津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

国への想い

2009-03-30 12:29:06 | 歴史
 「戸越御屋敷」のお庭は、細川家が作り上げたものとしてその名残を留めている。「戸越御屋敷惣御差圖」は、寛文拾壱年十月のものだが、此の頃「御庭」も完成したのではないかと考えられている。永青文庫にある文書「塵籠」は、寛政十一年当時の戸越屋敷の状況を記したものだが、作庭に関する「奇石珍木存せるもの」等が記されており興味深い。国許への想いが深く感じられ、遠く江戸まで運ばれてきた幾つかの物が有る。蒲野久員という人が書き残したものである。

 ■牛水御手水鉢石
    弐畳敷程御書院御縁角ニあり、阿蘇之御嶽向之二重峠ニありし自然石也
    天水の溜りたるを牧の牛呑居るを綱利君御参府御通行之節、御駕之内よ
    り御目ニ留り江戸へ可引旨被仰付、豊後路を引候へハ海上百里余り近候
    得共山谷険しくして引難十余里熊府へ引卸し玄海灘を経品川迄四百りの
    海上を積て着ぬ仍牛水と銘し給ふ由
   二重峠  www.geocities.jp/aosora_nosita/sizen_futaetouge.html
 ■御氈石
    長サ二間幅三尺程、肥後石カマトキ(注:金峰山鎌研坂周辺の事か)

その他「種々の雅石是又肥後豊後備後三国より引給ふ」とある。又、阿蘇谷と名付けられた場所があったり、阿蘇の的石(肥後国一宮阿蘇神社大神弓勢をためし給ふ是的に也たる石なり)を模した石を阿蘇内牧から引かせたりしている。
   阿蘇(市)内牧に的石という地区があり、次のような説話も残されています。
         asobotei.sakura.ne.jp/sinwa/kihati/kihati.htm

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