津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

谷田部藩家臣の扶持放し

2009-05-17 10:06:54 | 歴史
■寛永十五年十一月十九日忠利書状(細川家史料-1248-)に、次のような一行がある。

       「(略)岡彦兵衛叓病死仕候由、無是非儀候事」

 この彦兵衛について、細川家史料-人物索引は「細川家臣。岡平兵衛男。父子ともに藤孝に召出さる。藤孝二男興元の部屋附となる。興元、下野茂木一万石拝領の時、そのうち千石を知行す。其後故ありて興元のもとを辞去す。其後忠利より召抱えの申出あるも謝絶。寛永十五年病死。」と記している。10,000石の内の1,000石を拝領していたというのだから、余程の人物であったのだろう。「故ありて」とは果たして何であったのか・・一寸気に成る。息であろうと思われる人が、肥後細川藩に召し出されている。「侍帳」に同名の岡家がある。(400石)

■寛永十七年九月十一日付忠利書状(細川家史料-1386-)
 
  玄番(玄蕃・細川興昌)ニい(居)申候藤兵へ事、ふちをはなし被申候よし、かまい
  候て、たへ物遣、我々下候まて何方へもまいらぬ様ニ才覚、主馬ニ可被申付候、
  おしキさむらいにて候、後々ハ玄番ニもらい候事もなり可申候事、いかにもさたなしに
  可被仕候事

 谷田部藩を扶持放しになった藤兵衛なる侍を、細川藩で「こっそりかくまえ」という指示である。先の話といい、この話といい、谷田部藩は優秀な人材を手放しているようだ。
この藤兵衛のその後ははっきりしない。いつか見つけ出すために、しっかり頭の中に記憶させた。
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