菅沼三左衛門初よりよく組足軽をすゝめ、賊壱人討取、米田家士戸村角兵衛と詞を交し働、本丸の口に至り高原半三郎と小刀を取替して証とす、此時鉄炮創十ヶ所はかり被り小屋にかへり候 一ニ始終其組を下知してこらへ居候と有 、父斎木半右衛門ハ尚も進て下知を加へ、其組足軽甲斐彦作討死、小頭溝部藤右衛門其外的野作左衛門・南助兵衛・工藤久八等よく鉄炮を打て大勢を打落す、生地貞右衛門次正・武藤山三郎等烈敷働き、深手負本陳のかへり候、米田内斎藤長兵衛・岡田権兵衛もすゝむて手に合、戸村角兵衛・中井理兵衛はしたるく働て討死を遂る、毛利藤兵衛塀下十二三間計近けるに、賊徒四五人突かゝる、毛利渡り合、鑓を合す、此時光利君の近習小野権兵衛実延すゝむて鑓を合、毛利と一同に敵壱人宛突伏、互に吃と見て名乗合、指物きぬを切、立物を折て取かはし候、其外柳川の浪士 一ニ江戸の浪士 鈴木 一ニ鈴村 角大夫・人見伊織と名乗て両人の働を感し、後証に立候也、米田か足軽正垣七左衛門ハ是長か差物くもて差と云を直し居たる所ニ、右の腕に鉄炮中り候へ共、尚相従ひ候、有吉か鉄炮頭長坂五郎兵衛仕寄場にて手負、組支配不叶故 一ニ本丸下ニ而深手負、本陳にかへると有 、嫡子長坂宇兵衛直に与を預り、所々にて敵をうたせ、本丸追手口に着けるに、賊徒稠敷矢石を発し、勢ひに乗て突て出る、長坂も鉄炮疵を被り候へ共、不厭敵を突殺し、若党吉松加兵衛・辛嶋勘四郎も太刀打して敵壱人宛討取候、名王善右衛門も組の鉄炮を卒シ、くりかへて城門をうちしらます、本郷縫殿助敵三人とせり合候に、脇より横合に突かゝるもの有て、敵こらへす逃入り候、縫殿は直ニ石垣に着て相働く、早水市郎兵衛も同所に在之かせき候

武藤十左衛門升形に着て鑓をあはせ敵を討、葛西父子・岡沢兵左衛門等も同所にて相働く、岡部形右衛門も組足軽をすゝめ水の手口にてミつから鑓を合せ賊を討取、屏の手に附く氏家志摩・佐分利加左衛門なと働候、同所に半時計せり合、与の小頭三嶋治兵衛其外角田徳兵衛・衛藤市大夫・柿原七左衛門・寺川喜左衛門・出田久之允等鉄炮よく発し、大勢打落す、治兵衛は中ニもかせきて疵を被り候、中山半左衛門ハ大手の城戸の前石垣の下に一番に着候に、傍輩を初其辺にハいまた見方壱人も来らす、相続て伊豆守殿の家士来り、互に小刀を指替て支証といたし候時に、若党岸上久左衛門討死、其身も股をうたせ、石にも中り働得す、終に本陳にかへり候、同士岡田作左衛門も続て石垣に着、平野弥次右衛門・同三郎兵衛・有吉雅楽・芦田孫作・高本慶宅なと追々来り相働、孫作と慶宅ハ一度ニ鉄炮に中り、弥次右衛門矢疵・鑓疵を被り・二男弥平太ハ討死いたし候

中路宇兵衛 周防子、後内蔵助と改 組の御弓を射させ、鉄炮をも打せ、よく下知を加へ自身ニも挊候、白木貞右衛門父子ハ本丸入口升形より四五間程左の方ニ至、鉄炮を打せ居候処、松野平兵衛高声に名乗て出来り、六七間程左之方ニ着候ニ付、敵突出可申間、其心得いたし候へと申候時、稠敷石を投、火をなけかけ候ニ付、平兵衛も数多疵を被り、蓮池の上迄ころひ落候へ共、又立帰り白木に詞をかはし、花房次右衛門も一所に在て小刀取かハし証拠にいたし候、佐分利彦右衛門・高見少五郎・宮部久八等も同所二着、何れも手疵を負 一ニ久八は冑打ひしかれ、手負働難成引取、廿八日ニハ城に入と有 、貞右衛門ハ顔血に染て少も攻口を不甘、此所は水の手升形より左石垣の折目也
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島原の陣--決戦の日・・16

