津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小川研次氏の「細川興秋生存説」

2022-03-06 14:46:11 | 小川研次氏論考

 今年に入り当ブログでは、高田重孝氏の私家版「細川興秋の真実」について、いろいろコメントをしてきた。
「与五郎宛内記(忠利)」書状の内容については、人物の比定に少々の疑問を感じていた。
今般ご厚誼をいただいている小倉在住の小川研次さまから、貴重なご指摘をたまわった。
私はこの人物比定により、より確かに忠利書状が確かなものとして補強されたと確信をした。
「伊喜助」は「伊丹康勝」、半左衛門は旧姓長束氏の田中半左衛門、忠興の妹伊也娘を迎えて居り細川家に極近い一族である。与安法印についてはかって私のブログで私見■片山宗哲がやってきたを申し上げた。
まことに有難いご指摘であり、ご厚誼を大変うれしく感じている。
今回も当ブログに掲載する旨の御承引をいただき、ここに取り上げるものである。感謝。


細川興秋生存説     (3月9日修正の文章が届きましたので全文差し替えました)

弟忠利の嗣子決定に不満を持ち出奔した興秋は大坂の陣に豊臣方として戦い、敗走した。しかし、訴人により伏見稲荷の東林院に潜伏していたことが発覚したのである。
父忠興の処断は切腹であった。慶長二十年(一六一五)六月六日、家臣松井右近昌永の介錯で自決したのである。「人々落涙に及ひ候と也、御年三十三、法名黄梅院真月宗心」(『綿考輯録巻十九』)

ところが、天草で生存していたとの伝承があり、本渡市御領城内城の芳証寺に墓が存在する。墓石には「細川与五郎源興秋入道宗専之墓、寛永十九年(一六四二)六月十五日薨」とある。代々、大庄屋と続き、享和二年(一八〇二)に九代目の長岡興道の時、墓碑を建て家伝を残した。(戸田敏夫『戦国細川一族―細川忠興と長岡与五郎興秋』)
この生存説を史実に近づけたのが、元和七年(一六二一)五月二十日付の長岡与五郎(興秋)宛忠利書状である。(熊本県立美術館所蔵「後藤是山コレクション」)

内容は与五郎が手足の病を「与安法印」に治療してもらい、平癒したことを忠利は喜んでおり、また湯治を勧めているが、「与安法院」もそう申されているとある。しかし、「人質」の身なのでなかなか湯治は難しいから、「半左衛門」と申し合わせて、「伊喜助殿」と相談するようにと忠告しているが、「喜助殿之次第」としている。
さて、三人の名前が登場しているが、重要な情報を含んでおり、推考してみよう。

「与安法印」は将軍家の侍医片山宗哲を指していると思われる。実は、この年元和七年は細川家にとって大変化の年だった。
元和六年(一六二〇)十月四日、小倉を発した忠興は京都経由で十一月七日に江戸に入った。『綿考輯録巻二十』)
しかし、閏十二月、代わりに帰国したばかりの忠利のもとに幕府老中から忠興病の一報が届いたのである。
「この度の御煩ひは、いつもに相替はり候由、付け置かる衆も申され候事候間、御越し候てお見舞ひ然るべく存じ候」(「熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」山本博文『江戸城の宮廷政治』)(この度の病気はいつもと違うと江戸の家臣も言っているのでお越しになりお見舞いをすべきでしょう)
この時、治療に当たった「御医師ハ延寿院なと」とあり、『綿考輯録巻二十』) 「延寿院」は当代名医の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)のことである。おそらく宗哲も立ち会ったと思われる。
忠興はこの時、隠居を決め、剃髪し三斎宗立と改名したのである。(同上)
忠興の病は癪(胸部や腹部に激痛)であった。大御所家康お気に入りの万病円を服したか。間も無く快復した。

帰国早々の忠利は江戸に向かったが、着いたのは元和七年正月二日であった。
そして、正月七日には幕府により家督相続が決まり、登城したのである。
二月には二人に帰国許可が出て、洛外吉田には四月十日着、豊前には四月末から五月初めに着いたと思われる。(同上)
忠利は与五郎に上述の書状を出したのは帰国間もない頃だったのだろう。江戸にいた忠興・忠利の計らいで宗哲を与五郎の治療にあたらせ、宗哲から平癒の話を聞いたと思われる。尚、忠利は小倉城に入ったのは六月二十三日である。(同上)