2009-01-15 09:05:15 | 歴史
塩田次兵衛敵三人を切留 此刀ハ生地秘蔵にて、冨士ひくしといへ共と銘したる二ツ胴の刀なり 、其身も鉄炮疵二ヶ所被る、扨志水と生地に敵弐拾人はかりかゝり来るを見、両人鑓取直し向ひけれハ、いつれも引入、其中より弐人抜出て北る者を、両人長刀にて矢筈に切り捨る、其折志水鉄炮にて胯を打せ候へ共、尚進て生地主従三人向の岸に着居候、見方壱人も不来、無程松井角左衛門来て詞をかはす内に、角左衛門家来大野弥左衛門鉄炮手を負、川崎九右衛門ハ石に打れ、外ニ僕六人疵を被る、続て外記来り候、是も家人冨新十郎・四宮藤左衛門・高山清十郎鉄炮手負、僕三人石手負、各其所にさゝへ居候、橋津又兵衛老武者にて歩行不叶、小頭秋永十郎左衛門・深野吉右衛門両人にて肩にかけ、組の鉄炮拾壱挺玉薬の裁料、藤田九郎兵衛共に来て生地を見付、是まてハ又兵衛殿を御供申候、最早武右衛門殿鉄炮の御下知あられ候へ、何れも存分に働可申と云、武右衛門彼等か振舞を感し、日比申合する如く是よりは我等下知すへきそとて、水の手の小坂を上る、塩田次兵衛深手にて上り煩ふを見、其方ハ志水と共に退候へ、我等討死するとも今迄見届たる働共親兄弟に語候へとて薬を与へ、相別れ、鉄炮を小つるへにして込替々々敵を打落させ候、外記甚感し、扨々残所なき下知也と云、橋津又兵衛も此小坂を上りしか共息切せしと見へ、城の方を後にして雉(ママ)に腰かけ休ミ居けるを外記大に恥しめ候
  橋津も二の丸にてよく鉄炮うたせ候、此時鉄炮手負石にも打れ候間、引取候へとの
  下知をうけ、寄之側に至候へ共、行歩不叶小屋に帰り、組ハ生地に支配せしめ、嫡
  子権之允を残し置候、其夜ハ生地持筒に加るへき旨ニ而、橋津権之允も父又兵衛与
  の鉄炮と郡筒を加へ、四五人召連、生地壱所ニ夜中張番相勤候
松井掃部も外記と一所に来て、其辺見かゝりの敵悉く鉄炮にて打静めけるに、此方の足軽九人疵を蒙る、深野吉右衛門も石手負て引退候、此所に働居候藪嶋之助 道家与 、住江茂左衛門を初其外大勢疵を被る、夫より一段上壱丈はかり削立たる岸有、こゝにて鉄炮を打すへきとて外記と武右衛門と鑓を岩壁に立かけ漸々に上る、西沢文右衛門も外記と一所に来る、足軽・下僕等追々ニ手操に上り候、城より近々と見下て矢石烈敷、手負死人多候間、武右衛門高らかに冑をかたふけよと云、外記あの敵を追込へきと云時、武右衛門足軽両人に下知して敵弐人打倒すと、外記忽起上り生地も続て水の手の升形脇に敵十人はかり鑓・鉄炮持居たるを見、外記鑓を突出んとするに、口より脊に二ッ玉を打ぬかれ、其まゝべつたりと居しを、転さる内に生地抱き留れ共忽に息絶候

武右衛門下知して外記か家来に我組の足軽をも差添、免シ指物をももたせ 松井か免差物は金の角取紙六枚を二段に付、上に赤熊を出しとしたる大指物なり 死骸を下し候、永田十左衛門 平野与 升形より五六間海手の方に着居たるに、武右衛門詞をかけ、右之段断候へハ、扨々惜き士也と十左衛門申候、生地か小頭秋永十郎左衛門鉄炮に中り疵を被り、生田清大夫 一ニ六左衛門 ・永井七左衛門石手負て引取、西沢文右衛門も其側よりすゝミのほりて討死いたし候、生地ハ猶も着居けるか我壱人爰にて働ても証拠なけれハ無益也、海手の方に松井家の差物見ゆる故一所に働へしと思ひ、石垣の根を五六間も行所に、岩角を蹈はつして七八間も下に落たりしか共、幸にして少もいたます、東向に大なる洞あり、此中に村上吉之允・山田忠三郎有、小塚太郎兵衛と云浪人も両胯を打ぬかれ入居候、生地は其まゝ屏下ニ駆上る、初見へたるゆるし指物ハ松井角兵衛なり、添頭山本七郎右衛門両人にて鉄炮を打せ居たる也、夫より水の手の方に白木貞右衛門・同五兵衛・佐分利兵太夫着居たるに、生地も行て言をかはす、其所に尾崎伊右衛門組の鉄炮 伊右衛門ハ手を負て引取 三宅半右衛門と云者相組をつれて来候間、武右衛門今よりハ我等下知すへきそと云けれハ、三宅懐より久年母を三ッ取出し、証拠の為とて遣シ候をいつれにもわかち喰けると也、此所も矢石烈しく、山本か立物に石中り打はなし候間、武右衛門是を取て人々に相断て蹈破候
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