「半左衛門」は田中半左衛門と思われ、旧姓長束助信(なつかすけのぶ)である。室は忠興の妹伊也の娘である。忠利は信頼できる「身内」を与五郎のそばに置いたのだろうか。
「江戸江相詰御奉公相勤居候處元和九年四月病死仕候」(「先祖附」)とあり、江戸在勤であったが、元和九年(一六二三)に病死している。

「伊喜助殿」は幕府勘定奉行の伊丹康勝と思われ、通称「喜助」(きのすけ)である。

さて、忠利は六月に小倉へ入った後、十二月には初参府で江戸に向かう。この時、三歳の嫡男六丸(光尚)も同行していて、将軍秀忠に拝謁している。
そのまま、六丸は「人質」となり、江戸に留まったのである。この時点で与五郎は忠興の「人質」の役目を終えたのではなかろうか。
人質は室までとなり、二年後の元和九年(一六二三)十月、千代姫は江戸へ向かうことになるが、忠利は忠興に書状を送っている。
「我等は、喜助殿次第と申す筈にて罷り下り候故、留め申す儀もござなく候、多分十四日に罷り上がるべきかと存じ奉り候」
(私は、奥の参府については伊丹殿の考え次第というつもりですので、止めるわけにもいきません。多分、十四日にでることになると存じます。)
(元和九年九月四日忠利披露状)(山本博文『江戸城の宮廷政治』)

この「喜助殿次第」は上述の与五郎宛の書状にもみられることから、伊丹康勝で間違いないだろう。

これらのことから、与五郎は忠興の「人質」として江戸にいたと考えるのが妥当であろう。

元和四年(一六一八)七月、人質だった忠興母光寿院が没したため、代わりに翌年、忠利末弟のわずか三歳の天千代が江戸に入ることになる。後の細川刑部家の祖となる興孝である。このように細川家は忠利妻子、弟までも人質としたのである。
しかし、「人質」の役目を終えた与五郎は細川家に召し抱えられるのが当然だが、記録は皆無である。これが最大の謎である。
細川家の歴史から抹殺しなければならない理由として考えられるのが、信仰の問題である。与五郎は忠利とともにキリスト教の洗礼を受けていた。(『一五九五年十月二十日付、長崎発信、ルイス・フロイス師の年報』)

しかしながら、家中には多くのキリシタンがおり、寛永十三年(一六三六)七月に「切支丹転宗書物」により仏教徒に転宗している。(上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』)
忠利の擁護のもとに与五郎は信仰を守ることが可能であったのではなかろうか。

推測だが、キリシタンとして生きることに決した与五郎は江戸を離れ、長崎方面で潜伏し天草へ行きついたとも考えられるが、新史料を期待するところである。

 


参考:与五郎宛内記(忠利)書状 
        (原文・熊本美術館藏)            (高田重孝氏読み下し)

       一筆申候。                   一筆申し上げます。
       然者其方 肢煩候処、                あなたが、手足を患っていたところ、
       与安法印 療治候て 本復之由、             与安法印が療治して 回復したことは、
       一段之事候。                  一段と喜ばしいことです。
       然者 湯治候て、可整之由、             さらに 湯治をして、体を整えてください。
       法印も御申候。 通尤候。              法印も そう申しており、もっとものことと思います。 
       更に、三斎様 我等も 在国にて、              更に、三斎様 も私も、在国 ( 豊前 ) にいて、
       其元 人質ニ有之者候と                       あなたは人質で有る者として、
       心侭ニ 湯治させ申度とハ 難成事候間、       心易く湯治をさせてあげることは 難しい事ですので、
       半左衛門尉と申合、                         半左衛門と申し合わせて、
       伊喜助殿へ相談候而、                        伊喜助殿 へ相談してください。
       兎角、喜助殿之次第ニ仕 可然候。            とにかく、喜助殿の考え次第です。
         此方、相易、事も無之候間、可心易候。      私の方は何事もないので、ご安心ください。
       我等も 六月廿一日ニ 小倉へ移り申筈候。    私も、六月二十一日に、小倉へ移る予定です。
       尚、近日 可期申候。 謹厳。                  尚、近日、書いてお知らせします。  謹言。
       己上。                                           以上。
 
       又 申候。                                     追伸ですが、
       法印へも、其方 煩候様を 被入候事、          法印へも、あなたの煩いを治療して頂いたことに
       於礼にて、書状遣申候。  以上。            御礼状を遣わします。  以上。
 
                    内記 
           五月廿一日    ( 花押 ) 
        長岡与五郎殿

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